吉備稚媛【悲劇!天皇に強奪された美貌の人妻!】

吉備稚媛について

【名前】 吉備稚媛
【読み】 きびのわかひめ
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 雄略天皇朝
【父】 吉備上道臣(吉備窪屋臣 説あり)
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 吉備上道臣田狭・雄略天皇
【子】 吉備上道臣兄君・吉備上道臣弟君・磐城皇子・星川皇子
【氏】 吉備氏(吉備上道氏)

吉備稚媛の生涯

吉備稚媛の生い立ち

吉備稚媛は、吉備上道臣の娘として生まれる。

また、別説として吉備窪屋臣の娘とする説もある。

どのような幼少期を経たのかは不明で未詳であるが、同族と思われる吉備上道臣田狭の妻となる。

恐らく稚媛と田狭は、顔見知りであったものと思われ、夫婦仲も良かったようで、田狭は常々周囲の者に対して、

『天下の麗人は、吾が婦に若くは莫し』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、「稚媛の美しさは天下一」と自慢していたほどである。

こうして、二人の男子(吉備上道臣兄君・吉備上道臣弟君)にも恵まれ、稚媛は幸せな日々を過ごしていた。

吉備稚媛、夫との仲を大王(天皇)に引き裂かれる

吉備稚媛の幸せな日々は唐突に崩れ去る。

雄略天皇7(463)年、夫の吉備上道臣田狭が任那へ国司として派遣されたのである。

実は、この田狭の任那国司就任は、田狭による妻の自慢話を聞いたオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)が稚媛を我が物にしようとしたための人事であった。こうして、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)は強引に稚媛を吉備国から連れ去り、そのまま力づくで自分のものとしてしまうのである。

朝鮮半島に渡った田狭は、妻の稚媛がオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)によって拉致された挙句、手籠めにされた事実を知り、新羅と同盟しオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)を討伐することを企図するが、当時、新羅は倭(日本)と敵対関係にあったために新羅への入国を果たすことが出来なかった。

この動きを知ってか知らずかオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)は、弟君(田狭と稚媛の間の子)と吉備海部直赤尾に西漢才伎歓因知利を加えた三人を、新たに新羅討伐軍の司令官として派遣するのである。

田狭は弟君に叛乱計画を打ち明ける。

ここで田狭と弟君は、新羅・百済と同盟した上で、朝鮮半島に拠点を置いてオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)への叛乱を起こす計画を立案することとなるのである。だが、この謀反計画は、事の重要さを恐れた弟君の妻である樟媛が弟君を殺害したことで頓挫する。

夫である田狭を遠ざけられ、今また息子の弟君も失った稚媛の悲しみは大きかったと思われる。

こうした絶望的な状況下で稚媛と雄略天皇との間には、イワキ王子(磐城王子・磐城皇子)とホシカワ王子(星川王子・星川皇子)が生まれている。

そのオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)もシラカ王子(白髪王子・白髪皇子 母は葛城韓媛)を王太子(皇太子)に立て、雄略天皇23(479)年に崩御する。

シラカ王子(白髪王子・白髪皇子)の母である葛城韓媛は、父の葛城円(シラカ王子の外祖父)をオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)に殺害されている。

吉備稚媛、我が子に謀反を勧める

オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)が崩御した時、真っ先に叛乱の動きを見せたのが吉備稚媛である。

『天下之位登らむとならば、先づ大蔵の官を取れ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

イワキ王子(磐城王子・磐城皇子)とホシカワ王子(星川王子・星川皇子)に対して謀反を勧めたのである。

これに驚いたのが兄のイワキ王子(磐城王子・磐城皇子)であり、異母弟とは言え王太子(皇太子)であるシラカ王子(白髪王子・白髪皇子)を裏切れないとして、この叛乱計画の実行を諌めている。

一方のホシカワ王子(星川王子・星川皇子)は稚媛の思いを受け入れ、謀反を起こすのである。

ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)の号令のもとに集まったのは、兄君(星川皇子の異父兄)・城丘前来目・河内三野県主小使たちで、迅速に大蔵を制圧し、白髪皇子に対して叛旗を翻したのであった。

その中心にいたのは稚媛であった。

稚媛を諌めたイワキ王子(磐城王子・磐城皇子)は叛乱には参加しなかったようであるが、以後の消息は一切不明である。ヲケ大王(弘計大王・顕宗天皇)の大后(皇后)であるナニワノオノ王(難波小野王)の祖父に当たるイワキ王(磐城王)と同一人物ではないかとされているが、こちらもはっきりしない。

吉備稚媛、紅蓮の炎に消ゆ

白髪皇子側では大伴室屋が星川皇子の叛乱の鎮圧に当たった。

室屋は、東漢掬に命じて大蔵を攻囲し、ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)たち叛乱組を封じ込める。

その上で火を放ち、吉備稚媛やホシカワ王子(星川王子・星川皇子)たち叛乱軍を情け容赦なく焼き殺している。

叛乱軍側では河内三野県主小使のみが攻囲直前に脱出し、命を助けられたに過ぎない。

このホシカワ王子(星川王子・星川皇子)に叛乱に呼応する形で、吉備上道臣がおよそ四十艘の軍船を率いて、瀬戸内海を畿内目指して進軍する。

しかし、ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)の叛乱軍が全滅したと聞き撤退を余儀なくされる。このために、叛乱の鎮圧後、吉備上道臣は山部を王家(朝廷)に没収されている。

注目されるのが大伴室屋の鎮圧方法である。

大蔵に叛乱軍を追い詰め、そのまま火を放ち焼き殺している。叛乱の鎮圧のためとは言え大蔵を失うのは、王権(朝廷)にもかなりの痛手のはずである。ここから推測されるのが、この時の室屋には時間が無かったのではないだろうかということである。

つまりホシカワ王子(星川王子・星川皇子)の叛乱が勃発した時、実際には、吉備上道臣軍がかなり近くまで接近していたために、鎮圧を急いだのではないだろうか。

この叛乱劇で燃え上がった炎の赤さこそは、吉備稚媛が流して来た血涙の赤さだったのかも知れない。

吉備稚媛

吉備稚媛とは

愛する夫や子供たちとの幸せな生活を、その美しさ故に失ってしまったのが吉備稚媛であった。

夫と引き裂かれ強引にオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の妃とされた稚媛は、しかも、愛する夫と子供を殺害した憎きオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)との間に二人の王子(皇子)を出産している。

イワキ王子(磐城王子・磐城皇子)とホシカワ王子(星川王子・星川皇子)の兄弟は、その幼少期には母の涙ばかりを見て育ったのではないだろうか。

だが、イワキ王子(磐城王子・磐城皇子)とホシカワ王子(星川王子・星川皇子)が成長するにつれて、稚媛の中には野心が膨らんでいったようである。それは、自らが出産した皇子に皇位を継承させることで、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)に対する復讐の念を晴らそうと言うものである。

雄略天皇22(478)年になって、シラカ王子(白髪王子・白髪皇子)が立太子したことで、稚媛の心に秘めた復讐の思いは一気に燃え上がったに違いない。

それがあの叛乱を教唆した言葉となったと思われる。

ホシカワ王子(星川王子・星川皇子)の叛乱は、実のところ、稚媛と吉備上道臣らとの間で叛乱計画を入念に練り上げ実行されたものではなかったろうか。しかし、大連として才を誇った大伴室屋の果断な判断の前に、その悲しい復讐劇は成就しなかったのである。

しかし、稚媛は自らが出産したホシカワ王子(星川王子・星川皇子)と共に兵火に焼かれたことで、真の復讐を果たしたのかも知れない。

それは、稚媛の復讐の真の目的が「オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)に繋がる男系の血筋を断つこと」にあった場合である。

イワキ王子(磐城王子・磐城皇子)も、この叛乱の後には消息が途絶えている。ここにオオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の王子(皇子)はシラカ王子(白髪王子・白髪皇子)、たった一人となったのである。

つまり、稚媛は「オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の血筋を断つ」と言う点において、自らが出産した皇子の命を、自らが立案した叛乱劇に拠り断つことで見事に復讐を果たしたと言える。

こうして見ると、稚媛は「自分の子を大王(天皇)とする」と言う復讐と「自分の子の命を断つことで大王家(皇室・天皇家)の血筋も断つ」と言う復讐の二段構えだったのではないだろうか。即ち、この叛乱が成功しても失敗しても復讐自体は果たせるのである。

しかも、叛乱鎮圧のために、王権(朝廷)の権力基盤である大蔵が全焼してしまい、王権(朝廷)は経済的に弱体化してしまうこととなった。

この叛乱劇を経て即位したシラカ大王(白髪大王・清寧天皇)であるが、

『此の天皇、皇后無く、亦御子も無かりき』

(『日本古典文學大系1 古事記祝詞』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

状態のまま短命で崩御し、

『天皇崩りましし後、天の下治らしめすべき王無かりき』

(『日本古典文學大系1 古事記祝詞』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

こととなり、オオハツセノワカタケ大王(大泊瀬幼武大王・雄略天皇)の直系男子の王統(皇統)は断絶し果てる。

この後、王統(皇統)は錯綜混乱し、遂には、越国から招請したオオド王(男大迹王・袁本杼命)を王位(皇位)に据えることとなる(継体天皇)。

吉備稚媛は燃え盛る紅蓮の炎の中で最期に何を見たのであろうか。

なお、吉備稚媛については日本書紀は異説として、この稚媛は葛城襲津彦の子(襲津彦の孫説あり)である玉田宿禰の娘とし、その名も「毛媛」と伝える。

吉備稚媛の系図

《関係略図》

        吉備上道臣田狭
        │
        ┝━━━━━━━━┳兄君
        │        ┗弟君
        │
 吉備上道臣━━稚媛
        │
        ┝━━━━━━━━┳磐城皇子
        │        ┗星川皇子
        │
        │┌────────────────┐
 允恭天皇   ││                │
  │     │┝━━━━━━━┳白髪皇子    │
  │     ││       ┗稚足姫皇女   │
  │     ││                │
  ┝━━━━━雄略天皇              │
  │     ││                │
  │     │┝━━━━━━━━春日大娘皇女  │
 忍坂大中姫命 ││                │
        ││                │
 仁徳天皇   ││                │
  │     │└───────────────┐│
  │     │                ││  
  │     │                ││
  ┝━━━━━草香幡梭姫皇女          ││
  │                      ││
 日向髪長媛                   ││
                         ││
 春日和珥深目━童女君              ││
        │                ││
        └────────────────┘│
                          │
 葛城円━━━━韓媛                │
           │                 │
        └─────────────────┘

吉備稚媛の年表

年表
  • 雄略天皇7(463)年
    雄略天皇、吉備上道臣田狭の妻・稚媛を略奪。
  • 雄略天皇22(478)年
    正月1日
    白髪皇子、立太子。
  • 雄略天皇23(479)年
    7月1日
    雄略天皇、病気のため白髪皇子に政治を委任する。
  • 8月7日
    雄略天皇、崩御。星川皇子、叛乱を起こす。