宮田光次(宮田喜八郎)

宮田光次(宮田喜八郎)について

【名前】 宮田光次(宮田喜八郎)
【読み】 みやたみつつぐ(みやたきはちろう)
【生年】 不明
【没年】 天正6(1578)年
【時代】 戦国~安土桃山時代
【出仕先】 木下氏家臣・羽柴氏家臣
【父】 不明
【母】 不明
【氏】 宮田氏

宮田光次(宮田喜八郎)の生涯

宮田光次(宮田喜八郎)の生い立ち

宮田光次の出自等は未詳。

羽柴秀吉の尾張時代から、光次は秀吉に仕えていたとされ、しかも、その当時の光次は、まだ少年と言っても良いような年頃であった時とされる。

また、江戸時代に書かれた書物であるが『武家事紀』は、光次のことを「武勇絶倫」と評しており、秀吉が作り上げた初期家臣団の中で、大母衣衆のひとりであった、としている。

宮田光次(宮田喜八郎)の活躍と戦死

秀吉が、天正元年、織田信長から北近江を任されると、宮田光次は、城が置かれた長浜近隣に、250貫文を与えられる。

その光次は、秀吉に従い各地を転戦する。そして、『中国征伐』にも従軍し、天正6(1578)年5月、別所長治が篭城する三木城を攻囲している最中に戦死を遂げる。

なお、この天正6年5月とは、織田信忠が応援部隊を率いて播磨へ出陣した時期と重なる。このため、光次は、秀吉の生え抜きの武将として応援部隊の先鋒に立ち、常に危険に晒される立場にあったものと思われ、まさに敵と対峙する最前線での戦死であったと考えられる。

当時、中国戦線の情勢が見えない状況下での光次の死は、秀吉を大いに悲しませた。

宮田光次(宮田喜八郎)とは

宮田光次は、神子田正治、尾藤知宣、戸田勝隆等と共に、羽柴秀吉の初期家臣団にあって、母衣衆のひとりとして、秀吉を支えた人物であった。これら初期家臣団の中で、真っ先に、この世を去ったのが光次であった。

しかし、この後、秀吉の初期家臣団の多くが不遇な末路を辿ったことと比較すれば、光次は「秀吉の家臣」として幸せな最期を遂げたと言えるのかも知れない。

宮田光次(宮田喜八郎)の年表

<天正元(1573)年>
9月、近江国内に250貫文を与えられる。

<天正6(1578)年>
5月、戦死。