目次
葛城円について
【名前】 | 葛城円 |
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【読み】 | かずらきのつぶら |
【別表記】 | 都夫良(『古事記』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 安康天皇3(456)年 |
【時代】 | 古墳時代 |
【尊称】 | 大臣・大使主(『日本書紀』)・意富美(『古事記』) |
【曾祖父】 | 葛城襲津彦 |
【父】 | 葛城玉田宿禰 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 不明 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 葛城韓媛 |
【氏】 | 葛城氏 |
葛城円の生涯
葛城円の生い立ち
葛城円は、葛城玉田宿禰の子とされる。
ただし、誕生年や生母等については一切が不明である。
父の玉田宿禰は、大和国葛下郡の「玉手丘」を含む葛城地方南部を拠点にしていたと考えられていることから、円も同地方を中心として成長したものと考えられる。
(葛城地方南部)
「ツブラ(円・都夫良)」と言う名前であるが、『日本書紀』「仲哀天皇紀」中の熊襲征伐譚に、
『女神をば菟夫羅媛と曰す』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う記述がある。
大王(天皇)の武力征伐譚に「ツブラ」(仲哀天皇紀では女神の名)の名が使用されていることは、円の物語を考える時、極めて留意すべきことである。
葛城円、政治に参与する
履中天皇元(400)年、葛城葦田宿禰の娘である葛城黒媛がイザホワケ大王(履中天皇)の妃となる。
葛城葦田宿禰は、葛城円の大オジ(大伯父・大叔父)に当たる。
《関係略図》 葛城襲津彦━━┳不明━━━━━━━玉田宿禰━━円 ┣葦田宿禰━━━━┳蟻 ┃ ┗黒媛 ┃ │ ┗磐之媛 │ │ │ ┝━━━━━━━履中天皇 │ 応神天皇 │ │ │ ┝━━━━━━仁徳天皇 │ 仲姫命
そして、円の大オバ(大伯母・大叔母)の葛城磐之媛は、イザホワケ大王(履中天皇)の生母である。
翌履中天皇2(401)年正月、葛城円は、平群木菟宿禰・蘇我満智宿禰・物部伊呂弗大連らと共に政治に参加する。
『平群木菟宿禰・蘇我滿智宿禰・物部伊呂弗大連・圓大使主、共に國事を執れり』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
これらの人物の内、物部伊呂弗大連は大王家(皇室・天皇家)の武力装置たる伴造としての「物部氏」の焼き写しであり、平群木菟宿禰や蘇我満智宿禰も『日本書紀』編纂時からの遡及人事と考えられることから、ヤマト王権(大和朝廷)の政治に関わったのは、円のみだったと言える。
円については「大使主」即ち「大臣」と表記される。
これは後世の「大臣」とは違い尊称としての「大臣」と解釈されている。
しかし、円が他の豪族よりも優位な地位にあったことは間違い無く、そのことはヤマト王権(大和朝廷)内で政治を主導し得る立場にあったことを意味するとも考えられる。
そのことから、大臣・大連並置期や律令体制期の「大臣」とは異なる政治的役職としての「大臣」と解しても良いと思われる。換言すれば『日本書紀』や『古事記』が編纂された8世紀には「大臣」の原型を、この葛城円に求めたものと見られる。
こうして、円は、イザホワケ大王(履中天皇)が本拠とした磐余稚桜宮に赴く等して倭(日本)の政治に関わって行くことになる。
(葛城円が政治に携わり始めた磐余稚桜宮推定地)
これ以降、ミズハワケ大王(反正天皇)・オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)と大王(天皇)が変わっても、円は政治に参与する。
ミズハワケ大王(反正天皇)の時代の政治について『日本書紀』は、
『人民富み饒ひ、天下太平なり』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と特筆している。このことから円の政治手腕は民政を重視した優れたものであったことが窺える。
ミズハワケ大王(反正天皇)が急死した際には、次の大王(天皇)を擁立するに当たり、
『群卿、議りて曰く「方に今、大鷦鷯天皇の子は、雄朝津間稚子宿禰皇子と、大草香皇子とまします。然るに雄朝津間稚子宿禰皇子、長にして仁孝まします」といふ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と『日本書紀』は記す。
しかし、このように群臣が協議したと言うよりも、実質的には円が主導して、イザホワケ大王(履中天皇)とミズハワケ大王(反正天皇)の同母弟で葛城氏の血を引くオアサヅマワクゴノスクネ王子(雄朝津間稚子宿禰皇子)を擁立したものと思われる。
オアサヅマワクゴノスクネ王子(雄朝津間稚子宿禰皇子)が大王(天皇)に即いた際、新羅から祝いの品物が届いたとされる。
『新良の國主、御調八十一艘を貢進りき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
これが史実かどうかは確認しようが無いが、朝鮮半島との関わりの深い葛城氏本宗家出身の円がオアサヅマワクゴノスクネ王子(雄朝津間稚子宿禰皇子)の擁立を主導した傍証と言えよう。
葛城円、大王(天皇)に父を殺害される
葛城円の父である葛城玉田宿禰は、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)から先に亡くなったミズハワケ大王(反正天皇)の殯の準備を行うように命じられる。
ところが、その玉田宿禰に問題が発生する。
玉田宿禰が殯の準備を怠っていたことが発覚したのである。
この過失を以って、円の父の玉田宿禰は、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)に攻められ殺害されてしまう。
その際、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)の軍勢は葛城氏本宗家の本拠地である葛城地方に侵入する等、従来の葛城氏と大王家(皇室・天皇家)との力関係では有り得ない行動を取っている。
葛城氏は大王家(皇室・天皇家)に蹂躙された訳である。だが、この状況下に置かれた円の状況は何も伝わっていない。
恐らくは、父の玉田宿禰に落ち度があったことを円は認めていたのではないだろうか。
それは、「大王(天皇)からの命令を怠った」と言う落ち度と、そのことで「葛城氏と大王家(皇室・天皇家)との相克が進む中で、むざむざ大王家(皇室・天皇家)側に武力行使の口実を与えてしまった」と言う落ち度である。
そして何より「オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)を大王(天皇)の地位に据えた」と言うことが他ならぬ円自身にとって最大の落ち度だったと後悔したかも知れない。
こうして、葛城氏と大王家(皇室・天皇家)とが連携して以来、初めて葛城氏に武力を行使したオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)であったが、そのがオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)が亡くなると、次の大王(天皇)にはアナホ大王(安康天皇)が立つ。
葛城円とマヨワ王(眉輪王・目弱王)
アナホ大王(安康天皇)は、葛城氏の血を引くことは引くが縁遠い存在である。
《関係略図》 葛城襲津彦━━━━磐之媛 │ ┝━━━━━┳履中天皇 │ ┣住吉仲皇子 │ ┣反正天皇 │ ┗允恭天皇 │ │ 応神天皇━━━━━仁徳天皇 │ │ │ │ ┝━━━━━┳安康天皇 │ │ ┗大泊瀬幼武皇子(雄略天皇) │ │ ┝━━━━━━━稚野毛二派皇子━忍坂大中姫命 │ 息長真若比売
葛城円が不安を覚えたことは間違い無いだろう。
ところが、安康天皇3(456)年、そのアナホ大王(安康天皇)がマヨワ王(眉輪王)に暗殺されると言う事件が勃発する。
(事件の勃発した石上穴穂宮推定地)
事件の発端は、マヨワ王(眉輪王)の生母であるナカシヒメ王女(中蒂姫皇女)にアナホ大王(安康天皇)が横恋慕したことに始まる。
アナホ大王(安康天皇)は、ナカシヒメ王女(中蒂姫皇女)を自分の妻にしようと、ナカシヒメ王女(中蒂姫皇女)の夫であるオオクサカ王子(大草香皇子)を殺害し排した上で、ナカシヒメ王女(中蒂姫皇女)を強引に手に入れ挙句には大后(皇后)にまでしたのであった。
因果応報と言うべきであろうか。
この事実を知ったマヨワ王(眉輪王)は、アナホ大王(安康天皇)を殺害することで父であるオオクサカ王子(大草香皇子)の仇討を果たしたのである。
アナホ大王(安康天皇)の同母弟であるオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は、兄を殺されたことに対する復讐に燃えて、マヨワ王(眉輪王)を殺害するために動き出す。
これら一連の大王家(皇室・天皇家)内部の争い事は、円にとっては無関係な出来事のはずだった。
葛城円とオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)
ところが事態は風雲急を告げる。
なんと、アナホ大王(安康天皇)を暗殺したマヨワ王(眉輪王)は、葛城円の屋敷に保護を求めて逃げ込んで来たのである。
しかも、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の同母兄のサカアイノクロヒコ王子(坂合黒彦皇子)と共にである。
実は、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は復讐に乗り出す前に、同母兄のヤツリノシロヒコ王子(八釣白彦皇子)とサカアイノクロヒコ王子(坂合黒彦皇子)に同行を迫ったが両者とも躊躇したために、ヤツリノシロヒコ王子(八釣白彦皇子)はオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)に斬り捨てられ、サカアイノクロヒコ王子(坂合黒彦皇子)は隙を見て逃亡していたのである。
マヨワ王(眉輪王)とサカアイノクロヒコ王子(坂合黒彦皇子)は相談して、円に助けを求めることを決め、円の屋敷に逃げ込んだのである。円にとっては迷惑なことであったろう。
葛城地方にあった円の屋敷は、たちまちのうちにオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)が率いる軍勢に攻囲される。
『軍を興して都夫良意美の家を圍みたまひき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
葛城地方に大王家(皇室・天皇家)の軍勢が侵入するのは、円の父である玉田宿禰の粛清以来二度目の出来事であり、二度とも葛城氏本宗家側が迎撃に動いた形跡は見られない。
しかも、侵入されたのが玉田宿禰と円の父子二代であり、侵入したのはオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)とオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の父子二代である。ここに、葛城氏と大王家(皇室・天皇家)との相克が二代に渡るものであることが示唆されている。
オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の軍勢の主力は、大伴氏であったろうと推測される。
その傍証として、後にオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)が大王(天皇)となって以降、大伴氏は政治に関わることになる。
オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は円に対して、マヨワ王(眉輪王)とサカアイノクロヒコ王子(坂合黒彦皇子)の引き渡しを迫る。これに円は、
『蓋し聞く、人臣、事有るときに、逃げて王室に入ると。未だ君王、臣の舎に隠匿るるをば見ず。方に坂合黑彦皇子と眉輪王と、深く臣が心を恃みて、臣の舎に來れり。詎か忍びて送りまつらむや』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と答え、「オホオミ(大臣)」として引き渡すことは出来ないとオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の要求を跳ねのけている。
それは、三輪山山麓から発展したヤマト王権(大和朝廷)と葛城山山麓に繁栄を誇った葛城氏本宗家が対峙した瞬間でもあった。
葛城円の最期
葛城円は、甲冑を身にまとい屋敷の正門に進み出る。
この時の円の様子を円の妻が歌にしている。
『臣の子は 栲の袴を 七重をし 庭に立して 脚帯撫だすも』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
ここで『日本書紀』は唐突に円がオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)に対して赦免を求めたと記している。
『伏して願はくは、大王、臣が女韓媛と葛城の宅七區とを奉獻りて、罪を贖はむことを請らむ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
即ち、マヨワ王(眉輪王)とサカアイノクロヒコ王子(坂合黒彦皇子)を引き渡す代わりに、自分の娘である葛城韓媛と葛城の地にある所領七ヶ所を献上することで赦してくれるように懇願したとしている。
『古事記』では、好色で知られるオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)が円に対して、
『我が相言へる嬢子は、若し此の家に有りや』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
と、円の娘の韓媛を求めたことを契機として、円は、自らの武装を解除した上で
『都夫良意美、此の詔命を聞きて、自ら参出て、佩ける兵を解きて、八度拜みて白ししく、「先の日問ひ賜ひし女子、摩訶良比賣は侍はむ。亦五つ處の屯宅を副へて獻らむ」』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
ことを条件に、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)との間で、マヨワ王(眉輪王)の引き渡し免除を求める交渉に入ったとしている。
後者の『古事記』の記述の方が事件の展開としては自然と思われる。
この交渉の結果、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は、韓媛と葛城の五ヶ所(『日本書紀』では「宅七区」とする)を受け取る。にも関わらず、なおも執拗に、マヨワ王(眉輪王)の引き渡しを求め続けて攻囲を解くことは無かった。
これに対して円も、
『賤しき奴意富美は、力を尽くして戦ふとも、更に勝つべきこと無けむ。然れども己を恃みて、随の家に入り坐しし王子は、死にても棄てじ』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
「この円が持てる全ての力を尽くして戦っても、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)には勝つことは出来ますまい。けれども、この私を頼って逃げ込んで来たマヨワ王(眉輪王)のことは、例えこの命を落とすことになろうとも見捨てるわけにはいかない」として、遂に死を覚悟した上で、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)と戦うことになる。
円の悲壮な決意が感じられる。
と、同時に、その決意は「ヒト」としての人格者たる葛城円を象徴する決意として時代を超えて人々に問い掛けるものでもある。
オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は円の屋敷に火を掛ける。
『大臣と、黑彦皇子と眉輪王と、倶に燔き死されぬ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
円は、マヨワ王(眉輪王)とサカアイノクロヒコ王子(坂合黒彦皇子)と共に紅蓮の炎に焼き尽くされる。焼け跡に残った遺骨は誰のものか識別不能であったという。
『古事記』は異なる円の最期を伝えている。
オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の軍勢との戦いで、円は傷つき刀折れ矢尽きる。
『爾に力窮まり矢盡きぬ。今は得戰はじ。如何か』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
継戦が不可能になった事実を告げ、その進退をマヨワ王(眉輪王)に尋ねたところ、覚悟を決めたマヨワ王(眉輪王)は最期に自分の殺害を円に依頼している。
そこで、円は、最後の力を振り絞りマヨワ王(眉輪王)を刀で刺し、その刀で今度は自らの頚を掻き切り自害して果てている。
『刀を以ちて其の王子を刺し殺して、乃ち己が頸を切りて死にき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
かくて、円の死をもってヤマト王権(大和朝廷)の政治の表舞台から、葛城氏は姿を消し大きく衰退する。
葛城円とは
葛城円に付けられた尊称は「オホオミ(大臣)」であるが、正史上の記録からは、後世の「大臣」ほどの専横を振るったように見えない。
だが、ミズハワケ大王(反正天皇)の時代に政治に参画し、人民の暮らしを豊かにする等、円の政治家としての能力は優秀さが際立っている。
円が実在の人物であったかどうかについては諸説ある。
そこで、ヤマト王権(大和朝廷)の政体に葛城氏本宗家が参加したと解釈し、その象徴として「円」なる人物が作り出され『日本書紀』に記述されたものとしても、葛城氏本宗家が参加した政治は、
『人民富み饒ひ、天下太平なり』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
だったのである。
この円の優秀さ(葛城氏本宗家の政治手腕)は、諸豪族の上に唯一無二の絶対的権力として君臨することを目指す大王家(皇室・天皇家)にとって徐々に目障りなものとなっていったようである。
そして、葛城氏と大王家(皇室・天皇家)との確執は、允恭天皇5(416)年に、円の父である葛城玉田宿禰がオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)に殺害されるいう事件に拠って表面化し、円の政治活動にも大きく影を落として行くようになったと思われる。
オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)は母親が葛城氏出身の女性(葛城磐之媛)であるとは言え、大后(皇后)は葛城氏と所縁のない女性である。
つまり、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)以降の大王家(皇室・天皇家)は、葛城氏と距離を置くような動きが見えるのである。
この動きに対して円は、イザホワケ大王(履中天皇)の王子(皇子)であり葛城氏との血縁関係の濃いイワサカノイチノヘノオシワ王子(磐坂市辺押磐皇子)を大王(天皇)に即けることを、自らの最大の政治的な課題としていたものと推察される。
《関係略図》 葛城襲津彦━━┳不明━━━━━━━玉田宿禰━円 ┣葦田宿禰━━━━┳蟻 ┃ ┗黒媛 ┃ │ ┃ ┝━━━磐坂市辺押羽皇子 ┃ │ ┗磐之媛 │ │ │ ┝━━━━━━┳履中天皇 │ ┣反正天皇 │ ┗允恭天皇 │ 応神天皇 │ │ │ ┝━━━━━━仁徳天皇 │ 仲姫命
本来、イザホワケ大王(履中天皇)の後継は、イワサカノイチノヘノオシワ王子(磐坂市辺押羽皇子)となるはずだったのだろうと思われる。しかし、年少である等の理由で大王(天皇)位に即けなかったものと想像される。
そこから、イザホワケ大王(履中天皇)・ミズハワケ大王(反正天皇)・オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)と兄弟相続することで、イワサカノイチノヘノオシワ王子(磐坂市辺押羽皇子)への繋ぎとしたのではあるまいか。
だが、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)の後継者として、母系が非葛城氏系のアナホ大王(安康天皇)が立ったことで、円はかなりの焦燥感に襲われたに違いない。
《関係略図》 葛城襲津彦━━━━磐之媛 │ ┝━━━━━┳履中天皇 │ ┣反正天皇 │ ┗允恭天皇 │ │ 応神天皇━━━━━仁徳天皇 │ │ │ │ ┝━━━━━┳安康天皇 │ │ ┗大泊瀬幼武皇子 │ │ ┝━━━━━━━稚野毛二派皇子━忍坂大中姫命 │ 息長真若比売
また、そのアナホ大王(安康天皇)がオオクサカ王子(大草香皇子)を殺害し、その妻である中蒂姫命を奪って自分の妻とし大后(皇后)に据えたやり方にも嫌悪感を抱いて可能性もある。
そこに勃発したのがマヨワ王(眉輪王)によるアナホ大王(安康天皇)暗殺事件である。
マヨワ王(眉輪王)は、この当時「アナホ大王(安康天皇)―オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)ライン」に対抗していた「イワサカノイチノヘノオシワ王子(磐坂市辺押磐皇子)―葛城円ライン」に助けを求めて、円を頼って来たものと思われる。
この暗殺事件は、大王家(皇室・天皇家)内部の揉め事であり、円には無関係とも言えるものである。
しかし、円は自らを頼って来る者を拒むことは出来なかったようである。
そして、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の軍勢と対峙して、その生涯を終える。
円の遺した言葉が伝わる。
『古の人、云へること有り、匹夫の志も、奪うべきこと難しといへるは、方に臣に属れり』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
「昔から伝えられている言葉に、どんなにつまらない男の志であっても、その青雲の志を奪うことは難しいものであるという言葉があるが、今の私の志も決して誰にも奪うことは出来ないものである」
この言葉は、大王家(皇室・天皇家)をも凌ぐ実力を有した古代の雄族・葛城氏本宗家に相応しい言葉と言えるのではないだろうか。
(南郷遺跡群の極楽寺ヒビキ遺跡)
葛城氏の本拠地と考えられている奈良県御所市の南郷遺跡群からは、
『南郷角田遺跡では大量の韓式系土器が検出されており注目される。また、石垣を伴う大壁建物(南郷柳原遺跡)や、集落内で行われた祭祀にかかわるとみられる導水施設(南郷大東遺跡)、神殿跡ともされる大型の掘立柱建物(南郷安田遺跡)など、多彩な内容を持つ遺構』
(『奈良県御所市 南郷西畑遺跡 御所市文化財調査報告書 第23集』御所市教育委員会)
等、全盛期(5世紀頃)の葛城氏の姿を髣髴とさせる遺跡が発見されている。
まさに、朝鮮半島から渡来した当時の最先端の技術を駆使して建築された「政庁」規模の豪壮な建物群が立ち並ぶ地域が葛城地方であった。
この葛城地方では、葛城氏本宗家を中心とした勢力が、ヤマト王権(大和朝廷)を凌駕するほどの実力を誇っていたのである。
円を殺害した後、大王(天皇)に即いたオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は、この葛城地方に何度も足を運んでいる。
『四年の春二月に、天皇、葛城山に校獵したまふ。忽ちに長き人を見る。來りて丹谷に望めり。面貌容儀、天皇に相似れり。天皇、是神なりと知しめ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
葛城山で「葛城の一言主大神」に遭遇したり、
『五年の春二月に、天皇、葛城山に校獵したまふ。靈しき鳥、忽ち來れり』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
霊鳥のお告げを受けて大猪を退治したりしている。
大王(天皇)が、葛城の地で人智を超える存在となっていることは注目すべき点である。
『古事記』にも、
『又一時、天皇葛城の山の上に登り幸でましき。爾に大猪出でき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
次にまた同じような文面が続けられて、
『又一時、天皇葛城の山の上に登り幸でましし時、(略)「葛城の一言主大神ぞ。」とまをしき。天皇是に惶畏み』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
と同様の物語が載せられており、『日本書紀』も『古事記』のいずれもが、「葛城の一言主大神」を敬い、大猪を退治したオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)を葛城地方の覇者の如く記している。
このことは、円の名前「ツブラ」が地方神である菟夫羅媛の名前「ツブラ」と全く同じ音を以って表記されていることと無関係では無いと考えられる。
つまり、『日本書紀』「仲哀天皇紀」中において、
『その土地の守護神である大倉主神、菟夫羅媛を祭祀することが、この地方を統治する前提になっていることを物語る』
(『神話の世界 創元社選書』上田正昭 創元社)
とするならば、円(ツブラ)たち葛城氏が祀って来たと見られる「葛城の一言主大神」の祭祀に大王家(皇室・天皇家)が関わることで、葛城地方を支配したことを意味するものだからである。
それは、オオサザキ大王(仁徳天皇)以降、
『葛城氏を恐れていた天皇が』
(『奈良 古代史への旅 岩波新書782』直木孝次郎 岩波書店)
オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の登場に拠って、
『葛城氏を支配する天皇へと成長』
(『奈良 古代史への旅 岩波新書782』直木孝次郎 岩波書店)
したことを意味する。
そのことは、裏返せば、葛城氏本宗家の「血」が大王(天皇)となる者の資格であったことと並び、葛城の地は「王権の象徴」であったことを示すものでもある。
葛城円をはじめとする葛城氏の人々は、間違い無く古代の倭(日本)をリードし民政の安定に尽力したものの、大王家(皇室・天皇家)に飲み込まれ、その力を奪われ削がれたと言えよう。
円が攻め滅ぼされて以降、葛城氏の勢力圏内に有力な古墳等が築かれることは無かったことに示されるように、ヤマト王権(大和朝廷)の前に葛城氏本宗家が再び立ち上がることは無かった。
葛城円の物語に隠されたもの
葛城円の物語を伝える『古事記』・『日本書紀』が編纂された8世紀は、ナカノオオエ王子(中大兄皇子・天智天皇)の王権を滅ぼしたオオアマ王子(大海人皇子・天武天皇)の王権の時代である。
ナカノオオエ王子(中大兄皇子・天智天皇)の本来の名前は、カズラキ王子(カツラギ王子・葛城皇子)であった。
そのカズラキ王子(カツラギ王子・葛城皇子)が築いた王権を攻め滅ぼしたことで大王(天皇)になったのがオオアマ王子(大海人皇子・天武天皇)である。
円を攻め滅ぼして大王(天皇)になったオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)は、葛城の一言主大神と同格となる。その葛城の一言主大神は、
『現人之神』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と名乗る存在であり、即ち、大王(天皇)もまた「現人之神(アラヒトガミ)」へと昇華したことを意味する。
そして、カズラキ王子(カツラギ王子・葛城皇子)が開いた王権を攻め滅ぼしたオオアマ王子(大海人皇子・天武天皇)もまた、
『大君は神にし坐せば赤駒の匍匐ふ田井を都となしつ』
(『萬葉集 四 日本古典文學大系7』高木市之助 五味智英 大野晋 校注 岩波書店)
として「現人之神(アラヒトガミ)」と呼ばれたのである。
因みに、オオアマ王子(大海人皇子・天武天皇)を歌で「神」と呼びヨイショしたのは大伴氏の大伴御行である。
大伴氏は、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の武力装置として葛城氏本宗家を滅ぼし、後にはオオアマ王子(大海人皇子・天武天皇)の武力装置としてカズラキ王子(カツラギ王子・葛城皇子)が開いた王権を滅ぼしている。
そう考えた場合、5世紀の出来事を伝える葛城円の物語は、7世紀のオオアマ王子(大海人皇子・天武天皇)が武力で打ち立てた王権を正統化する目的をも隠し持っているかのようである。
葛城円の系図
《葛城円系図》 葛城襲津彦━━┳不明━━━━━━━玉田宿禰━━━━円 ┣葦田宿禰━━━━┳蟻 ┃ ┗黒媛 ┃ │ ┗磐之媛 │ │ │ │ ┝━━━━━━磐坂市辺押羽皇子 │ │ ┝━━━━━━┳履中天皇━━━━中蒂姫命━━━━━眉輪王 │ ┗允恭天皇 │ │ │ ┝━━━━━┳安康天皇 │ │ ┗雄略天皇 │ │ │ 忍坂大中姫命 │ 応神天皇 │ │ │ ┝━━━━━━仁徳天皇 │ 仲姫命
葛城円の年表
- 履中天皇元(400)年7月4日葛城黒媛、妃となる。
- 履中天皇2(401)年正月4日政治に参加。
- 允恭天皇5(416)年7月14日葛城玉田宿禰、殺害される。
- 安康天皇3(456)年8月9日オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)に攻め殺される。