目次
大伴狭手彦について
【名前】 | 大伴狭手彦 |
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【読み】 | おおとものさてひこ(おおとものさでひこ) |
【別表記】 | 大伴佐提比古郎子(『万葉集』)・大伴佐弖彦(『新撰姓氏録』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 古墳時代 |
【官職】 | 大将軍 |
【父】 | 大伴金村 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 大伴磐・大伴咋 |
【配偶者】 | 不明 |
【妾】 | 松浦佐用姫(松浦佐用媛・松浦佐用比売・松浦佐与姫・麻通良佐用比米・麻通羅佐用嬪面・松浦佐用嬪面・麻都良佐欲比売) |
【子】 | 大伴糠手・善徳尼 |
【氏】 | 大伴氏 |
【姓】 | 連 |
大伴狭手彦の肖像
(江戸時代に描かれた大伴狭手彦の肖像『前賢故實』)
大伴狭手彦の生涯
大伴狭手彦の生い立ち
大伴狭手彦は、大伴金村の子として誕生する。
『其の子磐と狹手彦』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
狭手彦は、金村の三男であったと言う。
『金村大連公第三男。狭手彦』
(『日本三代実録』国立国会図書館デジタルコレクション)
狭手彦の誕生年や生母については一切伝わっていない。
父の金村は、オケ大王(仁賢天皇)から大連に任じられて以降、大伴氏大連家の家長としてヤマト王権に参画して来た人物である。
大王家(皇室・天皇家)の男系王統(男系皇統)が断絶した際には、越国からオオド王(男大迹王)を招聘し、大王(天皇)に据えた功労者でもあった。
その金村は、継体天皇6(512)年に、百済からの求めに応じ、朝鮮半島南部に倭(日本)が権益を有していた伽耶(所謂「任那」)の内、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県の割譲した。所謂『任那4県割譲』である。
その後、オオド大王(継体天皇)・マガリ大王(安閑天皇)、そして、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)へと大王(天皇)は代替わりして行く。
このような状況下、狭手彦が、どのような幼少期を過ごし成長したのかは不明である。
大伴狭手彦と朝鮮半島南部(伽耶)
宣化天皇2(537)年、朝鮮半島南部における軍事的バランスが揺らぐ。
(倭と朝鮮半島諸国)
『新羅は國運益々強盛となり』
(『海外交通史話』辻善之助 国立国会図書館デジタルコレクション)
伽耶(所謂「任那」)への侵略を開始した。
このため、ヤマト王権の軍事を担う大伴金村は、事態収拾のため、我が子の大伴磐を筑紫に派遣し、朝鮮半島に近い北部九州の政治を執らせた。
そして、大伴狭手彦には、兵を率いて渡海させ、伽耶(所謂「任那」)の救援に当たらせたのである。
『狹手彦、往きて任那を鎮め、加百濟を救う』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
『狭手彦。宣化天皇世。奉使任那征新羅復任那。兼助百濟』
(『日本三代実録』国立国会図書館デジタルコレクション)
渡海した狭手彦は、伽耶(所謂「任那」)を防衛し、百済の防衛にも寄与したとされる。
ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)が亡くなると、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が王位(皇位)に即く。
すると突然、物部尾輿が、かつて、金村が行った所謂『任那4県割譲』を糾弾したのである。
『大伴大連金村、輙く表請の依に、求むる所を許し賜ひてき。是に由りて、新羅の怨曠むること積年し』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
これを受け、金村は、自邸に引き篭もり失脚する。
ヤマト王権を担って来た金村が失意に沈む姿を、狭手彦がどのように見ていたのか…それを伝える史料は残されていない。
欽明天皇23(562)年正月、新羅が伽耶(所謂「任那」)を蹂躙し滅亡させた。
この事態に、ヤマト王権は、7月に紀男麻呂を大将軍として朝鮮半島南部に派遣するが、軍事機密を新羅側に知られ、百済領へ入り軍事衝突を回避し、事実上、伽耶(所謂「任那」)の救援を断念した。
この結果、
『大將軍紀男麻呂副將軍河邊瓊缶を遣はし兵を將ゐて救援せしられしも效を奏せず、所謂我が國任那の官家なるものは是で以て全滅した』
(『朝鮮史大系 上世史』小田省吾 国立国会図書館デジタルコレクション)
のである。
ところが、翌8月、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、狭手彦を大将軍に任じ数万の兵を指揮させ、朝鮮半島南部に送り込んだとされる。
『天皇、大將軍大伴連狹手彦を遣して、兵數萬を領て、高麗を伐たしむ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
『欽明天皇時。百濟以高麗之寇。遣使乞救。狭手彦復爲大将軍。伐高麗』
(『日本三代実録』国立国会図書館デジタルコレクション)
しかも、如何なる理由からか、狭手彦は、百済の計略を利用して、高句麗を撃破したと言う。
この戦役に関しては、別説に、欽明天皇11(550)年のこととする。
そして、狭手彦は、高句麗の王宮にまで攻め入り、珍宝・七織帳・鉄屋を入手した上で、凱旋帰国したと伝えられる。
ただ、全滅した伽耶(所謂「任那」)の救援のために、何故、新羅や百済よりも北に位置し、しかも、新羅よりも強国である高句麗に対して軍事行動を起こす必要があったのか。大いに疑問は残るところであり、史実としては到底考えられない。
むしろ、狭手彦の兄弟である大伴咋が、後年、遣高句麗使に起用されていることから鑑みて、狭手彦も、同様に外交使節として赴いた可能性が高いように思われる。
実際、『万葉集』には、
『大伴佐堤比古の郎子、特り朝命を被り、使を藩國に奉る』
(『萬葉集 二 日本古典文學大系5』高木市之助 五味智英 大野晋 校注 岩波書店)
とある。
大伴狭手彦と蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)
大伴狭手彦は、高句麗から持ち帰った珍宝・七織帳・鉄屋の内、七織帳を、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)に献上している。
そして、武具や鍾・幡、美女を、大臣であった蘇我稲目に贈っている。
『甲二領・金飾の刀二口・銅鏤鍾三口・五色の幡二竿・美女媛。并て其の従女吾田子を以て、蘇我稻目宿禰大臣に送る』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
狭手彦から稲目への贈り物は、大王(天皇)への献上品よりも多く優れており、このことから、失脚した大伴氏は、その復権を託す意味で蘇我氏本宗家を頼っていたことを示唆すると解されている。
大伴狭手彦と松浦佐用姫(松浦佐用媛)
『肥前国風土記』に、大伴狭手彦が、朝鮮半島南部に渡海するため、肥前国松浦郡にやって来た。
しかし、
『天皇の崩御と長く續いた嵐の爲に暫く此の地に止まった』
(『鏡村史』国立国会図書館デジタルコレクション)
その予期せぬ長期の滞在期間中に、狭手彦は、篠原村の弟日姫子と結ばれた。
『命を奉りて、到り來て、此の村に至り、即ち、篠原の村の弟日姫子を娉びて、婚を成しき』
(『風土記 日本古典文學大系2』秋本吉郎 校注 岩波書店)
渡海する日、狭手彦は、鏡を弟日姫子に贈った。
『分別るる日、鏡を取りて婦に與りき』
(『風土記 日本古典文學大系2』秋本吉郎 校注 岩波書店)
弟日姫子は、渡海する船を見送るため、山の頂に登り、自らの肩に掛けた布を手に取り、狭手彦に向かって振った。この山を今では「褶振峯」と言う。
(「褶振峯」とされる鏡山)
なお、『肥前国風土記』では、この後、弟日姫子のもとに、狭手彦に化けた蛇が訪れたとしている。
『万葉集』第五871の題詞には、狭手彦の妾として松浦佐用姫の名が記されている。
狭手彦が、朝鮮半島南部に渡海するために、愛する狭手彦との別離を余儀無くされた松浦佐用姫の伝承に因むものである。
山上憶良の詠んだ歌は、
『遠つ人松浦佐用比賣夫戀に領巾振りしより負へる山の名』
(『萬葉集 二 日本古典文學大系5』高木市之助 五味智英 大野晋 校注 岩波書店)
とある。
なお、この狭手彦と佐用姫の話には続きがあり、松浦郡に伝承が残されている。
狭手彦は、朝鮮半島に滞在している間に、佐世姫の死を知り、その霊を慰撫しようと願い、
『高麗の國王明王にその事を話すと、丁度高麗では佛教の盛な時だったので、佛像を安置して祭ったらよかろうと言って一つの立派な佛像をこしらへてくれた』
(『鏡村史』国立国会図書館デジタルコレクション)
ので、その仏像を倭(日本)へ持ち帰り、松浦郡に安置して、佐用姫の供養を行ったと言う。
これが赤水観音であるとされる。
狭手彦と松浦佐用姫との悲恋の伝承は、万葉歌人にとって歌の題材に持って来いであったと同時に、後世に伝えるべき古代日本における悲恋の代表物語であった。
大伴狭手彦のまとめ
大伴狭手彦は、父の大伴金村が失脚した後の大伴氏を支えた人物である。
金村失脚後の大伴氏本宗家は、ヤマト王権内部における「大連」の称号を剥奪されると言う屈辱を受けねばならなかった。
狭手彦は、父の金村が失脚した原因となった朝鮮半島政策に深く関与することで、金村の汚名を雪ぐことに奔走している。
欽明天皇23(562)年に、狭手彦が朝鮮半島へ兵を指揮し渡海し、高句麗を打ち破ったとする『日本書紀』の記述は信憑性に欠ける。
当時の朝鮮半島情勢は、
『高句麗の側で積極的に日本に接近し、新羅の強大化を抑制しようとした』
(『日本の古代文化 日本歴史叢書』井上光貞 岩波書店)
時期であって、倭(日本)が高句麗と軍事的な緊張下に対峙する必然性等は存在しない。
この高句麗の政策に呼応するかのように、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の政策としても、
『高句麗との親近策が考えられていた』
(『日本の古代文化 日本歴史叢書』井上光貞 岩波書店)
のである。
高句麗との軍事的行動において、狭手彦が活躍したと言うのは、恐らく、後の『壬申の乱』で軍事的な功績を挙げた大伴氏の「氏(ウジ)」としての格式を上げるための『日本書紀』編纂時における粉飾ではあるまいか。
実際には、『万葉集』が伝えるような外交使節であったものと思われる。
朝鮮半島を舞台に、「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」としての軍事的貢献のみならず外交で活躍する姿こそ、葛城氏本宗家に取って代わった大伴室屋以来の大伴氏本宗家の姿である。
その意味で、外交に辣腕を振るい、高句麗から貴重な文物を得て帰国した狭手彦は、正統な大伴氏そのものであった。
そして、狭手彦は、当時、ヤマト王権内で勃興し、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)へ娘二人(蘇我堅塩媛・蘇我小姉君)を妻として送り込み大王家(皇室・天皇家)と婚姻関係を結んだ蘇我稲目に、大伴氏の未来を託す決断をしている。
この決断に拠り、大伴氏は、ヤマト王権で「大夫」として生き残ったのである。
また、狭手彦は、所謂「佐用姫」伝説の主人公の一人として名を残した。
この悲恋物語は、とりわけ『万葉集』において歌い継がれた。狭手彦は、和歌の一族としての大伴氏にとっても象徴的な存在となったと言える。
このように、軍事的にも政治的も文化的にも、大伴氏にとって極めて重要な位置を占めたのが、大伴狭手彦なのである。
実際、平安時代には、伴善男が自らの系譜について、
『狭手彦之後也』
(『日本三代実録』国立国会図書館デジタルコレクション)
として、大伴狭手彦の存在を、伴氏(大伴氏)一族の始祖と言う扱いにして上奏している。
善男は、狭手彦の直系子孫では無い。ただ、伴氏(大伴氏)一族から見た場合、その「全ての始まりは大伴狭手彦」としたのである。
大伴狭手彦の系図
《大伴狭手彦系図》 大伴金村━┳磐 ┣狭手彦━━糠手 ┗咋
大伴狭手彦の墓所
不明。
大伴狭手彦の年表
- 宣化天皇2(537)年10月1日朝鮮半島南部(伽耶)に出兵。
- 欽明天皇23(562)年8月朝鮮半島に出兵。