巨勢男人【国難期に登場した大臣の真相とは】

巨勢男人について

【名前】 巨勢男人
【読み】 こせのおひと
【別表記】 許勢男人・雀部男人
【生年】 不明
【没年】 継体天皇23(529)年
【時代】 古墳時代
【官職】 大臣
【父】 巨勢河上(『公卿補任』)
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 巨勢胡人・巨勢紗手媛・巨勢香香有媛
【氏】 巨勢氏
【姓】

巨勢男人の生涯

巨勢男人の生い立ち

巨勢男人は、巨勢河上の子とされる。

ただし、男人を河上の子とするのは『公卿補任』のみであって、あまりあてにはならない。

男人は、巨勢氏の拠点とされる巨勢谷周辺の出身と考えられる。

その場所は、倭(日本)の政治を主導した葛城氏本宗家の拠点と考えられる地の南方に位置している。

男人が存在したとされる6世紀初頭から前半と言う時期から見ると、実在が確実視される葛城襲津彦から三世代ほど後の人物と言うことになる。

男人が登場するまでの倭(日本)の状況は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が「大臣」であった葛城円を焼き殺し、倭(日本)の政治・外交に深く関与して来た葛城氏本宗家を滅ぼしてしまう。

次いで、葛城氏本宗家の後継として「大臣」に就いた平群真鳥が大王家(皇室・天皇家)の武力装置たる大伴氏に惨殺され、平群氏大臣家もまた滅亡に追い込まれる。

結果、大王家(皇室・天皇家)は、有力な外戚を失うこととなり、王位(皇位)の男子継承者が断絶してしまうと言う事態に陥る。

そのような倭(日本)におけるヤマト王権の支配体制が危機的状況下にある中で、男人は、巨勢氏の氏の長者として日本史に登場して来るのである。

巨勢男人と継体天皇

6世紀初頭、ヤマト王権の中心である大王家(皇室・天皇家)の王統(皇統)は、直系の男子継承者が不在となったことで実質的に断絶した状況となる。

これに慌てたのが、大王家(皇室・天皇家)の武力装置たる大伴氏である。

理由は至極明瞭簡単で、大王家(皇室・天皇家)が無くては大伴氏の存在そのものが無意味となるからに他ならない。

大連であった大伴金村は、タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)の五世孫のヤマトヒコ王(倭彦王)を大王(天皇)に擁立しようとするが失敗する。

そこで、金村は、改めて物部麁鹿火、そして、巨勢男人と協議して、越国のオオド王(男大迹王)がホムタ大王(応神天皇)の五世孫に当たることから、オオド王(男大迹王)を大王(天皇)として迎えることとする。

この時点で、男人が大臣であったかどうかについては後述するとして、重要なのは、葛城氏本宗家無き後、男人が有力な在地系皇別豪族として「擬制的な葛城氏本宗家」たる立場でヤマト王権に参加していたのではないかと推察される点である。

大和国と越国
(大和国と越国)

男人の拠点である大和国高市郡巨勢と越国との具体的な繋がりははっきりしない。

だが、この時、男人等は、オオド王(男大迹王)について、

『枝孫を妙しく簡ぶに、賢者は唯し男大迹王ならくのみ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と評し、オオド王(男大迹王)の擁立を麁鹿火と共に支持したとされる。

オオド王(男大迹王・袁本杼王)が河内国の樟葉宮で王位(皇位)に即いた際、

『大伴金村大連を以て大連とし、許勢男人大臣をもて大臣とし、物部麁鹿火大連をもて大連とすること、並に故の如し』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、男人は「大臣」に補されたとされる。

樟葉宮推定地
(樟葉宮推定地)

この

『故の如し』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

は、ホムタ大王(応神天皇)からヲハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)までの王権が大臣と大連を置いた先例に倣ったと解釈される。

従って、男人がヲハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)の下で大臣であった事実は無いと見做すのが妥当と考えられる。

オオド大王(継体天皇)から大臣に任命される前から男人のことを「大臣」と『日本書紀』が記述している点から男人がヲハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)の下で大臣であったと主張する説もあるが、『日本書紀』は王位(皇位)に即く前のオオド王(男大迹王)のことを、

『男大迹天皇』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と記述しており、やはり、男人は、オオド大王(継体天皇)の下で初めて大臣になったとするべきであろう。

こうして、男人はヤマト王権の政治に参画して行くこととなる。

巨勢男人と相次ぐ遷都

オオド王(男大迹王)はヤマト王権の中枢である大和国には入れなかった。

その理由については、オオド王(男大迹王)を大王(天皇)とすることを認めないヤマト王権の勢力が、オオド王(男大迹王)の大和国入りを拒んだためと見るのが一般的である。

このため、オオド王(男大迹王)は、越国から河内国交野郡まで進出し、樟葉宮を築いて、その樟葉宮で王位(皇位)に即く。

樟葉宮推定地
(樟葉宮推定地)

次いで、オオド王(男大迹王)は、山背国に入り、同国相楽郡の筒城宮に遷り、さらに、同国乙訓郡の弟国宮に拠点を遷している。

筒城宮
(筒城宮)

弟国宮
(弟国宮)

オオド王(男大迹王)が山背国へ遷った背景の一因として、

『山城神別には物部氏族の白髪部造がいる』

(『桓武天皇』村尾次郎 吉川弘文館)

ことから考えて、

『つまり、山背には白髪部の相当な集団がいたとみてよい』

(『桓武天皇』村尾次郎 吉川弘文館)

とされる。これらヤマト王権の軍事力を構成する白髪部は、

『仁賢天皇の皇女手白香姫に相続された』

(『桓武天皇』村尾次郎 吉川弘文館)

ものであって、このタシラカ王女(手白香皇女)を大后(皇后)としたオオド王(男大迹王)が白髪部の軍事力を支配下に置いたことを意味するものと解されている。

さらに、注目されるのは、これらのオオド大王(継体天皇)の宮が置かれた土地全てが、かつて、ヤマト王権から「穢名」を付けられた土地であると言うことである。

逆に言えば、旧来のヤマト王権に縛られない気風を持つ土地と言える。

そして、オオド大王(継体天皇)が転々とした宮で、男人と最も関係がありそうなのは弟国宮である。

山背国乙訓郡には、「巨勢」と言う地名が存在する。

倭列島(日本列島)各地に多数存在する巨勢部に関わる土地と考えられるが、山背国内における巨勢氏に所縁の土地のひとつだったのである。

尤も乙訓郡内でも弟国宮が置かれた場所から巨勢の地は、かなりの距離があり、弟国宮と巨勢の地との直接的な関係は皆無と思われる。それでも弟国宮造営には、巨勢部が関与した可能性は考えられる。

葛城氏本宗家の擬制的大臣とされた男人が、オオド大王(継体天皇)の下で「大臣」として政治に関与したのは、実際には、この弟国宮だったのではないだろうか。

この弟国宮を経て、ようやくオオド大王(継体天皇)は大和国に入り磐余玉穂宮に拠点を置く。

玉穂宮
(磐余玉穂宮)

巨勢男人と政治

巨勢男人が大臣となった時期は、かつての葛城氏本宗家が大臣を担当していた頃とは大きく様変わりをしている状況下にあった。

とりわけ朝鮮半島南部を巡る政策は、葛城氏本宗家が主としていた「外交・交易」が廃れ、大王家(皇室・天皇家)が武力介入する「軍事」が主となっていたのである。

この結果、

『繼體帝の時、日本の文明は韓地に後れたり』

(『日本古代史』久米邦武 国立国会図書館デジタルコレクション)

と言う悲惨な状況に陥っていた。

つまり、葛城氏本宗家が主導していた時期の国力は富み東アジアの最先端に近づいていたが、大王家(皇室・天皇家)の下で大伴氏や物部氏が実権を掌握し軍事優先にした途端に国力はジリ貧となったのである。

そこで、継体天皇7(513)年には、百済への軍事支援と引き換えに百済から五経博士の段楊爾を迎え、学術の向上を図っている。

ただ、継体天皇6(512)年に朝鮮半島南部の伽耶諸国(所謂「任那」)に倭(日本)が有していた経済的権益の一部(所謂「任那四県」)を百済に譲渡して以来、オオド大王(継体天皇)の政治は朝鮮半島南部の問題に囚われることとなる。

朝鮮半島南部
(朝鮮半島南部)

諸問題の解決策として新羅への出兵が決定され、継体天皇21(527)年6月、新羅へ渡海するため北部九州に進軍した近江毛野に対し、筑紫国造磐井が抵抗し武力衝突に至る。

内戦の勃発である。

そこで、オオド大王(継体天皇)は、

『大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

磐井への対策を議論することとなる。

これが男人が政治に参与した最後の姿である。

翌継体天皇22(528)年、1年半近くの時間を費やしてようやくのことで『磐井の叛乱』は鎮圧され、継体天皇23(529)年になって、毛野が朝鮮半島南部へ渡海したものの、さらに、経済的権益を失っただけに終わる。

倭(日本)の朝鮮半島南部における権益の維持確保の困難が決定的となった継体天皇23(529)年、男人は生涯を終える。

巨勢男人のまとめ

巨勢男人の実像は謎に包まれている。

男人がオオド大王(継体天皇)の下で「大臣」であったとするのも、

『今日では事実ではないとするのが一般的』

(『継体天皇』篠川賢 吉川弘文館)

とされている。

また、天平勝宝3(751)年に、雀部真人が『日本書紀』中の「巨勢男人」は「雀部男人」の誤りであり訂正するように願い出ている。

『雀部朝臣男人爲大臣供奉。而誤紀巨勢男人大臣』

(『續日本紀』経済雑誌社 国立国会図書館デジタルコレクション)

これを受けた当時の巨勢氏の氏長者である巨勢奈氐麻呂がその誤りを認めたことから見て、そもそも

『巨勢男人が実在の人物ではなかった』

(『継体天皇』篠川賢 吉川弘文館)

とする説もある。

ただし、これについては、

『続日本紀では巨勢男人は雀部男人と訂正されますが、後の時代の天武天皇の八姓制定時の事情によりますので問題はない』

(『ふるさと御所 文化財探訪 其の四十一』藤田和尊 御所市文化財課)

と言う解釈もあり、男人の実在性を否定するものではないとされる。

加えて男人が実在した根拠としては、6世紀初頭の巨勢氏の権勢の大きさが挙げられる。

巨勢谷古墳群に築造された古墳に新宮山古墳が存在する。その新宮山古墳の築造時期は、男人から半世紀ほど下がると見られるが、その内部の横穴式石室は、先に安置された箱形石棺の手前に追葬された刳抜式家形石棺が置かれていることで知られる。

『追葬の棺においても刳抜式の家形石棺が採用されている点は特色である』

(『ふるさと御所 文化財探訪 其の四十二』藤田和尊 御所市文化財課)

とされ、通常は後から置かれる棺には簡素な棺が用られるべきところに、刳抜式の家形石棺が使用されているのは全国的にも珍しいものであり、

『このことは、巨勢氏の勢力が並々ならぬものであったこと』

(『ふるさと御所 文化財探訪 其の四十二』藤田和尊 御所市文化財課)

の考古学的な証拠とされる。

そこで、考古学的なアプローチから古墳の石棺に使用される石材が、大王家(皇室・天皇家)・大伴氏等が用いる石材と巨勢氏を含む葛城氏本宗家系が用いる石材との違いに注目し、

『継体の大和盆地定着に抵抗していたのは葛城氏の系統の勢力』

(『継体天皇と朝鮮半島の謎 文春新書925』水谷千秋 文藝春秋)

として、男人は、オオド大王(継体天皇)の畿内進出を拒む筆頭格の象徴だったとする説もある。

この辺りの実際は不明である。

ただ、男人が実在しなかったのだとしても、男人がオオド大王(継体天皇)の畿内進出に対して頑強に抵抗していたのだとしても、オオド大王(継体天皇)が大和入りした後もなお巨勢氏が大きな力を保有していたことは、巨勢谷古墳群の様子を見ても間違い無い。

つまり、オオド大王(継体天皇)は、大王(天皇)としての歴代王権に並ぶ正統性を有するためには、傍流を含めて葛城氏本宗家、あるいは、在地系皇別豪族の血筋を必要としたのではあるまいか。

「男人」と言う名前は象徴的でもあり、それは、換言すれば、個人を指すもので無く、葛城氏系勢力の中でオオド大王(継体天皇)を受け入れた在地系皇別豪族の巨勢氏出身の男性と言う意味合いであったのかも知れない。

系図上では、男人は、自分の娘を二人もオオド大王(継体天皇)の大兄であるマガリ王子(勾皇子・安閑天皇)の妻としている。

こうして、男人はオオド大王(継体天皇)の王権運営に深く関わって行ったのではないだろうか。

《関係略図》

巨勢男人━━┳胡人
      ┣紗手媛
      ┃ │
      ┃ └─────────┐
      ┃           │
      ┗香香有媛       │
        │         │
尾張目子媛   │         │
 │      │         │
 ┝━━━━┳安閑天皇       │
 │    ┃ │         │
 │    ┃ └─────────┘
 │    ┃
 │    ┗宣化天皇
 │
継体天皇
 │
 ┝━━━━━欽明天皇
 │
手白香皇女

ヤマト王権を支えて来た葛城氏本宗家の擬制的氏長者として政治に関与した巨勢男人であったが、その葛城氏本宗家がかつて専権事項としていたとも言える朝鮮半島南部における政策で、政治の場から葛城氏本宗家を排斥した大王家(皇室・天皇家)の関わる諸問題が続出する中で生涯を終える。

やがて、オオド大王(継体天皇)のもうひとりの王子(皇子)であるアメクニオシハラキヒロニワ王子(天国排開広庭皇子)に組し、葛城氏本宗家(または傍流)出身の女性の婿となった蘇我稲目が「経済・財政」を武器として台頭して来るのである。

葛城氏本宗家と蘇我氏本宗家と言う大きな存在の間に挟まれた形であるが、ヤマト王権の危機を支えた群像の中にいた一人が巨勢男人と言えるのかも知れない。

巨勢男人の系図

《巨勢男人系図》

孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命┳武内宿禰━━┓
                   ┗甘美内宿禰 ┃
                          ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┣波多八代宿禰
┣巨勢雄柄(小柄)宿禰━河上━男人┳胡人
┃                ┣紗手媛
┃                ┗香香有媛
┃
┣蘇我石川(石河)宿禰
┣平群木菟(都久)宿禰
┣紀角宿禰
┣久米能摩伊刀比売
┣怒能伊呂比売
┣葛城長江曾津毘古(襲津彦)
┗若子宿禰

巨勢男人の墓所

巨勢男人の墓所の有力候補としては、市尾墓山古墳が挙げられる。

市尾墓山古墳
(市尾墓山古墳)

『河上邦彦さんはこの古墳の被葬者を許勢男人に当てています。古墳の築造時期のほか巨勢谷という立地条件、そしてこの地域で画期となる大形古墳の出現という条件が揃っています』

(『ふるさと御所 文化財探訪 其の四十一』藤田和尊 御所市文化財課)

とされる市尾墓山古墳は、全長66メートルの前方後円墳である。

その横穴式石室は、

『玄室の奥壁側にも通路があり、石室完成間近になってその通路の空間を、玄室の内側から石材を積んで塞ぐ』

(『ふるさと御所 文化財探訪 其の四十一』藤田和尊 御所市文化財課)

と言う形式になっており、それは、家形石棺の蓋を石棺本体に載せるには、

『大変合理的な構造となっている』

(『ふるさと御所 文化財探訪 其の四十一』藤田和尊 御所市文化財課)

もので、その築造に当たっては最先端の知識や技術が用いられていることが判り、副葬品は、

『鞍をはじめとする金銅装馬具、金銅装胡籙など煌びやかなもの』

(『ふるさと御所 文化財探訪 其の四十一』藤田和尊 御所市文化財課)

で、

『被葬者の生前における権勢の大きさ』

(『ふるさと御所 文化財探訪 其の四十一』藤田和尊 御所市文化財課)

が窺い知れる。

市尾墓山古墳の築造技術や副葬品を見ても、それは「大臣」クラスの人物が眠る奥津城に充分相応しいものと言える。

文献上だけで判断し男人の存在を架空とする説があるが、考古学的に見れば、男人の実在は充分に確実性を帯びるものと考えられる。

巨勢男人の年表

年表
  • 継体天皇元(507)年
    2月4日
    大臣。
  • 継体天皇5(511)年
    10月
    山背国筒城宮に遷る。
  • 継体天皇12(518)年
    3月9日
    山背国弟国宮に遷る。
  • 継体天皇20(526)年
    3月9日
    大和国磐余玉稲宮に遷る。
  • 継体天皇21(527)年
    6月
    『磐井の乱』について議論。
  • 継体天皇23(529)年
    9月
    死去。