大伴氏【大王(天皇)にヒトで奉仕した「武」の豪族!】

大伴氏について

【表記】 大伴氏
【読み】 おおともし(おおともうじ)

大伴氏とは

【祖神】 天忍日命
【始祖】 道臣命(日臣命)
【属性】 伴造系神別豪族
【姓】 連。
宿禰(『八色の姓』以降)。

部民制の確立と共に大王家(皇室・天皇家)に「トモ(人)」を奉仕させる氏(ウジ・ウヂ)として成立したと見られる伴造系豪族。

なお、大伴氏は日本各地に存在している。理由としては、次で述べる「大伴氏の職能」が大きく影響している。この項では「大伴氏本宗家」について取り上げ解説する。

大伴氏の職能

大伴氏の職能は、主として軍事部門(初期は国内、王権が拡充すると外征)であるが、同じように軍事部門を担当していた物部氏との違いとして、大伴氏は大王(天皇)の武力装置として親衛隊のような働きをしていたようである。

《概略図》

      中央    地方

    ┏━部民
    ┣━部民
    ┣━━━━━━━大伴部直━部民(大伴部 等)
大伴氏━╋━━━━━━━大伴部直━部民
    ┣━━━━━━━大伴部直━部民
    ┣━━━━━━━大伴部直━部民
    ┗━━━━━━━大伴部直━部民

大伴氏が率いた部民として著名なものに、久米部・佐伯部・靭負部等がある。

大伴部は、日本各地に存在し、関東・東北に顕著に見られた。大伴氏は、それら大伴部を現地の大伴部直を介して支配していた。

時代が下るに従って、地方の大伴部直や大伴部等は、それぞれ「大伴氏」を名乗るようになって行ったと考えられる。

このことに関して、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は遺詔において、

『大連等、民部廣く大きにして、國に充盈り』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と語り、大伴氏に多くの大伴部を持つことを認めているのは、大王家(皇室・天皇家)が危機に直面した際に備えたものであるとしている。即ち、大王(天皇)の「武力装置」が大伴氏であったことの証左と言える。

大伴家持の万葉歌

大伴家持の次の歌が大伴氏の氏(ウジ・ウヂ)としての性格を表現しているとされる。

『族に喩す歌一首

ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降りし 皇祖の 神の御代より 梔弓を 手握り持たし 真鹿児矢を 手挟み添へて 大久米の 大夫健男を 先に立て 靱取り負せ 山川を 磐根さくみて 踏みとほり 国覓しつつ ちはやぶる 神を言向け 服従へぬ 人をも和し 掃き清め 仕へ奉りて 秋津島 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめる 皇祖の 天の日嗣と 継ぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺に 極め尽くして 仕へ来る 祖の職と 言立てて 授け給へる 子孫の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鏡にせむを あたらしき 清きその名を おぼろかに 心思ひて 虚言も 祖の名断つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫の伴』

(『日本古典文學大系7 萬葉集 四』 高木市之助 五味智英 大野晋 校注 岩波書店)

この歌は部民(大伴部)を束ねる大伴氏が「名負いの氏」と言う職能を氏の名とする伴造系豪族である出自を示しているとされる。

大伴氏の本拠地

大王家(皇室・天皇家)が大和国の在地系皇別豪族である葛城氏等と連携して大和国で王権を持った頃、即ち、ヤマト王権(大和朝廷)の成立時、大伴氏の本拠地は大和国高市郡にあったものと考えられている。

大伴氏の本拠地
(大伴氏の本拠地)

大伴氏の本拠地は、葛城氏の本拠地に内包されているとも言える地域である。これはあたかも大王家(皇室・天皇家)が葛城氏の喉元に匕首を突き付けたかのような位置でもあり、大王家(皇室・天皇家)の武力装置である大伴氏の性格を考えると非常に興味深い。

それ以前の大伴氏の本拠地としては、摂津国や河内国の大阪湾沿岸と推定されるが確かなことは不明である。

大伴氏の本拠地(摂津・河内)
(大伴氏の過去の本拠地)

不明ながらも、大和国への進出以前における摂津国や河内国での大伴氏の本拠地は、住吉や高師と言った地域ではなかったかと推測されている。

大伴氏本宗家の特異性

大伴氏本宗家は、必ずしも系図上において直系が本宗家の地位には就いていないと言う特異性がある。

それぞれの時局において台頭する人物が、そのまま本宗家としての役割を務めている。

この辺りの本宗家の捉え方は、在地系豪族とは大きく違うところであり、職能を以って大王家(皇室・天皇家)に仕える伴造系豪族ならではの氏の在り方なのかも知れない。

大伴氏の祖神

大伴氏の祖神は、天忍日命とされる。

天忍日命は所謂「天孫降臨」で先駆けを務めた神として知られる。

『天忍日命、天津久米命の二人、手に石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の真鹿兒を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき』

(『古事記 祝詞』倉野憲司 校注 日本古典文學大系1 岩波書店)

ただし、同じ伴造系豪族の物部氏と大きく違うところは、祖神の系図が不明なところであり、さらに、祖神を祭祀する神社を本拠地に持った形跡が見られないことである。

大伴氏の時代

大伴武日の時代

大伴武日は、垂仁天皇25(紀元前5)年2月に、(和珥)彦国葺・(阿倍)武渟川別・(中臣)大鹿島・(物部)十千根と共に「大夫」の地位で、イクメイリビコイサチ大王(垂仁天皇)から命令(詔)を受けている。

この時の諸豪族が、「臣」姓が2人、「連」姓が3人と言う後世の「大臣・大連」制のような構成であり、到底、史実とは認められない。

大伴室屋の時代

大伴室屋は、雄略天皇から「大連」に任じられる。

『平群臣眞鳥を以て大臣とす。大伴連室屋・物部連目を以て大連とす』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

雄略天皇元(456)年11月13日のことである。

この大伴室屋が、大伴氏で初の「大連」であった。

大伴氏と物部氏が、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に拠って政治の中枢に引き上げられたのは、雄略天皇の「葛城氏弾圧」の結果とも言える。

《雄略天皇以前の政体》

大王====連携関係====在地系皇別豪族
(天皇)   ↓      (葛城氏・平群氏 等)
       ↓
大王(天皇)・在地系皇別豪族が政策の実行を下命
       ↓
       ↓
      伴造系豪族
      (大伴氏・物部氏 等)
       ↓
      部民

元々、大和国に基盤を構え、大王家(皇室・天皇家)を上回る実力を有していた葛城氏を政治の表舞台から引きずり下ろし、葛城氏に代わり、伴造系豪族を据えたことで「大王(天皇)親政」を可能としたのである。

また、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の崩御後、シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ大王(清寧天皇)の王位(皇位)継承に、室屋が深く関わっている点にも注目される。

『大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽を皇太子に奉る』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

もちろん、これがすぐに史実とは受け取れないが、少なくとも『日本書紀』編纂時に、大伴氏が、大王家(皇室・天皇家)と深い関係にあったことが反映されていると見られる。

『日本書紀』が編纂されたのは、『壬申の乱』で皇位をオオトモ大王(弘文天皇)から簒奪したオオアマ王子(大海人皇子)の王統(皇統)が王位(皇位)に君臨していた時代であった。その『壬申の乱』で軍事的な活躍を見せたのが大伴氏である。これらの事績を反映させた可能性もある。

大伴室屋の正史登場

大伴室屋の名前が『日本書紀』に初めて見えるのは、允恭天皇11(422)年のことである。

内容は、藤原部の設置に関する内容である。その契機は、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)が衣通郎姫を妻に迎えたことを記念して、「その名を後世に伝えて残したいがどう思うか?」と天皇から詔と言う形で下問されたことに拠る。

「トモ(人)」を管理し大王家(皇室・天皇家)に奉仕させることを職務とする大伴氏らしい事柄であると同時に、それが「恋愛」絡みであるところに「歌人」の家柄たる大伴氏らしい初登場の仕方と言える。

大伴金村の時代

オハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)の崩御後、王統(皇統)が断絶する危機に直面した大伴金村は事態の収拾に奔走する。

まず、タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)5世孫の倭彦王の擁立に動くが失敗。次いで、ホムタ大王(応神天皇)5世孫のオオド王(大男迹王)を何度も説得し遂に王位(皇位)に即ける(オオド大王)。オオド大王(継体天皇)朝では、物部麁鹿火と共に「大連」に留任し、「大臣」である許勢男人と三人でオオド大王(継体天皇)を支える。

大王家(皇室・天皇家)廃絶の危機を回避したのが、大伴氏であった。即ち、それは大王家(皇室・天皇家)の存在こそが大伴氏存立の拠り所であったことを示している。

また、オオド大王(継体天皇)からの信任を得た金村は、継体天皇6(512)年、朝鮮半島南部の任那割譲問題を処理する。継体天皇20(526)年には、物部麁鹿火と共に出兵し、筑紫君磐井を討伐する。このように外交軍事面において、金村は、大伴氏の存在を見せ付けた。

大伴金村の失脚

大伴金村は、オオド大王(継体天皇)の後を継いだマガリ大王(安閑天皇)・タケオヒロクニオシタテ大王(宣化天皇)からも「大連」に任命される。

しかし、欽明天皇元(540)年、物部尾輿から継体天皇6年に金村が行った任那割譲に関する責任問題を糾弾され蟄居に追い込まれ失脚する。

こうして、飛鳥時代の大半において、大伴氏は、政治を主導する大連の地位から外れる。大伴氏は、大臣や大連の下で合議に参加することを許された「大夫」クラスと言う格下の豪族の地位に甘んじることとなる。

大伴咋の時代

大伴咋は、在地系皇別豪族の蘇我氏本宗家の下で活躍する。

大伴氏が外征に動員されていたこともあってか、咋は、外交面に関わるようになっているのが注目される。

一方で、中臣氏と婚姻関係を結ぶ等、この時期の咋の行動が大伴氏の再興の鍵となる。

《関係略図》

大伴咋━━━━┳長徳
       ┗智仙娘
         ┃
中臣可多能帖━━御食子

大伴長徳の時代

大伴長徳は、蘇我氏本宗家に重用されたようである。

《関係略図》

大伴咋━━━━┳長徳━┳御行
       ┃   ┗安麻呂
       ┗智仙娘
         ┃
         ┣━━鎌足
         ┃
中臣可多能帖━━御食子

長徳の甥に当たる中臣鎌足が、中大兄皇子と組み、蘇我入鹿を暗殺する。所謂『乙巳の変』である。

この政変劇で、長徳がどのような役割を演じたのかは不明であるが、大伴氏の一族とも言える佐伯氏が参加しており、そこに長徳の意志が働いた可能性もある。いずれにせよ、長徳は、蘇我氏本宗家政権と、その蘇我氏本宗家政権を倒して樹立された改新政権の間を見事に生き延びたのである。

しかも、カル大王(孝徳天皇)の即位式では金靫を持つ大役を務め、大伴氏の面目を果たしている。

『軽皇子、固辞ぶること得ずして、壇に升りて即祚す。時に、大伴長徳連、金の靫を帯びて、壇の右に立つ』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

さらに『乙巳の変』の後に発生した『蘇我倉山田石川麻呂の変』で右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれるが、長徳は、その倉山田石川麻呂の後任として右大臣に就任する。

大伴金村が失脚して以来、大伴氏は、ようやく政治の中枢に返り咲いたのである。

大伴馬来田と大伴吹負の時代

倭(日本)は、唐・新羅連合軍に侵略された百済を救援すべく朝鮮半島での戦争に介入し敗戦する。

百済を重視していたカズラキ大王(天智天皇)が崩御すると、倭(日本)の情勢は一気に不穏なものとなる。

そして、カズラキ大王(天智天皇)の子・オオトモ王子(大友皇子)が後を継いで王位(皇位)に即いた(オオトモ大王)。しかし、カズラキ大王(天智天皇)の弟・オオアマ王子(大海人皇子)が王位(皇位)簒奪を目論んだことで『壬申の乱』が勃発するのである。

邪心に満ちた大海人皇子の叛乱劇は、カズラキ大王(天智天皇)政権の下で影の薄かった大伴氏にとって一族が浮上する絶好の機会となる。

この古代最大の内乱と言われる『壬申の乱』で活躍するのが、大伴長徳の弟・大伴馬来田と大伴吹負である。

《関係略図》

大伴咋━━━━┳長徳
       ┣馬来田
       ┗吹負

馬来田と吹負は、大海人皇子陣営に付いた。とりわけ吹負は緻密な調略を仕掛けた上で僅か数十人規模の兵力ながら大和国において挙兵し戦況を優位に進めつつ、飛鳥古京を制圧し、その功績から「倭京将軍」に任命されている。そして、大和方面で近江朝廷軍(オオトモ大王軍)との間で激戦を繰り広げ、オオアマ王子(大海人皇子)軍の勝利に結び付けることに成功する。

『壬申の乱』がオオアマ王子(大海人皇子)側の勝利に帰すと、軍事的な功績を挙げた大伴氏の朝堂での勢いは大きくなる。

古代から「大王(天皇)の武力装置」たる伴造として存在して来た大伴氏の功績を顕彰することで、オオアマ王子(大海人皇子)は「大王(天皇)親政」を実現ならしめることとなる。

こうして見ると『壬申の乱』での軍事行動は「伴造」としての大伴氏の本質の発露であったとも言える。ただし、『壬申の乱』勃発時における正統な大王(天皇)はオオトモ王子(大友皇子)であったことを忘れてはならない。

大伴氏と奈良時代

平城京
(平城京)

『壬申の乱』の活躍で大海人皇子の即位(天武天皇)に多大な貢献をした大伴氏は、天武天皇皇統が皇位に君臨し続けた奈良時代には上級貴族「公卿」を多く輩出した。

奈良時代の主な大伴氏の公卿一覧

大伴安麻呂 大納言
大伴旅人 大納言
大伴道足 参議
大伴牛養 中納言
大伴兄麻呂 参議
大伴駿河麻呂 参議
大伴家持 中納言

大伴氏と歌

一方で、「歌」の世界での大伴氏一族の活躍も目覚しく、大伴旅人・大伴坂上郎女・大伴家持等は、優れた歌を残し、所謂「万葉歌人」の代表とも評される。

こうして、政治面のみならず文化面においても、大伴氏は絶頂期を迎えた

歌人「大伴旅人」

大伴安麻呂の子。『万葉集』に78首を残す。個の世界や創作世界を歌い上げた。

歌人「大伴坂上郎女」

大伴旅人の異母妹。女流歌人として、『万葉集』に84首の歌を残している。恋の歌を通して、現在にも通じる恋愛観を伝えている。

歌人「大伴家持」

大伴旅人の子。『万葉集』に478首を残す。多くの歌を残すだけに、古代の歌の世界を体現した存在とも言える。家持は、後半生において、中納言に就いたり蝦夷征伐の将軍として戦地へ赴く等したが、その後半生の歌は残されていない。

大伴氏と政治的陰謀

政治の中枢に参画していた大伴氏であったが、藤原氏や橘氏と言った政治的な策謀に長けた勢力が台頭する奈良時代以降は、相次ぐ政変に連坐することが多くなる。

『大伴道足職務怠慢事件』

天平7(735)年には、大伴道足が職務の怠慢から失脚している(後に復位)。

『橘奈良麻呂の乱』

遣唐使として唐に渡り鑑真を日本に連れて帰った大伴古麻呂が、天平宝字元(757)年の『橘奈良麻呂の乱』で事件に連坐したとし拷問を受け獄死。大伴古慈斐も連坐し流罪に処された(後に復位)。

『氷上川継事件』

延暦元(782)年の『氷上川継事件』では、大伴家持が事件に連坐し職を解任される(後に復位)。

『藤原種継暗殺事件』

延暦4(785)年に勃発した『藤原種継暗殺事件』では、大伴継人や大伴竹良が事件の首謀者として捕縛される。さらに、既に故人となっていた大伴家持までも除名処分を受けている(後に名誉回復)。

大伴氏から伴氏へ、そして、衰退へ

平安時代に入ると、弘安14(823)年、淳和天皇の諱「大伴」を避けて「伴」氏を名乗る

貞観8(866)年に勃発した『応天門の変』で伴善男は罪を問われ、邸宅や私財を悉く没収された挙句に流罪となる。

平安神宮_応天門
(平安神宮応天門 実物の8分5サイズで平安京の応天門を復元したもの)

以後、朝堂における大伴氏本宗家の家運は衰退する。

それは、闘争の舞台が「戦場」から「政治」の場へと移ろう平安時代にあって、かつての大王(天皇)の武力装置として存在意義を誇った大伴氏にとっては当然の帰結であったとも言える。

大伴氏の系図

《大伴氏系図》

天忍日命━天津彦日中咋命━道臣命(日臣命)━味日命━稚日臣命━大日命━┓
                                   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗角日命━豊日命━武日命━武以(建持)━室屋┳談━┳金村━┓
                      ┃  ┗歌連 ┃
                      ┗御物    ┃
                             ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣磐
┣狭手彦━糠手━━小手子
┗咋━━┳果安━━東人
    ┣兄麻呂━潔足
    ┣長徳━┳御行━┳御依
    ┃   ┃   ┗不詳━━━駿河麻呂
    ┃   ┗安麻呂┳旅人━━┳家持━━━永主
    ┃       ┃    ┗書持
    ┃       ┣田主
    ┃       ┣宿奈麻呂┳古麻呂━━継人━国道━善男┳中庸━春雄━保平
    ┃       ┃    ┃             ┣善平
    ┃       ┃    ┃             ┗員助┳清助━正助
    ┃       ┃    ┃                ┣助恒
    ┃       ┃    ┃                ┗助近
    ┃       ┃    ┣田村大嬢
    ┃       ┃    ┣坂上大嬢
    ┃       ┃    ┗坂上弟嬢
    ┃       ┣坂上郎女
    ┃       ┗稲公
    ┣馬来田━道足━┳伯麻呂━━弥嗣
    ┃       ┗女子
    ┗吹負━┳牛養(手養)
        ┗祖父麻呂━古慈斐━弟麻呂━勝雄

※ 金村から継人までの系図には諸説がある。

大伴氏の末裔を名乗る氏

滝川氏(滝川一益)
池田氏(池田恒興)
肝付氏

大伴氏の年表

年表
  • 雄略天皇元(456)年
    11月13日
    大伴室屋、大連。
  • 継体天皇21(526)年
    大伴金村、筑紫君磐井を征伐する。
  • 大化元(645)年
    6月14日
    大伴長徳、アメヨロズトヨヒ大王(孝徳天皇)の即位式に金靫を持ち参列。
  • 大化5(649)年
    4月20日
    大伴長徳、右大臣。
  • 天武天皇12(683)年
    8月5日
    大伴吹負、「大錦中」位を追贈される。
  • 神亀4(727)年
    12月
    大伴旅人、大宰帥。
  • 天平宝字元(757)年
    7月4日
    大伴古麻呂、『橘奈良麻呂の乱』に連坐し獄死。
  • 延暦元(782)年
    閏正月19日
    大伴家持、『氷上川継事件』に連座し解任されるが赦免される。
  • 延暦4(785)年
    9月24日
    大伴継人、『藤原種継暗殺事件』に関与し捕縛される。
  • 貞観8(866)年
    閏3月10日
    『応天門の変』。