大田皇女【激動の時代を生きた女性!大津皇子の母の生涯!】

大田皇女について

【名前】 大田皇女
【読み】 おおたのひめみこ
【別表記】 大田姫皇女
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 飛鳥~天智天皇称制朝
【職能】 大海人皇子妃
【父】 天智天皇
【母】 蘇我遠智娘
【同母兄弟姉妹】 菟野讃良皇女(持統天皇)・建皇子
【異母兄弟姉妹】 大友皇子(弘文天皇)・阿閇皇女(元明天皇)・川島皇子・志貴皇子・山辺皇女 等
【配偶者】 大海人皇子(天武天皇)
【子】 大伯皇女(大来皇女)・大津皇子

大田皇女の生涯

大田皇女の生い立ち

大田皇女は、中大兄皇子(天智天皇)の第一皇女として誕生する。

母は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘である。同母妹に菟野讃良皇女(天武天皇皇后・持統天皇)がいる。

大田皇女の誕生年は不明であるが、菟野讃良皇女の誕生年が大化元(645)年であることから、それ以前、恐らくは皇極天皇2(643)年前後のことと思われる。

大化5(649)年、倉山田石川麻呂が中大兄皇子への謀反を疑われ自刃に追い込まれる。

《蘇我倉山田石川麻呂と大田皇女との系図上の関係》

蘇我倉山田石川麻呂━遠智娘
           │
           ┝━━┳大田皇女
           │  ┣菟野讃良皇女
           │  ┗建皇子
           │
          中大兄皇子

だが、後に倉山田石川麻呂は無実であったことが判明する。

このことで、遠智娘は父の倉山田石川麻呂が無実でありながら、夫である中大兄皇子に拠り自刃に追い込まれことで苦悩する。

遠智娘は、白雉2(651)年、悲しみの中で男子を出産する。建皇子である。

しかし、建皇子は、生まれながら病弱で話すことが出来なかった。それでも祖母に当たる皇極太上天皇は、建皇子を殊の外可愛がったと言う。大田皇女も建皇子を可愛がったものと思われる。

こうした中、大田皇女たちの生活の場は、難波から飛鳥へと遷る。これは、中大兄皇子と孝徳天皇とが政権運営を巡り衝突し、中大兄皇子が文武百官を引き連れ飛鳥へ強引に移動したことに拠るものである。

孝徳天皇は間も無く憤死し、皇極太上天皇が重祚する(斉明天皇)。

誰からも愛された建皇子であったが、斉明天皇4(658)年に夭逝してしまう。この建皇子の死に前後して、時期は不明ながら、母の遠智娘も懊悩の果てに死去する。

大田皇女は幼少時にそれらの悲劇を見つめて育つのである。

大田皇女、叔父さんの妻となる

建皇子が亡くなったことは、大田皇女の人生に大きな影響を与えることとなる。

中大兄皇子の男子には建皇子の他に大友皇子がいた。

《中大兄皇子の二人の皇子》

蘇我遠智娘
 │
 ┝━━┳大田皇女
 │  ┣菟野讃良皇女
 │  ┗建皇子
 │
中大兄皇子
 │
 ┝━━━大友皇子
 │
伊賀采女宅子娘

ただ、大友皇子の母は地方豪族出身と言うことが問題視される。即ち、大友皇子が中大兄皇子の後を継いで次の「大王(天皇)」として即位しても血統的に認められる可能性は低かったのである。

このため、中大兄皇子は、弟の大海人皇子との関係を強化しておく必要に駆られることとなる。

こうして、大田皇女は、妹の菟野讃良皇女と共に叔父・大海人皇子の妃となる。

《中大兄皇子と大海人皇子の関係》

舒明天皇
 │
 │            ┌───────┐
 │            │       │
 ┝━━━━┳中大兄皇子┳大田皇女     │
 │    ┃     ┗菟野讃良皇女   │
 │    ┃       │       │
 │    ┣間人皇女   │       │
 │    ┃       │       │
 │    ┃ ┌─────┘       │
 │    ┃ │             │
 │    ┗大海人皇子          │
 │      │             │
 │      └─────────────┘
 │
皇極天皇
(女帝)

妃となった正確な時期は不明である。一般的には年齢順で大田皇女の方が先に妃になったと考えられている。

そして、菟野讃良皇女と同じ妃でも長姉である大田皇女の方が、大海人皇子の「正妻(嫡妻)」の座にあったものと思われる。

大田皇女、大伯皇女を出産する

大田皇女が生きた時代は動乱の時代である。

新羅が唐と同盟し百済への攻撃を開始したことを受け、中大兄皇子が主導する倭(日本)の朝廷では挙国体制で百済へ軍事支援を行うことを決定する。

このために朝廷を戦線に近い西へ移動させるという前代未聞の大騒動で、大田皇女も父の中大兄皇子、祖母の斉明天皇、妹の菟野讃良皇女、そして、夫の大海人皇子と共に西に向かう。

その強行軍の道中で、大田皇女は、斉明天皇7(661)年に大伯の海において皇女を出産する。

『大田姫皇女、女を産む』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

大伯海
(大伯海)

大田姫皇女が出産した皇女は、大伯の海に因んで大伯皇女と名付けられる。

こうして、百済へ最も近い北部九州に移動し政権中枢(朝倉宮)を置いたものの、この年に斉明天皇が崩御するなど情勢は極めて不穏なものであった。

大田皇女、大津皇子を出産する

そんな中、天智天皇称制元(662)年に、大田皇女の妹である菟野讃良皇女が皇子を出産する。

この皇子こそ大海人皇子の嫡男である草壁皇子である。

翌年の天智天皇称制2(663)年になって、大田皇女も娜大津にて元気な皇子を出産する。

娜大津
(娜大津)

この皇子は生誕地に因み大津皇子と名付けられる。

だが、この年は日本軍が白村江の地で、唐・新羅連合軍の前に完膚なきまでの大敗北を喫する。

斉明天皇の崩御後も中大兄皇子は即位せず称制のまま事に当たり、敗戦処理と渡海した兵員の引き上げ支援、さらに、北部九州に移動した政権中枢を畿内へ戻す業務に忙殺される状態となる。しかも、一方で、唐・新羅連合軍に拠る倭(日本)征伐の脅威と対峙しなければならない状況に陥っていた。

倭(日本)の朝廷は史上初めて国家的存亡の危機に直面したのである。

慣れない土地で、幼い大伯皇女と乳飲み子の大津皇子を抱えていることに加えて、いつ唐と新羅の大軍が目と鼻の先の玄界灘を渡って来るか判らない恐怖を前にして、大田皇女の心労は極限に近いものがあったと容易に想像される。

大田皇女、幼子を遺して薨去する

天智天皇称制4(665)年2月には、孝徳天皇の皇后であった間人皇女が亡くなるが、大田皇女もほぼこの前後の時期に亡くなったものと思われる。

『日本書紀』には、大田皇女の最期について、その様子はもちろんのこと、没年や終焉の場所等、一切が記されていない。

九州への長い軍旅と、九州到着後の先の見えない長期滞在と言う疲労を伴う中で二人の子を出産した肉体的限界と、対外戦争で敗戦した未曽有の恐怖と言う精神的限界が、大田皇女の寿命を確実に縮めたのであろう。

天智天皇称制6(667)年、斉明天皇と間人皇女が小市崗上陵に合葬された際に、大田皇女も斉明天皇と間人皇女の御陵前に設けられた墓所へ埋葬されたと伝えられる。

『天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

牽牛子塚古墳を斉明天皇陵の真陵とした場合、大田皇女が埋葬されたのは越塚御門古墳とする説が有力となっている。

越塚御門古墳
(大田皇女が埋葬された可能性のある越塚御門古墳)

大田皇女とは

幼少時に母方の祖父である蘇我倉山田石川麻呂を無実の罪で失い、次いでもっとも頼りとした母の蘇我遠智娘を失った大田皇女は、誰を信じればいいのかわからないような孤独の中で言わば「イエトジ」として、妹の菟野讃良皇女と弟の建皇子を守った芯の強い女性であったと思われる。

菟野讃良皇女は、そんな姉の背中を追い掛けるだけで精一杯であったろう。

そして、大田皇女と菟野讃良皇女は、まるで双子のように互いを支え合いながら成長して行った。

歴史に「もしも」は禁句であるが、中大兄皇子と孝徳天皇の間が順調に推移したならば、大田皇女は孝徳天皇の皇子である有間皇子の妃となっていたことも考えられる。

しかし、中大兄皇子と孝徳天皇は対立し決裂した。

その上、建皇子が夭逝したことで、大田皇女を取り囲む事態は一変してしまう。

中大兄皇子は自分の後継者・建皇子が亡くなったことで、弟の大海人皇子を取り込む必要に迫られたのである。そのために、中大兄皇子は、大田皇女のみならず菟野讃良皇女も大海人皇子の妻に差し出した。

大田皇女は、菟野讃良皇女に先立って出産したが誕生したのは皇女(大伯皇女)であった。菟野讃良皇女の方が先に皇子(草壁皇子)を出産し、僅かに遅れて大田皇女も皇子(大津皇子)を出産したのである。

この僅かな時系列の悪戯は、大田皇女と菟野讃良皇女との微妙な関係のバランスに拠って保たれていたことに、当の大田皇女は気付いていたであろうか?

そのバランスもすぐに崩れてしまう。大田皇女が母の蘇我遠智娘と同じく幼い子供たちを遺して、この世を去らねばならなかったのである。

「運命」と呼ぶには、あまりにも残酷なものであった。

孤独の中でようやく恵まれた愛する子供たち。その子供たちの成長を見届けることが許されなかった大田皇女の無念はいかばかりであったことであろう。

大田皇女が亡くなった時期は不詳である。その当時は中大兄皇子が称制で政治を執行していた。

恐らくは、父である中大兄皇子が即位した朝廷で、皇孫として、大津皇子が朝堂で政務を執る姿を信じていたことと思われる。

まさか、中大兄皇子の皇子で義兄弟となる大友皇子(弘文天皇)が、夫の大海人皇子に攻め滅ぼされ、その挙句に我が子である大津皇子と甥の草壁皇子との間で「皇位継承」を巡り悲劇の結末を迎えること等、大田皇女は想像も出来なかったことであろう。

この世に遺して行かねばならない我が子のことを、父の中大兄皇子、夫の大海人皇子、そして何よりも頼りにした妹の菟野讃良皇女に託した気持ちに迷いは無かったものと思われる。

幼い頃に自分の背中を追う菟野讃良皇女と共に駆けた野から見上げた空に思いを馳せるように、大伯皇女と大津皇子が従兄弟の草壁皇子と仲良く歩んでくれることを願いながら大田皇女は、たった一人で旅立ったのである。

しかしながら、この後、残された妹の菟野讃良皇女が「修羅」の道を自ら選び突き進んだことを思うと、大田皇女は、人の世の醜いものを目にしなくて済んだだけでも、あるいは幸せであったと言えるのかも知れない。

大田皇女の系図

《大田皇女系図》


 蘇我常陸娘
  │
  ┝━━━━━━山辺皇女
  │       │
  │       └───────────┐
  │                   │
 天智天皇                 │
  │                   │
  ┝━━━━━┳大田皇女         │
  │     ┃ │           │
  │     ┃ └──────────┐│
  │     ┃            ││
  │     ┣建皇子         ││
  │     ┗菟野皇女(持統天皇)  ││
  │       │          ││
  │       │          ││ 
 蘇我遠智娘    │          ││
          │          ││
  ┌───────┘          ││
  │                  ││
  ┝━━━━━━草壁皇子        ││
  │┌─────────────────┘│
  ││                  │
  │┝━━━━┳大伯皇女         │
  ││    ┗大津皇子         │
  ││      │           │
  ││      └───────────┘
  ││
 天武天皇

大田皇女の年表

年表
  • 大化5(649)年
    3月25日
    蘇我倉山田石川麻呂、自害。
  • 白雉2(651)年
     
    同母弟・建皇子、誕生。
  • 白雉4(653)年
     
    中大兄皇子、難波から政権を飛鳥へ遷す。
  • 斉明天皇4(658)年
    5月
    同母弟・建皇子、薨去。
  • 斉明天皇7(661)年
    正月8日
    大伯皇女を出産。
  • 天智天皇称制元(662)年
     
    同母妹・菟野讃良皇女が草壁皇子を出産。
  • 天智天皇称制2(663)年
     
    大津皇子を出産。
  • 天智天皇称制6(667)年
    2月27日
    埋葬。