物部已波美【被災者を救え!私財を人民救済に差し出した地方役人!】

物部已波美について

【名前】 物部已波美
【読み】 もののべのいはみ
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 平安時代
【官位】 外従六位下
【官職】 陸奥国宮城郡権大領
【父】 不明
【母】 不明
【氏】 物部氏

物部已波美の生涯

物部已波美の生い立ち

物部已波美の詳細な経歴は不明である。

已波美は陸奥国宮城郡の権大領と言う職にあったことから、陸奥国宮城郡所縁の人物であったと考えられる。

しかし、已波美が奈良時代に推し進められた蝦夷(エミシ)征伐と対で行われた蝦夷地開拓に伴い移住した人物なのか、それとも東北地方に定住していた蝦夷(エミシ)の末裔なのかは、はっきりしない。

物部已波美と大地震

天長7(830)年正月3日、出羽国で大地震が発生する。

出羽国
(出羽国)

この大地震は、かなりの規模で、陸奥国でも大きな被害が出た。この大地震の余震と見られる地震が、同月8日・12日・22日に平安京でも観測されている。平安京では、これらの地震は単発的なものとして受け取られていたようである。

同月28日になって、出羽国から平安京へ大地震の報告が届き、東北地方の惨状が伝えられる。しかし、藤原冬嗣が天長3(826)年に死去して以来、藤原北家の実力者が不在の体制であって反応が鈍く対応が遅れることになる。

《大地震発生時の公卿》

左大臣  空席
右大臣  藤原緒嗣

大納言  良峯安世
     藤原三守
権大納言 清原夏野

中納言  直世王

参議   小野峯守
     南淵弘貞
     藤原愛発
     三原春上
     藤原吉野

また、この時期は、淳和天皇よりも嵯峨太上天皇が権力を掌握していたことが対応の遅れに繋がった最大の要因と見られる。

嵯峨太上天皇の取り巻きは、人民から搾取することしか考えていない橘氏等、旧態然とした貴族階層が占めていたのである。彼ら旧態然とした貴族階層には人民に施すと言う考えは微塵も無かった。

4月25日になって、ようやく淳和天皇が責任を取る形で、

『如聞、出羽国、地震為災、山河致変、城宇頽毀、百姓無辜、奄遭非命』

(『続日本後紀(上)』全現代語訳 森田悌 講談社学術文庫 講談社)

として、大地震を要因とする大災害の発生が多くの被害を及ぼしている現状を「国家的非常事態」であると認めた上で、

『其百姓居業震陥者、使等与所在吏議量、脱当年租調、並不議民夷、開倉廩賑、助修屋宇、勿使失職、圧亡之倫、早従葬埋』

(『続日本後紀(上)』全現代語訳 森田悌 講談社学術文庫 講談社)

と言うような対策を講じるように勅命が下された。

10月には、出羽国における出挙稲が増加されている。だが、朝廷からの救援は震源地の出羽国に集中し、陸奥国への支援については、ほぼ手付かずのままであった。しかし、嵯峨太上天皇に実権を握られている淳和天皇にとっては出羽国への救援策を出すだけでも精一杯であった。

淳和天皇は、国難の司令塔として、有能でありながらも無私無欲の人である藤原緒嗣(藤原式家)を左大臣に据える。

ところが、このような国内状況にあって、朝廷では橘氏を外戚とする正良皇太子(嵯峨太上天皇の皇子)への譲位の圧力が高まり、淳和天皇から正良皇太子へと皇位が移る。橘氏にとって、一般人民の救済のために国庫を費やそうとする淳和天皇の姿は、自分たちの権益を侵害するだけの存在であったのだろう。

こうして、最重要課題として震災対策と人民救済に取り組んでいた淳和天皇は、嵯峨太上天皇と橘氏が企んだ策謀の前に皇位から追われてしまったのである。

この大地震が発生した当時、物部已波美は恐らく権大領の職に就いていなかったと思われるが、それでも宮城郡司に勤めていた官人であったと考えられる。つまり、被災状況は、その目にしていた。

この後、已波美は権大領に就いたものと見られる。

物部已波美の人民救済

震源地の出羽国と同じくらいに陸奥国における大地震の被害も深刻であった。

陸奥国
(陸奥国)

多数の死傷者が出たところに、農耕地が大地震で壊滅的打撃を受け、溜め池は破壊され、畝は崩れ、畔は穿たれ、地割れは田畑を切り裂いたものと思われる。このため人民は生活苦に陥っていた。いや、生命そのものが危機に晒されていた。

稲を植える人も、稲を植える田も、何もかも喪失してしまったのである。

実際、承和4(837)年4月における陸奥国の状態は以下の如くであった。

『玉造塞温泉石神、雷響振動、昼夜不止、温泉流河、其色如漿、加以山焼谷塞、石崩折木、更作新沼、沸声如雷、如此奇恠不可勝計』

(『続日本後紀(上)』全現代語訳 森田悌 講談社学術文庫 講談社)

4月21日には、陸奥出羽按察使・坂上浄野が百姓の騒擾を奏上している。

『自去年春、至今年春、百姓妖言、騒擾不止、奥邑之民、去居逃出』

(『続日本後紀(上)』全現代語訳 森田悌 講談社学術文庫 講談社)

この状況に、ようやく旧態然とした貴族階層にも動揺が出たようで、藤原緒嗣は、この機を逃さず、8月29日に、陸奥国課丁3269人の課役を5年間免除する勅令を得ている。

しかし、旧態然とした貴族階層が、これまで長らく陸奥国の人民救済を完全に無視した影響は深刻で、陸奥国の状況は一向に良くならず大飢饉が発生した。

このため、承和6(839)年3月4日には、飢饉で民政が成り立たない状況を鑑みて陸奥国百姓3万858人の課役を3年間免除する決定を行っている。因みに、近畿でも食糧事情は逼迫しており、7月21日、畿内諸国に蕎麦を植えさせている。

この状況に、物部已波美は、荒れ果てた田を灌漑するために自らの財産を投げ打ち大規模な溜め池を造成した。

その溜め池の水資源を使い公田八十町余りを灌漑することで死に絶えかけていた宮城郡内の農業を蘇らせたのである。

さらに、自身の私有財産である私稲一万千束を放出し飢え死に寸前にあった多くの陸奥国宮城郡の人民に配って、その生命を救った。

朝廷では、このような已波美の行動を賞して、外従五位下を仮授したのであった。

物部已波美とは

物部已波美は、陸奥国宮城郡権大領と言う地方官であった。

陸奥国宮城郡
(陸奥国宮城郡)

《郡司四等官》

 長官・・・大領 (小郡では領)
 次官・・・少領 (小郡では未設置)
 判官・・・主政 (下郡、小郡では未設置)
 主典・・・主帳

荒廃し疲弊した領内を目の当たりにして、已波美は意を決する。

私費で貯め池を作って荒れていた公田八十町余りを灌漑した上に、さらに、自身の私有財産である私稲一万千束を惜しげもなく分配し、困窮の極みにあった多くの人民たちを救った。

郡司に任命について、『律令』「選叙令」に次のような人物基準が示されている。

『性識清廉にして、時の務に堪へたらむ者』

(『律令』岩波書店)

已波美は、この基準を満たした人物だったのである。

このことが朝廷で大いに評価され官位が与えられたと見られる。

淳和天皇の「人民救済」と言う意志を引き継ぎながら、橘氏や藤原北家に代表される人民のことは虫けら程度にしか見ない旧態然とした自分たちの利権ばかり追求する貴族階層に拒まれ、思うような救済策を立てられなかった左大臣・藤原緒嗣にとって、已波美は、まさに「同志」であった。

命の危機に喘ぎ苦しむ人民のために、自らの持てる財産を差し出す「良心」が、皮肉なことに、この当時「蝦夷地」と呼ばれ朝廷から蔑まれた陸奥国に、それも、氏素性のはっきりしない地方役人の物部已波美に拠って示されたのである。

日本史上でも傑出した「ヒューマニズム」の発露と言える。

こうして、已波美が仮授されて以降、朝廷も全面的では無いながらも人民救済に動いた。

承和7(840)年5月2日、朝廷は諸国に黍(あわ)・稗(ひえ)・胡麻等を植えさせ、同年6月16日には、諸国が飢饉に陥っていることを勘案し、承和2(835)年以前の調庸を免除することを決定している。

翌承和8(841)年2月13日には、飢饉で苦しむ出羽国百姓2万668人の課役を免除した。

このように、物部已波美と言う地方官人が私財を投げ打って行った陸奥国の人民の救済は、ようやくのことで朝廷を動かすことに繋がり実を結ぶかに見えた。

しかし、出羽国での大地震から39年後の貞観11(869)年5月26日に日本史上最大規模とも言われる陸奥国での大地震『貞観地震』が発生するのである。

この『貞観地震』発生時に、已波美がまだ存命であったのかどうか伝える史料は何も無い。

なお、困窮している人民から毟り取るように搾取した税を貪り贅の限りを尽くし「王朝文学」や「貴族文化」なる下らないものに現を抜かしていた所謂「平安貴族」と呼ばれる者たちは誰ひとりとして人民救済のために私財を提供することは無かった。

物部已波美の系図

不明。

物部已波美の年表

年表
  • 承和7(840)年
    3月12日
    外従五位下を仮授される。