大伴室屋【大伴氏の実質的な始祖!】

大伴室屋について

【名前】 大伴室屋
【読み】 おおとものむろや
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 古墳時代
【官職】 大連
【父】 大伴武以(大伴健持)
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 大伴談・大伴御物
【氏】 大伴氏
【姓】

大伴室屋の生涯

大伴室屋の生い立ち

大伴室屋は、系図上では大伴武以(大伴健持)の子とされる。

母は不明である。

室屋の幼少時の出来事や青年期のエピソード等の伝承は一切伝わっていない。

大伴室屋とオアサヅマワクゴノスクネ大王

大伴室屋の名前が初めて『日本書紀』に見えるのは、允恭天皇11(422)年のことである。

オアサヅマワクゴノスクネ大王(雄朝津間稚子宿禰大王・允恭天皇)の妃である衣通郎姫(藤原之琴節郎女)のために「藤原部」を定めるように、オアサヅマワクゴノスクネ大王(雄朝津間稚子宿禰大王・允恭天皇)から命令を受けている。

『時に天皇、大伴室屋連に詔して曰ひし』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

しかも、この時、藤原部の設置について室屋は、オアサヅマワクゴノスクネ大王(雄朝津間稚子宿禰大王・允恭天皇)から、

『奈何に』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、その是非を問われており、室屋が大王(天皇)の側近として、ある程度の地位にあったことを窺わせる。

この室屋の記事に先立つこと、允恭天皇5(416)年に、葛城氏本宗家の葛城玉田宿禰がオアサヅマワクゴノスクネ大王(雄朝津間稚子宿禰大王・允恭天皇)に因縁を付けられた挙句に命を奪われると言う事件が勃発している。

大王家(皇室・天皇家)が葛城氏本宗家に対して初めて武力を使用した後に、大王家(皇室・天皇家)に重用されたのが大伴室屋なのである。

この構図は「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる大伴氏の存在価値を鮮やかに浮かび上がらせるものと言える。

大伴室屋とアナホ大王

オアサヅマワクゴノスクネ大王(雄朝津間稚子宿禰大王・允恭天皇)の後を継いだアナホ大王(穴穂大王・安康天皇)がマヨワ王に暗殺される。

オオハツセノワカタケ王子は、マヨワ王と共に大臣の葛城円を攻めて、遂に、大王家(皇室・天皇家)を遥かに凌ぐ実力を有しつつ、大王家(皇室・天皇家)を輔弼しヤマト王権に参与して来た葛城氏本宗家を滅ぼしてしまう。

葛城氏本宗家を滅亡させたオオハツセノワカタケ王子は、新しい政体を構築する。

即ち、平群真鳥を大臣とし、大伴室屋を物部目と共に大連としたのである。

安康天皇3(458)年のことであった。

大伴室屋とオオハツセノワカタケ大王

オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)が王位(皇位)に即いてからの大伴室屋の活躍は目覚ましい。

泊瀬朝倉宮
(泊瀬朝倉宮)

雄略天皇2(458)年、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の妻となる予定だった池津媛が、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)を拒絶して、石川楯と恋仲となる。

これに嫉妬し怒ったオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の命令を受けて、室屋は、この池津媛と石川楯の二人の処刑を指揮する。

雄略天皇7(463)年になると、百済からの渡来移民(渡来人)の定住化を担当している。

これは、そもそも朝鮮半島からの移民等を取り仕切っていたのは葛城氏本宗家であったが、その葛城氏本宗家がオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)に滅亡に追い込まれた後は、大伴氏が有力な渡来移民(渡来人)を支配下に置く契機となったことを意味する。

雄略天皇9(465)年には、室屋の子の大伴談が将軍の一人として新羅に渡る。

これら一連の朝鮮半島と室屋との関わりは、朝鮮半島における鉄の原材料の確保に代表されるヤマト王権の権益が、葛城襲津彦以来、葛城氏本宗家を介しての権益に過ぎなかったものの、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)が権益の独占を狙って葛城氏本宗家を滅ぼした後は、大伴氏等の「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる伴造が、その尖兵として事に当たっていたことの証左と言える。

倭(日本)国内での軍事行動においては、物部目等も活躍している。

大伴室屋とシラカ大王

雄略天皇23(479)年、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)は亡くなるに先立ち、大伴室屋と東漢掬に、ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)が王太子(皇太子)であるシラカ王子(白髪王子・白髪皇子)に対して叛乱を起こす可能性が高いので備えるように命じたことに続き、

『大連等、民部廣く大きにして、國に充盈り。皇太子、地、儲君上嗣に居りて、仁孝、著れ聞えたり。其の行業を以すに、朕が志を成すに堪へたり。此を以て、共に天下を治めば、朕、瞑目ぬと雖も、何復恨むる所あらむ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う遺言を託している。

オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)は、大臣の平群真鳥では無く、大連の室屋に王太子(皇太子)の行く末を託したのである。

これは、伴造が、如何に大王家(皇室・天皇家)と一体化し忠節を尽くしていたかを示すものと言えよう。

そして、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)が亡くなると、実際に、ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)が叛乱を起こすこととなる。

そもそも、このホシカワ王子(星川王子・星川皇子)の叛乱は、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の悪行が引き起こしたものとも言える。

人妻であった吉備稚媛の美貌にオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)が横恋慕したことに始まる。

吉備稚媛を拉致し監禁した上で力づくで肉体関係を持ち無理やり自らの妻としたのである。

繰り返される愛無き肉体関係の果てに吉備稚媛とオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の間に産まれたのが、ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)であった。

だが、室屋は個人的な感情を一切排し「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」として、ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)側と戦い、ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)を殺害する。

心ある者から見れば唾棄すべき室屋の行動ではあるが、これこそが伴造として大伴氏のあるべき姿だったのである。

室屋の戦い方は徹底していたことで知られる。

大蔵を占拠したホシカワ王子(星川王子・星川皇子)と吉備稚媛に対して情け容赦無く火を放ち、大蔵諸共、焼き殺してしまうのである。

これは、吉備国の援軍が差し迫っていたことを示唆するもので、必要であればどんな手段を使っても大王家(皇室・天皇家)に勝利を献上すると言う室屋の考えが窺える。

しかし、その一方で、この叛乱劇において、室屋は、叛乱部隊に参加したものの脱出した河内三野県主小根を見逃し、叛乱を鎮圧した後に河内三野県主小根から土地を貰っている。この不自然な土地のやり取りは賄賂であったろうと考えられる。

室屋は、ちゃっかり私服も肥やしていたのである。

清寧天皇元(480)年、シラカ王子(白髪王子・白髪皇子)が王位(皇位)に即くが、それは、

『大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽を皇太子に奉る』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う儀礼を経ている。つまり、室屋が諸豪族の頂点に立ち、シラカ王子(白髪王子・白髪皇子)を王位(皇位)に即けると言う儀式だったのである。

その上で、室屋は、大連に再び任じられる。

そして、シラカ大王(白髪大王・清寧天皇)は、自らに子供が無いため、せめて自分の名前を後世に伝えるべく、室屋に「白髪部舎人」「白髪部膳夫」「白髪部靱負」を設置させている。

実は、シラカ大王(白髪大王・清寧天皇)に関する伝承記事は、『日本書紀』と『古事記』とは大きく異なると言う問題が発生する。

『日本書紀』
  • シラカ大王の即位
    シラカ王子が王位に即く
  • オケ王・ヲケ王の発見
    イチノベノオシハ王子の遺児が発見される
  • オケ王を王太子・ヲケ王を王子
    シラカ大王がオケ王・ヲケ王を養子とする
  • シラカ大王が亡くなる
    シラカ王子は実子の無いまま没する
  • イイトヨ王女が政治を執る
    何故か王太子は王位に即けない
  • イイトヨ王女が亡くなる
    イイトヨ王女は僅か数ヶ月後に没したとされる
  • オケ王太子はヲケ王に王位を譲る
    大連は置かれなかった
  • オケ王が王位に即く
    大連は置かれなかった
『古事記』
  • シラカ大王の即位
    シラカ王子が王位に即く
  • シラカ大王が亡くなる
    シラカ王子は実子の無いまま没する
  • イイトヨ王女が政治を執る
    葛城氏本宗家系王族が執政者となる
  • オケ王・ヲケ王の発見
    オケ王・ヲケ王はイイトヨ王女に保護される
  • オケ王・ヲケ王は平群鮪を殺害する
    平群氏大臣家は没落
  • ヲケ王が王位に即く
    大連は置かれなかった

『古事記』で記述される時系列の方が極めて合理的であることから『古事記』に従うこととする。

シラカ大王(白髪大王・清寧天皇)は子供を得ることなく亡くなる。

室屋がオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)から託されたシラカ大王(白髪大王・清寧天皇)については、

『皇后も皇子もなく、允恭から始まる皇系はここで絶えるという影のうすい天皇』

(『日本神話と古代国家』講談社学術文庫928 直木孝次郎 講談社)

と評されることが多い。

王位(皇位)の相続者が不在となったため、葛城氏本宗家を外戚とするイイトヨ王女(飯豊王女・飯豊皇女)が政治を執る。

イイトヨ王女(飯豊王女・飯豊皇女)の外祖父は、葛城襲津彦の子の葛城葦田宿禰である。

《関係略図》

葛城葦田宿禰━━黒媛
         │
         ┝━━━┳市辺押磐皇子
         │   ┣御馬皇子
         │   ┗飯豊皇女
         │
仁徳天皇━━━━履中天皇
         │
         ┝━━━━雄略天皇
         │
稚野毛二派皇子━忍坂大中姫

※典拠『古事記』

このイイトヨ王女(飯豊王女・飯豊皇女)については、大王(天皇)として王位(皇位)に即いたとする見方が有力である。

ほぼ同時期に、播磨国では同国の住民である志自牟の新築祝いの宴会が行われる。

『志自牟の新室に到りて樂しき。是に盛りに樂げて、酒酣にして次第に皆儛ひき』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

と言う賑やかな中で、志自牟の下に身を寄せていた少年の兄弟二人が舞い歌った際、兄弟が自分たちの身分を、

『天の下治め賜ひし、伊邪本和氣の、天皇の御子、市邊の、押齒王の、奴末』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

と明かす。

これに続き、山部小楯が、

『其の室の人等を追ひ出し』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

たとする記述が続く。

兄弟二人は、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)が自らの王位(皇位)の邪魔になるとして騙し討ちにして惨殺したイチノベノオシハ王子(市辺押磐王子・市辺押磐皇子)の遺児オケ王(億計王)とヲケ王(弘計王)だったのである。

《関係略図》

       葛城蟻━━━荑姫
              │
              ┝━━━━┳億計王
              │    ┗弘計王
              │
葛城葦田宿禰━黒媛     │
        │     │
        ┝━━━┳市辺押磐皇子
        │   ┣御馬皇子
        │   ┗飯豊皇女
        │
仁徳天皇━━━履中天皇━━雄略天皇━━━白髪皇子

ここで言う「新築祝い」とは「新室」であり、それは、新しい王室(皇室)を意味するものであろう。

イイトヨ王女(飯豊王女・飯豊皇女)は、甥に当たるオケ王(億計王)とヲケ王(弘計王)の兄弟二人を大和に呼び寄せる。

『日本書紀』では、シラカ大王(白髪大王・清寧天皇)が兄弟を呼び、自らの後継者に据えたとしているが、それはいきさつを考えると常識的には考えにくい。

この流れの中で、大臣の平群真鳥は、息子の平群鮪が女性問題を引き起こしたことで、結果、滅亡に追い込まれる。

そして、先のオケ王(億計王)とヲケ王(弘計王)の正体が露見した際の

『其の室の人等を追ひ出し』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

と言う記述に見える「室」が実はオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の王室(皇室)を示唆している可能性に気付く。

そして、追い出された人の中に、室屋が含まれているのは自明の理である。

つまり、大伴室屋は、葛城氏本宗家系の大王(天皇)が復活したことに拠り、ヤマト王権から排斥されたものと見られる。

ここに、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の政治は完全に否定され解体されたのである。

大伴室屋とヲケ大王・オケ大王

葛城氏本宗家系の大王(天皇)であるヲケ大王(弘計王・顕宗天皇)とオケ大王(億計大王・仁賢天皇)は、『日本書紀』では大臣も大連も置かなかったとされている。

『公卿補任』では、大臣に平群真鳥が、大連に大伴室屋・大伴金村が、それぞれ置かれたことになっている。しかし、これらの大臣・大連の事績は一切何も記述されていない。

実際には、オケ大王(億計大王・仁賢天皇)が和珥氏の血を引く大后(皇后)や妾妻を迎えていることから、和珥氏から政治的な輔弼を受けていた可能性は考えられる。

《仁賢天皇と和珥氏の関係略図》

             和珥日爪━━━糠君娘
                     │
       葛城蟻━━━荑姫      │
              │      │
              ┝━━━━━仁賢天皇
              │      │
葛城葦田宿禰━黒媛     │      │
        │     │      │
        ┝━━━┳市辺押磐皇子  │
        │   ┗飯豊皇女    │
        │            │
仁徳天皇━━━履中天皇━━雄略天皇    │
              │      │
              ┝━━━━━春日大娘皇女
              │
       和珥深目━━春日童女君

一方で、葛城氏本宗家との関係は薄まっている。

これは、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)が葛城氏本宗家を大弾圧したために、葛城氏本宗家の男性が極端に減少したことで、葛城氏本宗家内における子供の出生率が下がった影響であろう。

ヲケ大王(弘計王・顕宗天皇)とオケ大王(億計大王・仁賢天皇)の二代に渡る葛城氏本宗家系大王(天皇)の時代は、大伴氏そのものが停滞したのでは無いかと思われる。

大伴室屋とオハツセノワカサザキ大王

オハツセノワカサザキ大王(小泊瀬稚鷦鷯大王・武烈天皇)は、大伴室屋の孫に当たる大伴金村を大連とする。

《武烈天皇関係略図》

             和珥日爪━━━糠君娘
                     │
       葛城蟻━━━荑姫      │
              │      │
              ┝━━━━━仁賢天皇
              │      │
              │      ┝━━━━━武烈天皇
              │      │
葛城葦田宿禰━黒媛     │      │
        │     │      │
        ┝━━━┳市辺押磐皇子  │
        │   ┗飯豊皇女    │
        │            │
仁徳天皇━━━履中天皇━━雄略天皇    │
              │      │
              ┝━━━━━春日大娘皇女
              │
       和珥深目━━春日童女君

オハツセノワカサザキ大王(小泊瀬稚鷦鷯大王・武烈天皇)は、外戚に葛城氏本宗家を擁さない大王(天皇)である。

このオハツセノワカサザキ大王(小泊瀬稚鷦鷯大王・武烈天皇)の実在性については諸説ある。

ただ、言えることは、ヲケ大王(弘計大王・顕宗天皇)とオケ大王(億計大王・仁賢天皇)と言う葛城氏本宗家を外戚とする大王(天皇)が没した後に、大伴氏が復権したと言うことである。

そして、室屋は、大伴氏の復権に歩調を合わせるかのように、武烈天皇3(501)年、水派邑へ城を築いたとする記事を最期として、正史から消える。

大伴室屋のまとめ

大伴室屋は、実質的な大伴氏の始祖と言える。

ただ『日本書紀』に基づくと、室屋の政治的な活動を行っていた期間が、実に約80年間にも及ぶものであり、到底、史実とは考えられない。

やはり、室屋が実際に活躍した時期は、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の時代であったと思われる。

それは、葛城氏本宗家との相克を制した大王家(皇室・天皇家)が、ヤマト王権において、その権力を独占した時期であった。

その後、一旦、葛城氏本宗家を外戚とする大王(天皇)が続いたことで、大伴氏はヤマト王権から排斥される。

そして、外戚を非葛城氏本宗家とする大王(天皇)の登場と共に復権し、大伴氏は室屋から孫の大伴金村へと世代交代を遂げる。

実は、この大王(天皇)に拠る統治権独占の確立に大伴氏が軍事的貢献をすると言う構図は、後の『壬申の乱』の軍事的貢献を以って、オオアマ王子(大海人王子・大海人皇子)の王位(皇位)を確立した大伴氏の姿と重なるものである。

『壬申の乱』後に編纂が行われた『日本書紀』『古事記』において、大伴氏の始祖が功臣として大王(天皇)のために活躍する物語が描かれたのは当然のことであったとも言える。

大伴室屋の「室屋」と言う名前は、どこか一族の「一宇」を連想させる。

ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)の叛乱に際して、大伴室屋が発したとされる言葉が伝わる。

『大泊瀬天皇の遺詔し、今至りなむとす。遺詔に従ひて、皇太子に奉るべし』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

この言葉から判るように、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の時代に、大伴部を率いて大王(天皇)のために働いた伴造たちの象徴として描かれたのが、大伴室屋の存在であったのかも知れない。

その証拠に、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の王統(皇統)が断絶する最期の大王(天皇)の時代にも室屋の名前は年齢を超越して登場し、大王(天皇)のために軍事拠点を築き、大王(天皇)に忠誠を尽くしている。

即ち、室屋は、

『久米部や舎人部・靱負部などの管掌者としての大伴氏』

(『テキスト日本史(上)』門脇禎二 黒田俊雄 共著 三一書房)

の原点であり、ウジ(氏)を象徴する存在なのである。

大伴室屋こそは、後の世代の大伴氏のアイデンティティそのものと言えよう。

大伴室屋の系図

《大伴室屋系図》

天忍日命━天津彦日中咋命━日臣命(道臣命)━┓
                      ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗味日命━稚日臣命━大日命━角日命━豊日命━武日命━┓
                          ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗武以(建持)━室屋┳談━┳金村━┳磐
          ┃  ┃   ┣狭手彦
          ┃  ┃   ┗咋
          ┃  ┗歌
          ┗御物

大伴室屋の墓所

大伴室屋の墓所は不明である。

ただ、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の宮が置かれた泊瀬地域の近隣には、大伴氏が代々伝領して来た「迹見庄(跡見庄・跡見田庄)」や「竹田庄」が存在する。

迹見庄
(迹見庄)

竹田庄
(竹田庄)

『公地公民が原則である奈良時代に、大伴氏が新しくこれらの庄を手に入れたとは思われない。大伴氏はおそらく大化以前から、このあたりに私有の土地をもっていたのであろう』

(『奈良』岩波新書782 直木孝次郎 岩波書店)

それは、室屋が、

『雄略天皇とともに河内方面からこのあたりに進出してきて、拠点をもうけたのではないか』

(『奈良』岩波新書782 直木孝次郎 岩波書店)

と考えられることから、この迹見庄・竹田庄のいずれかに室屋の屋敷もあったものと思われる。

実際、「大伴室屋」と言う大伴氏の実質的な始祖を敬う意味もあってか、『万葉集』には、大伴坂上郎女を始め、大伴氏一族に拠る迹見庄・竹田庄で詠まれたとする歌が多い。

迹見庄・竹田庄が大伴氏にとって特別な意味合いを持っていたことは間違い無い。

このことから、この迹見庄・竹田庄周辺に室屋の墓所が築かれたとしても不思議では無いと考えられる。

大伴室屋の年表

年表
  • 允恭天皇11(422)年
    衣通郎姫のための藤原部を設置。
  • 安康天皇3(458)年
    11月13日
    大連。
  • 雄略天皇2(458)年
    7月
    石川楯と池津媛の処刑を指揮。
  • 雄略天皇7(463)年
    百済からの渡来移民(渡来人)の定住化を担当。
  • 雄略天皇9(465)年
    大伴談が将軍の一人として新羅に渡海。
  • 雄略天皇23(479)年
    8月
    『星川皇子の乱』を鎮圧。
  • 清寧天皇元(480)年
    正月15日
    大連、再任。
  • 清寧天皇2(481)年
    2月
    御名代を設置。
  • 仁賢天皇8(498)年
    12月
    大伴金村、大連。
  • 武烈天皇3(501)年
    11月
    大和国水派邑に城を築城。