大伴武以【葛城氏本宗家登場直前の大伴氏の記憶】

大伴武以について

【名前】 大伴武以
【読み】 おおとものたけもつ
【別表記】 大伴健持
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 古墳時代
【官職】 大夫
【父】 大伴武日(大伴健日)
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 大伴室屋
【氏】 大伴氏
【姓】

大伴武以の生涯

大伴武以の生い立ち

大伴武以は、大伴武日(大伴健日)の子とされる。

大伴氏本宗家の嫡流の出自と言うことになる。

武以の生母や誕生した年、及び、出生地等については一切が不明である。

タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)の頃のヤマト王権では、大夫として、王権を構成する一員となっている。

大伴武以と大王(天皇)の死

ヤマト王権は、熊襲との戦闘のために九州地方へと兵力を展開する。

九州地方
(九州)

仲哀天皇9(200)年、タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)が香椎宮で突然亡くなる。

香椎宮跡
(香椎宮跡)

タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)の死については、タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)が神意に従わなかったためであるとされる。

また一説には、タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)自らが軍を指揮し、熊襲征伐に出陣したものの、熊襲側の兵の放った矢に当たり、戦死したとも言われる。

いずれにせよ、その死については、尋常ではなかった。

このためタラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)の大后(皇后)のオキナガタラシヒメ大后(気長足姫・神功皇后)と、王権の実力者であった大臣の武内宿禰は、混乱と動揺を引き起こすことのないように、大王(天皇)の死を秘匿することを決める。

熊襲征伐戦を経た直後の大王(天皇)の死であり、タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)が亡くなった事実を知ったならば、熊襲が巻き返し戦況が悪化する懸念はもちろんのこと、王位(皇位)継承等の問題も複雑に絡む可能性があった。

そこで、表向きは、

『若し百姓知らば、懈怠有らむか』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

大王(天皇)の死を公表すれば、地方の豪族や人民たちが怠慢な行為を行う可能性が心配であると言うことを理由としている。

実際は、大王(天皇)の死が表沙汰になることで引き起こされるであろう政変の危機に恐れおののいていたのである。

この事態に際し、有力豪族に命じて、百官を率いて、不穏な動きが出ないように、宮の警護に当たらせている。

この時、大王(天皇)の下で警察権を管轄する物部氏と共に、同じく軍事権を管轄する大伴氏の代表として非常事態に備えたのが、大伴武以であった。

警護に当たった豪族は、武以の他は、中臣烏賊津・大三輪大友主・物部膽咋で、いずれも大夫であったと言う。

そして、武以を除く顔ぶれが、皆、祭祀に関する豪族である点も注目されよう。

これ以降、武以の動静は、正史に見えない。

大伴武以のまとめ

『日本書紀』が大伴武以の存在を伝える時代は、ヤマト王権が葛城氏本宗家と結ぶことで飛躍する直前の時代である。

この時代に、武以が実在していたのかどうかは不明としか言えない。

実際、この後、オキナガタラシヒメ大后(気長足姫・神功皇后)が政治を執ったとされる時代の真の中心人物は、葛城襲津彦である。

ただ、『日本書紀』が伝える武以は、父親で大伴氏の祖とされる大伴武日から、有力豪族として、王権内部で「大王(天皇)の武力装置」たる伴造としての職責を引継いだ存在となっている。

この武以の子とされるのが、大伴室屋である。

室屋は、葛城氏本宗家を滅ぼしたオオハツセワカタケ大王(雄略天皇)の王権を支えた人物である。

室屋が「伴造」として王権に関与することの正当性を担保するために、あえて、葛城襲津彦の時代の前のこととして記されたのが武以の伝承であったと言えるのではあるまいか。

それを象徴するかのように、葛城氏本宗家が活躍する直前の大伴武以から葛城氏本宗家の滅亡後の大伴室屋までの系譜は、数百年の年月があるにも関わらず直系父子の関係とされている。

大伴武以の系図

《大伴武以系図》

天忍日命━天津彦日中咋命━日臣命(道臣命)━味日命━稚日臣命━大日命━┓
                                   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗角日命━豊日命━武日命━武以(建持)━室屋┳談━┳金村
                      ┃  ┗歌連
                      ┗御物

大伴武以の年表

年表
  • 仲哀天皇9(200)年
    2月5日
    仲哀天皇、崩御。