稲置【謎多き古代の地方官】

稲置について

【表記】 稲置
【読み】 いなき

稲置とは

ヤマト王権が置いた地方官(地方首長)の一種。

その実態については、はっきりしない。

大王家(皇室・天皇家)の所領を管理監督するための役職とする説や、国造が置かれた国の下位組織である「県」を管理監督するための役職とする説等がある。

飛鳥時代後半の『乙巳の変』後に成立した改新政権が地方統治制度を一新するまで存在していたと見られる地方官(地方首長)である。

稲置の設置

『日本書紀』では、成務天皇5(135)年に、県邑に対して稲置が設置されたと伝える。

これは、ワカタラシヒコ大王(成務天皇)の

『國郡に長を立き、縣邑に首を置てむ』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う命令に基づくとされる。

その上で、

『國郡に造長を立て、縣邑に稻置を置つ』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

としている。

しかし、これに相応する『古事記』の記事中に「稲置」の存在は記述されていない。

『國國の堺、及大縣小縣の縣主を定め賜ひき』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

このことから、ワカタラシヒコ大王(成務天皇)の時代、即ち、西暦135年、または265年頃、この稲置は存在していなかったと見られる。

その理由として、ヤマト王権が葛城氏本宗家の輔弼を受ける以前に、既にヤマト王権独自の地方統治システムを構築していたように見せかけたいとする『日本書紀』の編纂意図があったものと考えられる。

従って、いつ頃に置かれた地方官(地方首長)であるのかは判らない。

稲置を名乗る者たち

葛城氏本宗家がヤマト王権を輔弼した時代に「稲置」を姓とする豪族がいる。

それが、闘鶏稲置である。

『日本書紀』中の仁徳天皇62(374)年に、ヌカタノオオナカヒコ王子(額田大中彦皇子)が大和国の闘鶏に出かけた際に、

『闘鶏稻置大山主を喚して』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とある。

大和国の闘鶏
(大和国の闘鶏)

また、允恭天皇2(413)年に、オシサカノオオナカツ姫大后(忍坂大中姫皇后)に闘鶏稲置が無礼を働き、これに怒ったオシサカノオオナカツ姫大后(忍坂大中姫皇后)が処刑しようとしたが、罪を減じて、

『其の姓を貶して稻置』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

にしたとされる。

また、稲置代首や因支首のように「イナキ」を氏として用いる豪族も存在している。

このことから実在した地方官(地方首長)であると見られる。

それが代々受け継がれた世襲制であることも示唆している。

ただし、『日本書紀』が、この「稲置」を穢名として扱っている点は注目される。

この「稲置」の姓は、後の『八色の姓』制度と深い関係を持っているように見える。

稲置について説明する遣隋使

飛鳥時代、蘇我氏本宗家が主導する倭(日本)の王権から大国の隋に遣隋使が派遣されている。

その遣隋使が、隋の皇帝・文帝に対して、倭(日本)の内政について上奏する中に、

『軍尼(クニ・国造か)が百二十あり、ちょうど中国の牧宰(国主)のようである。八十戸に一伊尼翼(伊尼冀?イナキ・稲置)をおくが、いまの里長(さとのかしら・村長・里正・里胥・閭胥・里宰・里魁)のようなものである。十伊尼翼は一軍尼に属する』

(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波書店)

とある。

この上奏の内容については様々に評価されるが、飛鳥時代(6世紀末頃)の稲置の様子がだいたい判る。

稲置と『改新の詔』

大化元(645)年、蘇我氏本宗家を武力クーデターで倒したナカノオオエ王子(中大兄皇子)を中心とした所謂「改新政権」が出した『改新の詔』の中に、地方統治を担当する者がその従事に当たる由来や身分を偽ることがあるとして、

『元より國造・伴造・縣稲置に非ず』

(『日本古典文學大系69 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う文言がある。

この文言が極めて難解であって、様々な解釈があるものの、現在では、中田薫氏が唱える
 

『県にはもともと(一)天皇の直轄地と、(二)下級地方区画としての県と二通りあり、前者の長は県主であり、後者の長は稲置である』

(『日本古典文學大系69 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とする解釈が全ての問題を解決しないものの通説となっている。

稲置と『八色の姓』

天武天皇13(684)年に制定された『八色の姓』で、第8等、即ち最下等の姓と規定される。

『八色の姓』制度下での最下等と言う姓にされたためか、この「稲置」姓を与えられた豪族は存在しない。

一体何の目的で設置された「稲置」姓であるのか、その意図は全く不明である。

恐らく既述の允恭天皇2(413)年の故事のように懲罰的な意味合いで、新たに制定された『八色の姓』と言う氏姓制度の中で上位の姓を剥奪し貶めるために置かれたものであったのかも知れない。

稲置の年表

年表
  • 成務天皇5(135)年
    9月
    県邑に稲置を設置。