物部氏【大王(天皇)にモノで奉仕した軍事と祭祀の豪族!】

物部氏について

【表記】 物部氏
【読み】 もののべし(もののべうじ)

物部氏とは

【祖神】 饒速日命(邇藝速日命)
【始祖】 伊香色雄命
【属性】 伴造系神別豪族
【姓】

部民制の確立と共に大王家(皇室・天皇家)に「モノ(物)」を用いて奉仕する氏(ウジ・ウヂ)として成立したと見られる伴造系豪族。

なお、物部氏は日本各地に存在している。理由としては、次で述べる「物部氏の職能」が大きく影響している。この項では「物部氏本宗家」について取り上げ解説する。

物部氏の職能

物部氏の職能は、軍事部門であるが、同じように軍事部門を担当していた大伴氏との違いとして、物部氏は「モノ」を通して祭祀に関わる役割を持っていたことである。

物部氏の「モノ」とは兵器であり、他に祭祀道具等があったものと思われる。

ヤマト王権(大和朝廷)の勢力圏が倭(日本)の各地への拡大して行くことは、即ち、ヤマト王権(大和朝廷)の軍事力と宗教の拡散を意味しており、それは物部氏が倭(日本)の各地に多く存在している理由ともなっていると見られる。

平安時代になっても物部已波美のように地方官人として活躍する人物は数多く存在している。

物部氏の本拠地

物部氏の本拠地は、大和国山辺郡石上郷を拠点としたと見られている。

物部氏_大和国山辺郡
(物部氏の本拠地)

この拠点には、物部氏の中心地としての氏神・石上神宮を構える。

石上神宮
(石上神宮)

石上神宮には、布都御魂大神(平国之剣)・布留御魂大神(天璽瑞宝十種)・布都斯御魂大神(天羽羽斬剣)が代表的な祭神として祀られている。兵器に宿る霊力を神として祀る存在こそは「モノ(物)」を通して大王家(皇室・天皇家)に仕えた物部氏を象徴している。

なお、この山辺郡石上郷は、ヤマト王権へ王妃(后妃)を多く出している在地系皇別豪族の和珥氏の拠点の隣接地であることは注目される。

「大王(天皇)の武力装置」である大伴氏が在地系皇別豪族の雄たる葛城氏の拠点と隣接していることと一対に配されたかのような地に、伴造系豪族が拠点を置いているのは単なる偶然とも思えない。

また、物部氏は、河内国渋川郡を拠点にしていたことが知られる。

物部氏の河内
(物部氏の河内国での拠点)

河内国渋川郡は、物部氏を政治の表舞台に引き上げたオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の墳墓(御陵)とされる「高鷲丸山古墳」や真墓(真陵)とも言われる「河内大塚山古墳」に極めて近い土地である。

渋川郡には、物部守屋が居館を置いていた。また、渋川廃寺の存在も確認されており、このことから物部氏は公式な祭祀では神を祀っていたが、一方で仏教も受容する多様性を持つ豪族であったと見られている。

物部氏の祖神

物部氏の祖神・饒速日命は「天孫降臨」神話で重要な位置を占める神である。

『邇藝速日命参赴きて、天つ神の御子に白ししく、「天つ神の御子天降り坐しつと聞けり。故、追ひて参降り来つ。」とまをして、即ち天津瑞を献りて仕へ奉りき』

(『古事記 祝詞』倉野憲司 校注 日本古典文學大系1 岩波書店)

饒速日命の子の宇摩志麻遅命は、カムヤマトイワレビコ(後の大王・神武天皇)の大和国入りに先立って、大和国を平定し、カムヤマトイワレビコ(後の大王・神武天皇)を迎えている。

『荒夫琉神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひ』

(『古事記 祝詞』倉野憲司 校注 日本古典文學大系1 岩波書店)

大王家(皇室・天皇家)の武力装置である大伴氏と並び、軍事面で奉仕する物部氏が大王家(皇室・天皇家)の大和入りに際して先鋒を務め、土着していた先住民を懐柔して取り込み、抵抗する者は武力を用いて容赦無く駆逐したのである。

さらに、物部氏の始祖とされる伊香色雄命は、ミマキイリビコイニエ大王(崇神天皇)の占いでヤマト王権の祭祀に深く関わるようになる。

『天皇の曰はく、「朕、栄楽えむとするかな」とのたまふ。乃ち物部連の祖伊香色雄をして、神班物者とせむと卜ふに、吉し』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

このように祭祀に関わり執り行うようになって行く。ここに、軍事だけでは無い物部氏の原点が見い出される。

物部氏の時代

物部十千根の時代

物部十千根は、垂仁天皇25(紀元前5)年2月に、(和珥)彦国葺・(阿倍)武渟川別・(中臣)大鹿島・(大伴)武日と共に「大夫」の地位で、イクメイリビコイサチ大王(垂仁天皇)から命令(詔)を受けている。

この時の諸豪族が、「臣」姓が2人、「連」姓が3人と言う後世の「大臣・大連」制のような構成であり、到底、史実とは認められない。

物部伊莒弗の時代

履中天皇2(402)年、物部伊莒弗は、葛城円・平群木菟・蘇我満智と共に国政に参加したと言う。

ただし、この時期、在地系豪族の雄・葛城氏の葛城円が「大臣」として権勢を奮っており、伊莒弗の実像は、「伴造」として大王(天皇)に近侍していた程度のことと思われる。

物部目の時代

物部目は大伴室屋と共に、安康天皇3(456)年、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)から大連に任じられる。

目の大連就任直前には、大臣の葛城円が、オオハツセ王子(後のオオハツセノワカタケ大王・雄略天皇)に焼き殺されている。

即ち、皇別在地系豪族が大王(天皇)に拠り粛清された後に、大王(天皇)の伴造である物部氏・大伴氏が「大王(天皇)親政」の政務遂行役として取り立てられたのである。

雄略天皇18(474)年、目は、物部菟代宿禰と共に伊勢国の朝日郎を征伐するように命じられる。

この合戦で目は活躍するが、菟代宿禰は怖気づき戦わなった。このためオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は激怒して、菟代宿禰が所有していた猪使部を取り上げ、目に与えている。

これは、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の下で、物部氏本宗家の再編が進められたことを示唆するのかも知れない。

物部麁鹿火の時代

ヤマト王権内では直系の王統(皇統)が断絶し、越国から傍流のオオド王(継体天皇)が迎えられ新たに王位(皇位)に即く。

物部氏も直系では無く傍流の物部麁鹿火が王権内で政治に関与する。

この麁鹿火が亡くなった後も、物部氏本宗家が大連を出すことは無かった。

この後、オオド王(継体天皇)の王子(皇子)であるタケオヒロヒロクニオシタテ大王(宣化天皇)が崩御して、女系でオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の系譜を引くアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が王位(皇位)に即くと、物部氏は本宗家から物部尾輿が大連として政治に参加するようになる。

大王家(皇室・天皇家)傍流に位置するオオド王(継体天皇)と物部氏本宗家との間には何らかの事情があったものと思われるが詳細は不明である。

いずれにせよ、オオド王(継体天皇)の治政期間は、大伴氏本宗家が軸であって、物部氏は傍流が政治に参加すると言う構図であった。

物部尾輿の時代

欽明天皇元(540)年、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、物部尾輿・大伴金村・許勢稲持らと朝鮮半島南部政策を巡る会議を開催する。

この席上、尾輿は、継体天皇6(512)年に金村が行った百済への任那四県割譲を持ち出して徹底的に金村を糾弾する。このために金村は失脚することとなり、王権内において大連は尾輿ひとりとなる。

欽明天皇13(552)年10月、百済の聖明王から倭(日本)へ金銅仏が贈られる。

大臣・蘇我稲目は、東アジア各国では国の最高レベルで仏教を受容していることから、倭(日本)も仏教を大王家(皇室・天皇家)の国家祭祀レベルとして受容すべきと主張する。

しかし、尾輿は、大王家(皇室・天皇家)が国家祭祀として仏教を受容すべきで無い旨を主張する。

『我が国家の、天下に王とましますは、恒に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事とす。方に今改めて蕃神を拝みたまはば、恐るらくは国神の怒を致したまはむ』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

近年の調査で、物部守屋の屋敷のあった河内国渋川郡から古墳時代の遺跡「渋川廃寺」跡が発見された。

このことから、物部氏本宗家が唱えた「排仏」は、仏教の全否定では無く、国家の宗教行事に仏教を加えることを排除すると言う主張ではなかったかとされている。

これから間も無く尾輿の消息は『日本書紀』から消える。

ヌナクラノフトタマシキ大王(敏達天皇)が王位(皇位)に即いた時には、

『物部弓削守屋大連を以って大連とすること、故の如し』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とあることから、尾輿の子・物部守屋が、尾輿の後継者として時間を空けずに「大連」を相続したことが窺える。

物部守屋の時代

物部守屋は、在地系豪族である蘇我馬子との抗争に明け暮れる。

敏達天皇14(585)年2月、馬子が大野丘に仏塔を建立するや、守屋は、翌月には馬子が建てた仏塔を倒した上で、仏殿・仏像も焼却している。

タチバナノトヨヒ大王(用明天皇)が崩御すると、守屋は、アナホベ王子(穴穂部皇子)を王位(皇位)に即けようと画策する。

だが、そのアナホベ王子(穴穂部皇子)は馬子に暗殺される。さらに、馬子は、タケオヒロクニオシタテ大王(宣化天皇)の王子・ヤカベ王子(宅部皇子)も暗殺したことで、守屋は、大王家(皇室・天皇家)とのパイプを断たれ孤立する。

こうして、追い込まれた守屋は、用明天皇2(587)年7月、馬子から挑発され、遂に武力衝突へと至る。所謂『蘇我物部戦争』である。

戦況は最前線で奮戦する守屋の活躍もあり物部軍の優位に進んだ。

『大連、衣揩の朴の枝間に昇りて、臨み射ること雨の如し。其の軍、強く』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

しかし、蘇我軍側に参加していた厩戸皇子が仏教の加護を全面に押し出したことで逆転し、守屋は戦死し蘇我氏の勝利に終わる。

ここに、物部氏本宗家の勢力は衰退する。

物部氏の系図

《物部氏系図》

 饒速日命━宇摩志麻遅命━彦湯支命┳大禰命
                 ┣出雲醜大臣命
                 ┗出石心大臣命┳大矢口宿禰┳欝色雄命
                        ┃     ┣欝色謎命
                        ┃     ┗大綜杵命━┓
                        ┃           ┃
                        ┗大水口宿禰      ┃
                                    ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃
 ┣伊香色雄命┳十市根命━━━胆咋宿禰━━五十琴宿禰━伊呂弗━┓
 ┃     ┣大新河命━━━武諸隈連公━多遅麻連公     ┃
 ┃     ┣建胆心大禰命                 ┃
 ┃     ┣多弁宿禰命                  ┃
 ┃     ┣安毛建美命                  ┃
 ┃     ┣建新河命                   ┃
 ┃     ┗気津別命                   ┃
 ┗伊香色謎命                        ┃
                               ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃
 ┣布都久留┳木蓮子━麻佐良━麁鹿火
 ┃    ┗小事
 ┣真椋
 ┗目━━━━荒山━━尾輿━┳守屋
              ┗大市御狩━目━宇麻乃━麻呂

物部氏の年表

年表
  • 雄略天皇18(474)年
    8月10日
    物部目、伊勢国の朝日郎を征伐する。
  • 継体天皇21(527)年
     
    物部麁鹿火、『筑紫国造磐井の叛乱』鎮圧に出陣。
  • 欽明天皇13(552)年
    10月
    物部尾輿、排仏を主張。
  • 用明天皇2(587)年
    7月
    物部守屋、『蘇我物部戦争』で敗北。