巨勢氏【大臣として継体天皇を支えた豪族!その後、日本美術界のビッグネームに!】

巨勢氏について

【表記】 巨勢氏・許勢氏・己西氏・既洒氏(『百済本紀』)
【読み】 こせし(こせうじ)

巨勢氏とは

【始祖】 武内宿禰(建内宿禰)
【属性】 在地系皇別豪族
【姓】 臣・朝臣(『八色の姓』)

オオヤマトネコヒコクニクル大王(孝元天皇)の流れである武内宿禰(建内宿禰)が始祖とされる。

巨勢氏の本拠地は、大和国巨勢郡と見られている。それは、

『曽我川流域の巨勢谷と称される地域』

(『広報ごせ ふるさと御所 文化財探訪 其の四十一 古墳時代<29>』奈良県御所市文化財課)

である。

また、この地域には、

『金剛山の東方葛城川上流の谷とさらに東側、曽我川の谷の間に巨勢山丘陵』

(『御所市文化財調査報告書 第25集 奈良県御所市 巨勢山古墳群Ⅲ』御所市教育委員会)

が存在し、この巨勢山丘陵には一大古墳群が形成されている。

大和国高市郡巨勢郷と巨勢山古墳群
(大和国高市郡巨勢郷=写真右側と巨勢山古墳群=写真中央から左上にかけての丘陵)

なお、ヤマト王権(大和朝廷)成立以前に大和盆地東部に先住民「コセ氏(居勢祝)」の存在していたことが『日本書紀』に見えている。

『和珥の坂下に、居勢祝といふ者有り』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

この先住民のコセ氏(居勢祝)は、カムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)が「東遷」の名の下に畿内への軍事侵略を行った際に、

『土蜘蛛、並びに其の勇力を恃みて、來庭き肯へにす』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

ために、結局、カムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)たちに虐殺されてしまったと伝えられる。

注目されるのは、カムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)たちがヤマト(大和)を侵略し殺戮した先住民たちの名称で、在地系皇別豪族と同一であるのは、このコセ氏(居勢祝)のみとされることである。

ただ、この先住民のコセ氏(居勢祝)と在地系皇別豪族の巨勢氏との関連性は不明。

また、倭(日本)列島各地に「巨勢部」を名乗る部民が数多く散在していることから、巨勢氏は、想像以上に大きな豪族であったと推測される。

巨勢氏とオオド王(男大迹王・袁本杼王・継体天皇)

オオド王(男大迹王・袁本杼王)が越国から畿内に入ってから巨勢氏は日本史の表舞台に初めて登場する。

多くの部民を倭(日本)列島各地に擁するほどの実力を持つ巨勢氏が何故この時までヤマト王権(大和朝廷)の政治に全く関与していなかったのかは不明である。

ヤマト王権(大和朝廷)を支えて来た葛城氏本宗家がオオハツセワカタケ大王(雄略天皇)に滅ぼされ、その葛城氏本宗家の後釜となった平群氏も大王家(皇室・天皇家)に滅ぼされる。

その結果、自らを支えるべき有力豪族を喪失した大王家(皇室・天皇家)は衰退し男系大王(天皇)の血筋までも断絶してしまうこととなる。

そこで、ヤマト王権(大和朝廷)に残された大王家(皇室・天皇家)の武力装置である伴造たちが実質的に女系で大王家(皇室・天皇家)を存続させるべく越国から招いたのがオオド王(男大迹王・袁本杼王)である。

オオド王(男大迹王・袁本杼王)を抜擢したメンバーの一人が巨勢男人である。

大和国から遠く離れた越のオオド王(男大迹王・袁本杼王)を男人がどういう理由で伴造系豪族たちと共に推挙することになったのかは全く以って不明である。

巨勢氏と伴造系豪族との共通点は倭(日本)列島各地に部民が存在していたことである。

大和国と越国
(大和国と越国)

『日本書紀』は血統をしてオオド王(男大迹王・袁本杼王)を立てたとするが、ホムタ大王(誉田大王・応神天皇)からヲハツセノワカサザキ大王(小泊瀬稚鷦鷯大王・武烈天皇)までの王権運営に、巨勢氏は一切関与していない。

その無関与の王権の血統に巨勢氏が拘った理由は不明である。

オオド王(男大迹王・袁本杼王)は、それまでヤマト王権(大和朝廷)を構成して来た旧来の中小豪族からは総スカンを食らい「ヤマト王権(大和朝廷)の大王(天皇)」でありながら、ヤマト(大和国)入りがなかなか出来なかったことで知られる。

オオド王(男大迹王・袁本杼王)が河内国の樟葉宮で王位(皇位)に即いた際、

『大伴金村大連を以て大連とし、許勢男人大臣をもて大臣とし、物部麁鹿火大連をもて大連とすること、並に故の如し』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

男人は大臣に補されている。

それまで、一度もヤマト王権(大和朝廷)に参加していなかった豪族が、突然、大臣に選任されたのである。

樟葉宮推定地
(樟葉宮推定地)

注目されるのは、

『故の如し』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と記されていることである。これは、ホムタ大王(誉田大王・応神天皇)からヲハツセノワカサザキ大王(小泊瀬稚鷦鷯大王・武烈天皇)までの王権が大臣と大連を置いた先例に倣ったと解釈される。

しかし、オオド王(男大迹王・袁本杼王)が王位(皇位)に即く前の段階から、男人が金村や麁鹿火と共に、オオド王(男大迹王・袁本杼王)に対して、ヤマト王権(大和朝廷)の政治をレクチャーし大王(天皇)になれるように大王(天皇)に即く前から、大臣・大連を模して補佐していたために、そのまま大臣・大連に任命したと解釈した方がオオド大王(男大迹大王・袁本杼大王・継体天皇)と巨勢氏との関係が見えそうである。

しかも、男人は、自分の娘を二人もオオド大王(男大迹大王・袁本杼大王・継体天皇)の大兄のマガリ王子(勾皇子・安閑天皇)の妻としている。

《関係略図》

巨勢男人━━┳胡人
      ┣紗手媛
      ┃ │
      ┃ └─────────┐
      ┃           │
      ┗香香有媛       │
        │         │
尾張目子媛   │         │
 │      │         │
 ┝━━━━┳安閑天皇       │
 │    ┃ │         │
 │    ┃ └─────────┘
 │    ┃
 │    ┗宣化天皇
 │
継体天皇
 │
 ┝━━━━━欽明天皇
 │
手白香皇女

こうして、男人はオオド大王(男大迹大王・袁本杼大王・継体天皇)の王権運営に深く関わって行く。

大臣としての男人に託された主たる仕事は、葛城氏本宗家や平群氏に託された仕事と同じで、朝鮮半島南部との交易である。朝鮮半島南部に含有された鉄の原材料や優良な馬等の確保が何よりも重要とされたのである。

4世紀の葛城氏の時代と6~7世紀の蘇我氏の時代との間に存在したオオド大王(男大迹大王・袁本杼大王・継体天皇)の王権にイレギュラーとして大臣になったのが巨勢氏と言えるのかも知れない。

巨勢氏と蘇我氏

巨勢男人はオオド大王(男大迹大王・袁本杼大王・継体天皇)に肩入れし、大兄のマガリ王子(勾皇子)に娘を嫁がせたものの志半ばで男人は死去する。

その後、巨勢氏から大臣が出ることは無かった。

マガリ王子(勾皇子)の弟のヒノクマノタカタ王子(桧隈高田皇子)が大王となると、大臣に蘇我氏から蘇我稲目が立つ。

そして、稲目が実権を握ると、大王には、ホムタ大王(誉田大王・応神天皇)からヲハツセノワカサザキ大王(小泊瀬稚鷦鷯大王・武烈天皇)へと続いた王権を女系で相続したアメクニオシハラキヒロニワ大王(天国排開広庭大王・欽明天皇)が即く。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(天国排開広庭大王・欽明天皇)は稲目から二人の女性を妻に迎えており、アメクニオシハラキヒロニワ大王(天国排開広庭大王・欽明天皇)の王権の大臣には、引き続き稲目が就くこととなる。

ここに、蘇我氏と大連(大伴氏・物部氏)との協同体制が固まり、巨勢氏は大臣から大夫クラスの地位へ格下げとなる。

それ以降、巨勢比良夫が蘇我馬子に組して物部守屋の討伐に参加する等、蘇我氏の下で命脈を保っている。

ただ、巨勢氏は衰退したわけでは無かった。

例えば、この飛鳥時代(7世紀)に、巨勢氏は水泥南古墳を築造しているが、

『水泥南古墳で特に注目すべきは、追葬された石棺の蓋の縄掛突起と呼ばれる出っ張り部分に施された蓮華文(ハスの花の文様)』

(『広報ごせ ふるさと御所 文化財探訪 其の四十三 古墳時代<31>』奈良県御所市文化財課)

に、巨勢氏の実力が象徴されている。即ち、この蓮華文こそは、

『仏教とする先進的な文化をいち早く取り入れようとする被葬者の姿勢』

(『広報ごせ ふるさと御所 文化財探訪 其の四十三 古墳時代<31>』奈良県御所市文化財課)

を反映したものと解されていることから判るように、決して衰退していたわけでは無く、文化の先取的気風に見られる如く、豪族として、まだまだ充分に有力な存在であった。

巨勢氏の浮き沈み

『乙巳の変』で蘇我氏本宗家が、『蘇我倉山田石川麻呂の変』で蘇我氏傍流が、それぞれ衰退すると、巨勢徳陀(徳陀古)が左大臣に据えられる。

このことからも、飛鳥時代を通して、在地系皇別豪族で蘇我氏に次ぐ実力を有していたのが巨勢氏であったことが判る。

その後に勃発したオオアマ王子(大海人皇子)がオオトモ大王(大友皇子・弘文天皇)への軍事クーデター『壬申の乱』で、巨勢人がオオトモ大王(大友皇子・弘文天皇)側に立ったことで流罪に処される。

しかし、巨勢氏は、数に勝る豪族であり、オオアマ王子(大海人皇子)側に味方した勢力も存在しており、『八色の姓』で「朝臣」姓を下賜されている。

奈良時代には、巨勢奈弖麻呂が大納言となっている。

このように、大臣にはなれずとも政治的に有力な「貴族」として、8世紀の巨勢氏は成長している。

巨勢氏、芸術家となる

巨勢氏の政治的な動静は平安時代初期頃まで見られるが、やがて、藤原氏北家が政治力を増して行くと巨勢氏の姿は政治の中枢から消えて行く。

代わって、蔵人頭等を歴任した巨勢野足の子孫である巨勢金岡が日本独自の画風を用いた絵画(大和絵)の分野で頭角を表すようになる。

その後、金岡の大和絵を引き継ぐ者たちは、巨勢派として、日本文化に大きな足跡を残して行く。

巨勢氏の氏寺

巨勢氏の本拠とされる大和国巨勢郡(御所市古瀬)に飛鳥時代から天武天皇朝の頃の創建と見られる寺院跡が残る。

巨勢寺である。

巨勢寺心塔跡
(巨勢寺心塔跡)

その跡は、昭和時代初期、国史跡に指定されている。

巨勢氏の系図

《巨勢氏系図》

孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命━武内宿禰━━┓
                          ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┣波多八代宿禰 
┣巨勢雄柄(小柄)宿禰┳星川建日子
┃          ┣伊刀宿禰
┃          ┗河上臣━━━男人━胡人━徳陀━黒麻呂
┣蘇我石川(石河)宿禰
┣平群木菟(都久)宿禰
┣紀角宿禰
┣久米能摩伊刀比売
┣怒能伊呂比売
┣葛城長江曾津毘古(襲津彦)
┗若子宿禰


《大和絵巨勢派系図》

巨勢金岡┳望公━深江━広高
    ┣公忠━公茂━公義━深江━弘高
    ┗相見

※系図は諸説あり

巨勢氏の年表

年表
  • 継体天皇元(507)年
    2月4日
    巨勢男人、大臣。
  • 用明天皇2(587)年
    巨勢比良夫、蘇我馬子軍に参加。
  • 大化5(649)年
    4月20日
    巨勢徳陀、左大臣。
  • 天武天皇元(672)年
    8月25日
    巨勢人、流罪。
  • 天平勝宝元(749)年
    4月1日
    巨勢奈弖麻呂、大納言。
  • 弘仁元(810)年
    巨勢野足、蔵人頭。
  • 弘仁3(812)年
    巨勢野足、陸奥出羽按察使。
  • 昭和2(1926)年
    巨勢寺跡が国史跡に指定される。