秦酒公【秦氏の始祖!日本最大の渡来移民集団を束ねた男の真実とは】

秦酒公について

【名前】 秦酒公
【読み】 はたのさけきみ(はだのさけきみ)
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 古墳時代
【官職】 大蔵長官
【父】 普洞王
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 秦意美
【氏】 秦氏(太秦氏)
【姓】 公

秦酒公の肖像

秦酒公
(江戸時代に描かれた秦酒公の肖像『前賢故実』)

秦酒公の生涯

秦酒公の生い立ち

秦酒公は、系譜の上では、普洞王の子とされる。

『普洞王。男秦公酒』

(『新撰姓氏録』国立国会図書館デジタルコレクション)

誕生した年や生母については不明。

酒公は、ホムタ大王(応神天皇)の応神天皇14(283)年に、

『弓月君、百濟より來歸り』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

して来た朝鮮半島南部からの渡来移民を出自とし、

『葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とあるように、葛城氏本宗家(葛城氏大臣家)の支配下に置かれていた渡来移民集団の末裔とされる。

倭と朝鮮半島諸国
(倭と朝鮮半島諸国)

実際、渡来移民集団が居住していた場所は、葛城氏本宗家の本拠地近隣の土地であった。

『賜大和朝津間腋上地居之焉』

(『新撰姓氏録』国立国会図書館デジタルコレクション)

大和国葛城郡腋上
(秦氏の拠点だった大和国葛城郡腋上)

この朝鮮半島南部からの渡来移民集団は極めて有能、かつ優秀な技術者(技能者)集団であった。

葛城氏本宗家(葛城氏大臣家)は、この技術者(技能者)集団の宗家を独占的に支配下へ収めた上で、葛城氏本宗家(葛城氏大臣家)に従う諸豪族へ技術者(技能者)集団を分け与えたようである。

しかし、その後、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が、葛城氏本宗家(葛城氏大臣家)の葛城円を滅ぼして、その技術者(技能者)集団の宗家を、大王家(皇室・天皇家)に奉仕する伴造として直轄下に置いた。

なお、弓月君たち渡来移民集団は、自らのことを一度も「秦氏」とは名乗っていない。

秦酒公、闘鶏御田の命を救う

ヤマト王権の大臣として政治を司っていた葛城円を滅ぼしたオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は専制君主と化す。

その時流で、とある事件が起こる。

雄略天皇12(468)年に、木工の闘鶏御田に、伊勢の采女を犯した容疑が掛けられる。

オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、よく調べもせず、御田に対して死罪を命じる。

しかし、この事件が誤解であることを察した酒公は、琴をつま弾きながら、

『神風の 伊勢の 伊勢の野の 五百経る析きて 其が尽くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、歌を詠み、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に、御田が無実であることを悟らせた。

こうして、御田の命は救われた。

木工とは技術者(技能者)であり、闘鶏とは国造の家系である。

酒公が御田の無実を訴えたのは、ヒューマニズムや正義心と言うよりも、むしろ、御田が闘鶏国造家(故あって、当時は稲置姓とされていた)に属していた技術者(技能者)の渡来移民であった可能性が大きかったように思われる。

もっとも、この逸話も史実とは考えにくく、むしろ、渡来移民の技術者(技能者)集団が様々な豪族の配下に置かれていたことを、酒公に絡めて示唆しているものと思われる。

秦酒公、秦氏一族を統率する

秦酒公は、技術者(技能者)集団の渡来移民が伴造系豪族に分配されバラバラとなっていることを悲しんでいた。

そこで、雄略天皇15(471)年、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、各豪族がそれぞれに抱え、倭(日本)各地に分散していた技術者(技能者)集団たる秦氏の部民である秦部・秦人・秦人部等の管理を、全て酒公に委ねた。

『詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

この時、技術者(技能者)集団である秦部・秦人・秦人部は、合計で92部で、18670人を数えた、と伝えられる。

『得秦氏九十二部一萬八千六百七十人』

(『新撰姓氏録』国立国会図書館デジタルコレクション)

これらの人員が全て酒公に託されたのである。

こうして、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)からの信任を得た酒公は、180種の勝を率いて、税の庸調である絹を山積みに納めた。

『公、仍りて百八十種勝を領率ゐて、庸調の絹縑を奉獻りて、朝庭に充積む』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

ここに出て来る「勝(すぐり)」とは、渡来移民の姓である。

酒公の行いに大いに満足したオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、酒公に対して「禹豆麻佐(うずまさ)=太秦」の姓を下賜した。

『因りて姓を賜ひて禹豆麻佐と曰ふ』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

これこそが、「太秦」、即ち、秦氏が誕生した瞬間であった。

ここに、秦氏の歴史は、酒公から始まったのである。

なお、長らく「秦氏と養蚕は実は無関係である」とする学説が支配的であったが、

『令制下の諸国の貢納物のうち、絹・帛・絁・綿・糸など養蚕・機織製品を納める地域を(略)秦氏関係者の分布地域と比較すると、両者が六〇%を超える比率で重複する事実』

(『渡来氏族の謎』加藤謙吉 祥伝社新書)

等から、近年では、養蚕と秦氏と密接な関係にあることが認められるようになっている。

秦酒公、大蔵の長官となる

その後、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、雄略天皇16(472)年、桑を各地に植林させた上で、秦酒公が管理する技術者(技能者)集団たる秦部・秦人・秦人部を、倭(日本)各地に分散して移住させた上で、庸・調を納めさせるようにした。

『桑に宜き國縣にして桑を殖ゑしむ。又秦の民を散ちて遷して、庸調を獻らしむ』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

こうして、『日本書紀』は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が酒公の下に集めた技術者(技能者)集団たる秦氏の部民を再び倭(日本)各地に分散させて住まわせたとする。

そして、秦氏が納めた庸・調が膨大だったため、それらを収めるために、三蔵(大蔵・内蔵・斎蔵)が作られ、三蔵の監督を蘇我氏の蘇我満智宿禰が務め、出納を秦氏が担当したとされる。

『諸國貢調年年盈溢。更立大蔵令蘇我麻智宿禰檢校三蔵。秦氏出納其物』

(『古語拾遺』国立国会図書館デジタルコレクション)

また、大蔵は、酒公が長官を務めたと言う。

『是時始置大蔵官員。以酒爲長官』

(『新撰姓氏録』国立国会図書館デジタルコレクション)

これ以降、秦酒公の名は、『日本書紀』には見えなくなる。

秦酒公のまとめ

秦酒公の実在性を巡っては諸説ある。

名前の酒を「酒公」とするのは、「公」が姓であると同時に、「酒」の実名に「公(キミ)」の尊称を付けたもので、そのことからも秦氏の始祖伝説を彩る存在として、秦氏にとって重要な位置を占めていることがわかる。

酒(さけ)と言う名も象徴的であって、裂ける、あるいは、割けるに繋がる語である。

そこには、技術者(技能者)集団たる秦氏の部民が、各地に分裂、即ち、分散した状態にあったのが、酒の下に集結し太い木の幹のようになったものの、再び、倭(日本)各地にまるで幹が裂けるように分散して行った、と言う風な意味合いがあるのではないかと考えられる。

こうして、『日本書紀』は、酒公の下に技術者(技能者)集団たる秦氏の部民が集められた後に、再び、倭(日本)各地に分散させたとする。

しかし、秦氏本宗家の由来を記す『新撰姓氏録』「太秦公宿禰」条には、

『仁徳天皇御世。百廿九縣秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之』

(『新撰姓氏録』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあり、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の時代の出来事では無いとしている。

つまり、葛城氏本宗家が、朝鮮半島南部から技術者(技能者)集団たる渡来移民の部民を倭(日本)各地に分散させて、そのまま定住化していったとしている。

その方が極めて合理的であると考えられる。

酒公は、秦氏本宗家として「太秦」の氏を与えられたとされるが、それは、秦氏本宗家が山背国葛野郡に進出した後のことであったのか、それとも、秦氏本宗家が山背国葛野郡への進出する前のことであったのかと言う謎は残る。

一族の氏に関する伝承であるにしても、地名説話としての「太秦」伝承であるにしても、そこには、秦氏本宗家と山背国葛野郡との結び付きがあったはずである。

このように、秦氏本宗家と山背国とが結び付いた時期については判らない。

ただ、養蚕業(経済力・資本力)と財政の出納事務を司る技術者(技能者)集団としての秦氏の原型は、この酒公に拠って日本史上に築かれたのである。

それこそは、倭(日本)各地に散らばった倭(日本)最大の渡来移民集団としての秦氏のアイデンティティーが確立された瞬間でもあった。

酒公は実在したのか?しなかったのか?

渡来移民の雄族である秦氏にとって、渡来移民の技術者(技能者)集団を一族として、まとめ上げる存在たる秦酒公は確かに実在したのである。

秦酒公の系図

《秦酒公系図》

孝徳王━孝武王━功満王━━┓
             ┃
┏━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗━融通王(弓月君)┳真徳王
          ┣普洞王━秦酒公━(略)━河勝
          ┣雲師王
          ┗武良王 

(系図は諸説ある)

秦酒公の墓所

秦酒公の墓所は不明。

現在、酒公は、太秦の広隆寺近くに建つ大酒神社へ祭神の内の一柱として祀られている。

大酒神社
(大酒神社)

この大酒神社近くからは、古墳時代末期頃の竪穴式住居跡が発見されている。

『住居趾は3棟検出され、このうち2棟(住居趾1、住居趾2)は出土遺物も少なく、カマドも持たない。しかし住居趾2はカマドを備え、遺物も比較的多かった』

(『広隆寺跡 -右京検察庁庁舎改築に伴なう発掘調査の概要-』財団法人 京都市埋蔵文化財研究所)

ただし、酒公を祭祀するようになったのがいつ頃のことかははっきりしない。

江戸時代に書かれた『都名所図会』には、大酒神社の祭神について、

『天照太神・八幡宮・天満天神を祭る。一説には秦始皇を崇るとも又は秦川勝の靈を祭るとも』

(『都名所図会』秋里湘夕 葵文會)

とされており、祭神に酒公の名前は出て来ない。

余談ながら興味深いのは、江戸時代には、「天神さん」こと菅原道真を祀っていたことである。

その江戸時代までは、広隆寺境内に大酒神社は祀られていた。

なお、

『山城國葛野郡の大酒神社は秦始皇の裔たる功滿王の將來した石を祭』

(『神祇史提要』河野省三 明世堂書店)

っているともされる。

大酒神社への行き方

鉄道

京都駅から
32番・33番乗り場 JR嵯峨野線「太秦駅」下車20分

京都駅から「梅小路京都西駅」→「丹波口駅」→「二条駅」→「円町駅」→「花園駅」の次である。

嵐電嵐山駅 または 嵐電四条大宮駅から
京福電鉄嵐山本線「太秦広隆寺駅」下車5分

嵐電嵐山駅から「嵐電嵯峨駅」→「鹿王院駅」→「車折神社駅」→「有栖川駅」→「帷子ノ辻駅」の次である。
嵐電四条大宮駅から「西院駅」→「西大路三条駅」→「山ノ内駅」→「嵐電天神川駅」→「蚕ノ社駅」の次である。

バス

三条京阪駅・四条京阪駅・四条河原町駅から
京都市バス11系統「太秦広隆寺前」下車5分

平日は1時間に3本程度。土日は1時間に2本程度。

京都駅から
京都バス72・73・75・76・83系統「太秦広隆寺前」下車5分

72・73・75・76・83系統合わせて、平日土日共に1時間に3本程度。

阪急嵐山駅から
京都バス62・63・66・72・73・76系統「太秦広隆寺前」下車5分

72・73・75・76・83系統合わせて、平日土日共に1時間に1本程度。

タクシー|レンタカー

公共交通機関の利用が優先されるが、本数が少ない場合や交通の便の悪い場合、時間の都合がつかない場合、また、最近では京都市バスへの観光客の乗車増加に伴い住民の日常生活が破壊される問題(所謂「観光公害」)が深刻になっているため、タクシーやレンタカーもオススメ。


京都市右京区太秦

京都市右京区太秦は、女優・吉岡里帆さんの出生地としても知られる。

秦酒公の年表

年表
  • 雄略天皇12(468)年
    10月
    闘鶏御田の冤罪を晴らす。
  • 雄略天皇15(471)年
    秦氏一族の統括者となる。
  • 雄略天皇16(472)年
    7月
    秦氏一族は桑の植林地へ分散移住させられる。