大連【大臣と並び大王(天皇)を輔弼した伴造】

大連について

【表記】 大連
【読み】 おおむらじ

大連とは

【時代】 古代

ヤマト王権(大和朝廷)における上位の豪族の称号。「大臣」と並び政治に参画した。

「大連」の設置時期については、『日本書紀』の「垂仁天皇紀」には、

『天皇、物部十千根大連に勅して曰はく』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とあり、イクメイリビコイサチ大王(垂仁天皇)の時代に、物部十千根が「大連」として存在していたとする。つまり、「大臣」の設置よりも、「大連」の設置の方が早いように記している。

また、『神皇正統記』では、「大連」の設置時期を仲哀天皇の時代としている。

『仲哀ノ御時ニ又大連ノ官ヲオカル』

(『神皇正統記 増鏡 日本古典文學大系87』岩佐正 時枝誠記 木藤左蔵 校注 岩波書店)

しかし、実際に「大連」が置かれたのは、在地系皇別豪族の葛城氏が弾圧され、代わりに伴造系神別豪族が重用され始めたオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の時代と考えられている。

大連設置の背景

先述の通り「大連」が設置されたのは、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の頃と考えられている。

それは、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が即位前に、イザホワケ大王(履中天皇)以来、政治を補佐して来た大臣たる葛城円(葛城氏本宗家・葛城氏大臣家)を殺害したことに始まる。

葛城氏は「在地系皇別豪族」で、大王家(皇室・天皇家)をも凌ぐ実力を持つ豪族であり、その意向は、大王(天皇)も無視できないものであった。

しかし、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、倭の各地(日本全国)へ王権を拡大するほどの独裁力を欲していた。そのオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)にとって、葛城氏は目障りでしかなかったのである。

そこで、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、葛城氏に代わり大王(天皇)への絶対的忠誠心を持つ伴造系神別豪族を自らの王権の補佐役として王権の中核に置くことで独裁を可能ならしめたと考えられる。

その絶対的忠誠心に溢れた伴造系神別豪族こそが、大伴氏であり、物部氏であった。

大連になれるのは大伴氏と物部氏のみ

「大連」は、伴造系神別豪族の中でも大伴氏と物部氏のみが大王(天皇)から「大連」に任命された。

大伴氏と物部氏は、大王家(皇室・天皇家)に対して、軍事面や警察面と言う「武力装置としての職能」で奉仕する伴造系豪族である。大王(天皇)は、自らの武力を以って独裁の基盤とすることが出来たのである。

「大臣」が武内宿禰の末裔で、なおかつ、大和国に本拠地を置く豪族に限定されていることに対し、「大連」は職能で奉仕する二大豪族のみであると言う点に両者の持つ性格の違いが現れている。

また「大臣」は1名であるのに比べて、「大連」は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が「大連」を設置した当初から、大伴氏と物部氏から各1名ずつの計2名が配されているのも特徴である。

大連と大臣の並置

オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、「大連」を「大臣」と並んで設置する。

『平群臣真鳥を以て大臣とす。大伴連室屋・物部連目を以て大連とす』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

これ以降、「大臣」と「大連」は並置されて、両者が互いに牽制し合う力関係の中で王権(朝廷)の政治は行われて行くこととなる。

大連・大伴金村と王位継承(皇位継承)

大伴金村は、大臣で専横を振るう平群真鳥を殺害するようにオハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子・後の武烈天皇)に上申し、真鳥を焼き殺している。その上で、

『政を太子に反したてまつる。尊號を上らむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、金村は「政治の大権」を真鳥から大王(天皇)に取り返した上で、即位を求めている。

こうして、独裁が可能になったオハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)であったが、皮肉なことに、暴虐の果てに、武烈天皇8(506)年、皇嗣無きまま崩御する。

そこで、金村は、最初、倭彦王(仲哀天皇五世孫)を大王(天皇)に擁立しようとして失敗する。続いて、

『男大迹王、性慈仁ありて孝順ふ。天緒承へつべし』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、応神天皇五世孫に当たるオオド王(男大迹王)を、大王(天皇)に迎えることを、他の大臣(許勢男人)や大連(物部麁鹿火)に提案し成功している。

このように、王統(皇統)の存続の危機に当たって、その存続にイニシアチブを持っていたのが、大連の大伴金村であったことは注目される。

オハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)からオオド大王(継体天皇)へと「王統(皇統)」を伝えるべく奔走した大伴金村の姿は、後世の『壬申の乱』でオオトモ王子(大友皇子・弘文天皇)から王位(皇位)を武力を以って簒奪した大海人皇子を支えた大伴氏の姿が、『日本書紀』編纂時に反映されたものとも受け取れる。

大連を独占する物部氏

欽明天皇元(540)年に、大伴金村は、物部尾輿から

『大伴大連金村、輙く表請の依に、求むる所を許し賜ひてき』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、過去に行った任那四郡割譲問題の責任を糾弾されたことで失脚する。継体天皇6(512)年に任那四郡を百済に割譲したことで新羅との関係が悪くなったことを、突然、このタイミングで責められたのである。

大王家(皇室・天皇家)の存続に尽力した大伴金村は、物部尾輿の嫌がらせで失脚してしまうのである。

物部氏のために失脚した大伴氏から大連を輩出することは二度と無かった。これ以降、物部氏が「大連」を独占することになる。

物部氏のために「大連」を追われた大伴氏は、この後、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)に急接近することになる。

「大臣蘇我氏・大連物部氏」体制の崩壊

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の時代に、大臣は蘇我稲目、大連は物部尾輿と言う「蘇我・物部」体制が固まる。

その体制は、そのまま大臣は稲目の子の蘇我馬子に、大連は尾輿の子の物部守屋へと世襲される。

しかし、武内宿禰の末裔を名乗る在地系豪族たる「大臣」の蘇我氏と伴造系豪族である「大連」の物部氏とでは格が違い過ぎた。

蘇我稲目の時代に、蘇我氏は「大臣」であった葛城氏の先例に倣うように、次々と稲目が自らの娘をアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の室に入れていたのである。

《蘇我稲目と欽明天皇》


蘇我稲目┳━━堅塩媛
    ┃   ┃
    ┃   ┣━━━━━┳用明天皇
    ┃   ┃     ┗推古天皇(女帝)
    ┃   ┃       ┃
    ┃  欽明天皇━━━━敏達天皇
    ┃   ┃
    ┃   ┣━━━━━━崇峻天皇
    ┃   ┃
    ┣━━小姉君
    ┗━━馬子

そして、「仏教容認」問題を契機として、蘇我氏と物部氏は全面対決し、用明天皇2(587)年7月、蘇我馬子により、物部守屋が滅ぼされたことで、物部氏大連家は力を失い「大連」の職は消滅する。

大王家(皇室・天皇家)を掌握する蘇我氏と、一部の大王家(皇室・天皇家)の支持を得ただけの物部氏とでは、軍事力だけでは測れない政治力に大きな差があった。

所謂『蘇我物部戦争』の原因については「仏教政策」を巡るものとされていた。しかし、近年では、物部氏も仏教寺院(渋川廃寺)を建立していたことが判る等、蘇我氏と物部氏の衝突は「仏教政策」だけでは無く、もっと複雑な要因が絡んでいたとする見方が優勢となっている。

歴代大連一覧

【天皇名】 【大連名】
垂仁天皇 物部十千根
履中天皇 物部伊莒弗
雄略天皇 大伴室屋
物部目
清寧天皇 大伴室屋
武烈天皇 大伴室屋
(大伴金村)
物部麁鹿火
継体天皇 大伴金村
物部麁鹿火
安閑天皇
宣化天皇
大伴金村
物部麁鹿火
(物部木蓮子)
欽明天皇 大伴金村
物部尾輿
敏達天皇
崇峻天皇
物部守屋
(物部贄子)

カッコ内は、『日本書紀』の記事中に登場する人物名で「大連」が附されているもので、政治に関与したかは不明。

大連の年表

年表
  • 仁賢天皇11(498)年
    11月11日
    大伴金村、平群真鳥を焼き殺す。
  • 継体天皇元(507)年
    正月
    大伴金村、男大迹王を迎える。
  • 欽明天皇元(540)年
    9月
    、物部氏が「大連」職を独占する。
  • 用明天皇2(587)年
    7月
    『蘇我物部戦争』で物部守屋が敗北。。

代表的な大連

安房守

大伴室屋は、雄略天皇の時代に大連でしたね。

式部卿局

雄略天皇の遺言を守って、星川皇子の反乱を抑えたりしました。「武勇の氏」としての面目を示した存在です。

安房守

飛鳥時代の物部守屋も有名ですね。

式部卿局

中臣勝海と共に飛鳥時代の守旧派筆頭の存在でした。