物部尾輿【おこしやす!尾輿です】

物部尾輿について

【名前】 物部尾輿
【読み】 もののべのおこし
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 飛鳥時代
【官職】 大連
【父】 物部荒山(『先代旧事本紀』)
【母】 不明
【兄弟姉妹】 物部奈流(『先代旧事本紀』)
【配偶者】 阿佐姫(『先代旧事本紀』)・如波流姫(『先代旧事本紀』)
【子】 物部守屋・女子(蘇我馬子室)・物部大市御狩(『先代旧事本紀』)
【家】 物部氏本宗家(物部氏大連家)
【氏】 物部氏
【姓】

物部尾輿の生涯

物部尾輿の生い立ち

物部尾輿は、『先代旧事本紀』に拠れば、物部荒山の子として生まれたとされる。

誕生年や生母・出生地等については一切が不明。

尾輿は、大王家(皇室・天皇家)の男系王統(男系皇統)が完全に断絶した時期を体験したことだけは明確である。

この危機に、大臣の許勢男人や大連の大伴金村・物部麁鹿火たちが合議して、越前からオオド王(男大迹王)を招聘することで大王家(皇室・天皇家)がようやくのことで存続されると言う有様であった。

ただ、越前からオオド王(男大迹王)を迎えることにヤマト王権内部では強固に抵抗する動きもあった。実際、オオド王(男大迹王)は大和入りするため無駄に時間を費やさねばならなかった。

推測ではあるが、恐らく物部氏本宗家(物部氏大連家)は、このオオド王(男大迹王)を拒絶した豪族の筆頭格だったのはないだろうか。

そう考えると、物部氏本宗家(物部氏大連家)が、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血を引かないオオド王(男大迹王)と、その王子(皇子)たちに拠る王位(皇位)を中心とする王権の間の政治的動静が不明となる合理的な理由となる。

尾輿について、興味深い逸話が伝わる。

それは、オオド大王(継体天皇)の後を継いだマガリ大王(安閑天皇)の時代のことである。

廬城部枳莒喩の娘の幡媛が、尾輿の珠の首飾りを盗み、大后(皇后)のカスガノヤマダ王女(春日山田皇女)に献上する事件が発生する。

事件はすぐに発覚し、枳莒喩はマガリ大王(安閑天皇)に娘の罪を贖う。

ところが被害者であるはずの尾輿は、マガリ大王(安閑天皇)に首飾りの返還を求めるどころか、

『事の己に由ることを恐りて、自ら安きこと得ず』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、大和国の十市部・伊勢国の来狭々と登伊の贄土師部・筑紫国の胆狭山部を献上しているのである。

明らかに、物部氏本宗家(物部氏大連家)がオオド大王(継体天皇)系の大王(天皇)との関係修復に動き出したと言える。

この背景にあったのは、オオド大王(継体天皇)とオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血を引く大后(皇后)のタシラカ王女(手白香皇女)との間に王子(皇子)が誕生したことがあったと考えられる。

即ち、その王子(皇子)がオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血を引く女系大王(女系天皇)として王位(皇位)に即くことに道筋がついたからではなかったろうか。

女系であっても、歴代のヤマト王権の血を引く大王(天皇)が誕生するのである。

物部尾輿、大連を独占する

ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)が没すると、女系でオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血を引くアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が大王(天皇)となる。

すると、物部尾輿は、宣化天皇4(538)年に、大伴金村と共に大連に任命される。

物部氏本宗家(物部氏大連家)の復権である。

尾輿の大連就任ついては、大連の前任者である物部麁鹿火が没した後に、尾輿の父の物部荒山、もしくは、尾輿が間髪を入れずに就任したように思われがちであるが、『日本書紀』にそのような記述は一切無い。

あくまでも、尾輿の大連職は、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)と一体化したものである。

さて、大連になったばかりの尾輿は、同僚である金村を猛然と批判する。

それは、継体天皇6(512)年に金村が行った所謂「任那4県割譲」問題を、突如蒸し返したものであった。

任那4県
(任那4県)

このため、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)以来の外交政策が、オオド大王(継体天皇)の時代に行き詰まったことで、大王家(皇室・天皇家)の忠実な「伴造」である大伴氏が全責任を負う形で、朝鮮半島南部(伽耶諸国)における権益を百済へ譲歩せざるを得なかった金村は、自らの申し開きをすることも無く隠居する。

約30年前の問題を蒸し返した上で、尾輿は、ヤマト王権に重きを為して来た大伴氏を王権内部の意思決定機関から追放してしまう冷酷さを見せる。

大王家(皇室・天皇家)と共に有り続けて来た大伴氏を、尾輿が、大王(天皇)の傍らから追い払ったと言い換えられよう。

これを以って、尾輿を「陰湿」と見るか、「策士」と見るか、人の判断の別れるところである。

物部尾輿と仏教

伴造として長年の宿敵であった大伴氏をヤマト王権の中枢から追放した物部尾輿は、葛城氏の後継を自負する皇別在地系豪族である蘇我氏本宗家の家長・蘇我稲目と対峙することとなる。

稲目は、大臣として、とりわけ経済面の実務において有能な人物であった。

一方の尾輿に関しては、実務で功績を挙げた記録は一切何も残されていない。

当初、尾輿は稲目との関係を重要視したようで、時期は未詳であるが、娘を稲目の子である蘇我馬子の妻としている。

欽明天皇13(552)年10月、百済の聖明王(聖王)からアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)に対して、金銅仏と仏典等が贈られる。

東アジアの先進共通文化である「仏教」が正式に国家ルートで伝わって来たのである。

それまでに渡来移民たちの間では私的に仏教は信仰されていたものの、ヤマト王権は未だに土俗のシャーマニズムを国家の宗教としていた。

これがために、倭(日本)は、中国の歴代王朝や、朝鮮半島の高句麗・新羅・百済・伽耶諸国からも未開の蛮国と見做されていた。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、この仏像の扱いを諸豪族に諮る。

多くの渡来移民を配下に収める稲目は、倭(日本)が、これ以上、東アジア諸国から未開国扱いをされ蔑まれることが無いよう、これを機に、

『西蕃の諸國、一に皆禮ふ。豊秋日本、豈獨り背かむや』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、国際関係の視点から仏教の重要性を説く。

一方、尾輿は、中臣鎌子と共に、

『我が國家の、天下に王とましますは、恆に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拜りたまふことを事とす。方に今改めて蕃神を拜みたまはば、恐るらくは國神の怒を致したまはむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、仏教の拒絶を訴える。即ち、

『保守主義の物部氏は、神祇に奉仕する中臣氏と聯合して斷然佛教排斥を主張』

(『聖徳太子』稲葉円成 法蔵館 国立国会図書館デジタルコレクション)

した。

このため、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、稲目に仏像を託す。すると、たちまち、疫病が発生し蔓延する事態となった。

尾輿は、ここぞとばかりに、

『昔日臣が計を須ゐたまはずして、斯の病死を致す。今遠からずして復らば、必ず當に慶有るべし。早く投げ棄てて、懃に後の福を求めたまへ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と申し出て、仏像を難波の堀江に捨てさせた。さらに、稲目の向原寺を焼き払い灰燼とした。

向原寺
(向原寺)

すると、たちまちの内に、

『大殿に災』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

が発生してしまう。つまり、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の磯城島金刺宮が焼けてしまったのである。

磯城島金刺宮
(アメクニオシハラキヒロニワ大王の磯城島金刺宮)

金色に輝く仏像を捨てさせ、清められた仏殿に土足で踏み入り建物の焼却を命じたことで、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の王宮に災いを引き起こした尾輿の消息は、これ以降、ぷっつりと途絶える。

物部尾輿のまとめ

物部尾輿は、2つの排斥を行った人物である。

それは「大連からの大伴氏排斥」と「仏教排斥」である。これ以外は正史を見る限りでは一切何も行っていない人物が尾輿である。

大伴氏の排斥から見て行くと、恐らく大伴金村が従来の外交政策の行き詰まりから所謂「任那4県割譲」に踏み切ったことは、尾輿も充分に理解していたものと思われる。

だが、オオド大王(継体天皇)系統の大王(天皇)から女系ではあるものの再びオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の血を引く大王(天皇)にヤマト王権が回帰したことを示すため、「任那4県割譲」を問題にすることで、オオド大王(継体天皇)の外交政策を否定することに意味があったのではないだろうか。

そして、そのオオド大王(継体天皇)の大連であった金村も、新しいアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の時代には相応しくない過去の遺物のように尾輿には感じたことであろう。

尾輿にとって、金村の追放は、オオド大王(継体天皇)系統の大王(天皇)たちの歴史の清算と、大連を独占出来る旨味との、まさに一石二鳥だったでのはあるまいか。

尾輿について語る時、最も重要なのが「仏教排斥」で、それは「国家としての仏教受容の拒絶」である。

仏教を国家の宗教として導入することで、東アジア諸国と共通の価値観を有し、東アジア諸国が備えつつあった律令制度の構築を視野に入れていたと思われる蘇我稲目と尾輿は激しく対立する。

尾輿は仏教を否定していたわけでは無い。

実際、物部氏が建立したと思われる渋川廃寺の存在から判るように、物部氏としても仏教の宗教的意義は認めていた。

尾輿が問題としたのは、仏教が国家の宗教とされることと、仏教導入から発展するであろう律令制度と官位制度(冠位制度)の導入に伴う豪族たちの権益喪失だったと思われる。

前者は神祇を取り仕切っていた物部氏としては譲れないものであった。

後者も伴造として大王(天皇)に直接奉仕することに意味を持つ物部氏にとって、自分たちの権益が官位(冠位)に拠って制限され、官人たちに取って代わられることは許し難いものがあった。

これらを認めることは尾輿には到底出来なかったのであろう。

実は興味深い事実がある。

それは、1世紀に中国へ、4世紀から6世紀初頭にかけて朝鮮半島諸国へ、それぞれ仏教が伝来した当初は、いずれも

『仏教は民間には早く伝わったが、しばしば公権力による圧迫をこうむった』

(『日本古代の国家と仏教』井上光貞 岩波書店)

と言う歴史である。

それは、

『在来の民族的宗教と相容れなかった』

(『日本古代の国家と仏教』井上光貞 岩波書店)

と言う理由からであり、仏教伝来を巡り混乱したのは、倭(日本)だけでは無かったと言う事実である。

従って、仏教を拒む尾輿の存在は、特異な存在と言うわけで無く、むしろ東アジアの視点で見れば、ごく普通の反応であり、ありふれた在り様だった。

そして、もう一点、仏教伝来に関する大きな謎に尾輿は関係している。

それは、仏教伝来の時期の問題である。

『日本書紀』は、仏教伝来を欽明天皇13(552)年のこととする。

しかし、『上宮聖徳法王帝説』は、

『志癸嶋天皇ノ御世に、戊午ノ年ノ十月十二日に、百濟國ノ主明王、始メて佛ノ像經教并びに僧等を度し奉る』

(『聖徳太子集 日本思想大系2』家永三郎 藤枝晃 早島鏡正 築島裕 岩波書店)

とあり、『元興寺縁起』には、

『大倭の国の仏法は、斯帰嶋の宮に天の下治しめしし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度り来たるより創まれり』

(『寺社縁起 日本思想大系20』桜井徳太郎 萩原龍夫 宮田登 岩波書店)

とある。

この

『いずれもほぼ同時代の信頼すべき史料』

(『日本の古代文化』林屋辰三郎 岩波書店)

が仏教伝来の年と伝える「戊午」の年と言うのは、西暦で言うと538年であり、実は、この「戊午」の年がアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の在位期間中には存在しない。

即ち、『上宮聖徳法王帝説』等は、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の在位期間を41年間とするが、『日本書紀』は、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の在位期間を31年間としているからである。

これについては、

『在位四十一年、戊午仏教伝来のほうが史実と合致すると思われる』

(『聖徳太子集 日本思想大系2』家永三郎 藤枝晃 早島鏡正 築島裕 岩波書店)

とされるのが有力である。

このことから所謂「マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)朝とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)朝の二朝並立問題」に行き着く。

仮に、マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)朝とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が並立していたとした場合、マガリ大王(安閑天皇)・ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)朝の大連である大伴金村とアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)朝の大連である尾輿の対立構図も浮かび上がり、先の金村失脚も相当意味合いが変わって来る。

ただ、この「二朝並立問題」は難しい問題であり、結論は簡単には出ない。

いずれにしても、尾輿は国家としての仏教受容には反対の立場を取った。

だが、仏教勢力への弾圧を加えた直後に尾輿の姿は、突如として正史が消え去る。

注目されるのは、尾輿が金銅仏を廃棄し、仏殿を焼き払ったところ、大王(天皇)の王宮から突如出火し、大王(天皇)の住まいが焼けてしまったことである。

仏殿を造り金銅仏を崇めたために疫病が発生したから仏教は邪教であるとした尾輿の主張は、見事なまでに裏返ってしまった。

「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」として大王(天皇)に永年仕えて来た大伴氏を排除して、大王(天皇)に仕える伴造の長として唯一の大連の地位を得た尾輿にとって、自らの行動が原因で、大王家(皇室・天皇家)に災厄を与えたことを意味する。

これは、伴造の長たる大連を務める尾輿に赦されることでは無かった。

恐らく、尾輿は責任を取って、自ら身を退いたのではあるまいか。

中国を中心とする東アジアの新しい時流が、倭(日本)の古(いにしえ)の慣習とぶつかる時に、大連として古の慣習を守ろうとしたのが物部尾輿であった。

その尾輿の意志は、子の物部守屋へと引き継がれることとなる。

物部尾輿の系図

《物部尾輿系図》

      ┌──────┐
      │      │
弓削氏━┳阿佐姫     │
    ┗如波流姫    │
     │       │
     ┝━━━━守屋 │
     │       │
     │┌──────┘
     ││
物部荒山━尾輿━━┳大市御狩
         ┗女子
           │
           ┝━━━蝦夷
           │
     蘇我稲目━馬子

物部尾輿の墓所

物部尾輿の墳墓は不明である。

物部氏本宗家(物部氏大連家)所縁の古墳群の中に、尾輿の墳墓はあるものと思われる。

石上神宮と杣之内古墳群
(石上神宮と周辺の杣之内古墳群)

物部尾輿の年表

年表
  • 安閑天皇元(534)年
    首飾りを盗まれる。
  • 宣化天皇4(538)年
    12月5日
    大連。
  • 欽明天皇元(539)年
    9月5日
    大伴金村を失脚させる。
  • 欽明天皇13(552)年
    10月
    仏教を国教とすることに反対する。