大伴金村【任那四県割譲!その真相とは】

大伴金村について

【名前】 大伴金村
【読み】 おおとものかねむら
【通称】 大伴大連
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 古墳時代
【官職】 大連
【父】 大伴談(大伴室屋説あり)
【母】 不明
【兄弟姉妹】 大伴歌
【配偶者】 不明
【子】 大伴磐・大伴狭手彦・大伴咋
【家】 大伴氏大連家
【氏】 大伴氏
【姓】

大伴金村の肖像

大伴金村の肖像
(江戸時代に描かれた大伴金村の肖像『前賢故實』)

大伴金村の生涯

大伴金村の生い立ち

大伴金村は、大伴談の子として生まれる。

金村の父とされる談は、雄略天皇9(465)年に、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が行った新羅出兵に将軍の一人として従軍し戦死を遂げている。

また、金村の父を大伴室屋とする説もある。

金村の父を談としても、あるいは、父を室屋としても、金村が活動した年代を計算すると、この二人を父とすると様々な時間的な矛盾が生じることは事実である。

いずれにしても、金村が6世紀前半における大伴氏大連家の嫡流であったと見られる。

系図では、金村の弟に大伴歌が存在していたことになっている。

これは、奈良時代に大伴氏が「和歌の家」として栄えたことを反映し系図に一族のアイデンティティとして付け加えられたものではないかと考えられる。

言い換えれば、金村の存在もまた大伴氏にとっては、一族にとって重要な位置を占めると言える。

大伴金村と大王(天皇)

葛城氏本宗家を滅ぼしたオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、大王(天皇)と大王(天皇)を補佐する「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる大連に拠る政治体制を形成する。

この時期、大伴金村の父とされる大伴談は、朝鮮半島へ渡り戦死したとされている。

そのため、大伴氏大連家は、談の父で、金村の祖父に当たる大伴室屋を中心として動いたものと考えられる。

ところが、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が没した後を継いだシラカ大王(清寧天皇)は嗣子を儲けずに没する。

このためシラカ大王(清寧天皇)よりも葛城氏本宗家の血を一層色濃く引くイイトヨ王女(飯豊皇女)が政治を執る。

ここに、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血統を引く大王(天皇)のための「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」であった大伴氏の出番は実質的に無くなる。

《大王家(皇室・天皇家)系図》

             葛城荑姫
              │
              ┝━━━━┳飯豊皇女
              │    ┣仁賢天皇
              │    ┗顕宗天皇
              │
        葛城黒媛  │
         │    │
         ┝━━━市辺押磐皇子
         │
仁徳天皇     │
 │       │
 ┝━━━━━┳履中天皇
 │     ┣反正天皇
 │     ┗允恭天皇━雄略天皇
 │            │
葛城磐之媛         │
              │
              ┝━━━━━清寧天皇
              │
             葛城韓媛

イイトヨ王女(飯豊皇女)の後、同母弟のヲケ大王(顕宗天皇)・オケ大王(仁賢天皇)が相次ぎ王位(皇位)に即く。

ヲケ大王(顕宗天皇)・オケ大王(仁賢天皇)の両大王(天皇)は、大伴氏大連家から大連を任命することはなかった。ここに、大伴氏大連家の命運も尽きたかに思われた。

しかし、オケ大王(仁賢天皇)が、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血を引くカスガノオオイラツメ王女(春日大娘皇女)を大后(皇后)に迎えて儲けたオハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯王子)の存在が大伴氏大連家にとって光明となる。

《武烈天皇関係略図》

      和珥日爪━━━糠君娘
              │
      葛城荑姫    │
       │      │
       ┝━━━━━仁賢天皇
       │      │
       │      ┝━━━━━小泊瀬稚鷦鷯皇子
       │      │
葛城黒媛   │      │
 │     │      │
 ┝━━━┳市辺押磐皇子  │
 │   ┗飯豊皇女    │
 │            │
履中天皇━━雄略天皇    │
       │      │
       ┝━━━━━春日大娘皇女
       │
和珥深目━━春日童女君

やがて、オケ大王(仁賢天皇)が没すると、大臣であった平群真鳥が王宮を自らの住居とする等、専横を振るうようになる。

さらには、オハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)が片思いした女性を巡り、真鳥の子・平群鮪に徹底的にコケにされる等した痴話話も絡む。

こうして、遂に、オハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)は、金村に、真鳥父子への不満をぶちまける。

これを受けて金村は、

『大伴連、數千の兵を將て、路に儌へて、鮪臣を乃樂山に戮し』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

大伴氏大連家が動員出来得る大人数の暴力集団(私兵)を動かし鮪を殺戮し、さらに、

『眞鳥の賊、撃ちたまふべし』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と進言するや、金村は、その勢いで真鳥の屋敷を襲撃し葬り去ってしまうのである。

金村の問題解決策は至極明瞭簡単である。まさに「殺ってまえ!」こそが「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる大伴氏大連家の本領発揮と言える。

そして、この禍々しい血塗られた瞬間こそが、「大伴氏大連家」復活の時であった。

オハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯王子)は、王位(皇位)に即くと、金村を大連とする(この時の金村の大連就任については否定的な説ある)。

武烈天皇3(501)年、オハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)の命令を受けて、室屋が水派邑へ城を築いたとされる。

室屋が驚異的な長寿を得ていたとしても室屋自身が築城を指揮したと考えるのは難しく、金村が室屋の私領を資として築城したものではあるまいかと考えられる。

だが、オハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が持つ狂気を引き継いだのか、『日本書紀』では次々と奇行に走り、遂には、嗣子を残さずに没する。

ここに、倭(日本)の大王家(皇室・天皇家)における直系男子の王統(皇統)は完全に断絶する。

大伴金村、王統(皇統)護持に奔走する

断絶した大王家(皇室・天皇家)を復興させるべく大伴金村は、

『方に今絶えて繼嗣無し』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、状況を憂い、武烈天皇8(506)年、丹波国桑田郡在住のヤマトヒコ王(倭彦王)を、ヤマト王権の有力者に推挙し同意を得て擁立を図る。

ヤマトヒコ王(倭彦王)は、タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)の五世孫である。

だが、ヤマトヒコ王(倭彦王)は、ヤマト王権が派遣した迎えの兵を見て驚き逃亡し、そのまま行方不明となってしまう。

落胆した金村であったが、越国坂井郡三国に、ホムタ大王(応神天皇)の五世の孫とされるオオド王(男大迹王)がいることを知る。

越国坂井郡三国
(越国坂井郡三国)

《継体天皇系図》

応神天皇━仁徳天皇━━┳履中天皇┳市辺押磐皇子┳飯豊皇女
 │         ┃    ┃      ┣仁賢天皇━武烈天皇
 │         ┃    ┃      ┗顕宗天皇
 │         ┃    ┣安康天皇
 │         ┃    ┗雄略天皇━━━清寧天皇
 │         ┣反正天皇
 │         ┗允恭天皇
 │
 ┝━━━稚渟毛二派王━太大迹王━私斐王━━━━彦主人王
 │                       │
 │                       ┝━━━継体天皇
 │                       │
 │                      振媛
 │
弟媛

(系図は別説あり)

オオド王(男大迹王)の母である振媛は、余奴臣の娘であり、余奴臣はオオタラシヒコオシロワケ大王(景行天皇)の末裔を名乗り、近江国高島郡三尾の別業に居住していた。

オオド王(男大迹王)は、

『王資性仁慈にましまし長ずるに及びて賢を禮し士を愛し意豁如たり在國の間水利に力め三大川を修理して水門口を三國に開き沮如を變じて美地となし、農業殖産の道を奨勵して頗る民の福利を増進し給ひしこと人口に膾炙せるところにして國人深くその徳化を感銘せり』

(『福井縣史』福井県 国立国会図書館デジタルコレクション)

と言う統治者として相応しい人物であった。

そこで、金村は、

『更籌議りて曰はく、「男大迹王、性慈仁ありて孝順ふ。天緒承へつべし。冀はくは慇懃に勸進りて、帝業を紹隆えしめよ」』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、オオド王(男大迹王)を推挙し、物部麁鹿火と巨勢男人等から同意を得る。

注目すべきは、ヤマトヒコ王(倭彦王)の場合も、オオド王(男大迹王)の場合も、大王(天皇)の適任者と見なす王族(皇族)を推挙するのは、まず金村であったことである。

だが、オオド王(男大迹王)も金村たちからの要請にはなかなか首を立てには振らなかった。

そこで、ヤマト王権に属し、オオド王(男大迹王)と旧知の中であった河内馬飼首荒籠が説得し、継体天皇元(507)年、オオド王(男大迹王)はようやく畿内へ足を運ぶ。

正月12日、オオド王(男大迹王)は、河内国交野郡の樟葉宮(葛葉宮)に入る。

樟葉宮推定地
(樟葉宮推定地)

2月4日になって、金村は、鏡と剣を奉る。

『大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡劍の璽符を上りて再拝みたてまつる』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

この金村の姿は、後の大化元(645)年に行われたカル大王(孝徳天皇)の即位に際して、大伴長徳が、

『金の靫を帯びて、壇の右に立つ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

姿と重なるものがある。

こうして、金村は、ヤマト王権における大王(天皇)の象徴を差し出し、その上で、オオド王(男大迹王)に王位(皇位)に即くことを求める。しかし、オオド王(男大迹王)は固辞する。

それでも、金村は、王位(皇位)に即くことを求め、ようやくのことで、オオド王(男大迹王)は受諾し王位(皇位)に即く。

そして、オオド王(男大迹王)は、金村を大連に任じる。

また、巨勢男人を大臣に、物部麁鹿火を大連に、それぞれ任じている。

同月10日、金村は、オオド大王(継体天皇)に対して、

『請らくは、手白香皇女を立てて、納して皇后と』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

するように申し出る。

これは、タシラカ王女(手白香皇女)を大后(皇后)とすることで、女系ではあるもののオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血統を引く女系大王(女系天皇)誕生への伏線となる極めて重要な意味合いを持つ申し出であった。

《継体天皇と雄略天皇》

応神天皇━仁徳天皇━━━履中天皇┳市辺押磐皇子━仁賢天皇
 │              ┗雄略天皇    │
 │                │      │
 │                │      ┝━━━━━手白香皇女
 │                │      │      │
 │                ┝━━━━━春日大娘皇女  │
 │                │             │
 │               春日童女君          │
 │                              │
 ┝━━━稚渟毛二派王━太大迹王━私斐王━━━━彦主人王    │
 │                       │      │
 │                       ┝━━━━━継体天皇
 │                       │
 │                      振媛
 │
弟媛

(系図は別説あり)

大伴氏を大伴氏たらしめる「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」と言う概念は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血統があってこそであり、この点を金村が最重要視していたことが窺える。

こうして、直系王統(皇統)は断絶したものの、金村の智謀と行動力に拠って、傍流男系を以ってして、そこに女系でオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血統が復興する含みを残すことで、倭(日本)の大王(天皇)は廃絶を免れたのである。

また、タシラカ王女(手白香皇女)が相続していた大王家(皇室・天皇家)の近衛兵とも言うべき白髪部は、「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる大伴氏の金村が統括管理していたものと考えられ、オオド大王(継体天皇)の畿内進出、及び、大和進出の際に、オオド大王(継体天皇)の護衛に付いたと見られる。

なお、『古事記』では、

『袁本杼命を近淡海國より上り坐さしめて、手白髪命に合せて、天の下を授け奉りき』

(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

とあり、オオド王(男大迹王)は近江から招かれたとしている。

その後、オオド大王(継体天皇)の宮は、渡来人(渡来移民)が多く住む山背国等を転々として、大和国の磐余玉穂宮に定まる。

玉穂宮
(磐余玉穂宮)

この磐余は、

『鳥見山から天香久山にいたる山地を背にして、北にうちひらけた奈良盆地をながめ、かつての大和政権の所在地の三輪山山麓地帯にあい対する好位置にある』

(『奈良 岩波新書782』直木孝次郎 岩波書店)

土地として知られる。

そして、オオド大王(継体天皇)は、継体天皇24(530)年に出した詔において、

『道臣謨を陳べて、神日本以て盛なり』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、大伴氏の祖である道臣が倭(日本)の礎を作ったとわざわざ宣言している。

このことから見ても、オオド大王(継体天皇)の擁立は、金村の積極的な主導に拠るものであることが推察される。

大伴金村、任那4県を百済に割譲する

オオド大王(継体天皇)の朝鮮半島における外交は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の外交政策を継承するかのように百済へ重きを為したことで知られる。

この辺りの外交政策に、大伴金村が関与したかどうかについての史料等は残されていない。

ただ、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が登場する以前の朝鮮半島との外交・通商を担っていたのは、葛城氏本宗家であった。

その葛城氏本宗家を、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の命令を受けて葬り去った実行部隊は「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる大伴氏であり、その点から考えても、葛城氏本宗家が滅亡した後に、大王(天皇)の意向を受け、

『朝鮮経営の直接の責任者』

(『神話の世界』上田正昭 創元社)

となったのは、大伴氏大連家であったと考えられる。

ところが、継体天皇6(512)年、百済との関係において問題が発生する。

百済への外交使として派遣された穂積押山を通して、百済は、倭(日本)が権益を有していた伽耶(所謂「任那」)の内、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県の割譲を求めて来たのである。

百済側が要求して来た4県については、

『當時百済は哆唎の熊川城に都す。四縣は其の附近にて全羅道の北部』

(『日本古代史』久米邦武 国立国会図書館デジタルコレクション)

に位置することから、もはや、倭(日本)が権益を維持するには地理的に見て困難を伴うことは明白であった。

任那4県
(任那4県)

なお、この所謂「任那4県」の位置については諸説あり、近年では、4県の位置を全羅南道の南西部に比定する説もある。

いずれにしても、当時の倭(日本)の国力を以ってして、それらの地域における権益の維持、もしくは、関与し続けることは困難であったと見られる。

そもそも、そのような地域における権益を当時の倭(日本)が実際に保有していたのかどうかも甚だ疑わしいものがある。

『任那に關する書紀の記載は極めて貧弱であって、所謂日本府の創設に關する記事すらも全く缺けてゐる』

(『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 岩波書店)

有様であるから、権益を保有していたと考えるのは難しい。

ただし、伽耶(所謂「任那」)と倭(日本)が密接な関係を持っていたことは疑うべくも無い。

この時期の朝鮮半島南部の状況は、百済・新羅両国が大陸(中国の王朝)からの影響を絶えず受け続けたことで、6世紀初頭には、百済は極東一とも言える優れた文化を持つ有力な国家に成長し、新羅も軍事的にはもちろんのこと、律令の導入を図り官制も整えた大国に成長しつつあり、5世紀に比べダイナミックな変化を見せていた。

それは、倭(日本)の朝鮮半島南部との交易において重要地であった伽耶(所謂「任那」)の地位を相対的に低下させるに充分であった。

そのような勃興する百済と新羅に比べ、倭(日本)は、5世紀後半以降、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が行った南斉との冊封外交を最後に大陸との外交が途絶えている有様であった。つまり、最新の文明も軍事情報も先進地から直接得られないと言うジリ貧の状況に置かれていたのある。

従来のような伽耶(所謂「任那」)との強固な関係の維持は困難であった。

金村は、決断する。

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を百済へ割譲することを認めたのである。

巨勢男人・物部麁鹿火も金村に同意し、最終的には、オオド大王(継体天皇)が「4県割譲」を決裁したのである。

翌継体天皇7(513)年には、同じく、伽耶の己汶・帯沙も百済に割譲する。

これらの4県に代表される伽耶(所謂「任那」)における倭(日本)の権益が史実として現状認めるに困難である以上、この百済から穂積押山を通して持ち込まれた「4県割譲」請求に金村が関与したとするのも実は困難とも言える。

ただし、同年、百済から五経博士・段楊爾が派遣されて来る。

従って、金村が主導する倭(日本)のヤマト王権から百済に対して何かしらの外交的な譲歩があったことは間違い無い。

百済から学識の最高峰が派遣されて来るには、倭(日本)からもそれに匹敵するものが百済側に引き渡されたはずで、それを『日本書紀』は「4県」に代表される権益としているわけである。

百済への「4県割譲」に際しては、

『大伴大連と、哆唎國守穗積臣押山と、百濟の賂を受けたり』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う噂が立ったと言う。

ただ、実際には、

『伴造出身の大伴氏が掌握した宮廷のヘゲモニーもようやく動揺しはじめ』

(『神話の世界』上田正昭 創元社)

たことの証しであり、一方的に外交面での譲歩をしてでも、オオド大王(継体天皇)と自分(金村)が君臨するヤマト王権の

『体制を維持するのに懸命にならざるをえない状態に追い込まれ』

(『神話の世界』上田正昭 創元社)

たものとされる。

その一方で、倭(日本)においては、この五経博士・段楊爾(後に漢高安茂と交代)から儒教・古典等の知識を得て、東アジアで先進国としての常識であった律令の概念や、官人制度、及び、官人組織がようやく国家に必要なものとして認知されて行くのである。

即ち、この時の金村の「4県割譲」と言う決断が、来る倭(日本)の文明開化期たる飛鳥時代の到来への大きな転換点となったことは間違い無いと言える。

大伴金村と『筑紫国造磐井の乱』

継体天皇19(525)年、新羅は、伽耶の金官国・喙・己呑・卓淳を自領とする。

継体天皇21(527)年、一方的な譲歩を行うことで百済との外交関係を強化した倭(日本)は、新羅の侵略を受けた伽耶(所謂「任那」)内の金官国等の独立を回復すべく、近江毛野に6万の兵を指揮させ、渡海のため北部九州へと展開させる。

ところが、新羅と結んだ筑紫国造の磐井が毛野の軍団に攻撃を加えて来たのである。

岩戸山古墳
(磐井の墳墓と伝わる岩戸山古墳)

即ち、『筑紫国造磐井の乱』の勃発である。

驚天動地のヤマト王権では、オオド大王(継体天皇)が、大伴金村・巨勢男人・物部麁鹿火に磐井への対策を問う。

席上、金村は、

『正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、磐井を征伐する軍の将軍に、麁鹿火を推挙している。

ヤマト王権の危機に際しての金村の立場は、大伴氏本来の「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」では無く、もはや執政者の立ち位置であることは注目される。

これについては、大伴氏大連家が、

『すでに軍事力の掌握も稀薄化しつつあったのではないか』

(『神話の世界』上田正昭 創元社)

とする見方もある。

また、その一方で、『古事記』は、

『物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき』

(古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

と伝えており、金村もまた戦場に赴いたとする。

どちらが史実であったのかは不明である。

この『筑紫国造磐井の乱』の鎮圧には、およそ1年半もの時間を費やした。

仮に「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」である大伴氏大連家の家長として戦地に金村が赴いたのだとしても、もはや大伴氏が抱えていた兵力は、さしたる実力も持っていなかったのであろう。

しかも、継体天皇23(529)年には、伽耶内の加羅にある多沙津を加羅の反対を押し切って、百済に割譲している。その結果、加羅は、新羅と同盟し、倭(日本)を見限っている。

こちらの多沙津割譲に金村が関与したと言う話は無い。

ただし、この割譲云々についても、

『加羅の新羅に服属した由來に關する説話が事實で無い』

(『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 岩波書店)

とされる。

同年、伽耶(所謂「任那」)の己能末多干岐(阿利斯等とも)の「新羅の軍事的な脅威を取り除いて欲しい」と言う請願を金村は取り次ぐ。

そこで、先に伽耶(所謂「任那」)に派遣されていた近江毛野が、伽耶(所謂「任那」)と新羅の調停交渉に取り掛かるが、かえって新羅に伽耶内の4邑を奪われる結果に終わる。

ただ、先の「4県割譲」問題と合わせて考えると、実際は、割譲や調停では無く、強国となった百済や新羅に拠る伽耶支配が進んだだけであって、当時、百済や新羅に比べ遥かに劣る後進国にまで成り下がっていた倭(日本)は伽耶諸国から援軍を求められたものの何も出来なかっただけと言うのが真相である。

大伴金村の落日

オオド大王(継体天皇)が没する。

『百済本記』は、オオド大王(継体天皇)の没年を継体天皇25(531)年のこととし、次のように伝える。

『日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

一方、『日本書紀』は、或本に拠るとした上で、オオド大王(継体天皇)の没年を、継体天皇28(534)年とする説をわざわざ記している。

これらの年代の矛盾については、

『この二つの崩年説には、その後継者を欽明天皇とみるか安閑天皇とみるかの、二つに分裂した皇統の継承と深くかかわっていた』

(『日本の古代文化 日本歴史叢書』林屋辰三郎 岩波書店)

と言う解釈が為される。

《継体天皇の後継者》

雄略天皇━春日大娘皇女━手白香皇女
             │
             ┝━━━━━欽明天皇
             │
            継体天皇
             │
             ┝━━━━┳安閑天皇
             │    ┗宣化天皇
             │
            尾張目子媛

その辺りの実際は不明であるが、時系列で人事を見て行くと、マガリ大王(安閑天皇)は、大伴金村と物部麁鹿火を大連とし、大臣を置かなかった。

この、マガリ大王(安閑天皇)の墳墓に治定されている高屋築山古墳に関しては、

『六世紀の大阪府安閑天皇陵からは正倉院にある瑠璃碗と瓜二つの碗が出土』

(『日本の美術 57 古墳』村井嵓雄 至文社)

していることで知られ、そのガラス碗(江戸時代に出土)は、

『西アジアでつくられて伝えられたもの』

(『日本の美術 57 古墳』村井嵓雄 至文社)

と見られている。

高屋築山古墳(安閑天皇陵)
(安閑天皇陵に治定されている高屋築山古墳)

高屋築山古墳を、マガリ大王(安閑天皇)の墳墓と見た場合、築造された年代や場所等、考古学的には大きな齟齬をきたさない古墳であって、マガリ大王(安閑天皇)の真陵としての可能性が高いとされている(ただし、合葬の有無等の問題もある)。

そう考えると、西アジアのガラス碗は明らかに大陸経由で持ち込まれたものであって、当時の大陸への橋頭保が朝鮮半島南部である以上、マガリ大王(安閑天皇)に、朝鮮半島南部の諸国との交渉を担当する「大連」として金村が仕えていたと見做せるのではあるまいか。

続くヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)は、金村と麁鹿火を大連とし、大臣には、蘇我稲目を置いた。

宣化天皇2(537)年、金村は、子の大伴狭手彦を、新羅の侵略を受ける伽耶(所謂「任那」)の救援のために朝鮮半島南部へ派遣したものの、

『新羅は國運益々強盛となり』

(『海外交通史話』辻善之助 国立国会図書館デジタルコレクション)

もはや倭(日本)が単独で軍事的対応を取るには限界となっていた。

また、同時期、もうひとりの子の大伴磐は渡海せず筑紫の政治を執ったとされている。

これらを見ると、オオド大王(継体天皇)の時代に生じた朝鮮半島南部や北部九州での諸問題を全て大伴氏大連家が背負っているかのようである。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、金村と物部尾輿を大連とし、大臣に稲目を置いた。

マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王権とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の王権が並び立っていたのかどうかは諸説ある。

ただ、注目すべきことは、金村が策を巡らせて、女系でオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の王統(皇統)を引く大王(天皇)として即位したアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の時代を迎えた時、金村の同僚は、新興勢力の稲目と、物部氏大連家の新世代である尾輿へと変わってしまっていたことである。

金村はひとり、旧世代となった。

そして、まさに、新世代が始まろうとする欽明天皇元(540)年9月、新羅征伐についてアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が下問すると、尾輿が、

『大伴大連金村、輙く表請の依に、求むる所を許し賜ひてき。是に由りて、新羅の怨曠むること積年し』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と訴え、金村のせいで新羅を討伐することが困難になったとして、金村を公然と責めると言う事態が発生する。

これを受けた金村は無言で、河内国住吉の屋敷に引き篭もる。

金村が隠居してしまったことに驚いたアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が送った使者に対して、金村は、

『今諸の臣等、臣を、任那を滅せりと謂す。故に恐怖りて朝へざらくのみ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と答え、あの当時の事情を知らない新世代の尾輿が自分ひとりに責任を負わせるのならば、進んで、その責任を我が身に受け勤めを辞して隠居するだけであると告げている。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、金村に武具(鞍)を手向けて、

『久しく忠誠を竭せり。衆口を恤ふること莫』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、ヤマト王権を支え、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の王統(皇統)の復活に尽力した苦労を称える言葉を贈っている。

これ以降の金村の動静は不明である。

そして、金村と交代するかのように、蘇我氏本宗家が台頭して行く。

大伴金村のまとめ

大伴金村は、百済から賄賂を受け取り「任那4県」を割譲した売国奴と評されることが多い。

この「4県割譲」を詳細に見て行くと、百済側の要求を、そのまま倭(日本)のヤマト王権に伝えて来たのは、穂積押山である。

この穂積臣については、

『太古以来の大族にして、物部氏と同族也。大和國山邊郡穂積邑より起る。但し同國十市郡保津邑も舊名穂積にして、その地より起るとの説あり』

(『姓氏家系大辭典』太田亮 国立国会図書館デジタルコレクション)

とあるように、物部氏の一派である。

そして、物部氏傍流である押山からの要求を金村が受諾したことを百済側に伝達する役目だったのが、物部氏大連家の物部麁鹿火である。

即ち、百済側の「4県分割」要求についてヤマト王権が認めたことを、百済からの外交使節に報告する立場にあったのが麁鹿火である。だが、麁鹿火は、妻から権益の割譲と言う案件に関与することは、

『綿世の刺、詎か口に離りなむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と警告され、急遽、病と称して役目をボイコットし自邸に篭っている。

このように、所謂「任那4県分割」に際して、主体的に動き、なおかつ、徹底的に火の粉を避けていたのは、金村よりも、むしろ、物部氏大連家と物部氏傍流であったように思われる。

だが、『日本書紀』は、金村ひとりに責任を負わせることで、「4県割譲」問題に決着をつけている。

オオド大王(継体天皇)の時代に相次いだ「4県割譲」に象徴される倭(日本)の百済への一方的な外交上の敗北は、

『斯る形勢をなったのは畢竟當時我が國の威力が減退して之を維持するの力が缼けた結果に外ならぬ』

(『朝鮮史大系 上世史』小田省吾 国立国会図書館デジタルコレクション)

状態になったためであり、それを認める損な役回りを担ったのが金村である。

それは、金村が「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる大伴氏大連家の人間であり、「ヒト」で大王(天皇)に奉仕する大伴氏の原点に立ち返ったことを意味するものと言える。

いくら軍事部門の伴造であっても、「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」である以上、大王家(皇室・天皇家)そのものを衰亡の淵に追い込んではいけないのである。

「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」とは、大王家(皇室・天皇家)の存在があってこそのものなのである。

大王家(皇室・天皇家)のために、大伴氏大連家が全ての責任を負って政治の表舞台から去ると言う決意をしたのが金村と言えよう。

この金村の判断は、当時の倭(日本)が無理に背伸びして朝鮮半島南部における権益を維持するよりも、まずは国内に律令を導入し官人制度や組織を整備すると言う東アジア内の先進国家としての倭(日本)の確立を促す方向へと時代を動かして行く。

それは、未開原始集団の族長のような大王(天皇)の存続では無く、法や制度に裏付けされる大王(天皇)の誕生へ動いたとも言い換えられよう。

同時に、法や制度に裏付けされる世襲の大王(天皇)に奉仕する豪族集団もまた、法や制度に裏付けされることで支配層としての永続的地位が安泰となることを意味するものである。

金村こそは大伴氏にとって画期となる人物であった。

何故なら、皮肉にも「4県割譲」を主導し決定したことで、「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」としての大伴氏大連家から、執政豪族(上級豪族)として政策決定に関与する大伴氏へと変容したことを体現した先駆けとなる人物が大伴金村であったと言えるからである。

だからこそ『壬申の乱』において暴力集団として殺戮行為に大いに活躍した大伴氏が、その功績を以って、オオアマ大王(天武天皇)以降のオオアマ王子(大海人皇子)の血統が支配者として君臨した奈良時代に議政官として取り立てられたのは、大伴氏一族にとって、そして、何より他の豪族(貴族)から見て、金村の前例に倣ったものと解釈されたのである。

【奈良時代の代表的な大伴氏の人物と官職】

大伴安麻呂 大納言
大伴旅人 中納言
大伴道足 参議
大伴牛養 中納言
大伴兄麻呂 参議
大伴駿河麻呂 参議
大伴伯麻呂 参議
大伴家持 中納言

奈良時代、政治に関与した人物は、同じ伴造出身の物部氏(石上氏)に比べると圧倒的に多い。

加えて、カズラキ大王(天智天皇)の王統(皇統)を滅ぼして正統な王統(皇統)を簒奪した挙句に王位(皇位)に即いたオオアマ大王(天武天皇)の忠実な「番犬」たる大伴氏にとって、葛城氏本宗家の血統が入った大王(天皇)を拒否し女系を以ってオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の王統(皇統)を復興させ、飛鳥時代から奈良時代へと繋げた金村の存在は象徴的だったと言える。

ただし、『古事記』を見る限りでは、金村が「大連」だった可能性は疑問符も付くところである。

そうなると、これは、『壬申の乱』から奈良時代の『日本書紀』編纂時までの大伴氏の正統性を、時代を遡及して『日本書紀』の中に形作られたのが「大伴金村」と言う存在であると言う見方も出来得る。

いずれにしても、「大伴金村」は、大伴氏にとって極めて重要な人物であった。

大伴金村の系図

《大伴金村系図》

大伴室屋┳談━┳金村┳磐
    ┃  ┃  ┣狭手彦
    ┃  ┃  ┗咋━━━┳長徳━━安麻呂━旅人━家持
    ┃  ┃       ┣馬来田
    ┃  ┃       ┗吹負
    ┃  ┃
    ┃  ┗歌
    ┗御物

大伴金村の墓所

帝塚山古墳を大伴金村の墳墓とする説がある。

帝塚山古墳
(帝塚山古墳)

帝塚山古墳は、

『西に近く茅淳の海を控え、東南方攝河の平野を一眸に収むべき勝地』

(『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第3輯』大阪府 国立国会図書館デジタルコレクション)

に位置する前方後円墳である。

その規模は、全長88メートル程度であって、巨大と言うほどのものでも無い。

築造年代は、4世紀後半から5世紀前半であり、金村が活躍したとされる5世紀後半から6世紀前半とは、約100年ほどの違いがある。

これらのことから、帝塚山古墳の被葬者については、

『大伴金村と云ひ、或は鷲住王の塚と傅ふるも、是等は固より確證などのあるものではない』

(『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第3輯』大阪府 国立国会図書館デジタルコレクション)

とされる。

大伴金村の年表

年表
  • 雄略天皇9(465)年
    大伴談、戦死。
  • 仁賢天皇11(498)年
    12月
    大連。
  • 武烈天皇3(501)年
    11月
    大和国水派邑に築城。
  • 武烈天皇8(506)年
    12月21日
    倭彦王を大王に擁立しようとして失敗。
  • 継体天皇元(507)年
    正月4日
    男大迹王を大王に擁立。
  • 2月4日
    男大迹王に鏡と剣を奉る。
  • 2月10日
    男大迹王に手白香皇女を皇后とするように上奏。
  • 継体天皇6(512)年
    12月
    任那4県を百済に割譲する。
  • 継体天皇21(527)年
    6月3日
    『筑紫国造磐井の乱』。
  • 継体天皇23(529)年
    4月7日
    任那の己能末多干岐の請願を取り次ぐ。
  • 継体天皇25(531)年
    2月7日
    大連。
  • 安閑天皇元(534)年
    10月15日
    屯倉を設置。
  • 宣化天皇元(536)年
    2月1日
    大連。
  • 宣化天皇2(537)年
    10月1日
    子の大伴磐・大伴狭手彦を朝鮮半島南部に派遣。
  • 欽明天皇元(540)年
    9月5日
    失脚。