秦河勝【京都の原型を作った謎多きスーパースター!】

秦河勝について

【名前】 秦河勝
【読み】 はたのかわかつ(はだのかわかつ)
【別表記】 秦川勝
【諱(実名)】 秦広隆(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』)
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 飛鳥時代
【位階】 大仁(『日本書紀』)・小徳(『上宮聖德太子傳補闕記』『聖德太子傳暦』『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』)・大花上(『広隆寺資財交替実録帳』『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』)
【官職】 大夫
【父】 秦国勝
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 秦綱手・尊良(『駿国雑志』) 他
【家】 秦氏本宗家
【氏】 秦氏(太秦氏)
【姓】

秦河勝の肖像

秦河勝(秦川勝)像
(「広隆寺所蔵 秦河勝木像の模写」『集古十種』松平定信 国立国会図書館デジタルコレクション)

秦河勝の生涯

秦河勝の生い立ち

秦河勝は、秦国勝の子として生まれる。

ただし、父を秦丹照とする説もあり、はっきりしないのが実情である。

河勝の誕生譚としては、『風姿花伝』中の「三輪山伝説」が有名となっている。

『日本國においては、欽明天皇の御宇に、大和國泊瀬の河に、興水のをりふし、河上より一の壺ながれくだる。三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲客此壺をとる。中にみどり子あり。かたち柔和にして玉のごとし。是ふり人なるかゆえに、内裏に奏聞す。其夜、御門の御夢に、みどり子のいはく、「我がこれ、大國秦の始皇のさいたんなり。日域にきえんありて、今現在す」と云々。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才智人に超えて、年十五にて、大臣に位にのぼる。秦の姓をくださる。しんといふ文字「はた」なるが故に、秦河勝是なり』

(『花傳書 岩波文庫171』世阿弥 野上豊一郎 校訂 岩波書店)

三輪山
(三輪山)

河勝のことを、秦大津父を重用したアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)や、ヤマト王権の発祥地ともされる三輪山と関係付けた物語と言える。

しかしながら、これも、河勝が15歳で大臣になったと伝えていることに代表されるように、到底史実では無い。

この『風姿花伝』が伝える「三輪山伝説」については、

『世界大播布説話の一たる英雄出生説話の一種型に屬するもの』

(『国民伝説類聚』国立国会図書館デジタルコレクション)

に過ぎず、「桃太郎」の類と評される。

ただ、河勝が大臣であったとする話は、秦氏本宗家が、大臣職を襲封する蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)に従い隷属していたことの裏返しとも読めないことも無い。

『日本書紀』中においては、

『葛野の秦造河勝』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、山背国葛野郡を河勝の出身地、あるいは、河勝の拠点とすることが明記されている。

山背国葛野郡
(山背国葛野郡)

なお、広隆寺の伝承では、河勝の諱について、

『廣隆者。秦川勝實名也』

(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』国立国会図書館デジタルコレクション)

として「広隆」が諱、即ち、実名としている。

この辺りは、寺名との関わりを示す伝承であろうが、ただ「河勝」の表記に関しては、圧倒的に「川勝」とする表記の方が多いのは気になるところである。

秦河勝と厩戸皇子(聖徳太子)

秦河勝は、タチバナノトヨヒ大王(用明天皇)の王子(皇子)であるウマヤト王子(厩戸皇子)の側近として知られる。

ただ、河勝が、いつどこで、どのようにして、ウマヤト王子(厩戸皇子)と知り合ったのかについては明確では無い。

そもそも、河勝が、ヤマト王権に出仕した時期でさえ不明である。

『風姿花伝』では、

『河勝、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、上宮太子に仕へたてまつり』

(『花傳書 岩波文庫171』世阿弥 野上豊一郎 校訂 岩波書店)

としているが、その期間は約80年以上にも及ぶもので、到底、史実とは考えられない。

河勝の名が、正史『日本書紀』に出て来るのは、推古天皇11(603)年のことである。

この時の河勝は、

『諸の大夫』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

の一人と言う立場であった。

「大夫」と言っても、皇別豪族の蘇我氏や紀氏・巨勢氏や、伴造豪族の物部氏・大伴氏のような有力な大豪族では無い。

また、推古天皇12(604)年4月に公布された『憲法十七条』以後の大夫でも無く、それ以前のヤマト王権内の政策決定への関与は許されない実務のみを担当する中小豪族の立場だったと思われる。

そのような河勝が、ウマヤト王子(厩戸皇子)と接点を持つに至ったのは、やはり、ヤマト王権が山背国に「屯倉」を設定したからであろう。

とりわけ、ウマヤト王子(厩戸皇子)が山背国葛野郡に詳しいことから見て、ウマヤト王子(厩戸皇子)は、同国葛野郡内に自身の私領を所有していた可能性が高い。

それらのウマヤト王子(厩戸皇子)の私領を管理していたのが、河勝率いる秦氏本宗家(太秦氏)だったと見做せる。

むしろ、秦氏本宗家(太秦氏)側からウマヤト王子(厩戸皇子)に対して、秦氏本宗家(太秦氏)の支配地域の土地を献上したのではないかとも想像される。

そこには、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の時代に、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が山背国紀伊郡の秦氏である秦大津父を重用した前例があるからである。

山背国紀伊郡
(山背国紀伊郡)

河勝は、現在から見れば、秦氏本宗家(太秦氏)の総領であるが、当時、秦氏本宗家の地位自体は秦氏内部において、未だ安定していなかった可能性が高い。

秦氏の葛野郡派と紀伊郡派との間で繰り広げられた「宗家」を巡る争いを、大王家(皇室・天皇家)がうまく利用する中で、ウマヤト王子(厩戸皇子)が蓄財したのだとすれば、ウマヤト王子(厩戸皇子)と河勝の接近は説明出来る。

言い換えれば、ウマヤト王子(厩戸皇子)が自らの意志で自由に使えるだけの潤沢な財務基盤としていたのが、河勝が管轄する葛野郡内の屯倉だったのである。

この時期における大津父が属した紀伊郡派は、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)に多くの財力を投資し疲弊していたものと考えられ、ウマヤト王子(厩戸皇子)を始めとする大王家(皇室・天皇家)とは距離を取っていたとすれば、紀伊郡派のヤマト王権内での影響力の後退は頷ける。

政治と資本の接近は、今昔を問わず当たり前にあったことで、20世紀においても、保守政党に肩入れし、その挙句、本業を傾け倒産してしまった映画会社の経営者等が有名である。

実際、後にウマヤト王子(厩戸皇子)の子であるヤマシロノオオエ王(山背大兄王)が生命の危機に直面した際に、逃亡先の候補として「深草屯倉」を挙げたことに象徴されるように、紀伊郡派は、言い方に御幣はあるが、その多くを大王家(皇室・天皇家)に毟り取られていた。

何よりも、ウマヤト王子(厩戸皇子)の仏教推進政策は、財力が必要であった。

寺院建立等を国家プロジェクトとして推進するにしても、当時の大王家(皇室・天皇家)の財政が、寺院を次々と建立ほど潤沢であったとは考えにくい。

そう考えたなら、この当時において資本と技術を持つ河勝と、プロジェクトを握るウマヤト王子(厩戸皇子)が結び付くのは当然のことであったのかも知れない。

そして、もう一点は、これは単なる推測であるが、河勝が仏教をよく理解していたからではないかと考えられる。

これは、4世紀までには仏教が山背国へ伝来していた可能性が高く、河勝が、ウマヤト王子(厩戸皇子)よりも仏教に精通していた可能性があることに拠る。

きな臭い言い方ではあるが、「カネ」と「宗教」が、河勝とウマヤト王子(厩戸皇子)を結び付けたと言えよう。

秦河勝と『蘇我物部戦争』

用明天皇2(587)年、タチバナノトヨヒ大王(用明天皇)が没する。

次の大王(天皇)に誰を擁立するかで、大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋は激しく対立した。

守屋は、独断でアナホベ王子(穴穂部皇子)を擁立しようとする。

しかし、馬子は、守屋が担ぎ出したアナホベ王子(穴穂部皇子)を惨殺してしまう。

これを契機として、馬子と守屋は全面的な武力衝突に至る。

ヤマト王権の政治を互いに担う「大臣」と「大連」との内戦である。

戦闘は、大和国では無く、河内国志紀郡から守屋の本拠がある同国渋川郡にかけて行われた。

物部守屋屋敷跡
(河内国渋川郡にあった物部守屋屋敷跡の伝承地)

この内戦において、河勝は、

『軍政秦川勝卒軍奉護太子』

(『上宮聖德太子傳補闕記』国立国会図書館デジタルコレクション)

『軍允秦造川勝』

(『聖德太子傳暦』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあるように、馬子軍に参加し、ウマヤト王子(厩戸皇子)に付けられたと言う。

しかし、当時の倭(日本)の軍事制度に「軍政」や「軍允」と言った職が存在していた記録等は無い。

そもそも倭(日本)には、律令的官人制度が導入されていなかったのであるから、これらの職名(官名)が正式に存在するはずは無い。

ただ、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)と物部氏本宗家(物部氏大連家)との間の「私戦」と捉えた場合、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)内の私兵制度の役職として存在していた可能性は考えられる。

蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)は、多くの渡来移民を傘下に収めており、これら渡来移民からの情報で、中国王朝や朝鮮半島の百済や新羅が備えていた最新の官人制度、及び、軍事制度を、擬制的に導入出来得る立場にあったからである。

その上で、先のような蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)内の職にあったとしたならば、河勝は、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)の部民に近しい存在だったと言えよう。

さて、仏教説話においては、この内戦中、

『秦川勝迹見赤檮は、右左に附添』

(『善光寺如来傳來略記』祢津宗範 秀英舎)

即ち、河勝は、迹見赤檮と共に、ウマヤト王子(厩戸皇子)の左右に従っていたとされる。

だが、元来が軍事警察の伴造である物部守屋軍は、勇猛、かつ、精強で、蘇我馬子軍は一時的に敗走へと追い込まれた。

その混乱の中で、

『従者みな失せて川勝と舎人鍛師丸とのみ附副ひ奉る』

(『善光寺如来傳來略記』祢津宗範 秀英舎)

と言った絶望的な状況に陥る。

さしものウマヤト王子(厩戸皇子)も、

『將、敗らるること無からむや』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と敗北を覚悟するほどであった。

そして、この圧倒的に不利な戦況を前にして、ウマヤト王子(厩戸皇子)は四天王像を自ら刻み、四天王に助けを求める。

その際、四天王像の素材となった木材についても、

『太子立謀。即令川勝採白膠木』

(『上宮聖德太子傳補闕記』国立国会図書館デジタルコレクション)

『命軍允秦造川勝。取白膠木尅作四天王像』

(『聖德太子傳暦』国立国会図書館デジタルコレクション)

として、ウマヤト王子(厩戸皇子)の伝記においては、ウマヤト王子(厩戸皇子)の命令を受けた河勝が、切り出して来たものだとされている。

さて、戦闘の方は、赤檮が守屋へ矢を射て倒すことに成功する。

そして、倒れた守屋の頸を河勝が斬り落としたことで、この戦闘を終えたとされる。

『川勝進斬大連之頭』

(『上宮聖德太子傳補闕記』国立国会図書館デジタルコレクション)

『川勝斬大連頭』

(『聖德太子傳暦』国立国会図書館デジタルコレクション)

物部守屋墳
(物部守屋墳)

このように、ウマヤト王子(厩戸皇子)の伝記では、河勝が目覚ましい活躍を見せている。

『風姿花伝』では、

『河勝が神通方便の手にかかりて、守屋はうせぬ』

(『花傳書 岩波文庫171』世阿弥 野上豊一郎 校訂 岩波書店)

としているほどである。

しかし、正史である『日本書紀』中には、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)と物部氏本宗家(物部氏大連家)との内戦において、河勝の名前は全く出て来ない。

それどころか、秦氏から参戦した者が一人もいない。

河勝の活躍を伝える話は、全て後世に創作された仏教説話の中だけのものである。

従って、史実として、河勝が従軍した可能性は低いものと思われる。

だが、その一方で、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)の功績を排除する『日本書紀』の編纂方針に則り考えると、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)麾下の一員である河勝の従軍記録は、あえて記載されなかった可能性も無視は出来ない。

秦河勝の広隆寺創建

ウマヤト王子(厩戸皇子)は、居並ぶ豪族を前にして、

『推古天皇十一年。皇太子謂諸大夫』

(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』国立国会図書館デジタルコレクション)

次のように述べた。

『我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

『皇太子上宮王謂諸大夫曰、我有尊佛像、誰得此像』

(『朝野群載』国立国会図書館デジタルコレクション)

『太子語諸大夫曰、我尊佛像、誰得是像教敬』

(『扶桑略記』国立国会図書館デジタルコレクション)

と自らが所蔵する仏像を欲しい者はいないかと問うた。

すると、秦河勝が居並ぶ諸豪族の中から進み出て、

『臣、拝みまつらむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

『秦河勝進曰、臣拝之便受佛像』

(『朝野群載』国立国会図書館デジタルコレクション)

『時秦川勝進言。臣賜拝之。便受佛像』

(『扶桑略記』国立国会図書館デジタルコレクション)

と申し出て、その仏像を貰い受けた。

このように、河勝がウマヤト王子(厩戸皇子)から仏像を譲り受ける話は、どの史料も内容は、ほぼ同じであり、河勝とウマヤト王子(厩戸皇子)にとっての重要事であったことが判る。

さて、こうして、河勝がウマヤト王子(厩戸皇子)から貰い受けて本尊とした仏像は、

『自百濟國獻之聖徳太子。太子於小墾田宮賜之秦川勝』

(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあるように、百済から渡来した仏像で、

『百濟國ノ彌勒』

(『續古事談』国立国会図書館デジタルコレクション)

とされる。

また、『上宮聖徳法王帝説』には、

『太子七ノ寺を起つ』

(『聖徳太子集 日本思想大系2』家永三郎 藤枝茂 早島鏡正 築島裕 岩波書店)

と、ウマヤト王子(厩戸皇子)が7ヶ寺を建立したとあり、その際に、

『并せて彼ノ宮を川勝秦公に賜ふ』

(『聖徳太子集 日本思想大系2』 家永三郎 藤枝茂 早島鏡正 築島裕 岩波書店)

とある。

ウマヤト王子(厩戸皇子)から河勝が与えられた宮については、

『推古天皇十二年のある夜、聖德太子が靈夢を御覧になつた』

(『日本之古建築』伊藤清造 文潮社)

ことを契機に、ウマヤト王子(厩戸皇子)が、その夢で見た楓の林がある岡に、河勝が、

『川勝欣然前導』

(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』国立国会図書館デジタルコレクション)

したところ、そこに洞窟があり、中には蜂の巣があった。

だが、その蜂の巣をよく見ると、

『千二百人の大阿羅漢が集つて法華、勝鬘維摩の大乗経の要文を説いてゐた』

(『日本之古建築』伊藤清造 文潮社)

と言う奇瑞だったので、ウマヤト王子(厩戸皇子)は、その岡の下に、

『楓野別宮と稱する假りの宮』

(『日本之古建築』伊藤清造 文潮社)

を造営した。

河勝が与えられた宮と言うのは、この宮(楓野別宮)とされる。

この楓野別宮が寺院へと改築されたものが、蜂岡寺(蜂丘寺)、後の広隆寺となった。

広隆寺(太秦広隆寺)
(広隆寺)

つまり、ウマヤト王子(厩戸皇子)から貰い受けた仏像を本尊として安置するために河勝が創建したのが、蜂岡寺(蜂丘寺・広隆寺)だった。

ウマヤト王子(厩戸皇子)の没後の推古天皇31(623)年にも、新羅から新たに贈られた仏像を、

『佛像をば葛野の秦寺に居しまさしむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として安置している。

ただし、蜂岡寺(蜂丘寺・広隆寺)が最初に創建された地については、

『本舊寺家地、九條河原里』

(『朝野群載』国立国会図書館デジタルコレクション)

とある。

それが、

『彼地頗狭隘』

(『朝野群載』国立国会図書館デジタルコレクション)

であったために、

『五條荒蒔里』

(『朝野群載』国立国会図書館デジタルコレクション)

へ遷ったのだとしている。

このことから、現在の広隆寺は、亡きウマヤト王子(厩戸皇子)のため、推古天皇30(622)年に建立されたものとする考え方がある。

そして、その場合、河勝が建立した最初の寺院である蜂岡寺(蜂丘寺)を北野廃寺と見做す説がある。

北野廃寺
(北野廃寺跡)

『蜂岡寺は、当時よりこの地にあったのではなく、現在の北区に所在する平野神社付近から現在の地へ移ってきたとされる』

(『北野廃寺・北野遺跡 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2018-8』公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所)

即ち、

『北野廃寺が『日本書紀』推古天皇31年条にみえる「葛野秦寺」に相当すると考えられている。また、同様に秦氏建立の寺院とされる広隆寺(蜂岡寺)の成立に関しては諸説が存在するが、葛野秦寺は出土瓦などから蜂岡寺とは別寺院であり、平安京造営に際して葛野秦寺の寺籍が蜂岡寺へ移され、広隆寺として統合されたという説が近年有力視されている』

(『北野廃寺・北野遺跡 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2018-8』公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所)

のである。

いずれにしても、蜂岡寺(蜂丘寺)・広隆寺の建立については、

『秦氏が蘇我氏とともに大陸文化の摂取に果たしてきた役割を考えると、伽藍草創のこの時期に、蘇我氏の寺、皇太子の寺とともに、秦氏の寺が『日本書紀』に登載されたことにはふかい意味が感じられる』

(『日本の古代文化 日本歴史叢書』林家辰三郎 岩波書店)

と評価される。

河勝が建立した蜂岡寺(蜂丘寺・広隆寺)は、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)や大王家(皇室・天皇家)が行った寺院建設と並んで飛鳥時代の白眉と言えるものであった。

秦河勝と『冠位十二階』

秦河勝が、蜂岡寺(蜂丘寺・広隆寺)の建立を開始した推古天皇11(603)年の12月、『冠位十二階』が制定される。

畿内の中小豪族を秩序付けする『冠位十二階』が制定されるや、河勝は、

『川勝等叙大仁』

(『上宮聖德太子傳補闕記』国立国会図書館デジタルコレクション)

大仁に叙される。

この大仁は、『大宝律令官位』では、正五位に相当する。

そして、推古天皇24(616)年5月には、河勝が、一族を引き連れ楓野別宮を訪れて、欠かさず奉仕を行っていると聞いたウマヤト王子(厩戸皇子)は大喜びし、さらに、冠位を進めて、河勝を小徳に叙したと言う。

『秦川勝率己親族祠奉不怠。太子大喜。即叙小徳』

(『上宮聖德太子傳補闕記』国立国会図書館デジタルコレクション)

ただ、中小豪族を能力に拠って正当な評価で位付けするはずの『冠位十二階』制にあって、厩戸皇子の個人的な感情のみで、河勝を昇進させたのが史実であったのならば、この『冠位十二階』制の底が知れる。

もはや、河勝とウマヤト王子(厩戸皇子)の間柄は、平安時代における藤原頼長と秦公春のような間柄であろう。

ただ、この年、

『推古天皇廿四年。秋七月。自新羅國王遣使奉獻』

(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあるように、新羅から外交使節が派遣されて来ている。

この外交使節の目的は、倭(日本)に対して、金銅製救世観音像を贈与することであった。

しかも、この救世観音像は、

『此像放光時々有怪』

(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』国立国会図書館デジタルコレクション)

な仏像とされるように、格式の高い仏像であった。

当然、このような霊験あらたかな仏像を運んで来る外交使節も高い官位を有していたことであろう。

このために、それらの新羅の外交使節の官位に合わせるために、新羅から救世観音像の贈与に関する打診等の予備折衝があった時点(恐らく5月)で、外交使節の接待に当たる予定の河勝の冠位(官位)が引き上げられた可能性が高いように考えられる。

実際、これ以前の推古天皇18(610)年に、河勝は、新羅から派遣された外交使節の応対に当たっている。

『朝庭於是命秦造河勝土部連莬爲新羅導者』

(『鶏林拾葉』国立国会図書館デジタルコレクション)

河勝が叙された小徳とは、『大宝律令官位』では、従四位相当となる。

平安時代に書かれた書物は、河勝の冠位(官位)を「大花上」と伝える。

これは、大化5(649)年2月に制定された倭(日本)で3番目の「冠位制度(官位制度)」で規定された冠位(官位)である。

『大宝律令官位』では、正四位相当となる。

従って、河勝は、令制に当てはめると常に五位以上ではあったものの、さりとて、後世に「公卿」と呼ばれるような高級官人としての存在では無かったことが判る。

この辺りは、どれほどヤマト王権に貢献した秦氏本宗家(太秦氏)と言えども、渡来移民に対する差別的な待遇からは逃れられなかったものと容易に想像されるところである。

秦河勝と大生部多

推古天皇30(622)年2月、ウマヤト王子(厩戸皇子)が没すると共に、秦河勝の動静も見えなくなる。

その河勝が、ウマヤト王子(厩戸皇子)の死から約20年後に、突然、思わぬ形で歴史の表舞台へと姿を見せる。

皇極天皇3(644)年、富士川のほとりで、大生部多が、虫を崇め、

『此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と壽とを致す』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う教義の新興宗教を広めていた。

駿河国富士川
(富士川)

このため、河勝は、

『民の惑はさるることを惡み』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

大生部多を討ち、新興宗教を実質的に壊滅に追い込んだと言うのである。

この河勝の活躍について、世の人は、

『太秦は 神とも神と 聞え來る 常世の神を 打ち懲ますも』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と歌ったとされる。

現代語にすれば、「仏を奉る太秦氏は、神の中の神と呼ばれる常世の神を打ち負かし懲らしめたことだ」となる。

ただ、何故、秦氏本宗家(太秦氏)の河勝が、わざわざ畿内から離れた東海道に蔓延った新興宗教の教祖を討伐したのかは謎である。

河勝が「国司」として赴任していたとする説もあるが、そもそも「国司」等と言う制度が無い時期であり、考えにくい。

駿河国に伝わる物語の中に、

『推古天皇二十八年四月、大般若經天より降りし事有り』

(『駿國雑志』国立国会図書館デジタルコレクション)

と言う怪異が伝わる。

そして、また、ウマヤト王子(厩戸皇子)が貴重な経典を保管するのに、

『帝都近きは失火の災計り難し、しかじ遠境に置む』

(『駿國雑志』国立国会図書館デジタルコレクション)

として、大和国から遠いと言う理由をして駿河国に保管したと言う伝承も残る。

このように、駿河国は、ウマヤト王子(厩戸皇子)と仏教の世界においては、極めて重要な意味を持つものであった。

また、同じ『駿国雑志』中に、「禹都麻佐山」と「久能」の語源について、

『推古天皇の御時、秦の川勝が二男、尊良が弟、久能といふ者、観音菩薩の靈夢を感じて、來て爰に住めり』

(『駿國雑志』国立国会図書館デジタルコレクション)

とある。

駿河国内に、秦氏本宗家(太秦氏)の田荘(私領)が存在していた可能性が高いと同時に、河勝が、ウマヤト王子(厩戸皇子)の意を汲み、仏教の東国への弘法を行っていたことが窺い知れる。

そこから、この河勝の軍事行動には「私領の保護」と「仏教の布教」と言う二面の意味が浮かび上がる。

そして、最も重要だったのは、大生部多が祀っていた「虫」に理由があるのではなかろうか。

多が祀っていた虫について『日本書紀』は、

『其の皃全ら養蠶に似れり』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とあり、蚕にそっくりであったと記している。

このことから、秦氏本宗家(太秦氏)の独占産業であった養蚕業を、表向きは「宗教」に見せかけて、大生部多が始めていた可能性が考えられる。

あるいは、大生部多が蚕を神とすることで、養蚕を禁じる教えを広めていたのかも知れない。

いずれにしても、河勝としては、秦氏本宗家(太秦氏)の独占的な経済権益を守る必要があった。

このために、大生部多を討伐したのではないだろうか。

養蚕は、秦氏本宗家(太秦氏)の「氏長者」たる河勝が、命を賭けてでも守るべきものだったのであろう。

秦河勝と猿楽

『風姿花伝』は、秦河勝を猿楽の始祖と伝える。

『上宮太子、天下少しさはりありし時、神代、佛在所の吉例に任せて、六十六番の物まねを、彼河勝におほせて、おなじく六十六番の面を御作にて、即河勝にあたへたまふ。橘の内裏の紫宸殿にてこれを勤む。天下治まり國しづかなり。上宮太子、末代の爲、神樂なりしを、神という字の片をのけて、つくりをのこし給ふ。これを日よみの申なるがゆえに、申樂と名附く』

(『花傳書 岩波文庫171』世阿弥 野上豊一郎 校訂 岩波書店)

これは、中世の「芸能」を生業とする人々に、渡来移民である秦氏本宗家(太秦氏)や秦氏分家・秦氏部民の末裔が多かったことを示すものと考えられる。

または、中世における芸人のタニマチとなる商人・僧侶・神官に、これも秦氏の末裔が多かったことを示すものとも考えられる。

そして、何より『風姿花伝』を著した世阿弥のような「芸能」の世界に生きる人々は、どれほど素晴らしい芸術を演じてみせても、律令体制が成立して以降の日本においては「賤民」として蔑まれる立場に置かれていた。

その姿は、文化・技術・経済の分野で古代日本の成立にどれだけ多大な貢献をしても、渡来移民であることを理由に「蛮夷」として扱われ続けた秦氏の姿と重なる。

秦河勝のまとめ

秦河勝は、数多いる秦氏の人々の中で最も有名な人物であろう。

しかしながら、その河勝の事績は、数えるほどしか伝わっていない。

その多くが、ウマヤト王子(厩戸皇子)の伝記中であると言うのも、河勝を有名にした反面で、河勝の人物像が見えなくなった要因と言える。

河勝は、ウマヤト王子(厩戸皇子)と「仏教」を通じての密接な関係が伝えられて来た。

言い換えれば、飛鳥時代、仏教を事実上の国教として導入し、熱烈に信仰した蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)に、河勝は隷属していたとも言えるのである。

ウマヤト王子(厩戸皇子)が仏像を河勝に譲り渡した話は、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が蘇我稲目に仏像を下賜する場面を彷彿とさせるもので、実は「仏教」を介する形で、河勝と蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)との繋がりを示唆するものではないだろうか。

しかし、その蜜月も、『山背大兄王事件』で瓦解する。

ウマヤト王子(厩戸皇子)の子であるヤマシロノオオエ王(山背大兄王)が蘇我入鹿に襲撃された時、河勝がどのような行動を取ったのか、あるいは、取らなかったのか、その記録は何も残されていない。

だが、河勝は、『山背大兄王事件』の結果、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)とは距離を置いたのではなかろうか。いや、距離を置いたと言うよりも離れたのかも知れない。

そして、蘇我氏傍流(蘇我氏倉山田家)と接近するようになったのではあるまいか。

蘇我氏倉山田家も熱心な仏教信奉者だったことで知られる。

播磨国赤穂郡には古来からの伝説に、

『推古天皇ノ時、秦河勝蘇我入鹿ノ難ヲ避ケテ』

(『兵庫県郷土史談』国立国会図書館デジタルコレクション)

播磨国赤穂郡坂越へ逃亡したと言うものがある。

この伝説は時系列に矛盾するが、トヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)を同じ女王(女帝)のアメトヨタカライカシヒタラシヒメ大王(皇極天皇)に置き換えると、時系列には齟齬をきたさない。

そして、この伝説には続きがあり、

『其後中大兄皇子、中臣鎌足等ト謀リ、入鹿ヲ誅シ其族黨ヲ滅セリ』

(『兵庫県郷土史談』国立国会図書館デジタルコレクション)

とされている。

伝説に過ぎないが、それでも河勝が、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)たちのクーデター計画に対して、経済援助を行った可能性も考えられよう。

政変計画は、暗殺と言う単純な殺戮だけでは成功し得ない。

何故なら、その計画の実現には、確固たる経済的な裏付けが必要であるからだ。

かくて、入鹿は殺害され、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)は滅ぶ(『乙巳の変』)。

しかし、『乙巳の変』を経て、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)を中心とした中央集権を目指す「公地公民」制を基調に据える改新政権が誕生すると、河勝は姿を消す。

それは、中央官人としての地位をあきらめた河勝の挫折であったのか。

それとも、中央を見捨てて、地方に己の力を振り向けようと決意したものなのか。

一体どちらであったのかは、わからない。

ただ、豪族が私的に所有する人民と土地を、大王家(皇室・天皇家)を中心とした政権が一元的に支配しようと言う「公地公民」制は、多くの人民と土地を所有する秦氏本宗家(太秦氏)にとって、果たして、すんなりと受け入れられるものであったのだろうか。

中国王朝や朝鮮半島の諸国の情勢に通じた河勝ならば、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)が行うクーデターの先に「公地公民」制の施行が待ち受けていることは、百も承知だったろう。

それでも、あえて、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)を支援したのだとしたら、それは、ウマヤト王子(厩戸皇子)の子であるヤマシロノオオエ王(山背大兄王)の仇討のために、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)を葬ることを優先したのかも知れない。

そうだとしたら、それは、河勝が、これまで秦氏本宗家(太秦氏)のために行動し続けていたものが、ここに至って、初めて河勝の個人的な意志で行動したことになる。

実は、先ほどの赤穂郡坂越へ河勝が逃亡したと言う伝説は、河勝が、同地で亡くなったとしている。

この伝説が、事実であるなら、まさに異常事態である。

何故なら、秦氏の「氏長者」とも言うべき河勝が、秦氏本宗家(太秦氏)の本拠地である山背国で死ぬことが出来なかったのである。

そのような「氏長者」が有り得るのだろうか。

もしかすると、「公地公民」制を招いてしまったことで、河勝は、秦氏本宗家(太秦氏)の「氏長者」の地位から追放されたのではあるまいか。

誕生も、死も、全てが謎に包まれた存在が「秦河勝」の実像である。

一方で、各地に残る伝承の河勝は違う姿を見せる。

それは「土木技術者」としての河勝である。

代表的なものとして、京都の郊外に位置する「寺戸用水」が挙げられる。

寺戸用水
(寺戸用水)

この寺戸用水は、山背国葛野郡から乙訓郡にかけて流れる灌漑用水であり、21世紀の現在も現役である。

これらの土木事業へ、実際に河勝が参加したのかは不明である。

恐らく、平安時代に一大ブームとなった「聖徳太子信仰」に便乗し、ウマヤト王子(厩戸皇子)こと聖徳太子と仏教を通して深い繋がりのあった河勝の名が、土木事業の雄族であった秦氏本宗家(太秦氏)の氏長者であることから結びつけられて残されたものと考えられる。

ただ、それらの土木工事が国家事業として行われたものでは無く、秦氏本宗家(太秦氏)の独力で行なわれたことは驚愕するものであって、当時の秦氏本宗家(太秦氏)が保有していた技術力や経済力が、いかに凄いものであったのかが窺える。

そして、河勝が、表舞台から消えて以後の山背国の葛野郡・乙訓郡は、従前からに引き続き、秦氏本宗家(太秦氏)主導で、豊穣な土地として、開拓・整備されて行くこととなる。

河勝が常に考えていたことは、山背国に住む人民が安定した生活を過ごせるようにすることだったのだろう。

中央から離れて、領地経営に当たるところは、後世の戦国時代における後北条氏に近いものがあるのかも知れない。

こうして、畿内でも、一、二を競うほどに豊かで先進地域となった山背国には、後に、秦氏(分家の乙訓秦氏)を外戚とする藤原種継を中心として、乙訓郡に長岡京が造営される。

続いて、秦氏本宗家(太秦氏)と婚姻関係を持つ藤原小黒麻呂を中心として、葛野郡に平安京が築かれ、日本の中心地となるのである。

これら長岡京や平安京への遷都を行なったのが、河勝が中央から姿を消すきっかけとなった『大化改新(乙巳の変)』の中心人物であるナカノオオエ王子(中大兄皇子・天智天皇)の血を継承する桓武天皇だったのは、巡り合わせであろうか。

桓武天皇
(『桓武天皇像(部分)』延暦寺所蔵 Wikimedia Commons)

なお、平安宮内裏は、河勝の屋敷跡と言う伝説が残されている。

平安宮内裏
(平安宮内裏跡)

山背国(山城国)は、秦河勝が築いた「王国」であり、また「夢の跡」だったと言えるのかも知れない。

秦河勝の系図

《秦河勝系図》

秦始皇帝━故亥皇帝━孝武皇帝━竺区宋孫王━法成王━┓
                         ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗功満王━融通王(弓月王)━普洞王━秦酒公━意美━┓
                         ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗忍━丹照━河━国勝━川勝(河勝)

(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺來由記』)

秦河勝の墓所

秦河勝の墓所は不明である。

河勝の墓所の候補として有名なものに、秦氏本宗家(太秦氏)の拠点とした山背国葛野郡太秦にある蛇塚古墳が挙げられる。

蛇塚古墳
(蛇塚古墳)

蛇塚古墳は、全長約75メートルの前方後円墳である。

全長はさほど大きくは無いが、その石室は、山背国内に存在する古墳中では最大規模を誇る。

河勝が仕えた蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)の蘇我馬子の墳墓とされる石舞台古墳と同様に、この蛇塚古墳も、墳墓の盛土が全て除去され、その石室が剥き出しとなっているのは、何か因縁めいたものを感じる。

この地域の前方後円墳としては、他に、天塚古墳・垂箕山古墳(仲野親王陵)・清水山古墳(現存せず消滅)・段ノ山古墳(現存せず消滅)等がある。

これらの前方後円墳の大きな特徴としては、その築造時期が、

『すべて5世紀後半以降に属することが注目される。この時期には畿内各地の前方後円墳は次第に衰勢をたどるが、嵯峨野の古墳群においては、その逆』

(『北野廃寺 発掘調査報告書 京都市埋蔵文化財研究所調査報告第7冊』財団法人 京都市埋蔵文化財研究所)

だったのである。

ただ、河勝が没した思われる7世紀中頃から8世紀初頭に掛けての時期に、前方後円墳を築造したのかどうかは疑問が残る。

葛野郡には、別に河勝の墓所として伝わる場所がある。

それは、川勝寺である。

川勝寺
(川勝寺)

こちらは、桂川東岸に位置する。

土木技術の雄族たる秦氏本宗家(太秦氏)の棟梁である河勝としては、死後も桂川の治水を守る意味合いがあったのかも知れない。

河内国にも河勝の墓所として伝わる場所がある。

伝・秦河勝墓
(伝・秦河勝墓)

こちらは、寝屋川沿いに位置する。

川勝寺と同じように、寝屋川の治水を、河勝が死後も守り続けるかのようである。

また、播磨国には、河勝を祭神とする大避神社が存在する。

大避神社
(大避神社)

大避神社が存在する播磨国赤穂郡坂越は、河勝が蘇我入鹿からの迫害を逃れて来たとする伝説が残る土地である。そして、河勝は、同地で没したとされる。

『大避神社は坂越港にあり秦河勝を祀る』

(『赤穂郡誌』国立国会図書館デジタルコレクション)

『舟泊播州坂越浦亦漂生嶋東遂居其地化村人祭神無大小祈有應勅號大荒大明神、中古改爲大避大明神』

(『山州名跡志』国立国会図書館デジタルコレクション)

この大避神社には、河勝が制作したと言う

『猿田彦の面』

(『赤穂の史蹟』国立国会図書館デジタルコレクション)

が宝物として伝えられている。

秦河勝関連史跡への行き方

広隆寺

鉄道

京都駅から
32番・33番乗り場 JR嵯峨野線「太秦駅」下車20分

京都駅から「梅小路京都西駅」→「丹波口駅」→「二条駅」→「円町駅」→「花園駅」の次である。

嵐電嵐山駅 または 嵐電四条大宮駅から
京福電鉄嵐山本線「太秦広隆寺駅」下車2分

嵐電嵐山駅から「嵐電嵯峨駅」→「鹿王院駅」→「車折神社駅」→「有栖川駅」→「帷子ノ辻駅」の次である。
嵐電四条大宮駅から「西院駅」→「西大路三条駅」→「山ノ内駅」→「嵐電天神川駅」→「蚕ノ社駅」の次である。

バス

三条京阪駅・四条京阪駅・四条河原町駅から
京都市バス11系統「太秦広隆寺前」下車2分

平日は1時間に3本程度。土日は1時間に2本程度。

京都駅から
京都バス72・73・75・76・83系統「太秦広隆寺前」下車5分

72・73・75・76・83系統合わせて、平日土日共に1時間に3本程度。

阪急嵐山駅から
京都バス62・63・66・72・73・76系統「太秦広隆寺前」下車2分

72・73・75・76・83系統合わせて、平日土日共に1時間に1本程度。

タクシー|レンタカー

公共交通機関の利用が優先されるが、本数が少ない場合や交通の便の悪い場合、時間の都合がつかない場合、また、最近では京都市バスへの観光客の乗車増加に伴い住民の日常生活が破壊される問題(所謂「観光公害」)が深刻になっているため、タクシーやレンタカーもオススメ。


蛇塚古墳

鉄道

嵐電嵐山駅 または 嵐電四条大宮駅から
京福電鉄嵐山本線「太秦広隆寺駅」下車20分

嵐電嵐山駅から「嵐電嵯峨駅」→「鹿王院駅」→「車折神社駅」→「有栖川駅」→「帷子ノ辻駅」の次である。
嵐電四条大宮駅から「西院駅」→「西大路三条駅」→「山ノ内駅」→「嵐電天神川駅」→「蚕ノ社駅」の次である。
広隆寺とセットで回るのがオススメ。電車での移動を考えた場合、「太秦広隆寺駅」で下車し広隆寺を拝観した後に、蛇塚古墳を見学し、嵐電「帷子ノ辻駅」へ向かうと次の移動がしやすい。

川勝寺

鉄道

阪急電車京都線「西京極駅」下車5分

バス

京都駅から
京都市バス特33系統「川勝寺」下車1分

平日土日共に1日4本程度。

伝・秦河勝墓

鉄道

京阪電車京阪本線「寝屋川市駅」下車25分

大避神社

バス

JR坂越駅から
神姫バス「小島行」で「坂越港」下車5分

JR坂越駅は、山陽本線・山陽新幹線「相生駅」から赤穂線に乗り換え。

京都市右京区太秦

京都市右京区太秦は、女優・吉岡里帆さんの出生地としても知られる。

秦河勝の年表

年表
  • 推古天皇11(603)年
    11月1日
    蜂岡寺の建立を開始。
  • 推古天皇18(610)年
    10月9日
    新羅からの外交使節の導者。
  • 推古天皇24(616)年
    5月3日
    小徳。
  • 推古天皇30(622)年
    蜂岡寺、落慶。
  • 皇極天皇3(644)年
    7月
    大生部多を討伐する。