蘇我稲目【蘇我氏四代の始祖!】

蘇我稲目について

【名前】 蘇我稲目
【読み】 そがのいなめ・そがのいなみ(『上宮聖徳法王帝説』)
【別表記】 宗賀稲目(『古事記』)・巷奇伊奈米(『上宮聖徳法王帝説』)
【通称】 蘇我大臣・蘇我卿・稲目宿禰
【生年】 不明
【没年】 欽明天皇32(570)年
【時代】 飛鳥時代
【官職】 大臣
【父】 蘇我高麗宿禰
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 葛城氏
【子】 蘇我馬子・境部摩理勢・蘇我堅塩媛・蘇我小姉君・蘇我石寸名
【家】 蘇我氏本宗家・蘇我氏大臣家
【氏】 蘇我氏
【姓】

蘇我稲目の生涯

蘇我稲目の生い立ち

蘇我稲目は、系譜では蘇我高麗宿禰の子とされる。

しかし、『公卿補任』の記載以外に稲目と高麗宿禰との間の血縁関係を示す具体的な史料は存在しない。

蘇我氏に関しては、地縁から葛城氏と擬制的な同族関係にあり、当初は葛城氏本宗家の支配下に置かれていた、とする説がある。

それら蘇我氏と葛城氏との関係が、稲目の時代に変化を迎えたと考えられる。

その裏付けが、稲目の子の蘇我馬子が、トヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)に対して、

『葛城縣は、元臣が本居なり。故、其の縣に因りて姓名を爲せり』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と述べた言葉である。

また、稲目の直系の孫となる蘇我蝦夷も、

『蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾の儛をす』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とある。

この馬子の言葉から馬子自身、ないしは馬子の生母が葛城地方出身と見られ、蝦夷が大王(天皇)と同格を意味する「八佾の儛」を行っていることから稲目が入婿として葛城氏本宗家と結んだ可能性が高い。

オオハツセワカタケ大王(雄略天皇)に拠って滅ぼされ男系有力者の中絶した葛城氏本宗家であったが、大王家(皇室・天皇家)に蚕食されつつも残されていた遺産(土地や渡来移民)を相続(あるいは乗っ取りか)して、葛城氏本宗家を蘇我氏と結び付けることで再び構成し直したのが、稲目の青年期だったようである。

蘇我稲目と新大王家

蘇我稲目は、宣化天皇元(536)年に、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)から「大臣」に任命される。

檜隈盧入野宮
(ヒノクマノタカタ大王の檜隈盧入野宮)

ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)は、オオド大王(継体天皇)の第二王子(皇子)で、父の、オオド大王(継体天皇)、次いで兄のマガリ大王(安閑天皇)に続いて王位(皇位)に即いた大王(天皇)である。

《葛城氏の血統と継体天皇》

葛城蟻━━荑姫
      │
      ┝━━━━┳飯豊皇女
      │    ┣顕宗天皇
      │    ┗仁賢天皇━手白香皇女
履中天皇  │           │
 │    │           │
 ┝━━━市辺押磐皇子       │
 │                │
葛城黒媛              │
                  │
                  ┝━━━━欽明天皇
                  │
                 継体天皇
                  │
                  ┝━━━┳安閑天皇
                  │   ┗宣化天皇
                  │
            尾張草香━目子媛

興味深いのは、この父子相続された大王家(皇室・天皇家)にあって唐突に稲目が大臣に任じられたとされることにある。

《継体天皇の政体》

大臣 許勢男人
大連 大伴金村
   物部麁鹿火

オオド大王(継体天皇)は、在地系豪族の巨勢氏を大臣に据えている。

《安閑天皇の政体》

大連 大伴金村
   物部麁鹿火

マガリ大王(安閑天皇)は、大臣を置かなかった。

《宣化天皇の政体》

大臣 蘇我稲目
大連 大伴金村
   物部麁鹿火
大夫 阿倍大麻呂

ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)になって、突如として蘇我氏が大臣とされることになる。

因みに、続くアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)では、

《欽明天皇の政体》

大臣 蘇我稲目
大連 大伴金村
   物部尾輿

と言う人事である。

このことから、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)が稲目を大臣として起用したとする人事については、

『分裂していた安閑・宣化王権と欽明王権とを不自然な形で連続させた結果として起こった年紀上の架上と見なすべきであろう』

(『蘇我氏 古代豪族の興亡 中公新書2353』倉本一宏 中央公論新社)

として『日本書紀』編纂時に捏造されたものと言う見方がされる。

この見方の背景には、越国から畿内へ進出したオオド大王(継体天皇)の王権の後は、マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王権と、葛城氏本宗家に支えられた所謂「河内王権」と女系で繋がるアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の王権が並び立っていたと言う説がある。

そもそも、マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の父とされるオオド大王(継体天皇)についても、『古事記』は43歳で没したとするのに対して、『日本書紀』は57歳で大王に即いたとする等、年代の矛盾が大きい。

マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)からアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)へと順に王位(皇位)が譲られたのか。それともマガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)からアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の各王権は並立していたのか。

その答えは判らない。

マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)からアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)へと順に王位(皇位)が譲られたとした場合を考えてみる

ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の宮である檜隈廬入野宮は、檜前に置かれている。

このことから、

『宣化の実名は檜前高田皇子であるから、彼は即位前より檜前に宮をかまえていたのであろう』

(『渡来氏族の謎』加藤謙吉 祥伝社)

と見られている。

この檜前と言う土地は、渡来移民(渡来人)の東漢氏が拠点としていた土地である。

東漢氏は、軍事に秀でた能力を持つこともあって大王家(皇室・天皇家)の武力装置たる大伴氏の支配下にあった一族である。

つまり想像以上に、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王権も強力であったのではないかと思われるのである。

そして、オオド大王(継体天皇)から始まる新大王家(皇室・天皇家)は、ヤマト王権を支えて来た葛城氏本宗家、及び、葛城氏系の有力豪族とは一切の関係を持っていないため、王権維持のために、何としても関係を持ちたかったのではないかと思われる。

そこに、葛城氏本宗家に入り婿した稲目が、ようやく葛城氏本宗家(葛城氏)の相続(乗っ取り)を終えて登場して来たのが、この時期であったとしたらどうであろう。

ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)としては、何としてでも稲目を自らの政体に組み込みたかったのではあるまいか。

実は、大臣に任命された年に、稲目は、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)から尾張国にある屯倉から穀を運ぶように命じられている。

『蘇我大臣稻目宿禰は、尾張連を遣して、尾張國の屯倉の穀を運ばしむべし』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

この時、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の外戚に連なる尾張氏(尾張連)が稲目の下に配されているのである。しかも、大王(天皇)の命令とは言え、尾張氏の本拠の尾張国に関して、稲目が差配しているのは、やはり注目されることと考えられる。

ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)にとって、稲目を別格の待遇で処するのに見合うほど、稲目の大臣起用は意味があったように思われる。

だが、そのヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)は、僅か数年で亡くなっている。

ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王権で経済政策に非凡な才能を見せた稲目を、次のアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が大臣とするのは当然のことであろう。

一方、マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の王権が並び立っていた場合を考えよう。

マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の「二朝並立」であったした場合、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)としては、大王家(皇室・天皇家)の武力装置である大伴氏を擁して軍事力で遥かに勝るマガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王権に対抗する必要がある。

軍事力に対抗出来得る唯一の力は「経済力」である。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が葛城氏本宗家の相続(乗っ取り)を終えた稲目に目を付けるのは当然と思われる。

つまり、マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の「二朝並立」であったとしても、マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)からアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)へと順調な王位(皇位)継承が行われたのだとしても、この時期の「大臣」に相応しい人物は蘇我稲目しかいなかったのである。

蘇我稲目と欽明天皇

ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の後をアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が継ぐ。

磯城島金刺宮
(アメクニオシハラキヒロニワ大王の磯城島金刺宮)

このアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)はヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)とは違い、薄いとは言え葛城氏本宗家の血を引く大王(天皇)である。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)もヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)に続いて、蘇我稲目を大臣として起用したのは既述の通りである。

注目されるのは、稲目が自分の娘である蘇我堅塩媛と蘇我小姉君の二人を、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の妻に送り込んでいることである。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の他の妻を見ると、大后(皇后)にはヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王女(皇女)であるイシヒメ王女(石姫皇女)が立てられ、同じく、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王女(皇女)のオイシヒメ(小石姫皇女)・ワカアヤヒメ王女(稚綾姫皇女)・ヒカゲ王女(日影皇女)が迎えられ、その他には、和珥氏の春日糠子がいる。

在地系豪族の蘇我氏本宗家から2人の娘を妻に迎えるのは、稲目が葛城氏本宗家の正統な後継者と見做されていたことの証と言よう。

《蘇我稲目と大王家(皇室・天皇家)》

       蘇我稲目━┳馬子
            ┣堅塩媛
            ┃ │
            ┃ └────┐
            ┃      │
            ┗小姉君   │
              │    │
仁賢天皇┳━━手白香皇女  │    │
    ┃   │     │    │
    ┃   │     │┌───┘
    ┃   │     ││
    ┃   ┝━━━━欽明天皇
    ┃   │     │││
    ┃   │     ││└─────────┐
    ┃   │     │└─────────┐│
    ┃   │     └─────┐    ││
    ┃   │           │    ││
    ┃  継体天皇         │    ││
    ┃   │           │    ││
    ┃   ┝━━━━宣化天皇   │    ││
    ┃   │     │     │    ││
    ┃  尾張目子媛  │     │    ││
    ┃         │     │    ││
    ┃         ┝━━━┳石姫皇女  ││
    ┃         │   ┣小石姫皇女 ││
    ┃         │   ┃ │    ││
    ┃         │   ┃ └────┘│
    ┃         │   ┃       │
    ┃         │   ┗日影皇女   │
    ┃         │     │     │
    ┃         │     └─────┘
    ┗━━橘皇女    │
        │     │
        └─────┘

ここに蘇我氏本宗家が大王家(皇室・天皇家)の「外戚」となる下地が作られる。

ただ、実際の婚姻順としては、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王女(皇女)たちや和珥氏の女性が妻に迎えられた後に、堅塩媛と小姉君がアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の妻に迎えられたものと見られる。

蘇我稲目と仏教伝来

蘇我稲目が大臣として務めた時代は、朝鮮半島での戦乱が絶えなかった時代でもある。

それらの朝鮮半島事情を背景として、倭(日本)と朝鮮半島の諸国は外交を行うこととなり、その外交交渉に最高レベル付近から稲目は立ち会っていたと思われる。

中でも、朝鮮半島における百済・新羅・高句麗の紛争は苛烈を極めた状況にあり、百済は、しばしば倭(日本)からの軍事支援を求めている。

その一環として、百済の聖明王(聖王)は、欽明天皇13(552)年に、西部姫氏達率怒唎斯致契等を使者として、

『釋迦佛の金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干巻』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

を献上したとされている。

百済から仏像が贈られたことに、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は欣喜雀躍しつつも、仏教祭祀について、

『朕、自ら決むまじ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とし、仏教を祭祀することについて、

『佛の相貌端嚴そ。全ら未だ曾て有ず。禮ふべきや不や』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と重臣たちに問うた。

そこで、稲目は、

『西蕃の諸國、一に皆禮ふ。豊秋日本、豈獨り背かむや』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、東アジアでは教義に基づいて成立する仏教の受容こそが先進国の証であり、国家として積極的に仏教を受容すべきであると答える。

20世紀以降の世界が「民主主義」と言う共通認識を持つことで先進国と認め合ったように、6世紀の東アジアは「仏教受容」と言う共通認識に拠って互いの国家が先進国と認め合えたのである。

しかし、物部尾輿と中臣鎌子は、倭(日本)は「カミ(神)の国」であるとして国家としての仏教受容を拒絶する。

この時、大伴氏は、朝鮮半島での失態を原因として既に失脚しており、大王家(皇室・天皇家)の武力装置の地位は物部氏が独占している状態で、その物部氏の意向は大きかったのである。

そこで、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、

『情願ふ人稻目宿禰に付けて、試に禮ひ拝ましむべし』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、稲目に仏像を授ける。

これに大いに喜んだ稲目は、小墾田の家に仏像を安置する。

蘇我稲目の小墾田の家
(蘇我稲目の小墾田の家)

さらに、向原の家を浄め仏堂としたのである。

蘇我稲目の向原の家
(蘇我稲目の向原の家)

これは、稲目より以前、継体天皇16(522)年に、

『大唐漢人案部村主司馬達止。此年春二月入朝。即結草堂於大和國高市郡坂田原。安置本尊。歸依禮拝』

(『扶桑略記』国立国会図書館デジタルコレクション)

司馬達等(司馬達止)が仏堂を建てており、それらを参考にしたものと考えられる。

ただ、『日本書紀』の記述だけだと、この時点では、僧が不在であり、単に仏像を安置しているだけに過ぎない状態が続いていたことになる。伽藍の整備は無いとしても、わざわざ自らの屋敷を仏堂(寺院)としたにも関わらず、仏像を眺めるだけと言うのも奇妙な話である。

だが『上宮聖徳法王帝説』には、

『百齊國ノ主明王、始メて佛ノ像経教并びに僧等を度し奉る』

(『聖徳太子集 日本思想大系2』家永三郎 藤枝晃 早島鏡正 築島裕 岩波書店)

仏像・経典、そして、百済の僧侶も倭(日本)に渡来していたことが記されている。

向原にある稲目の仏堂には、渡来移民(渡来人)たちを中心に多くの人民が集まり、

『禮ひ拝ましむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

状態となったことであろう。

すると、倭(日本)で疫病が流行したことを理由として、尾輿と鎌子は、仏像を

『早く投げ棄てて、懃に後の福を求めたまへ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)に進言し、結局、稲目の向原の仏堂(寺院)は焼き討ちされ、仏像は難波江に打ち捨てられてしまうのである。

ただ、

『飛鳥時代の寺院は、蘇我氏をはじめ豪族たちがそれぞれに建立して一族の消災繁栄を祈願したもの』

(『日本の美術 第65号 上代の古代寺院建築』鈴木嘉吉 至文堂)

であって、王権が仏教を国としてどうこうと言う類のものでは無かったことは留意する必要があると思われる。そして、後述するが、蘇我氏本宗家は別に「カミ(神)の祭祀」を捨てたわけでも無い。

なお、倭(日本)に仏教が伝来した年については、宣化天皇3(538)年のこととするのが史実と考えられている。

『上宮聖徳法王帝説』には、

『百齊國ノ主明王、始メて佛ノ像経教并びに僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目宿祢大臣に授ケて興し隆□しむ』

(『聖徳太子集 日本思想大系2』家永三郎 藤枝晃 早島鏡正 築島裕 岩波書店)

と記述されている。

ただ、この宣化天皇3(538)年とした場合、マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の各王権の「二朝並立」の問題が絡んで来ることは留意される。

蘇我稲目と朝鮮半島

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の時代は、朝鮮半島での軍事に関する出来事が多い。

王位(皇位)に即いてすぐの欽明天皇元(540)年には早くも、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が主導して新羅征伐の会議が難波で開かれる。

この会議に参加したのは、大伴金村・許勢稲持・物部尾輿等であって、蘇我稲目は参加していないのは注目される。

なお、この時の会議において、尾輿は新羅を攻撃することの不利を説き、新羅との外交関係悪化の原因を作った金村を糾弾し失脚させている。

オオド大王(継体天皇)・マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)と三代の大王(天皇)に武力装置として仕えた大伴氏が、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が大王(天皇)になった途端に退場しているのは注目されるべき点である。

稲目と朝鮮半島の関係で言うと、「蘇我氏=百済人」説がある。

これの答えとなりそうなのは、仏教伝来前後の倭(日本)と百済の関係を見ると判る。

仏教伝来前後に限定した場合の百済からの軍事支援の要請に応じた倭(日本)の支援内容は以下の通りである。

百済から軍事支援の要請が来ると、それに応じる形で倭(日本)は馬と船と送っている。

欽明天皇6(545)年 5月、百済から支援要請の使者が来る
欽明天皇7(546)年 正月、倭(日本)の支援(軍馬70頭・船10隻)

次に百済から軍事支援の要請が来ると、今度は兵員を送るが、それは築城のための工兵である点は注目される。

欽明天皇8(547)年 4月、百済から援軍の要請
欽明天皇9(548)年 10月、倭(日本)の支援(工兵370人を送り築城)
欽明天皇11(550)年 2月、倭(日本)の支援(箭30具=矢1500本)
欽明天皇12(551)年 3月、倭(日本)の支援(麦1000斛)

仏教伝来直前の百済から軍事支援の要請には、「百済のことを倭(日本)の大王(天皇)が応援しているよ!」と言う返事だけで倭(日本)側は済ませている。

この倭(日本)の対応には、さすがの百済も余程ガッカリしたのか、秘中の秘とも言える最新文化の「仏教」を倭(日本)に伝える。

欽明天皇13(552)年 5月、百済から援軍の要請
同年 5月、倭(日本)の支援(倭の大王のご加護があると言う精神論を返す)
同年 10月、百済は仏教を伝える

しかし、仏教伝来直後の百済から軍事支援の要請に対しては、馬2頭と船2隻と武具だけ送っている。

欽明天皇14(553)年 正月、百済から援軍の要請
同年 6月、倭(日本)の支援(軍馬2頭・船2隻・弓50張・箭50具=矢2500本)

つまり、兵員(歩兵)を送って欲しいと言う百済からの要請には一切答えていないのである。このため、百済側も倭(日本)側からの軍事支援を引き出すために最新文化である仏教を切り札としたと解釈出来る。

しかし、その結果、百済が得ることが出来たのは、馬2頭と船2隻に過ぎず、喉から手が出るほど欲しかった兵員(歩兵)は得られない有様である。

このことをしても「蘇我氏=百済人」説は成立し得ないように思われる。

何故なら蘇我氏が百済人であれば、故国・百済の危機に際し軍事支援のために軍を動かす財政出動を行うはずであるが、一切していない。それよりも、むしろ稲目の存在がヤマト王権内部で大きくなればなるほどに、百済への軍事支援は縮小されているのが現実なのである。

ここで注目すべきは、かつて、

『その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし』

(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波書店)

とされ、馬も知らなかった倭(日本)が、朝鮮半島南部と密接な関係を持つ葛城襲津彦が活躍した時期に新羅から馬の飼育方法を伝授され、

『飼部』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

即ち、馬を飼育する馬飼部(御馬甘)を有するようになり、ようやく駄馬を飼育出来るようになったのである。そして、

『百濟の王、阿直伎を遣して、良馬二匹を貢る』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

百済から良馬を贈られたほど、馬に関して東アジアの中でも最低の知識しか持たなかった後進国の倭(日本)が良馬の飼育技術を会得出来たのである。

馬に関しては完全に出遅れていた倭(日本)が、百済に馬の支援を行えるまでになったことは大いに注目されるべき点である。

この背景にあるものは、渡来移民(渡来人)の尽力であり、彼らを束ねた有力豪族の力であったと言える。

その有力豪族とは、葛城氏本宗家であり、その後を襲った蘇我氏本宗家である。

傍証として、百済から伝えられた良馬は軽に建設された厩で飼育されている。この軽は、東漢氏の拠点であり、稲目が後の仏堂を建てた地である。その東漢氏は、大伴氏の失脚後、蘇我氏本宗家の支配下に置かれている。

さらに、

『日本でふやされた馬を所有しうるようになったとき、また、それらの馬に飾りつける馬具を、日本でつくらねばならないという問題に直面』

(『古墳の話 岩波新書342』小林行雄 岩波書店)

するようになると、登場するのは、馬具製作を生業とする鞍作部である。

『鞍作といえば、鞍につける金銅の金具をつくる技法にも、熟達したはずだからである』

(『古墳の話 岩波新書342』小林行雄 岩波書店)

この鞍作部は、稲目の子の蘇我馬子の時代に、仏師として活躍する鞍作止利(鞍作鳥)が知られる。この止利(鳥)は、稲目の仏堂建設に深く関わったと思われる司馬達等の孫である。つまり、鞍作部と蘇我氏本宗家とは密接な関係を持っていたのである。

さらに、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、仏教伝来の翌年に当たる欽明天皇14(553)年、稲目に対して船の税の管理を命じている。

『蘇我大臣稻目宿禰、勅を奉りて王辰爾を遣して、船の賦を數へ録す』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

稲目は、王辰爾を派遣し、船に掛かる税を帳簿に付け管理している。

稲目の下で実務に当たった王辰爾は、百済の貴須王の末裔であり、この功績を以って船史の姓を授けられたと言う。船氏は渡来移民(渡来人)であり、蘇我氏本宗家の下で活躍した一族として知られる。

つまり、船氏を通して最新の朝鮮半島の造船技術も独占に近い形で、蘇我氏本宗家が有していたと見られる。

このように当時の倭(日本)において、ヤマト王権の中枢にあって馬と船を自在に差配出来る立場にいたのが蘇我氏本宗家の当主の稲目だったのである。

同時に、これらの事実から、馬と船は軍事だけで無く、経済の主役でもあることを勘案すると、渡来移民(渡来人)を介して、朝鮮半島との交易に稲目が深く関与していたことを示唆しているように思われる。

欽明天皇16(555)年には、百済の王子・惠が使者として倭(日本)を訪問し、聖明王(聖王)の死を伝える。

これに、稲目は、

『聖王、妙に天道地理を達りて、名、四表八方に流けり』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、聖明王(聖王)を称えた上で弔いの言葉を掛け、続けて、惠に対して、

『何の術を用てか國家を鎭めむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と尋ね、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の故事を持ち出して、

『神の宮を修ひ理めて、神の靈を祭り奉らば、國昌盛えぬべし』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と百済の祖神を祀るように勧めている。

これらの『日本書紀』の記述からは、稲目が、朝鮮半島の事情に相当通じていたことが窺える。それ故、葛城氏本宗家がかつて渡来移民(渡来人)を介して朝鮮半島との交易を掌握していたように、蘇我氏本宗家もまた朝鮮半島との交易に関与していたものと推測されるのである。

なお、『日本書紀』の敏達天皇元(572)年条には、それを裏付けるかのように蘇我氏本宗家が外交を担っていることが記されている。

もうひとつ注目すべきは、稲目は、東アジアの最先端の仏教祭祀を倭(日本)国内において唯一行っていたが、旧来からの伝統的なカミ(神)の祭祀を捨て去ったわけでは無いことである。百済に対して、カミ(神)の祭祀を勧めていることから見ても明らかと言える。

物部氏との対立は、「蘇我氏=仏教」対「物部氏=神道」と言う単純なステレオタイプの対立では無かったことを示す。

欽明天皇23(561)年になると、朝鮮半島において軍事作戦を行い帰還した大伴狭手彦から高句麗の品と女性を贈られている。

『甲二領・金飾の刀二口・銅鏤鍾三口・五色の幡二竿・美女媛。并て其の従女吾田子を以て、蘇我稻目宿禰大臣に送る』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

狭手彦から稲目への献上は、失脚した大伴氏が蘇我氏本宗家を頼っていたことを示唆すると解されている。

稲目は、この高句麗の女性二人を、

『大臣、遂に二の女を納れて、妻として、輕の曲殿に居らしむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

妻に迎える。

蘇我稲目の軽の曲殿
(蘇我稲目の軽の曲殿)

ただし、この欽明天皇23年は、倭(日本)と友好関係にあった朝鮮半島南部の伽耶(加羅)諸国を新羅が軍事侵略しており、その最中に、倭(日本)が高句麗遠征を行うことは到底不可能と思われることから、実際は欽明天皇11(549)年のことではないかと見られている。

朝鮮半島南部
(朝鮮半島南部)

なお、新羅に蹂躙された朝鮮半島南部の伽耶(加羅)諸国や、同じく新羅からの軍事的圧迫を受ける百済からは多くの脱出者や亡命者が倭(日本)へ渡って来たと考えられる。

『移住者は、当時のわが国の総人口の四分の一にまでふえたとみられる。そのうちの多数が、飛鳥から河内南部に集団的に居住した。彼らの高度な技術が、すべて稲目の支配下に入っていたのである』

(『飛鳥王朝の悲劇 蘇我三代の栄光と没落』大羽弘道 光文社)

そのような脱出者や亡命者を、稲目が、従来から倭(日本)に居住している渡来移民(渡来人)を介して保護下に置くのは当然の流れと思われる。

脱出者や亡命者の中には、王族・文化人・技術者・武人等が当然含まれており、それらを保護することで生じる負担よりも得るものが遥かに多かったことであろう。

こうして、蘇我氏本宗家の「富」と「実力」は、朝鮮半島南部の情勢が追い風となって、稲目の時代に強力なものとなって行く。

蘇我稲目と屯倉

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、蘇我稲目に対して屯倉の設置を命じている。

欽明天皇16(555)年に、吉備国内の五郡に白猪屯倉を設置する。

『蘇我大臣稻目宿禰・穂積磐弓臣等を遣して、吉備の五つの郡に、白猪屯倉を置かしむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

この時、稲目と共に設置に関与した穂積氏(穂積臣)は、物部氏の傍流である。

この穂積氏(穂積臣)からは、継体天皇3(509)年に、穂積押山が百済へ外交使節として赴く等しており、朝鮮半島の事情に通じた一族である。そうして見ると、渡来移民(渡来人)を多く抱える稲目に接近することは、穂積氏(穂積臣)にとってはメリットのあることであったと思われる。

そして、税収を確実なものとするために稲目は画期的な制度変更を行っていることは注目される。

従来は、屯倉に付随する農業地を耕作する人民を部民たる田部とした上で、名簿に名を記載し人民個人に負担させて税を徴収していた。

しかし、名簿は毎年作られるものでは無く、数年どころか10数年と言う単位で変更が無く、その間の人民の増減は一切反映されなかったのである。

そこで、稲目は、名簿で管理する単位を人民から「イエ」単位の田戸として管理するように改めたのである。

これら稲目の施策を立案し実現に奔走したのは、稲目の支配下にある朝鮮半島からの渡来移民(渡来人)たちであったことは想像に難くない。

稲目が導入した施策は効果があったものと見えて、翌欽明天皇17(556)年には、備前国児島郡へ稲目は派遣され、その地に屯倉を設置している。

『蘇我大臣稻目宿禰等を備前の兒嶋郡に遣して、屯倉を置かしむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

備前児島郡
(備前児島郡)

この屯倉の田令には、葛城山田直瑞子が命じられている。

稲目が関わった事業の重要な職に、葛城氏傍流の人材が起用されているのは、やはり稲目が葛城氏本宗家を代表する立場にあったことを意味するものではあるまいか。

さらに同年、

『蘇我大臣稻目宿禰等を倭國の高市郡に遣して、韓人大身狭屯倉。高麗人小身狭屯倉を置かしむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

檜前への屯倉の設置に関与する。

注目されるのは、この檜前は、既述した通りヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の宮である檜隈廬入野宮が置かれた土地であり、東漢氏の拠点のひとつである。

その檜前を稲目が差配している事実は、大伴氏の没落後、大伴氏の支配下にあった東漢氏が、この頃までに蘇我氏本宗家の支配下におかれたことを意味するのであろう。

経済豪族とも評される蘇我氏本宗家の礎を完成させたのは稲目である。

そして、その稲目の背景には、葛城氏本宗家や渡来移民(渡来人)たちが大きく貢献していることを見逃してはならない。

蘇我稲目のまとめ

飛鳥時代における倭(日本)の覇者である蘇我氏本宗家の実質的な始祖が蘇我稲目である。

ただ、稲目が「大臣」となったのが、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の時代であったのか、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の時代であったのかは、はっきりしない。

稲目の大きな特徴として、倭(日本)の有力豪族でありながら、朝鮮半島での軍事行動の経歴を一切持たないことが挙げられる。朝鮮半島のみならず倭(日本)国内においても軍事的経歴を持たない。

その経歴の多くは、蘇我氏本宗家が支配下に置く渡来移民(渡来人)を駆使して新たな枠組みを作り、大王家(皇室・天皇家)の屯倉を設置すると言う経済活動が占めている。

経済的な新しい枠組みを作り出すと言うことは、そこから生じる「利権」を独占すると言う意味合いでもあって、そこは今も昔も同じことである。

さらに、稲目と密接に関係する「仏教伝来」も、稲目が仏像を託されたと言う出来事を、稲目が朝鮮半島との交易と言う「利権」の独占を大王家(皇室・天皇家)から認められたことの象徴として解した場合、「仏教伝来」の本質が見えるように思われる。

蘇我氏本宗家と物部氏大連家との軋轢も朝鮮半島との交易に関する「利権」が主原因とすると理解しやすい。実際、物部氏大連家は朝鮮半島に渡り戦闘しており、それに伴い彼の地で多くの犠牲を出しているはずであり、朝鮮半島における交易の「利権」は譲れない問題であったのではなかろうか。

しかしながら、稲目は、物部氏大連家との直接対決を避けるべく、物部尾輿の娘を、自らの子の蘇我馬子の室としている。

《蘇我氏本宗家と物部氏大連家》

      ┌─────┐
      │     │
     欽明天皇   │
      │     │
蘇我稲目┳堅塩媛    │
    ┣小姉君    │
    ┃ │     │
    ┃ └─────┘
    ┃
    ┗馬子
      │
物部尾輿┳女子
    ┗守屋

この前代未聞の大臣家と大連家との婚姻は、物部氏大連家にとっても蘇我氏本宗家が持つ経済力は魅力である上に、蘇我氏本宗家を介して大王家(皇室・天皇家)とも縁続きとなれる旨味があったと思われる。

こうして、稲目の時代での蘇我氏本宗家と物部氏大連家の直接対決は回避される。

倭(日本)と朝鮮半島において、様々な「経済的利権」を手にした稲目は、「富める蘇我氏本宗家」を「さらに富める蘇我氏本宗家」へと発展させたと言えよう。

しかも、稲目は自分の娘を大王(天皇)の妻とすることに成功している。

これは、当時の王権内において、蘇我氏本宗家が葛城氏本宗家と見做されていたことを意味していよう。それは、血筋と言う観点と共に、稲目が莫大な経済力を保有していたことも関係したと思われる。

即ち、稲目は、蘇我氏本宗家の始祖であると同時に、蘇我氏の血を引く蘇我氏系大王(天皇)を生み出す原点となったのである。

飛鳥時代から奈良時代に至るまで「蘇我氏の血」は、大王家(皇室・天皇家)において「王権の正統性」を担保するものとして極めて重要視されることとなる。

それは、日本史を動かし続けた「外戚」政治の原点と言える。

また蘇我氏傍流の多くが、稲目との血縁を強く主張していることからも判るように、稲目は特別視される人物である。

さらに、稲目と仏教について見ると、稲目がわざわざ自分の屋敷を仏堂に改めてまで仏像を安置したのは、実は仏教がウジ(氏)やイエ(家)の垣根を超えて人々を繋ぐことを知り得ていたからではないかと思われる。

それは、司馬達等の仏堂を訪れた際に、渡来移民(渡来人)たちが次々と集まり僧の下でウジ(氏)やイエ(家)に関係無く個々の一人として仏像を崇める姿を見て肌で感じたのではないだろうか。

旧来の神道は一族の祖神を祀ることでウジ(氏)やイエ(家)の繋がりは出来ても、それが他のウジ(氏)やイエ(家)の人々との全体的な繋がりとはならない(この辺りの繋がりを作ったのが奈良時代に完成した記紀の「神代」の記述である)。

稲目は、仏教を国家の宗教として扱うことはしなかったが、将来的には仏教には国家をまとめる力があることに気付いていたものと考えられる(この場合の仏教は、あくまでも有力者層のみを救済するものではあるが)。

「経典に基づく宗教」は、「法(律令)に基づく国家」と同根だからである。

朝鮮半島と、その先にある大陸を見つめ続けた稲目は、新しい国家の有り様と建設の必要性を強く意識して行動していたのではないか。

しかし、蘇我氏本宗家を葛城氏本宗家に匹敵するまでに自分一代で築き上げた稲目には、それを実現する時間が残されていなかった。

稲目は、自分のやり残した仕事の実現を子の蘇我馬子に託して、その人生に幕を下ろす。

蘇我稲目は、所謂「蘇我氏四代(蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿)」の中では地味な扱いで見られることが多い。

だが、蘇我稲目こそが「飛鳥の巨人」と言う称号に相応しい人物であると言えよう。

蘇我稲目の系図

《蘇我稲目系図》

蘇我稲目┳馬子━┳善徳
    ┃   ┣蝦夷━━━━入鹿
    ┃   ┣倉麻呂━━┳倉山田石川麻呂┳興志
    ┃   ┃     ┃       ┣法師
    ┃   ┃     ┃       ┣赤狛
    ┃   ┃     ┃       ┣女子
    ┃   ┃     ┃       ┣遠智媛
    ┃   ┃     ┃       ┣姪娘
    ┃   ┃     ┃       ┗乳娘
    ┃   ┃     ┃
    ┃   ┃     ┣日向
    ┃   ┃     ┣連子━━━━━┳媼子
    ┃   ┃     ┃       ┣安麻呂━石足━年足
    ┃   ┃     ┃       ┗宮麻呂
    ┃   ┃     ┃
    ┃   ┃     ┗赤兄━━━━━┳常陸娘
    ┃   ┃             ┗大ヌ娘
    ┃   ┃
    ┃   ┣刀自古郎女
    ┃   ┣河上娘
    ┃   ┗法提郎媛
    ┃
    ┣摩理勢
    ┣堅塩媛
    ┣小姉君
    ┗石寸名

蘇我稲目の墓所

蘇我稲目の墓所にはいくつかの候補が挙げられる。

その中でも飛鳥に位置する巨大前方後円墳である五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)が有名なものである。

五条野丸山古墳
(五条野丸山古墳)

ただ、奈良盆地最大の前方後円墳である五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)は、現在ではアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の真陵と見られている。

そのアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の王墓(御陵)として、欽明天皇陵に治定されている平田梅山古墳も稲目の墓所として候補に挙げられている。

平田梅山古墳
(平田梅山古墳)

ただ、こちらも、蘇我蝦夷・蘇我入鹿の双円墳とも見られる等、別の被葬者が考えられている。

このような中、近年、稲目の墓所として俄然注目を浴びているのが、都塚古墳である。

都塚古墳
(都塚古墳)

都塚古墳は、最下段の一辺が約40メートル(41メートルから42メートル)で階段状(4段以上とも6段以上とも)に築かれた方墳であって、その規模は当時の大王(天皇)級の墳墓に匹敵するとされている。

以上、稲目の墓所とされる古墳は、いずれも当時の大王(天皇)級の古墳ばかりであり、稲目から蘇我入鹿へと続く蘇我氏本宗家の実力が如何に凄いものであったのかが窺える。

蘇我稲目の年表

年表
  • 宣化天皇元(536)年
    2月1日
    大臣。
  • 5月1日
    尾張国の屯倉からの籾の輸送を担当する。
  • 宣化天皇4(539)年
    12月5日
    大臣。
  • 欽明天皇2(541)年
    3月
    堅塩媛と小姉君を妃に入れる。
  • 欽明天皇13(552)年
    10月
    仏教伝来。
  • 欽明天皇14(553)年
    7月4日
    船の税を調査する。
  • 欽明天皇16(555)年
    2月
    百済からの使者に審問する。
  • 7月4日
    吉備五郡に白猪屯倉を設置する。
  • 欽明天皇17(556)年
    7月6日
    備前国児島郡に屯倉を設置する。
  • 欽明天皇23(561)年
    8月
    大伴狭手彦から高句麗の品と女性を贈られる。
  • 欽明天皇32(570)年
    3月1日
    死去。