目次
平群真鳥について
【名前】 | 平群真鳥 |
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【読み】 | へぐりのまとり |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 仁賢天皇11(498)年 |
【時代】 | 古墳時代 |
【官職】 | 大臣 |
【父】 | 平群木菟 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 不明 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 平群鮪 |
【家】 | 平群氏大臣家 |
【氏】 | 平群氏 |
【姓】 | 臣 |
平群真鳥の生涯
平群真鳥の生い立ち
皇別在地系豪族の平群木菟を父とする。
木菟は平群氏の始祖であり、二代目が平群真鳥である。
母については不明。
父の木菟は、オオサザキ大王(仁徳天皇)と同日に生まれた縁もあり、互いの産所に飛び込んだ鳥の名前を交換したと言う伝承がある。
その伝承に因むものであるのか、木菟以下の平群氏三代は、その名に「真鳥」「鮪」と鳥が付与されている。
平群真鳥、大臣となる
オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は、安康天皇3(456)年、大臣である葛城円に因縁を付け、倭(日本)の政治を動かして来た葛城氏本宗家に対し武力を行使して滅ぼしてしまう。
葛城氏本宗家の権益を掌握したオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は大王(天皇)となり、大王家(皇室・天皇家)の「武力装置」として大伴氏の大伴室屋を大連に据える。
そして同時に、葛城氏本宗家が滅ぼされ動揺する在地系豪族たちを慰撫するかのように、葛城氏本宗家と同じ在地系豪族の中から平群氏の平群真鳥を大臣として起用する。
真鳥は葛城氏本宗家以外から初の大臣である。
オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)が、何故、古代最有力の豪族である葛城氏本宗家の後継として平群氏を抜擢したのか、その理由は判らない。
理由として想像されることを敢えて挙げるなら、真鳥が葛城氏本宗家と縁続きのような関係であった可能性が高いように思われる。
オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が没した後、真鳥は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の子であるシラカ大王(清寧天皇)からも大臣に任命される。
続く、ヲケ大王(顕宗天皇)・オケ大王(仁賢天皇)からも大臣として起用されたと見られるものの記録は残されていない。
『顕宗天皇紀』に、
『大臣・大連等、奏して言さく』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と記述されている程度で、真鳥の名は無い。
しかし、シラカ大王(清寧天皇)以降の大王家(皇室・天皇家)は極めて脆弱であり、皇別在地系豪族の輔弼が必要とされたことは間違い無いものと思われる。
こうして脆弱な大王(天皇)を輔弼する内に、真鳥の下には強大な権力と富が集まるようになったらしい。
オケ大王(仁賢天皇)の子であるヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子・後の武烈天皇)のために、真鳥は宮を建設するが、その宮が完成すると自分の屋敷として使用している。
『太子の爲に宮を營るまねす。了りて即ち自ら居む』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
この辺りの真鳥の在り様は、後の蘇我氏大臣家の蘇我蝦夷と酷似している。
『蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、家を甘檮岡に雙べ起つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰ふ。入鹿の家をば、谷の宮門と曰ふ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
このことから、平群真鳥・鮪と言う父子像は、蘇我蝦夷・入鹿の父子像をモデルにして創作されたものとの説があるほどである。
平群真鳥の最期
4人の大王(天皇)に大臣として仕えた平群真鳥であったが、その最期は驚くほど突然やって来る。
平群氏大臣家滅亡の引き金を引いたのは、『古事記』と『日本書紀』では細部に違いはあるものの真鳥の子の平群鮪とする点で一致している。
それも「女性問題」である。
『古事記』に拠れば、真鳥の子である鮪(平群志毘『古事記』)が歌垣の場で大魚と言う名の美女を得ようとしたの時である。
この二人の仲に、シラカ大王(清寧天皇)の子のヲケ命(袁祁命・弘計皇子・後の顕宗天皇)が割り込んで来る。
このことで、鮪とヲケ命(袁祁命・弘計皇子)は歌合戦を行うこととなる。その果てに、ヲケ命(袁祁命・弘計皇子)は鮪の前に惨敗して哀れな姿を晒すこととなる。
この歌合戦の結果に遺恨を抱いたヲケ命(袁祁命・弘計皇子)は、
『軍を興して志毘臣の家を圍みて、乃ち殺したまひき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
こととなる。
一方、『日本書紀』では、鮪と女性を巡り対立するのは、ヲケ王子(弘計皇子・後の顕宗天皇)では無く、オケ大王(仁賢天皇)の王子であるヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子・後の武烈天皇)となっている。
また、時期も、オケ大王(仁賢天皇)の頃とされている。
しかも、
『鮪臣、來りて、太子と影媛との間を排ちて立てり』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と、恋路を邪魔したのが鮪とされている。
この辺り『古事記』と『日本書紀』とでは印象が全く違うものとなる。
ただ、恋路を邪魔したのは、実はヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)である。
ヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)が物部影媛(父は大連の物部麁鹿火)を妻にしようとしたが、既に鮪と影媛は肉体関係を持つ仲であり、影媛はすっかり鮪の虜となっていたのである。
これを知らないヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)は、影媛と海石榴市と待ち合わせの約束をして、馬に乗って出かけようと考える。
(海石榴市)
そこで、真鳥に馬の供出を求めると、真鳥は、
『官馬は誰が爲に飼養へや、命の随に』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と快く応じる。
しかし、真鳥が馬を供出することは無かったと言う。
その上、海石榴市の歌垣で、ヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)は、鮪と影媛が愛し合っていることを知る。
徹底的にコケにされたヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)は大伴金村に泣きつき、
『大伴連、數千の兵を將て、路に儌へて、鮪臣を乃樂山に戮しつ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
として、鮪は殺害されてしまう。
さらに、大王家(皇室・天皇家)の武力装置たる大伴氏出身の金村は、
『大臣平群眞鳥久しく大臣となりて國政を専斷し諸事驕慢』
(『日本古代史』久米邦武 早稲田大学出版部)
であることを理由に、
『眞鳥の賊、撃ちたまふべし』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と、これを機に平群氏大臣家の討伐を勧め、大伴氏の兵を中心とする軍勢を動員したのである。
金村が動員した軍勢に屋敷を包囲された上で襲撃を受け、真鳥も鮪と共に命を落としてしまうのである。
ここに平群氏大臣家は滅び去る。
平群真鳥が皇室に掛けた呪い
平群真鳥は亡くなる直前に大王家(皇室・天皇家)に対して呪いを掛けている。
『廣く鹽を指して詛ふ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
倭(日本)列島に面する全ての海を指さして、それらの海から採れる塩の全てを大王家(皇室・天皇家)が使えないようにしたのである。
だが、
『詛ふ時に唯角鹿海の鹽をのみ忘れて、詛はず』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とあるように、敦賀の海にだけ呪詛することを忘れてしまう。
(敦賀の海)
これがために、
『角鹿の鹽は、天皇の所食』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
となり、敦賀湾から採れる塩のみは、大王家(皇室・天皇家)が自由に口にすることが出来るようになったと言う。
平群真鳥のまとめ
平群真鳥について、『日本書紀』は、
『大臣平群眞鳥臣、専國政を擅にして、日本に王とあらむと欲ふ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とした奸賊とする。
真鳥に関しては、後世の創作とする説もあるが、葛城氏本宗家を滅亡させたオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が如何様な権力を独占したとしても、伴造系の大連のみで王権を輔弼するには限界があったと見る方が自然であると思われる。
やはり、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、自らの権力を運用する手段として「大臣」を置いたと見るべきであろう。
とりわけ、強烈な個性の塊であったオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が没した後は、弱体化した大王(天皇)が相次ぎ登場しており、
『平群氏が雄略いらい仁賢に至る動揺期の政治を担当し、大伴室屋・物部目が大連として並んでいたが、この時期は平群氏の領導下にあったと考えられる』
(『日本の古代文化 日本歴史叢書』林屋辰三郎 岩波書店)
べきである。
注目されるのは、ヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子・後の武烈天皇)が馬の供出を、真鳥に求めたとする『日本書紀』の記述である。
馬は、経済流通の要であり、もちろん、軍事外交の要でもある。
この馬に関する権益を真鳥がヤマト王権内で掌握していたとされるのは非常に興味深い。
まさに、それこそは、葛城氏本宗家が葛城襲津彦以来、ヤマト王権内で掌握していた権益のひとつと考えられるもので、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が葛城氏本宗家から簒奪した権益のひとつでもあろう。
その権益が真鳥の支配下に置かれていたと言うことは、真鳥が「大臣」として、外戚の力が弱い大王(天皇)が続く中で徐々に政治の実権を掌握して行く内に、ヤマト王権において重きを成していたことを示すものと考えられる。
しかし、その真鳥も子の平群鮪を原因として、大王家(皇室・天皇家)の武力装置である大伴氏に拠って命を奪われることになる。
一連の鮪を巡る物語に出て来る対象となる二人の女性と、その女性を巡りさや当てする二人の王子(皇子)、即ち、ヲケ王子(弘計皇子)とヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)との関係性については、
『争った女性と二人の間には関係を見つけるのが難しい。恐らく某でよかった、それほどの役廻りだったのであろう』
(『河内王家の伝承 〈古事記下巻〉 古事記を読む4』中西進 角川書店)
と考えられ、たいした意味も無い話である。
実際たいした話では無く、むしろ、当時の女性の価値観として、大王家(皇室・天皇家)には目もくれず、好きな男性と結ばれることを第一としていたことが判る程度の話である。
ただ、鮪とヲケ王子(弘計皇子)の関係を見ると、ヲケ王子(弘計皇子)が葛城氏本宗家の血を色濃く引く存在である点が注目される。
オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)とシラカ大王(清寧天皇)と言う葛城氏本宗家の輔弼を得ない「異形の大王(天皇)」の後に、葛城氏本宗家の血を引くヲケ王子(弘計皇子)が大王(天皇)候補として登場する。
一方、鮪は、その「異形の大王(天皇)」から葛城氏本宗家の擬制的後継者として「大臣」に据えられた平群氏大臣家の御曹司である。
両者の間のみならず、平群氏大臣家とヲケ大王(顕宗天皇)・オケ大王(仁賢天皇)との間に何からの軋轢があったとしても至極当然のようにも思われる。
そのことは、「顕宗天皇紀」と「仁賢天皇紀」の本文中において、真鳥を大臣として記述していないことが象徴している。
なお、
『武烈紀繼體紀に古事記に無い物語のあるのは顯宗紀以前のものに於いて古事記』
(『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 岩波書店)
を基本として、後世、
『官府者の手によって述作されたもの』
(『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 岩波書店)
と見られる。
重要なのは、女性にふられた王族(皇族)のために大王家(皇室・天皇家)の武力装置たる大伴氏が仇討を果たしたと言う部分であり、その犠牲となるのが、ヤマト王権の初期から政治を主導して来た葛城氏本宗家の後継者たる平群氏大臣家の父子なのである。
それこそは、
『大和国家の軍事力、経済力をになった大伴・物部氏のような伴造的な豪族が進出』
(『日本の古代文化 日本歴史叢書』林屋辰三郎 岩波書店)
する契機となったのである。
そして、真鳥が大王家(皇室・天皇家)に対して掛けた呪いも、敦賀だけは呪いを掛け忘れたことで、大王家(皇室・天皇家)と敦賀の地が結ばれると言う話に帰結している。
「呪いを掛け忘れた」と言うことは、本来、呪いを掛ける予定のあったもので、それは即ち、真鳥が管轄していたことを意味する。
敦賀の地は、
『海外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いた』
(『福井県史 通史編』福井県)
と言う伝説を有しており、
『敦賀の地には、新羅系の式内社も散見する』
(『福井県史 通史編』福井県)
と言うこの事実からも、
『敦賀に相次いだ朝鮮半島南部からの渡来人とその子孫が定着し発展したことを示唆するもの』
(『福井県史 通史編』福井県)
であり、敦賀が朝鮮半島南部との交易の重要な拠点であったと考えるのが当然である。
(敦賀と朝鮮半島南部)
朝鮮半島南部との交易は葛城氏本宗家の独占事業であり、その交易事業の拠点のひとつである敦賀を管轄していたと見られる真鳥の言動は、葛城氏本宗家の後継者として平群氏大臣家が権力を掌握していたことの証左と言えよう。
そして、この真鳥の呪いの物語が、後に敦賀の所在する越国からオオド王(男大迹王)が王統(皇統)の断絶したヤマト王権の大王(天皇)に迎えられることと密接な繋がりを与える物語となっていることは留意される。
想像を逞しくすれば越国にオオド王(男大迹王)を見出したのは、実際には敦賀と繋がりの深い真鳥だった可能性もある。
だとすれば『日本書紀』にある
『大臣平群眞鳥臣、専國政を擅にして、日本に王とあらむと欲ふ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う記述は、断絶しようとするヤマト王権の王統(皇統)に新たな大王(天皇)を迎えようと動いたのが本当は真鳥だったことを示唆したものとも推測されるが、真相は闇の中に眠る。
ただ確実なことは、平群真鳥の死に拠って、倭(日本)は次の新しい時代である「飛鳥時代」の序章を迎えたと言うことである。
平群真鳥の系図
《平群真鳥系図》 孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命┳武内宿禰━━┓ ┗甘美内宿禰 ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┣波多八代宿禰 ┣巨勢雄柄(小柄)宿禰 ┣蘇我石川(石河)宿禰 ┣平群木菟(都久)宿禰━真鳥━鮪 ┣紀角宿禰 ┣久米能摩伊刀比売 ┣怒能伊呂比売 ┣葛城長江曾津毘古(襲津彦) ┗若子宿禰
平群真鳥の墓所
平群真鳥の墓所は不明である。
平群氏の墳墓については、平群谷古墳群が知られるが、
『古事記や日本書紀に書かれている平群氏の木菟・真鳥・鮪などが大臣として優勢だった時期は五世紀代を中心としており、町内の古墳の時期と合わない』
(『ふるさとへぐり再発見 5 平群氏と平群谷古墳群』奈良県平群町)
ことから、木菟・真鳥・鮪等の所謂「平群氏大臣家」の墳墓について、その場所は、
『五世紀前半の巨大古墳を平群谷の外に求め、平群氏の衰えた後に平群谷に引きこもったとの考え』
(『ふるさとへぐり再発見 5 平群氏と平群谷古墳群』奈良県平群町)
が出されている。
即ち、平群氏大臣家の墓所は、平群谷古墳群以外の地と見られる。
そこで、真鳥が葛城氏本宗家の後継として「大臣」に就いたこと等から葛城の地との関係を推察すると、
『南葛城には前期古墳は少ないが、中期から後期には室大墓・新庄屋敷山・新庄二塚など前方後円墳やさらには大型の円墳や方墳がある』
(『古墳と古代文化99の謎』森浩一 サンポウ・ブックス)
ことから
『特別な理由のある首長の古墳を南葛城に築いた』
(『古墳と古代文化99の謎』森浩一 サンポウ・ブックス)
とする見方もある。
そう考えると、真鳥と鮪の墓所(墳墓)は、葛城氏本宗家の正統な後継者を主張して、大和国の葛城地域に存在する古墳、あるいは第二次世界大戦後の乱開発で消滅した古墳の中に存在した可能性も考えられる。
(葛城地域)
平群真鳥の年表
- 安康天皇3(456)年11月13日大臣。
- 清寧天皇元(480)年正月15日大臣。
- 仁賢天皇11(498)年11月11日殺害される。