大臣【古代ヤマト王権(大和朝廷)の執政豪族】

大臣について

【表記】 大臣
【読み】 おおおみ
【時代】 古代

大臣とは

大和朝廷における最上位の豪族の称号。「大連」と並び政治に参画した。

『日本書紀』によると成務天皇3(133)年に、武内宿禰が「大臣」に任命されたのが最初とされる。

『武内宿禰を以て、大臣としたまふ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

この武内宿禰の「大臣」就任は、一般には史実とは見なされていない。また、武内宿禰の「大臣」職は、あくまでも「大王(天皇)の側近」のような意味合いと解釈されている。

これ以前に景行天皇51(121)年に、景行天皇が稚足彦尊(成務天皇)を皇太子に立てた際、武内宿禰に対して、

『武内宿禰に命して棟梁之臣としたまふ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

としたのが、初出と言える。この「棟梁之臣」は「棟や梁のように重き責任を担って大王(天皇)を支える臣」を意味するものと解される。

実際の日本史上最初の「大臣」は、仁徳天皇の皇后・磐之媛を輩出した葛城氏と見られる。葛城氏は、履中天皇・反正天皇・允恭天皇の外戚となる。

《略系図》

葛城襲津彦━磐之媛
       ┃
       ┣━━━┳履中天皇
       ┃   ┣住吉仲皇子
       ┃   ┣反正天皇
       ┃   ┗允恭天皇
       ┃
応神天皇━━仁徳天皇

葛城氏は、有力な在地系皇別豪族であり、その実力は、大王(天皇)に匹敵するほどのものであったと考えられている。

大臣と大連の並置

即位前に、葛城氏を弾圧した雄略天皇は、即位後、自らの王権(朝廷)を補佐する者として、「大臣」以外に「大連」を設置する。

『平群臣真鳥を以て大臣とす。大伴連室屋・物部連目を以て大連とす』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

これ以降、「大臣」と「大連」は並置されて、大王(天皇)の王権(朝廷)の政治は行われて行くこととなる。しかも、その構成は、「大臣」1名に対して、「大連」は2名(大伴氏1名、物部氏1名)であり、事実上、大臣は、その権力行使に制限を加えられているようなものであった。

台頭する伴造系豪族

前述の通り、雄略天皇は、即位前に、大臣であった葛城円を焼き殺し葛城氏大臣家を弾圧し、自らの政治基盤を磐石にしている。

その尖兵として、大王(天皇)に奉仕する集団である伴造系豪族を抜擢したのである。伴造系豪族の代表としては、大王家(天皇家・皇室)の武力装置たる大伴氏や物部氏が挙げられる。

伴造系豪族に弑逆される大臣家

葛城円の後に大臣となったのは、平群真鳥である。

真鳥は、雄略天皇の代から大臣となったが、雄略天皇の後、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇と短期間で目まぐるしく王位(皇位)が動く中で、不動の大臣として権力を得ていくようになる。

そして、即位前の仁賢天皇が妻にしようと思った物部影媛を、真鳥の子の平群鮪が犯したことを契機として、大王(天皇)と謀議した大伴金村が平群父子を焼き殺してしまうのである。

雄略天皇が葛城円を焼き殺した場合と違い、大臣の殺害を大王(天皇)に提案したのは大伴金村であった。即ち、伴造系豪族が主導して在地系豪族を討伐すると言う日本史上における重要な出来事が起きたのである。また、武烈天皇後、王統(皇統)が断絶し掛けた時に奔走し、継体天皇を擁立したのも大伴金村であった。

しかし、これだけ大王家(天皇家・皇室)に貢献した大伴金村であったが、後に同じ大連の物部尾輿のために失脚させられ、大連は物部氏が独占する。

継体天皇と巨勢氏

継体天皇は、許勢男人(巨勢男人)を大臣とする。

何故、継体天皇が許勢男人を大臣としたのか?その理由は不明である。ただ、継体天皇が大和国に入るのに時間が掛かったことを考えると、あるいは、ヤマト王権(大和朝廷)側の事情で許勢男人が大臣として、継体天皇の下へ派遣されたのかも知れない。

大臣を独占する蘇我氏本宗家

その後、継体天皇の皇子の宣化天皇の時代になると、蘇我稲目が大臣となる。これ以降、蘇我氏に拠り「大臣」は独占されるようになる。

《蘇我氏本宗家(大臣家)直系男子系図》

蘇我稲目━馬子━蝦夷━入鹿

外戚・蘇我稲目

宣化天皇と欽明天皇の時代の「大臣」は蘇我稲目であった。

稲目の仕事は、屯倉に関するものが多く、専ら「経済官僚」のようなものであった。しかし、次第に強大な経済力を持ち始めた上に渡来系帰化人たちを支配下に置く等して実力を蓄えた稲目は、自らの娘を欽明天皇の室に送り込むことに成功する。

大王(天皇)と自分の娘との間に皇子が誕生した場合、その皇子が大王(天皇)になれるのは、在地系皇別豪族の血筋のみであった。この点において、大王家(天皇家・皇室)にいくら重用されても伴造系神別豪族には乗り越えられない大きな壁となっていた。

稲目は、「経済力」と「大王家(天皇家・皇室)との血脈」を築き上げることに邁進したと言える。

《蘇我稲目と欽明天皇》


蘇我稲目┳━━堅塩媛
    ┃   ┃
    ┃   ┣━━━━━┳用明天皇
    ┃   ┃     ┗推古天皇(女帝)
    ┃   ┃       ┃
    ┃  欽明天皇━━━━敏達天皇
    ┃   ┃
    ┃   ┣━━━━━━崇峻天皇
    ┃   ┃
    ┣━━小姉君
    ┗━━馬子

蘇我馬子、大連家を滅ぼす

蘇我馬子は妻を物部氏から迎える等、蘇我氏と物部氏の間には協調していた時期があったようである。

しかし、用明天皇崩御後に、それぞれが推す皇子の皇位継承を巡り、蘇我氏と物部氏は武力衝突することとなる。

所謂『蘇我物部戦争』の原因については「仏教政策」を巡るものとされていた。しかし、近年では、物部氏も仏教寺院(渋川廃寺)を建立していたことが判る等、蘇我氏と物部氏の衝突は「仏教政策」だけでは無く、もっと複雑な要因が絡んでいたとする見方が優勢となっている。

そして、用明天皇2(587)年、「大臣」蘇我馬子が、「大連」物部守屋を滅ぼすに及び、大王(天皇)の下に「大臣」と「大連」が並立すると言う永らくヤマト王権(大和朝廷)が維持して来た政治体制は崩壊し、大王(天皇)の下で唯一の最高執政官たる地位が確立される。ここに至り「大臣」である蘇我氏が持つ権力は大王家(天皇家・皇室)をも凌ぐ強大なものとなった。

実際、崇峻天皇5(592)年、馬子は自らが傀儡の大王(天皇)として王位(皇位)に即けた崇峻天皇に自立の動きが見えると、すぐさま、支配下の東漢氏に命じ、崇峻天皇を暗殺し排斥してしまうほどの権力を握っていた。

《蘇我馬子と大王家(天皇家・皇室)》


蘇我馬子┳━━蝦夷
    ┣━━法堤郎女
    ┃   ┃
    ┃   ┣━━━━━┳古人大兄皇子
    ┃   ┃     ┗布敷皇子
    ┃   ┃
    ┃  舒明天皇
    ┃   ┃
    ┃   ┣━━━━━┳葛城皇子
    ┃   ┃     ┣間人皇女
    ┃   ┃     ┗大海人皇子
    ┃   ┃
    ┃  皇極天皇(女帝)
    ┃
    ┣━━河上娘
    ┃   ┃
    ┃  崇峻天皇
    ┃
    ┗━━刀自古娘
        ┃
        ┣━━━━━━山背大兄王
        ┃
       厩戸皇子

蘇我氏本宗家の崩壊

蘇我馬子の後継者となったのは蘇我蝦夷であった。

蝦夷の時代の特筆すべきこととして、推古天皇後の王位(皇位)を巡り、山背大兄王(蘇我氏本宗家が外戚)を蘇我氏傍流の境部摩理勢が推したことで蘇我氏内部に分裂の兆しが見えたため、摩理勢を殺害したことが挙げられる。このことで、非蘇我氏系の大王(天皇)の舒明天皇・皇極天皇(女帝・舒明天皇の皇后)が相次ぎ即位した。

蝦夷にとって、皇位継承者に推すのは古人大兄皇子(舒明天皇と蘇我法堤郎女との間の皇子)であった。非蘇我氏系の大王(天皇)の存在は、あくまでも古人大兄皇子が即位するまでの「中継ぎ」と見ていたものと思われる。

ところが、王位(皇位)を執拗に窺う山背大兄王を、蝦夷の子の蘇我入鹿が討伐したことで他の豪族たちからの求心力を失うこととなる。

そして、舒明天皇と皇極天皇の間の皇子・中大兄皇子が中臣鎌足と組み引き起こしたクーデターである『乙巳の変』で、入鹿は惨殺され、蝦夷も屋敷に火を放ち自害して果てる。ここに、蘇我稲目以来の繁栄を誇った蘇我氏本宗家(大臣家)は断絶する。

蘇我氏本宗家が滅亡したことで同時に、ヤマト王権(大和朝廷)を代表する存在でもあった「大臣」は、日本史上から姿を消した。

大臣から左右大臣へ

『大化の改新(乙巳の変)』後に成立した改新政権により「大臣」制は廃止された。そして、新たに「左大臣」と「右大臣」を置いた。

「左大臣」と「右大臣」については、「大臣」を一名置くよりも二名にすることで権力の集中を避けたとする説。「大臣」と「大連」を並置したことに倣い、それぞれを「左大臣」と「右大臣」としたとする説等がある。

しかし、左大臣の阿倍内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂は、従来の「大臣」を意識していたようで、「左右大臣」制は実質的には一世代後から機能したようである。

歴代大臣一覧

【天皇名】 【大臣名】
景行天皇
成務天皇
仲哀天皇
応神天皇
武内宿禰
履中天皇
反正天皇
允恭天皇
安康天皇
葛城円
雄略天皇
清寧天皇
顕宗天皇
仁賢天皇
平群真鳥
継体天皇 許勢男人(巨勢男人)
宣化天皇
欽明天皇
蘇我稲目
敏達天皇
用明天皇
崇峻天皇
推古天皇
蘇我馬子
舒明天皇
皇極天皇
蘇我蝦夷

大臣となれる豪族は限られていた

大臣は、葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏が就任している。

これらは全て武内宿禰の後裔を名乗る豪族たちであり、同時に、全て大和国の地名を氏の名とした在地系皇別豪族で、なおかつ、全て「臣」姓の豪族たちである。

即ち、「大臣」は、大王家(天皇家・皇室)と勢力が拮抗し、大王(天皇)を擁立する実力を持った土着の大和国の豪族たちであると言う大きな特徴を有している。

大臣の年表

<成務天皇3(133)年>
武内宿禰が「大臣」に任命される。

<用明天皇2(587)年>
7月、『蘇我物部戦争』で蘇我馬子が勝利する。

<大化元(645)年>
6月14日、従来の「大臣」制は廃止され、代わって「左大臣」・「右大臣」が設置される。

代表的な大臣

安房守

蘇我稲目が有名ですね。

式部卿局

欽明天皇の時代に「大臣」として活躍しました。自分の娘を大王(天皇)の妻とすることで、蘇我氏は、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の
「外戚」と言う立場を得ました。

安房守

蘇我馬子も有名ですね。

式部卿局

蘇我馬子は蘇我稲目の子供です。「聖徳太子の業績」と呼ばれているものの多くは、この馬子の業績とも言われています。

安房守

蘇我蝦夷も「大臣」ですね。

式部卿局

蘇我蝦夷は蘇我馬子の子供です。しかし、馬子のように蘇我氏一族をまとめあげる実力は無かったようで、支族に背かれたりしています。また、政治運営も諸豪族の話し合いに頼る一面もありました。

安房守

エミシー!あ、キビシー!蘇我氏は三世代に渡って「大臣」職を占有していたんですね。

式部卿局

蘇我氏は、日本史の「悪役」とされています。しかし、一方で、蘇我氏がリードした飛鳥時代は、大陸や朝鮮半島の先進文化と技術を取り入れた「古代の文明開化」とも言える時代で、日本史上、最も重要な時代のひとつと言えます。