葛城襲津彦【実在が確かな最初の日本人!その実態は朝鮮半島との関係が色濃い倭人!】

葛城襲津彦について

【名前】 葛城襲津彦
【読み】 かずらきのそつひこ(かつらぎのそつひこ)
【名前の別表記】 葛城曾都毘古(『古事記』)・葛城長江曾都毘古(『紀氏家牒』)
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 古代
【職能】 在地系皇別豪族
【父】 武内宿禰
【母】 不明(葛比売『紀氏家牒』)
【兄弟姉妹】 葛城野伊呂売(怒能伊呂比売)・波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰・平群都久宿禰・木角宿禰・久米能摩伊刀比売・若子宿禰
【配偶者】 不明
【子】 葛城磐之媛(仁徳天皇皇后)・葛城葦田宿禰
【外孫】 履中天皇・反正天皇・住吉仲皇子・允恭天皇
【氏】 葛城氏
【姓】

葛城襲津彦の生涯

葛城襲津彦の生い立ち

『日本書紀』では、葛城襲津彦の父は、武内宿禰とされる。

しかし、武内宿禰の実在性はほぼ皆無とされている。このため、襲津彦を武内宿禰の子とするのは、『日本書紀』編纂時に行われた系図のつじつまを合わせるための捏造でしか無い。

葛城襲津彦は、「葛城臣」の始祖とされている。

しかし、そもそも襲津彦の存命した時期に、倭(日本)に氏姓制度が存在していたとは到底考えられず、これもまた『日本書紀』編纂時に体系作られたものである。

葛城襲津彦は歴史上最初の倭人(日本人)

『日本書紀』の神功皇后摂政62(262)年の記事中に『百済記』が引用されているが、この中の人物名が注目される。

『百濟記に云はく、壬午年に、新羅、貴國に奉らず。貴國、沙至比跪を遣して討たしむ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

即ち、この『百済記』が記す「沙至比跪」は「ソツヒコ」と同音であることから「葛城襲津彦」を示すものと解釈される。

さらに、『百済記』に「沙至比跪」の活動した年代として挙げられる「壬午年」が西暦382年に該当し、これが、イザホワケ大王(履中天皇)・ミズハワケ大王(反正天皇)・オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)の外戚としての襲津彦の活動した年代とほぼ合致すること等から、

『葛城氏のソツ彦は、まずまちがいなく実在の人物である』

(『日本国家の起源 岩波新書380』井上光貞 岩波書店)

と、されており、日本史上最初の倭人(日本人)として実在が確認された人物と言われる所以である。

また、『百済記』の記述から襲津彦には、大王家(皇室・天皇家)に仕える妹が存在していたことも判明している。

『其の妹、皇宮に幸ること有り』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

襲津彦の活躍していた時代に、襲津彦一族(後の葛城氏)が既に大王家(皇室・天皇家)と密接な関係にあったことが窺える。

『百済記』は外国(百済)の史料であることから客観的事実の証明として挙げられることが多い。それは、『日本書紀』編纂時に亡命百済人が所有していた『百済記』が引用されたと見られるからである。ただし、『百済記』の内容は、『日本書紀』編纂に媚びて改変されており、全てを信用することは甚だ危険な一面もある。

葛城襲津彦とクマソ(熊襲)

葛城襲津彦の名前に関し、襲津彦の「襲」はクマソ(熊襲)の「ソ(襲)」との関連するのではないかと言う指摘が為されている。

『ソツ彦は、襲(熊襲)の男の意味らしい』

(『日本国家の起源 岩波新書380』井上光貞 岩波書店)

と言うもので、これは仁徳天皇が妻として、髪長媛を「日向」と言う九州から迎えていること(日向諸県君髪長媛)に関連した指摘である。

当時の大王家(皇室・天皇家)が迎える外戚は、朝鮮半島に権益を持つ葛城氏を最重要としながら、同じく朝鮮半島や中国大陸をも睨み、それらの地と至近距離にある日向諸県君との婚姻も戦略的に意味を持っていたと解釈され得る。

また、襲津彦には朝鮮半島での軍事行動の記録が残されているが、その襲津彦が持つ軍事力の一翼をクマソ(熊襲)が占めていた可能性も考えられる。

葛城襲津彦、藁人形に騙される

神功皇后摂政5(205)年3月、新羅王は、倭へ人質として送られていた微叱許智伐旱を奪還を目論み、使者を派遣して来る。

使者から策を受けた許智伐旱は、「私が長く帰国しないために王が私の妻子を官奴にしたようです。どうか私を新羅に一時的に戻して事実かどうか調べさせて欲しい」と願い出た。

摂政であった息長帯比売(神功皇后)は、この許智伐旱の願いを聞き入れる。

そして、この時、葛城襲津彦は、息長帯比売から許智伐旱の新羅への一時帰国の同行を命じられる。

息長帯比売から新羅への許智伐旱との同行任務を与えられた襲津彦は、海を渡り対馬国に到着する。

その対馬国の鉏海において、襲津彦たちに同行して来た新羅の使者は、襲津彦の監視が隙だらけなのを突いて、かねてより対馬に手配してあった船で許智伐旱を新羅へ逃すことに成功する。

その上で、新羅の使者は藁人形を用いて、襲津彦の目をごまかす。具体的には、藁人形を寝かせた上で掛物をし「許智伐旱が病になり重体です」と騙したのである。まるでコントのような一場面である。

事の真相に、ようやく気付き自分が欺かれていたことを知った襲津彦は、怒り狂い、新羅の使者三人を檻に閉じ込め生きたまま火をつけ焼き殺している。

その上で、朝鮮半島に渡って、蹈鞴津(多大浦)に至り、怒りに任せた勢いのまま草羅城を攻め落として帰国している。

さらに、当地の人民を拉致して連れ帰る。

この時、襲津彦が朝鮮半島から拉致して来た人民が、葛城地方に居住している桑原邑・佐麋邑・高宮邑・忍海邑の漢人たちの始祖であると伝えられる。

葛城地域_渡来人拠点
(桑原邑・佐麋邑・高宮邑・忍海邑 推定地)

これら渡来人の拠点となった近くに南郷遺跡がある。南郷遺跡については、

『当遺跡に、地域首長の「高殿」や「神殿」・祭祀場・居住地など、金・銀・銅・鉄・ガラスなどを材料に手工業生産の工房、大型倉庫群など古墳時代の様々な遺構・遺物が存在する』

(『御所市文化財調査報告書 第45集 南郷遺跡(向坂地区)』木許守 御所市教育委員会)

ことが確認されており、朝鮮半島の優れた技術や最新文化が蓄積された遺跡であることが判明している。ただし、この南郷遺跡は、

『南郷遺跡群は5世紀中葉から始まるので、右記の日本書紀の襲津彦の時期から微妙に後のもの』

(『ふるさと御所 文化財探訪 古墳時代(17)』藤田和尊 御所市生涯学習課文化財係)

と見られており、襲津彦が基本を築き、それを次代の葛城氏一族が発展させたものとされる。

葛城襲津彦と息長帯比売(神功皇后)

正史に余りにも唐突に、息長帯比売から新羅行きを命じられる人物として葛城襲津彦の名前が出て来るのである。

果たして、摂政として政務を執っていたとされる息長帯比売と襲津彦との関係が、何故ここまで密接であるのか?

それは、息長帯比売の出自にヒントがあるように思われる。

《息長帯比売(神功皇后)系図》

開化天皇━(略)━迦邇米雷王━━息長宿禰王
                 ┃
                 ┣━━━━━━息長帯比売命(神功皇后)
                 ┃
天之日矛━(略)━多遅摩比多訶  ┃
          ┃      ┃
          ┣━━━━━葛城高額比売命
          ┃
         菅竈由良度美

新羅から渡来した天之日矛の末裔が息長帯比売(神功皇后)なのである。さらに、息長帯比売の母の葛城高額比売の両親は共に新羅人の血を引いている。

そして、葛城高額比売は、その名前からして、大和国葛城地方に所縁の女性であったろうことは一目瞭然である。

だとすると、当時の婚姻の風習から見て、子供は母方が育てるものであることから、息長帯比売は大和国葛城地方で生まれ育ったとするのが自然であろう。

大和国葛城地方は、朝鮮半島から移住して来た人々が多数住み着いて安住の地としていた場所と考えられている。その葛城地方を治めていた有力豪族(後の葛城氏)の「長」が襲津彦だったのである。

ただし、重要な点として、息長帯比売(神功皇后)を実在の人物と見做すのは不可能とされていることである。即ち、

『ヤマトタケルの話とオキナガタラシ姫の物語とは、帝紀・旧辞とは独立に、成長していった。それが帝紀・旧辞に入ったのは七世紀のこと』

(『日本国家の起源 岩波新書380』井上光貞 岩波書店)

と考えられている。つまり、襲津彦が持っていた九州や朝鮮半島との結びつきに関する伝承が「息長帯比売の摂政譚」の原点にあるのだろう。

そうすれば、息長帯比売(神功皇后)が新羅と関係が深く(新羅人の末裔)で、なおかつ、大和国葛城地域に本拠地を持っていたこととする紀記の記述内容の意図が鮮明となる。

葛城襲津彦、美女に篭絡される

神功皇后摂政62(262)年、新羅が朝貢しなかったために、新羅への制裁として軍事行動が取られる。

葛城襲津彦は、倭の兵を指揮して朝鮮半島に渡る。

この戦役における葛城襲津彦の行動は、『百済記』に詳しい。

新羅では、選りすぐりの美女二人を用いて、沙至比跪(襲津彦)を港に出迎えると言う奇策に出る。

そして、沙至比跪(襲津彦)は、新羅の思惑通りにあっさりと美女の濃厚な接待の前に篭絡されてしまうのである。その上、沙至比跪(襲津彦)は何を思ったか、倭の友好国である加羅国を攻撃し制圧してしまう。

葛城襲津彦と加羅
(当時の朝鮮半島南部)

加羅国からは、国王の己本旱岐はじめ多くの人民が百済国に逃亡せざるを得なかった。

そして、己本旱岐の妹の既殿至が危険を顧みず倭に渡り、沙至比跪(襲津彦)に拠って引き起こされた加羅国の惨情を伝え助けを求めたのである。

これがために倭では、急遽、木羅斤資が兵を率いて朝鮮半島に渡り、沙至比跪(襲津彦)の軍勢を駆逐し、加羅国を回復させている。

襲津彦の実在を証明する『百済記』は、自分の失敗を気に病む沙至比跪(襲津彦)が、王宮に仕える妹に連絡をつけ、息長帯比売(神功皇后)の怒りが解けたかどうか様子を確認させたところ、息長帯比売の激怒は解ける様子が無いと言う返事をした、と伝える。

事ここに至り、

『比跪、免れざることを知りて、石穴に入りて死ぬといふ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

つまり、襲津彦は倭に帰国することを諦めて、石穴に身を隠し死亡すると言う最期を迎えた。

葛城襲津彦と『高句麗好太王碑』

高句麗の広開土王の業績を記した石碑、所謂『高句麗好太王碑』(『高麗好太王碑』)に、

『倭以耒卯年、來渡海、破百殘□□□羅、以爲臣民』

(『漢・韓史籍に顯はれたる日韓古代史資料』 太田亮 磯部甲陽堂蔵版)

と、倭(日本)が朝鮮半島南部を侵略し支配下に置いたことが記録されている。これは、西暦391年のことで、ほぼ葛城襲津彦の生存年代と合致することは注目される。

なお、『日本書紀』は、

『百二十年、すなわち干支で二運(二回廻り)だけ古い』

(『日本国家の起源 岩波新書380』井上光貞 岩波書店)

ように年代操作されており、襲津彦が新羅に出兵したとされる神功皇后摂政62年は、西暦262年ではなく、西暦382年のこととなる。さらに、先に新羅で軍事行動を起こした神功皇后摂政5年も、西暦205年ではなく、西暦325年となる。

即ち、4世紀に行われた倭に拠る朝鮮半島への侵略には、葛城襲津彦が深く関わっていたことが推測されるのである。

この美女に篭絡され、彼の地で寿命が果てたとする伝承も、実は西暦391年のことで、老いさらばえた襲津彦が出兵先の戦地で亡くなったことを物語譚として伝えるものであるのかも知れない。

葛城襲津彦、朝鮮半島から帰国せず

応神天皇14(283)年、百済から倭(日本)に渡って来た弓月君が、新羅の妨害で、倭に連れて来るはずだった120県の弓月の民が加羅国に留置されているので救援して欲しいと訴える。

葛城襲津彦は、息長帯比売(神功皇后)から加羅にいる弓月の民を倭に連れて来るように命令を受ける。

そこで、襲津彦は、救援部隊を率いて加羅に入るものの、3年経過しても帰国しなかった。

弓月君(弓月王)は、『新撰姓氏録』(平安時代に成立の書物)に拠れば、秦の始皇帝の五世王で秦氏の始祖「融通王」と同一人物とされる。

なお、大和国に入った秦氏は葛城地方の朝津間腋上を本拠とした。

葛城襲津彦、帰国する

応神天皇16(285)年、平群木菟と的戸田が渡海し、葛城襲津彦たちを連れて帰国する。

『日本書紀』において葛城襲津彦が加羅国に渡ったとしている年は、『百済記』で「沙至比跪(襲津彦)が死んだ」と記してから、実に21年後のこととしている。このため弓月の民を倭(日本)に連れて来たのは襲津彦では無い可能性が高い。

葛城襲津彦、酒君を受け取る

仁徳天皇41(353)年3月、百済王の一族の酒君に無礼があったとして紀角が百済王を責める。

このため、百済王は、酒君を鉄の鎖で繋いだ上で、葛城襲津彦に献上している。

葛城襲津彦が最初に『日本書紀』に登場したのが、神功皇后摂政5(205)年である。それから実に約150年後の話であり、襲津彦が関係しているとは到底考えられない。

葛城襲津彦とは

葛城襲津彦は、存在が確かな最初の倭人(日本人)とされている。

それは、倭(日本)よりも遥かに優れた文化を持っていた百済の史書(『百済記』)が断片的にではあるが『日本書紀』に引用されたことに拠る。そして、系図的にも倭の大王(天皇)の外戚と言う形で残されたことにも拠る。

襲津彦の経歴は、朝鮮半島に関わることが伝えられるのみである。

襲津彦の朝鮮半島における軍事行動は、神功皇后摂政5(205)年と神功皇后摂政62(262)年の二度である。

二度とも相手は新羅であると同時に、その二度とも新羅の計略に引っ掛かり、二度目には帰国することもままならずに死去すると言う結果に終わっている(ただし、一度目と二度目の軍事行動の間隔が57年も開いており史実かどうかの認識には注意を要する)。

むしろ、襲津彦が朝鮮半島で行ったこととして主眼を置いて記録されていることは、渡来人の帰化事業、即ち、移民政策のことと言う大きな特徴を持っている。

その渡来人は、襲津彦の本拠である葛城地方で帰化し定着したことが確実とされる。

実際、時代的には襲津彦より少し新しいが「南郷遺跡(極楽寺ヒビキ遺跡を内含する)」は、朝鮮半島から伝えられた文明と技術に満ち溢れる大きな建造物群が立ち並ぶと言う点において、ヤマト王権(大和朝廷)の本拠を遥かに凌ぐ規模であったことが判明している。

ヤマト王権は、圧倒的な実力を持つ襲津彦と結びつくことで王権を維持出来たのであろう。

そして、大王家(皇室・天皇家)の外戚となった襲津彦から始まる葛城氏は、執政たる「大臣」として頂点を極めることとなる。

同時に、葛城氏を外戚とした大王を頂いたヤマト王権(大和朝廷)は、襲津彦が海の向こうを目指したことを後追いするかのように、中国大陸を目指すこととなる(「倭の五王」)。

やがて、「大臣」と「大王(天皇)」の蜜月は、葛城氏と大王家(皇室・天皇家)の相克へと展開する。

その関係はオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が葛城氏を粛清して終わりを告げるが、葛城氏の終焉は、外戚としての葛城氏を喪失した大王家(皇室・天皇家)の男系断絶へと繋がって行くのである。

葛城襲津彦は、倭が朝鮮半島から最新文明と先端技術を受容した時代の象徴であり、東アジアの中における倭のあけぼのをリードした人物だったと言える。

葛城襲津彦の系図

《葛城襲津彦の系図》

武内宿禰━━┳葛城野伊呂売
      ┣波多八代宿禰
      ┣許勢小柄宿禰
      ┣蘇賀石河宿禰
      ┣平群都久宿禰
      ┣木角宿禰
      ┣久米能摩伊刀比売
      ┣若子宿禰
      ┗葛城襲津彦━━━━┳葦田宿禰
                ┣不明━━━━玉田宿禰
                     ┗磐之媛
                  ┃
                  ┣━━━┳履中天皇
                  ┃   ┣住吉仲皇子
                  ┃   ┣反正天皇
                  ┃   ┗允恭天皇
                  ┃
息長帯比売命            ┃
 │                ┃
 ┝━━━━━応神天皇━━━━━━仁徳天皇
 │
仲哀天皇

葛城襲津彦の年表

年表
  • 神功皇后摂政5(205)年
    3月7日
    新羅への人質返還に同行し新羅へ渡海。
  • 神功皇后摂政62(262)年
     
    新羅へ出兵。
  • 応神天皇14(283)年
     
    弓月民を救出するために加羅へ渡海。
  • 応神天皇16(285)年
     
    倭(日本)に帰国。
  • 仁徳天皇41(353)年
    3月
    百済王から酒君を進上される。