物部麁鹿火【日本最初の「大将軍」!】

物部麁鹿火_肖像
(物部麁鹿火『前賢故実』)

物部麁鹿火について

【名前】 物部麁鹿火
【読み】 もののべのあらかひ(もののべのあらかい)
【別表記】 物部荒甲(『古事記』)
【生年】 不明
【没年】 宣化天皇元(536)年
【時代】 古墳時代
【官職】 大連・大将軍
【父】 物部麻佐良(『先代旧事本紀』)
【母】 須羽直の娘・妹古(『先代旧事本紀』)
【同母兄弟姉妹】 1名あり(『先代旧事本紀』)
【配偶者】 妻あり(名は未詳)
【子】 物部影媛(『日本書紀』)
【氏】 物部氏
【姓】

物部麁鹿火の生涯

物部麁鹿火の生い立ち

物部麁鹿火の父は、『先代旧事本紀』に拠れば、物部麻佐良とされる。

『物部麁鹿火連公。麻佐良大連之子』

(『先代舊事本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

この麻佐良は、須羽直の娘を妻としたと言う。

『須羽直女子妹古爲妻』

(『先代舊事本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

須羽直は、信濃国の諏訪との関係が考えられている。

その須羽直の娘は、麻佐良との間に、

『生二兒』

(『先代舊事本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

と伝わり、そのひとりが麁鹿火とされている。

ただ、麁鹿火の誕生年や誕生地・幼少期等については一切が不明である。

母の出自が須羽直とすれば、信濃国諏訪に何らかの足跡があるのかも知れない。

以上は『先代旧事本紀』に記された内容を本にしたものであって、これが果たして史実であるかどうかは断言出来ない。

とにかく麁鹿火の出自に関しては判らないことが多い。

物部麁鹿火の登場

物部麁鹿火の名が正史『日本書紀』に見えるのは、オケ大王(仁賢天皇)の時代である。

それも、麁鹿火の娘の物部影媛をオハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)が見染めたものの、その影媛は、大臣である平群真鳥の子の平群鮪と既に恋仲となっていたと言うものである。

つまり、「物部影媛の父」と言う立場で『日本書紀』に登場したのである。

しかも、その時、麁鹿火は、既に「大連」と表記されている。

ただし、『古事記』では、オハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)が見染めた娘は菟田首等の娘で大魚としている。

オハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯皇子)の祖父に当たるオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の時代における大連は物部目であった。

そして、『先代旧事本紀』は、麁鹿火の父である物部麻佐良が、麁鹿火の前に大連であったとする。

この目から麁鹿火へと、物部氏本宗家(物部氏大連家)や物部氏傍流を含む物部氏全体の内部において、どのように「大連」が継承されたのかは判らない。

なおかつ、シラカノ大王(清寧天皇)の後は、在地系皇別豪族の雄である葛城氏の血を色濃く引く大王(天皇)たち、即ち、イイトヨ女王(飯豊天皇・飯豊皇女)・ヲケ大王(顕宗天皇)・オケ大王(仁賢天皇)が続いており、『日本書紀』や『先代旧事本紀』が伝えるように、それらの大王(天皇)の下で本当に麁鹿火や麁鹿火の父である物部麻佐良が大連であったかどうかは甚だ疑問である。

以上のことから「物部影媛の父」としての麁鹿火の姿は、執政官としての物部氏を途絶えさせないための創作ではないかとも思える。

一方で、この時期の麁鹿火は、当時、ヤマト王権の最大の実力者であった平群真鳥と姻戚関係を結ぶことに象徴されるように、真鳥とのパイプを持つことで、ヤマト王権内での地位を得られるよう何とか取り入ることに奔走していたのではないかとも考えられる。

いずれにしても、この時期における麁鹿火の実態は不明と言わざるを得ない。

物部麁鹿火と継体天皇

オハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)が没すると、大王家(皇室・天皇家)は男系王統(皇統)が完全に断絶する事態に陥った。

このヤマト王権最大の危機に、大伴金村が越前のオオド王(男大迹王)を推挙したことに対して、物部麁鹿火は、許勢男人と共に、

『枝孫を妙しく簡ぶに、賢者は唯し男大迹王ならくのみ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として同意したとされる。

この時の麁鹿火は、先代のオハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)に大連として仕えたと言う立場である。

ただし、麁鹿火が大連として何をしたのかは一切不明であり、そもそも任命された記録すら『日本書紀』には残されていない。

オオド王(男大迹王)が樟葉宮で王位(皇位)に即くと、麁鹿火は、大伴金村と共に「大連」に任じられている。

樟葉宮推定地
(樟葉宮推定地)

恐らくは、麁鹿火はオオド王(男大迹王)擁立の功績を以ってして、この時初めて大連に任じられたのではなかろうか。

旧来のヤマト王権に参画して来た物部目の系統が、越前からの入り婿であるオオド王(男大迹王)に反発、もしくは様子見の体裁を取ったことで、物部氏の別系統から執政官として抜擢されたのではあるまいか。

継体天皇6(512)年、物部氏傍流で朝鮮半島南部に駐在していた穂積押山を通して、百済から朝鮮半島南部(伽耶・加羅)に倭(日本)が保有していた権益、所謂「任那四県」を割譲するよう求められると言う外交案件が生じる。

任那四県
(任那四県)

オオド大王(継体天皇)は百済への割譲を認めたため、麁鹿火は、百済の外交使節と難波館で会談し、「割譲を認める」と言うオオド大王(継体天皇)の言葉を伝えようとした。

すると、会談に出向こうとする麁鹿火に対して、麁鹿火の妻が国の権益を手放す役目を果たしてしまったならば、

『錦世の刺、詎か口に離りなむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と忠告したことで、麁鹿火が、どうすべきか迷っていると、さらに、妻から、

『疾と稱して宣なせそ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

との入れ知恵を授かり、結局、麁鹿火は仮病を使い役目を降りる。

すると、麁鹿火の妻が予言した通り、

『大伴大連と、哆唎國守穂積臣押山と、百濟の賄を受けたり』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

との噂が流れ、たちまち拡大した。

麁鹿火は、この割譲案件に関わることを忌避したことで、麁鹿火自身と物部氏とは誹りを受けることを逃れている。

物部麁鹿火と『筑紫国造磐井の乱』

継体天皇21(527)年、オオド大王(継体天皇)は、朝鮮半島南部における権益確保のために、近江毛野を派遣しようとする。

この動きに、筑紫国造磐井が、新羅の支援を受けて、九州北中部の肥前・肥後・豊前・豊後を制圧し、近江毛野の行動を抑え込んだ。

筑紫国造磐井の乱
(『筑紫国造磐井の乱』)

そこで、オオド大王(継体天皇)が対策を諮ると、大伴金村が、

『正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と申し出て、征討軍の指揮官に麁鹿火を推挙している。

興味深いのは、出陣に当たって麁鹿火が、

『在昔道臣より、爰に室屋に及るまでに、帝を助りて罰つ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる大伴氏の先例を持ち出していることである。

その上で、麁鹿火は、

『民を塗炭に拯ふこと、彼も此も一時なり。唯天の贊くる所は、臣が恆に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、出陣の決意を述べている。

これを受けて、オオド王(継体天皇)は、自ら斧と鉞を授けた上で、

『長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。専賞罰を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、麁鹿火に対して、九州地方における全権を委ねている。

しかし、『古事記』には、

『物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はし』

(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 校注 岩波書店)

とあり、実際には大伴金村と共に叛乱の鎮圧に当たったようである。

翌継体天皇22(528)年11月、

『大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

こととなる。

筑紫国御井郡
(戦場となった筑紫国御井郡)

しかし、磐井は、ヤマト王権の軍勢を見て逃げ出し隠れてしまったため、

『官軍、追ひ尋ぎて蹤を失ひき』

(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 校注 岩波書店)

有様となり、その炙り出しに苦労したものの、遂に、磐井を見つけ出し斬殺している。

そして、12月、磐井の子の葛子が処刑を恐れて、糟屋屯倉を献上し許しを請う。

ここに、『筑紫国造磐井の乱』は、勃発から2年を経て、ようやくのことで鎮圧された。

物部麁鹿火の晩年

オオド大王(継体天皇)が没した後も物部麁鹿火は、継体天皇25(531)年にヒロクニオシタケカナヒ大王(安閑天皇)から、また、宣化天皇元(536)年にはタケオヒロクニオシタテ大王(宣化天皇)から、それぞれ大連に任じられる。

その年の5月には、

『物部大連麁鹿火は、新家連を遣して、新家屯倉の穀を運ばしむべし』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、徴税の仕事に当たっている。

この新家連は、物部氏の一族と見られている。

しかし、それから数ヶ月後に、麁鹿火は、その生涯を終える。

『物部麁鹿火大連薨せぬ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

物部麁鹿火のまとめ

物部麁鹿火の生涯を見ると、大きな出来事は2点である。

ひとつは、所謂「任那四県割譲」の外交案件である。

百済の外交使節に対し、オオド大王(継体天皇)の言葉を伝える役目を、大臣の許勢男人では無く、また、麁鹿火よりも大連経験が豊富な大伴金村でも無く、わざわざ麁鹿火に、その大役が任されていたと言う事実は見逃せない。

これは、朝鮮半島南部における倭(日本)の経済活動に、麁鹿火が何らかの形で元々関与していたことを示唆していると思われる。

麁鹿火と言う名の表記は、『古事記』の記す

『物部荒甲』

(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 校注 岩波書店)

が本来の表記ではなかったか。

即ち、そこから「荒ぶる甲(甲冑)」たる武具で奉仕する伴造としての麁鹿火の実像が垣間見える。

今も昔も軍事技術や戦術は常に最先端のものが求められるものであり、古代においては、それら最先端の軍事技術や戦術は、中国大陸から朝鮮半島を経て倭(日本)に伝わって来た。

麁鹿火が、武具で奉仕する伴造であるならば、当然、これらの軍事技術や戦術情報を求めて、朝鮮半島南部に足掛かりを保有していてもおかしくは無い。

このことから百済の外交使節との交渉に抜擢されたと思われる。

もうひとつは、『筑紫国造磐井の乱』における麁鹿火の姿である。

オオド大王(継体天皇)は、麁鹿火に対して、

『長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。専賞罰を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

との言葉を与えている。

つまり、九州全域におけるヤマト王権の軍事や人事等の全てを麁鹿火に全権委譲したのである。

この意味は相当に大きい。日本史上、天皇が臣下に国土の一部とは言え、統治権そのものを譲渡した例は、この麁鹿火のみである。対明交渉において「日本国王」を名乗った足利義満でさえも、天皇から国土の一部すら統治権そのものを委ねられることは無かった。

そして、

『物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はし』

(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 校注 岩波書店)

と言う『古事記』の記述から見ると、麁鹿火に対してのみ「大連」の称号を使っているのは、この『筑紫国造磐井の乱』における総指揮官が麁鹿火であることを指し示しており、『日本書紀』の記述と一致する。

ここで注目されるのは、この時点において、物部氏が大伴氏よりも優位に立ったのではないかと言う点にある。

それこそは、最先端の軍事技術や戦術を習得している麁鹿火だからこそ優位に立てたと思われる。

大伴氏は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)以来、忠実な「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」として機能して来たが、オオド大王(継体天皇)の時代に、初めて物部氏が「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」と言う地位を得たのではあるまいか。

それが、

『在昔道臣より、爰に室屋に及るまでに、帝を助りて罰つ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、わざわざ麁鹿火をして、大伴氏の在り方を語らせたのであろう。

即ち、これは「道臣から大伴室屋」までが「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」だったと過去形にしたのである。そして、これより先は「麁鹿火より始まる物部氏が大王(天皇)を輔けて敵対する者を討つ」と宣言したように受け取れる。

実際、麁鹿火が没した後、大伴氏は排斥され、物部尾輿・物部守屋の父子が「大連」としてヤマト王権の中枢に重きを為すこととなる。

このように考えた場合、朝鮮半島南部から得た最先端の軍事技術や戦術情報を基本に軍事テクノクラートとして成り上がった物部麁鹿火は、飛鳥時代における物部氏の在り方を形作ったと言えるのではないだろうか。

物部麁鹿火の系図

《物部麁鹿火系図》

           須和直━妹古
                │
                ┝━┳麁鹿火
                │ ┗子(未詳)
                │
物部伊莒弗┳布都久留━木蓮子━麻佐良
     ┗目━━━━荒山━━尾輿━━守屋


※諸説あり

物部麁鹿火の墓所

物部麁鹿火の墳墓は不明である。

『先代旧事本紀』には、麁鹿火について、

『斎神宮』

(『先代舊事本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

と記していることから、石上神宮において祭祀を司ったと見られる。

この『先代旧事本紀』の記述を史実と見做すことが出来得るのならば、物部氏本宗家(物部氏大連家)所縁の古墳群の中に、物部麁鹿火の墳墓があるのかも知れない。

石上神宮と杣之内古墳群
(石上神宮と周辺の杣之内古墳群)

中でも、杣之内古墳群内に存在する前方後円墳の東乗鞍古墳は注目である。

東乗鞍古墳
(東乗鞍古墳)

注目される所以は、

『玄室内の奥壁寄りには阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式家形石棺が土砂に半分埋もれた状態で現存』

(『物部氏の古墳 杣之内古墳群』天理大学附属天理参考館 天理市教育委員会 編集 天理市教育委員会 発行)

していることである。

この「阿蘇溶結凝灰岩」は、ピンク色をしており別名「馬門石」と呼ばれる珍しい石材で、オオド大王(継体天皇)の真陵とされる今城塚古墳からも、阿蘇溶結凝灰岩を用いた石棺の破片が発見されている。

今城塚古墳
(今城塚古墳)

このことから、東乗鞍古墳は、まず阿蘇山麓から採石される阿蘇溶結凝灰岩を使えるくらいに九州地方と強い関係を持ち、なおかつ、オオド大王(継体天皇)に極めて近しい物部氏の人物と言うことが推測される。

そして、この東乗鞍古墳は、玄室内に阿蘇溶結凝灰岩製の石棺以外に、

『二上山白色凝灰岩製の組合式石棺の底石が残っている』

(『物部氏の古墳 杣之内古墳群』天理大学附属天理参考館 天理市教育委員会 編集 天理市教育委員会 発行)

ことから合葬された人物がいる。これを被葬者の妻と仮定することも出来る。

しかも、

『挂甲の小札や馬具の杏葉などが出土した』

(『物部氏の古墳 杣之内古墳群』天理大学附属天理参考館 天理市教育委員会 編集 天理市教育委員会 発行)

と言う武具を副葬品としていたとの伝承も残る。

東乗鞍古墳は、盗掘等に拠り現在では往時の様子を偲ぶことは難しいが、以上のようなことから、物部麁鹿火と、その妻の墳墓であった可能性が高いように思われる。

物部麁鹿火の年表

年表
  • 仁賢天皇11(498)年
    8月
    娘の影媛が平群鮪と結ばれる。
  • 継体天皇元(507)年
    2月4日
    大連。
  • 継体天皇6(512)年
    12月
    百済への四県割譲を伝える役目を辞退。
  • 継体天皇21(527)年
    6月
    『筑紫国造磐井の乱』。
  • 8月1日
    筑紫国造磐井征伐軍の大将軍となる。
  • 継体天皇22(528)年
    11月11日
    筑紫国造磐井を斬殺。
  • 継体天皇25(531)年
    2月7日
    大連。
  • 宣化天皇元(536)年
    2月1日
    大連。
  • 7月
    死去。