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平群氏について
【表記】 | 平群氏 |
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【読み】 | へぐりし(へぐりうじ) |
平群氏とは
【始祖】 | 武内宿禰(建内宿禰) |
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【属性】 | 在地系皇別豪族 |
【姓】 | 臣・朝臣(『八色の姓』) |
オオヤマトネコヒコクニクル大王(孝元天皇)の流れである武内宿禰(建内宿禰)が始祖とされる。
平郡氏の本拠地は、大和国平群郡と見られている。
(大和国平群郡)
『平群は、中心を龍田川が流れる谷地形』
(『奈良県文化財ウォーキングマップ7 平群谷の古墳』奈良県教育委員会事務局 文化財保存課)
をしている。
当初からこの谷を本拠としていたのかは不明である。後に大王家(皇室・天皇家)から弾圧を受けた際に谷へと追いやられた可能性を指摘する説もある。
同地には平群谷古墳群が存在しており、
『その古墳群は古代の豪族平群氏の首長などの墓』
(『ふるさとへぐり再発見 5 平群氏と平群谷古墳群』奈良県平群町)
と見られている。
『これらは、五世紀の後半から七世紀の後半にかけて築かれ』
(『ふるさとへぐり再発見 5 平群氏と平群谷古墳群』奈良県平群町)
たものである。
逆説的には、5世紀中期以前の平群氏の痕跡が見い出せない謎も残される。このことが、平群氏が平群谷へと追いやられたとする説の根拠のひとつとなっている。
平群氏、葛城氏の後継者となる
オオハツセワカタケ王子(大泊瀬幼武王子・大泊瀬幼武皇子)が、安康天皇3(456)年に葛城氏本宗家の葛城円を殺害して王位(皇位)に就いた後、平群真鳥が大臣となる。
『平群臣眞鳥を以て大臣とす』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
葛城円の「大臣」が尊称とされるのに対して、真鳥の「大臣」は政治的な職としての称号と見做される。そうだとすると、倭(日本)最初の大臣が真鳥と言うことになる。
真鳥は、オオハツセワカタケ大王(雄略天皇)が没すると後を継いだシラカ王子(白髪王子)からも大臣とされる。
平群氏本宗家の滅亡
『古事記』の記述では、シラカ大王(白髪大王・清寧天皇)の時代に、平群氏の破綻は突然やって来る。
平群真鳥の子の平群鮪(平群志毘『古事記』)が歌垣の場で大魚と言う名の美女を得ようとしたの時である。
そこに、シラカ大王(白髪大王・清寧天皇)の子のヲケ命(袁祁命・弘計王子)が割って入ったのである。かくて、鮪とヲケ命(袁祁命・弘計王子)は歌合戦となる。
この歌合戦に恨みを持ったのは、ヲケ命(袁祁命・弘計王子)の方であった。そして、
『軍を興して志毘臣の家を圍みて、乃ち殺したまひき』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
驚くほどあっさりと恋の恨みから平群氏大臣家を滅ぼしてしまうのである。
『日本書紀』では、鮪と女性を巡り対立するのは、ヲケ命(袁祁命・弘計王子・顕宗天皇)では無く、オケ命(意祁命・億計王子・仁賢天皇)の子のヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯王子・武烈天皇)となっている。
また、時期も、オケ大王(億計大王・仁賢天皇)の頃とされている。
しかも、
『鮪臣、來りて、太子と影媛との間を排ちて立てり』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と、恋路を邪魔したのが鮪とされている。そして、歌の能力が優れた鮪に影媛を奪われたヲハツセノワカサザキ王子(小泊瀬稚鷦鷯王子)が大伴金村に泣きつき、
『大伴連、數千の兵を將て、路に儌へて、鮪臣を乃樂山に戮しつ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
として殺害される。
大王家(皇室・天皇家)の武力装置たる伴造である大伴氏出身の金村は、
『眞鳥の賊、撃ちたまふべし』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
として、大伴氏の兵を中心とする軍勢に、真鳥も屋敷を襲撃され殺害される。ここに平群氏大臣家は滅び去る。
平群氏の衰退した原因が「女性トラブル」と言うのは、ある意味で極めて現代的と言えるのかも知れない。
平群氏、蘇我氏本宗家の下で復興
オオド王(男大迹王・袁本杼王)が越国から畿内に入ってからは平群氏は全くの低迷期を迎える。
その平群氏が復活の兆しが見えるのが飛鳥時代である。蘇我馬子と物部守屋の対立が武力衝突へと発展した時に、平群氏の動静が明らかになる、
用明天皇2(587)年、平群神手が蘇我馬子軍に参加している。
この神手の詳細な系譜は不明である。ただ、神手が守屋の討伐に参加したことで、平群氏は「勝ち組」となったのである。
さらに、馬子の勝利で国家レベルの事業となった仏教導入の波に乗り、平群の地に仏教寺院を建立している。
また、平群谷古墳群では、この頃に烏土塚古墳が築造されている。その烏土塚古墳は、
『6世紀後葉頃に築かれた平群谷最大の古墳』
(『奈良県文化財ウォーキングマップ7 平群谷の古墳』奈良県教育委員会事務局 文化財保存課)
とされており、6世紀後半と言う時期は、まさに神手が生きた時代であり、同地最大の古墳を造営出来るだけの実力を神手は持っていたのである。神手の「蘇我氏の下で生きる」と言う判断は平群氏の危機を救ったものと想像される。
神手の次代となる平群宇志は、『冠位十二階』の「小徳」を授けられている。
「小徳」は令制位階で「従四位」相当である。
平群氏は仏教を受容し寺院を建立しているが、古墳の築造も続けており、平群谷古墳群の西宮古墳は、
『7世紀中葉頃に築かれた古墳』
(『奈良県文化財ウォーキングマップ7 平群谷の古墳』奈良県教育委員会事務局 文化財保存課)
である。
恐らく、築いたのは宇志だったのではないかと想像される。
これらのように平群氏は、神手と宇志の時代に「飛鳥の文明開化」を謳歌したと言える。
平群氏と正史編纂事業
続く『乙巳の変』や『壬申の乱』と言う動乱の時期も上手く生き残ったようで、平群子首がアマノヌナハラオキノマヒト大王(天武天皇)政権下で名が見える。
子首は、帝紀等の編纂事業に参加している。
このことから平群真鳥や平群鮪が行ったとする5世紀の業績に関する内容については、
『五世紀代の記述はこの時に書き加えられたとする説もあり』
(『ふるさとへぐり再発見 5 平群氏と平群谷古墳群』奈良県平群町)
4世紀の葛城氏の時代と6~7世紀の蘇我氏の時代との間に存在したであろう「本来は大臣不在の時代」である5世紀を、平群氏の時代として正史上に作り出した可能性が指摘されている。
そして、平群氏は『八色の姓』で「朝臣」姓を下賜されている。
奈良時代には、平群広成が遣唐使として唐に渡っている。
だが、平群氏の活躍が見られるのは、この辺りまでで、これ以降は振るわない存在となって行く。
平群氏の氏寺
平群神手が、本拠地である平群の地に平群寺(平隆寺)を建立している(『興福寺官務牒疏』)。
(平群寺跡)
恐らく、この平群寺が平群氏にとっての最初の氏寺であったと思われる。
平群氏の系図
《平群氏系図》 孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命━武内宿禰━━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┣波多八代宿禰 ┣巨勢雄柄(小柄)宿禰 ┣蘇我石川(石河)宿禰 ┣平群木菟(都久)宿禰━真鳥━鮪━(不明)━神手━(不明)━広成 ┣紀角宿禰 ┣久米能摩伊刀比売 ┣怒能伊呂比売 ┣葛城長江曾津毘古(襲津彦) ┗若子宿禰 ※系図は諸説あり
平群氏の年表
- 履中天皇2(401)年正月4日平群木菟宿禰、国政に参加。
- 安康天皇3(456)年11月13日平群真鳥、大臣。
- 清寧天皇元(480)年正月15日平群真鳥、大臣。
- 仁賢天皇11(498)年11月11日平群真鳥、大伴金村に殺害される。
- 継体天皇元(507)年正月12日オオド王(男大迹王・袁本杼王)、越国から河内国に入る。
- 用明天皇2(587)年平群神手、蘇我馬子軍に参加。
- 天武天皇10(681)年3月4日平群子首、帝紀編纂に参加。
- 天平4(732)年8月17日平群広成、遣唐判官。