大納言【太政官のナンバー2!武家にとっても大事な官職!その歴史と実態とは?】

大納言について

【表記】 大納言
【読み】 だいなごん
【国風読み】 おほいものまうすのつかさ
【官位相当】 三品(四品)・正三位
【唐風呼称】 亜相・侍中

大納言とは

律令体制下で太政官を構成する官職。

《太政官と八省の関係図》

大臣━大納言┳少納言局
      ┃
      ┣左弁官局┳中務省
      ┃    ┣式部省
      ┃    ┣治部省
      ┃    ┗民部省
      ┃
      ┗右弁官局┳兵部省
           ┣刑部省
           ┣大蔵省
           ┗宮内省

太政官の長官である左右大臣に次ぐ議政官で、太政官の次官とされる。

主な仕事は、天皇へ臣下の意見を上奏したり(奏請)、天皇からの勅命を伝達を行うこと(宣行)とされた。

実際には、左右大臣と共に国政に参与し、政策立案、及び、行政指導に携わることで、大臣不在時には代わって国政を執った。

大納言の給与

禄令に拠り食封が支給された。

正当な理由を以って解官された場合や老齢や病気等で致仕した場合には、食封を半減した上で支給された。

【職田】 20町
【職封】 800戸
【資人】 100人

上記以外に「正三位」の場合であれば、

【位田】 40町
【位封】 130戸
【資人】 60人

が支給され、他にも、季禄等が支給された。

※ 時代により職封等は変化した

大納言の変遷

大納言の萌芽

天智天皇10(671)年正月5日、アメミコトヒラカスワケ大王(天智天皇)は、蘇我果安・巨勢人・紀大人の3名を御史大夫に任命する。

左右大臣に次ぐ職として御史大夫が設置されたものである。

この「御史大夫」を大納言相当とすることについては疑問とする声が多い。

『続日本紀』には、紀大人を「御史大夫」とするも、巨勢人については「中納言」と記す箇所が存在している。

この時の「御史大夫」については唐では無く漢の官制を参考にした、とする見方もある。

天皇親政下で「納言」が登場

オオアマ王子(大海人皇子)がオオトモ大王(弘文天皇)を死に追い込んで王位(皇位)に即いて天武天皇となる。

その天武天皇は、政治スタイルとして「天皇親政」を採り、天皇と皇子等の皇親勢力に拠る独裁体制を構築したのである。

その中で、納言2名が天皇に近侍することになる。

天武天皇朝では皇親以外の豪族出身の「大臣」が設置されなかった。

大納言と令制

天武天皇の後継者となった皇后・菟野皇女(天智天皇皇女)は、藤原不比等を抜擢の上で政治を運営する。

持統天皇称制3(689)年6月29日に、『飛鳥浄御原令』が施行される。

納言を「大」「中」「小(少)」に分職する。

持統天皇10(698)年10月22日、阿倍御主人・大伴御行の2名が大納言として資人80人を下賜される。

大宝元(701)年3月21日、文武天皇が『大宝令』を制定。

藤原不比等(正三位)・石上麻呂(正三位)・紀麻呂(従三位)の3名が大納言に任命される。

職員令では大納言の定員は4名であった。藤原不比等・石上麻呂・紀麻呂は、先の『飛鳥浄御原令』制下では、中納言であったことから、そのまま昇進した形となっている。しかし、同じく中納言であった大伴安麻呂は、大納言には昇進しておらず、その理由は不明である。

大納言は、『大宝令』制下の大納言は開始時には欠員1名だったことになる。

慶雲2(705)年4月17日、大納言の定員を4名から2名とする。

これは大納言の職務が重要であり容易に増員出来ないことから、中納言を増員することで大納言の補佐に充てた政策である。

奈良時代の天平宝字2(758)年8月25日、大納言は「御史大夫」と改称される。

恵美押勝(藤原仲麻呂)の唐風化政策の一環である。

天平宝字5(761)年2月1日、一品・二品の親王(議政官に限る)の季禄・衣服等は、御史大夫(大納言)相当と規定される。

天平宝字8(764)年9月4日、時の御史大夫である文室浄三が70歳になり礼に従い退官。

この年、『恵美押勝の乱』が勃発し乱後に「御史大夫」は「大納言」に戻される。

大納言から天皇となる

白壁王(志貴皇子の皇子)は、天平神護2(760)年に大納言となる。

しかし、神護景雲4(770)年、称徳天皇の崩御に拠り、皇太子となり、さらに、即位している(光仁天皇)。

これは、天武天皇皇統の独身女帝である称徳天皇に後継者がおらず、天智天皇の皇孫である白壁王が推挙されたためである。

《系譜略図》

           紀橡姫
            ┃
舒明天皇        ┃
 ┃          ┣━━━━白壁王(光仁天皇)
 ┃          ┃     ┃
 ┃          ┃     ┗━━━━━━━━┓
 ┃          ┃              ┃
 ┃          ┃              ┣━━━━他戸親王
 ┃          ┃              ┃
 ┣━━━┳天智天皇━志貴皇子            ┃
 ┃   ┗天武天皇━草壁皇子━文武天皇━聖武天皇┳井上内親王
 ┃                       ┗称徳天皇
 ┃
皇極天皇

大納言から天皇になった稀有な例である。

公家社会と大納言

平安時代、承和9(842)年に、藤原良房が大納言に就いている。その後、良房は大臣を経て人臣初の摂政に登る。

この良房を契機として、以後、摂関家出身者が昇進の順序として大納言に就き、同職を占めることが慣例となり常態化して行く。さらに、平安時代後半から鎌倉時代にかけて公家社会に「家格」が形成されるようになる。

公家社会の身分制度とも言える「家格」に拠って大納言に就ける者が限定される。

それは、所謂「五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・二条家・一条家)」を頂点に、清華家・大臣家・羽林家・名家・半家であった(半家も高倉家・高辻家・五条家・東坊城家・唐橋家のみ)。

これらの家の中でも、羽林家・名家・半家は大納言が極官(就任出来得る最上官職)となっている。

しかし、摂家も安泰では無く、室町時代の応永18(1411)年に権大納言となった二条持基が正長元(1428)年に摂政なって以降、大納言を経て摂政に進む者は室町時代中期に中絶する。

武家の台頭が混乱をもたらせたのである。

そして、江戸時代、一条兼遐(一条昭良)が権大納言から内大臣・右大臣・左大臣を経て、寛永7(1630)年に摂政となることで、ようやく公家社会の姿に戻っている。

権大納言

権大納言は、令制では「員外官」である。

定員で規定された人数(2名)を超える形で任命する場合に置かれた。

権大納言を日本史上初めて置いたのは、淳和天皇であった。平安時代の天長5(828)年3月に清原夏野が権大納言に任じられたのが始まりである。

文和3=延文元年(1356)年に、源通冬が大納言を務めて以降、南北朝時代から安土桃山時代までの間、大納言の正官は中絶している。

安土桃山時代に復活した正官も天正5(1577)年から天正7(1579)年までの間、三条西実枝が大納言を務めただけであり、この人事が正官設置の最期となる。

また、大納言が置かれなくなったことで権大納言止まりとなる公卿が増えた。そのために権大納言の官位はインフレ状態となり、本来の官位相当は意味を失くし、室町時代に権大納言であった日野重光(藤原重光・裏松重光)の官位は、従一位であった。

宇多天皇の定員改定

一般に、宇多天皇は権大納言を1名増員し、従前からの大納言2名に権大納言1名を加えて合計で大納言を正権官3名体制にしたとされる。

『宇多帝の時、正二人権一人とせし』

(『有職故実』林森太郎 文会堂書店 国立国会図書館デジタルコレクション)

しかし、宇多天皇が践祚してから譲位するまでの宇多天皇朝の大納言の実態は以下の通りである。

【年代】 【大納言】 【権大納言】
仁和3(887)年 藤原良世 不在
仁和4(888)年 藤原良世 不在
寛平元(889)年 藤原良世 不在
寛平2(890)年 藤原良世 不在
寛平3(891)年 藤原良世 不在
寛平4(892)年 藤原良世(右大臣へ昇進)
源能有(有世の後に就任)
不在
寛平5(893)年 源能有 不在
寛平6(894)年 源能有 不在
寛平7(895)年 源能有 不在
寛平8(896)年 源能有 不在
寛平9(897)年 藤原時平 源光・菅原道真

以上のように、大納言は常時1名であり、大納言2名・権大納言1名と言う正権官3名体制になったことは一度も無い。

それどころか、宇多天皇の譲位直前、宇多天皇自らが1名と規定したはずの権大納言に源光と菅原道真の2名を置くと言う矛盾が生じている。しかも、宇多天皇が譲位に際して発した詔のために、太政官の納言に混乱が生じたほどである。

『大納言藤原朝臣権大納言菅原朝臣等可奏可請之事(略)諸納言等持疑以為』

(『菅家文草』菅原道真 国立国会図書館デジタルコレクション)

このような政体の状況下で、宇多天皇が大納言の定員数を本当に改定したのか?疑わしいところである。

また、既述した通り、権大納言を初めて任命したのは淳和天皇であり、しかも、その時、一時的ではあるが淳和天皇は大納言2名・権大納言1名の正権官3名体制を採っていることは留意されるべきである。

寛弘の四納言

平安時代の寛弘6(1009)年頃、政治的実力者に藤原道長(左大臣)がいた。

この道長の下に「寛弘の四納言」と呼ばれる俊才が揃ったことで知られる。

【名前】 官職 官位
藤原斉信 権大納言 正二位
藤原公任 権大納言 従二位
源俊賢 権中納言 従二位
藤原行成 権中納言 従二位
「寛弘の四納言」とは、藤原斉信(権大納言)・藤原公任(権大納言)・源俊賢(権中納言)・藤原行成(権中納言)を指す。

さらに、大納言に藤原道綱・藤原実資・藤原懐忠(3月4日辞任)がいた。他に、中納言に藤原隆家・藤原時光、権中納言に藤原忠輔・藤原頼通がいた。

武家と権大納言

平安時代の永万元(1165)年、平清盛が権大納言に任じられている。

平氏政権(六波羅政権)の中心人物の権大納言就任日は以下の通りである。

【名前】 就任日 最終官職
平清盛 永万元(1165)年8月17日 太政大臣
平重盛 仁安2(1167)年2月11日 内大臣
平宗盛 治承2(1178)年4月5日 内大臣

大臣となるには大納言(権大納言)は必ず経るべき官職である。同時に、それは武家の場合は「武家の棟梁」としての「格」も意味したものと見られる。

清盛が築いた平氏政権(六波羅政権)を倒した源頼朝も、やはり建久元(1190)年に権大納言に任じられている。

鎌倉幕府将軍で権大納言に就いた者は、頼朝以外には、3代将軍・源実朝と4代将軍・藤原頼経の二人のみである。

次いで室町時代の武家政権である足利幕府(室町幕府)を開いた足利尊氏も、延元元(1336)年に権大納言に任じられている。

この足利幕府では多くの歴代将軍が権大納言となっているが、将軍が年少のためや戦乱等を理由に全将軍が就くことはなかった。

【名前】 就任日 最終官職
足利尊氏 延元元(1336)年11月26日 権大納言
足利義詮 貞治2(1363)年正月28日 権大納言
足利義満 永和4(1378)年3月24日 太政大臣
足利義持 応永8(1401)年3月24日 内大臣
足利義量 未就任  
足利義教 永享元(1429)年3月29日 左大臣
足利義勝 未就任  
足利義政 宝徳2(1450)年3月29日 左大臣
足利義尚 文明12(1480)年3月29日 内大臣
足利義稙 永正5(1508)年7月1日 権大納言
足利義澄 未就任  
足利義晴 享禄3(1530)年正月20日 権大納言
足利義輝 未就任  
足利義栄 未就任  
足利義昭 永禄12(1569)年6月22日 権大納言

織豊政権の権大納言は次の一覧通りである。

【名前】 就任日 最終官職
織田信長 天正3(1572)年11月4日 右大臣
羽柴秀吉 天正12(1584)年11月21日 太政大臣
豊臣秀次 天正19(1592)年2月10日 左大臣
豊臣秀頼 慶長6年(1601)年3月27日 右大臣

なお、これらの人物以外で織豊政権期に、権大納言に就任した武家は、徳川家康・前田利家・織田信雄・徳川秀忠の4名だけである。

江戸時代の武家政権である徳川幕府(江戸幕府)では、徳川家康を皮切りに全将軍が大臣にまで登っているので当然権大納言に就いている。

【名前】 就任日 最終官職
徳川家康 天正15(1587)年8月8日 太政大臣
徳川秀忠 慶長6(1601)年3月28日 太政大臣
徳川家光 元和6(1620)年正月5日 左大臣
徳川家綱 正保2(1645)年4月23日 右大臣
徳川綱吉 延宝8(1680)年5月7日 右大臣
徳川家宣 宝永2(1705)年3月5日 内大臣
徳川家継 正徳2(1712)年12月28日 内大臣
徳川吉宗 享保元(1716)年7月13日 右大臣
徳川家重 享保10(1725)年4月9日 右大臣
徳川家治 寛保元(1741)年8月12日 右大臣
徳川家斉 天明2(1782)年4月3日 太政大臣
徳川家慶 寛政9(1797)年3月1日 左大臣
徳川家定 文政11(1828)年4月4日 内大臣
徳川家茂 安政5(1858)年10月24日 右大臣
徳川慶喜 慶応2(1866)年12月5日 内大臣

また、江戸時代は、徳川氏本宗家(将軍家)だけでなく、徳川氏御三家の内で徳川氏尾張家(尾張徳川家)・徳川氏紀伊家(紀伊徳川家)の二家が権大納言にまで登ることが出来た。

近代の大納言

明治維新後に成立した新政府は政府組織を編成し、明治2(1869)年に「大納言」職を設置する。しかし、2年後には廃されている。

悲劇の大納言とは?

安房守

悲劇の大納言って、どんな人がいるんですか?

式部卿局

悲劇の大納言に「伴大納言」や「桃園大納言(枇杷大納言)」と呼ばれる人がいます。

安房守

伴大納言は、どんな人だったんですか?

式部卿局

名前は伴善男さん。名門大伴氏の末裔ですが、その生い立ちは諸説あってはっきりしません。『応天門の変』で失脚しました。

安房守

桃園大納言とか枇杷大納言とかって呼ばれた人は、どんな人だったんですか?

式部卿局

藤原師氏さんです。お兄さんや弟が大臣にまで昇進したのに、師氏さんだけ大納言止まりでした。

大納言の年表

年表
  • 天智天皇10(671)年
    正月5日
    蘇我果安・巨勢人・紀大人、御史大夫。
  • 持統天皇称制3(689)年
    6月29日
    『飛鳥浄御原令』施行。
  • 持統天皇10(698)年
    10月22日
    阿倍御主人・大伴御行、大納言として資人80人を下賜される。
  • 大宝元(701)年
    3月21日
    『大宝令』制定。
  • 慶雲2(705)年
    4月17日
    大納言の定員を4名から2名とする。
  • 天平宝字2(758)年
    8月25日
    大納言を「御史大夫」と改称。
  • 天平神護2(766)年
    正月8日
    白壁王、大納言。
  • 弘仁元(810)年
    9月10日
    坂上田村麻呂、大納言。
  • 承和9(842)年
    7月25日
    藤原良房、大納言。
  • 寛平9(897)年
    6月19日
    藤原時平、大納言。菅原道真、権大納言。
  • 永長2(1097)年
    3月24日
    藤原忠実、権大納言。
  • 永久3(1115)年
    正月19日
    藤原忠通、権大納言。
  • 長承3(1134)年
    2月22日
    藤原頼長、権大納言。
  • 永万元(1165)年
    8月17日
    平清盛、権大納言。
  • 仁安2(1167)年
    2月11日
    平重盛、権大納言。
  • 治承2(1178)年
    4月5日
    平宗盛、権大納言。
  • 建久元(1190)年
    11月9日
    源頼朝、権大納言。
  • 延元元(1336)年
    11月26日
    足利尊氏、権大納言。
  • 享徳4(1455)年
    8月27日
    日野勝光、権大納言。
  • 永禄12(1569)年
    6月22日
    足利義昭、権大納言。
  • 天正3(1575)年
    11月4日
    織田信長、権大納言。
  • 天正12(1584)年
    11月21日
    羽柴秀吉、権大納言。
  • 天正15(1587)年
    8月8日
    徳川家康・前田利家、権大納言。
  • 天正19(1592)年
    2月10日
    豊臣秀次、権大納言。
  • 慶長6(1601)年
    3月27日
    豊臣秀頼、権大納言。

受験のための「大納言」の覚え方

大納言は「だ・い・な・ごん」で覚えよう!

大納言の「だ」…太政官の次官
大納言の「い」…意見を上奏・勅命を下達
大納言の「な」…内政・外交万事に関わる
大納言の「ごん」…権大納言は武家棟梁の象徴