大伴談【大伴氏の御曹司は海外で戦死!】

大伴談について

【名前】 大伴談
【読み】 おおとものかたり
【別表記】 大伴語
【生年】 不明
【没年】 雄略天皇9(465)年
【時代】 古墳時代
【官職】 新羅征討軍大将
【父】 大伴室屋
【母】 不明
【兄弟姉妹】 大伴御物
【配偶者】 不明
【子】 大伴金村・大伴歌
【家】 大伴氏大連家
【氏】 大伴氏
【姓】

大伴談の生涯

大伴談の生い立ち

大伴談は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の大連である大伴室屋の子として生まれる。

生母については不明である。

談が嫡子であったのかどうかははっきりしないが、談の子(大伴金村)が大伴氏大連家の嫡流となっていることから嫡子であったと想像される。

なお、談を室屋の弟とする説等、談の系譜は、はっきりせず混乱している。

大伴談と大伴氏

大伴談の多くが未詳であるが、室屋と共にオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の下で働いていたものと考えられる。

伝承として『新撰姓氏録』の佐伯宿禰に関する記述中に、談は、大伴室屋と共に衛門の左右を、それぞれが受け持ち護ったとされている。

『一人にては堪がたき重職なれば其兒連語と二人にて左右を務めむ』

(『新撰姓氏録』国立国会図書館デジタルコレクション)

とされている(ただし、当時「衛門」等は存在しない)。なお、佐伯氏は、談を始祖としている。

「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる伴造の大伴氏にとって、談は、室屋と共に大伴氏のアイデンティティを確立させた存在と言える。

そして、さらに注目されるのは、談の子に大伴歌と言う人物がいたとされており、これも否が応でも「和歌の大伴氏」と言うもうひとつの大伴氏のアイデンティティが結び付けられている。

このように大伴氏にとって大きな意味が与えられた談であるが、その談に待ち受けていたのは、過酷な運命であった。

大伴談と新羅出兵

オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、雄略天皇9(465)年、新羅への出兵を企図する。

この外征で指揮官に任命されたのは、紀小弓・蘇我韓子・小鹿火、そして、大伴談である。

朝鮮半島南部
(朝鮮半島南部)

朝鮮半島南部に上陸した倭兵(日本兵)は、総指揮官の小弓を先頭として新羅への侵略を行い、その緒戦において勝利を収め、新羅王は、

『數百の騎と亂ひ走ぐ』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

有様であったが、精強な新羅の遺衆(残兵)たちが踏み止まり、戦線は膠着状態となる。

そこに、別方面での戦闘を行っていた談が到着する。談は、小弓と合流し新羅の残兵の駆逐を開始する。

しかし、新羅兵の猛烈な反撃に遭い、

『大伴談連及び紀岡前來目連、皆力め闘ひて死ぬ』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

こととなる。

新羅兵は倭兵(日本兵)が戦闘能力を喪失したことを見届けた上で退却を開始し、ようやくのことで生き残っていた倭兵(日本兵)も新羅兵が退却したのを確認して撤兵したのである。

そして、小弓は陣中にて病没する。

結局、倭兵(日本兵)は新羅の前に完全敗北を喫し、倭(日本)は何ら益を得ること無く多くの人命を犠牲にしただけで、この戦役は終わることとなる。

大伴談のまとめ

大伴談は、大連・大伴室屋の子として、朝鮮半島南部に出陣し戦死した人物として記録されている。

室屋は、葛城氏本宗家を滅ぼしたオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が開いた大王家(皇室・天皇家)の「武力装置」を務める人物である。

その室屋の子である談も当然、「武力装置」としての働きが求められた結果と言えよう。

オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)以前のヤマト王権は、葛城襲津彦以来、葛城氏本宗家を介して朝鮮半島南部から鉄の原材料を確保する等、朝鮮半島との交渉を行っていたのである。

だが、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が朝鮮半島南部における権益の独占を狙って葛城氏本宗家を滅ぼしたことで、「大王家(皇室・天皇家)の武力装置」たる大伴氏等が、大王(天皇)の尖兵として朝鮮半島南部におけるヤマト王権の権益を再構築することとなる。

その再構築過程において、談は、

『敵の手の爲に殺され』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

たのである。

しかも、戦場に散った談は、

『屍の處を指し示』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

されるように、その骸を異国の地に晒す最期を遂げている。

談の亡骸は、談の配下の津麻呂に拠って確認されたと伝えられている。ただ、その津麻呂も、談の後を追い掛けようにして戦闘で命を落とし事実上の殉死を遂げており、談の亡骸の実際は判らない。

大伴談については、朝鮮半島南部での戦闘以外、具体的な経歴は不明である。

このことから「大伴談」とは、実は葛城氏本宗家が滅亡して以降、大伴室屋と共に大伴氏を築いた大伴氏の人々や大伴部の人々の「記憶」として創出された存在である可能性も考えられる。

恐らく、多くの大伴氏の人々や大伴部の人々が海を渡り、大王家(皇室・天皇家)のために朝鮮半島南部で働き命を落としたのであろう。

それらの人々の「記憶」が語られ形作られたのが、大伴談(かたり)、別名「大伴語(かたり)」だったのではあるまいか(実際、系譜も、この談の部分が怪しくなっていることは象徴的である)。

ただし、大伴氏や大伴部の人々が大王家(皇室・天皇家)のため朝鮮半島南部において、外交・軍事・経済・交易等の多方面で活動した業績は、ヤマト王権内に影響力を及ぼしたことは間違いなく、このことが後に談の子とされる大伴金村が朝鮮半島南部政策に大きな発言権を有することの裏付けとなっていると思われる。

大伴談の系図

《大伴談系図》

大伴室屋┳談━┳金村
    ┃  ┗歌
    ┗御物

大伴談の墓所

大伴談の墓所は不明である。

談は、朝鮮半島南部の戦場(詳細な位置は不明)で没したとされており、その亡骸が収容され倭(日本)に運ばれたのかさえも不明となっている。

大伴談の年表

年表
  • 雄略天皇9(465)年
    3月
    新羅征伐のため渡海。