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葛城磐之媛について
【名前】 | 葛城磐之媛 |
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【読み】 | かずらきのいわのひめ |
【名前の別表記】 | 石之日売命(『古事記』)・磐姫皇后(『万葉集』)・伊波乃比売命(『続日本紀』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 仁徳天皇35(347)年 |
【時代】 | 古墳時代(オオサザキ大王朝) |
【官職】 | オオサザキ大王大后(仁徳天皇皇后) |
【父】 | 葛城襲津彦 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 葛城葦田宿禰 |
【甥】 | 葛城玉田宿禰 |
【配偶者】 | オオサザキ大王(仁徳天皇) |
【子】 | イザホワケ王子(履中天皇)・スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)・ミヅハワケ王子(反正天皇)・オアサヅマワクゴノスクネ王子(允恭天皇) |
【氏】 | 葛城氏 |
【姓】 | 臣 |
葛城磐之媛の生涯
葛城磐之媛の生い立ち
葛城磐之媛は、葛城襲津彦の娘とされている。
磐之媛の誕生年は不明である。
倭人(日本人)として実在が確認される最初の存在である襲津彦の実際の活動年代は4世紀と見られるのに対して、磐之媛の活動年代も4世紀とされている。
このことから磐之媛と襲津彦が父娘関係であったとしても大きな矛盾にはならない。
磐之媛の生母は不明である。従って、どの場所で磐之媛が生まれ育ったのかも不明である。
しかし、磐之媛が詠んだとされる歌が『古事記』と『日本書紀』に記されている。
『つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し國は 葛城高宮 吾家のあたり』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
『つぎねふ 山背河を 宮泝り 我が泝れば 青丹によし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し國は 葛城高宮 我家のあたり』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
これを信ずれば、大和国葛城地方の高宮邑が磐之媛にとって所縁の地と言うことになる。
この高宮邑は桑原邑・佐麋邑・忍海邑と共に、磐之媛の父である襲津彦が朝鮮半島から拉致して来た人民の居住地と伝えられている土地でもある。
(桑原邑・佐麋邑・高宮邑・忍海邑 推定地)
それは即ち、磐之媛が幼少時から朝鮮半島の優れた文化や先進的な技術等に日常的に慣れ親しんだ生活を過ごして来たことを意味する。
実際この地域からは当時としては破格の規模を誇る居館跡等が発掘されており、葛城氏が朝鮮半島由来の文化や技術を独占的に駆使し繫栄していたことが窺える。
また、兄弟の葛城葦田宿禰が葛城地方北部を拠点にしたと考えられることから、磐之媛も葛城地方北部で育ったとも考えられる。
(葛城地方北部の巣山古墳群)
なお、葛城地域の高宮については、後の飛鳥時代には、
『蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾の儛をす』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う具合に、蘇我氏本宗家が自分たちの本拠地と主張したほどの重要な土地である。
葛城磐之媛、大后となる
仁徳天皇2(314)年、葛城磐之媛は、オオサザキ大王(仁徳天皇)の大后(皇后)に立つ。
王族(皇族)以外の女性が大后(皇后)に立てられたのは磐之媛が史上初めてのことであった。
言い換えれば、当時の葛城氏の実力が大王家(天皇家・皇室)を遥かに凌ぐほど大きかったと言うことである。
そして、その葛城氏と何としても大王家(天皇家・皇室)は血縁関係を結ぶ必要性に駆られ望んだものと思われる。
そのことの証左となるものとして、オオサザキ大王(仁徳天皇)が宮を河内国の難波に置いたことが挙げられよう。わざわざ大和国を離れて海辺に宮を置いた理由こそは、オオサザキ大王(仁徳天皇)の第一義としたものが「朝鮮半島との交易」であったことを意味している。
オオサザキ大王(仁徳天皇)は、仁徳天皇7(321)年、磐之媛のために葛城部を設置している。
磐之媛は、系譜上では、夫のオオサザキ大王(仁徳天皇)との間に、イザホワケ王子(履中天皇)・スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)・ミヅハワケ王子(反正天皇)・オアサヅマワクゴノスクネ王子(允恭天皇)の4人の男子を出産している(いずれも誕生年は不明)。
4人の男子の中で、イザホワケ王子(履中天皇)とスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は、羽田八代宿禰の娘・黒媛を巡って、同母兄弟が互いの命を狙う事態にまで発展している。
イザホワケ王子(履中天皇)とスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)が争った時期に、磐之媛が存命であったのかどうかは不明であるが、この事態に物部氏の関与が見られる。
このように、大王家(天皇家・皇室)は伴造を頼りにしつつ、磐之媛の立后以降、オオサザキ大王(仁徳天皇)に続く世代は葛城氏を有力な外戚としたのであって、磐之媛が出産した4人の男子の内、3人が大王(天皇)となっている。
葛城磐之媛の嫉妬
仁徳天皇16(328)年には、オオサザキ大王(仁徳天皇)は桑田玖賀媛を後宮に迎えようと思うものの、磐之媛の嫉妬が恐ろしくて実現出来ないことを歌に詠み愚痴っている。
磐之媛の気性の激しさは、『古事記』にも
『大后の強きに因りて』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
と記されているほどである。
結局、桑田玖賀媛は臣下の播磨速待に与えられたものの、桑田玖賀媛はショックを受け亡くなってしまう。
それでも懲りないオオサザキ大王(仁徳天皇)は、仁徳天皇22(334)年、意を決してヤタ王女(八田皇女)を妃に迎えたいと磐之媛に告白する。
磐之媛はオオサザキ大王(仁徳天皇)からの申し出に、
『夏蠶の 蠶の衣 二重著て 圍み宿りは 豈良くもあらず』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と歌を詠み、それ以降、オオサザキ大王(仁徳天皇)の呼びかけにも一切答えること無く磐之媛は沈黙してしまう。
この磐之媛の歌の意味は「夏の蚕が繭を二重に重ねているのが良くないように、女性を二人もお側に置くのは良くないことですわよ」となろうか。
この他、『古事記』にも磐之媛が美しい黒媛などに嫉妬したことが書かれている。
『爾に天皇、吉備の海部直の女、名は黒日賣、其の容姿端正しと聞き看して、喚上げて使ひたまひき、然るに其の大后の嫉みを畏みて、本つ國に逃げ下りき』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
ただ、黒媛に関する磐之媛の逸話は、葛城氏と吉備氏との間の力関係を示す寓話とも読み取れ、磐之媛の性格に由来するものでも無いように考えられる。
葛城磐之媛、大王(天皇)と別居する
仁徳天皇30(342)年、葛城磐之媛は酒宴に用いるための柏葉を採りに、難波宮から遠く離れた紀国の熊野岬にまで、はるばると出かけた。
『古事記』には、
『大后豐樂したまはむと爲て、御綱柏を採りに』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
とあり、酒宴に使う三つ又の柏葉を採りに出かけたとされている。
(熊野と高津宮)
酒宴と言っても大嘗会に比定される宴と考えられている。大嘗会に使われる柏葉は重要なものであった。
『大后石之日賣命、自ら大御酒の柏を取りて、諸の氏氏の女等に賜ひき』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
磐之媛が柏葉を下賜している様子からも、大王家(天皇家・皇室)の大后(皇后)として王族(皇族)や諸豪族たちの上に大王(天皇)に准じ君臨していたことが窺える。
さて、こうして、磐之媛が大王家(天皇家・皇室)のために用いる柏葉を自らの足で採りに行っているにも関わらず、オオサザキ大王(仁徳天皇)は磐之媛の留守を狙いヤタ王女(八田皇女)を宮に呼び寄せ互いの欲望のままに肉体関係を結ぶ。
磐之媛は紀国からの船での帰途、難波到着前に、この事実を知り大いに嘆き怒る。
『八田皇女を合しつと聞きて大これを恨む』
(『日本古典文學大系4 萬葉集 一』高木市之助 五味智英 大野晋 校注 岩波書店)
磐之媛は、オオサザキ大王(仁徳天皇)が待つ難波を嫌って素通りし、淀川を遡り山背国で船を降りた。
そして、そのまま筒城岡に滞在する。
(山背国筒城岡推定地)
『古事記』では磐之媛は、筒木の韓人である奴理能美の家に入ったとされている。
『筒木の韓人、名は奴理能美』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
この奴理能美は、百済系の渡来移民と見られている。ここで、注目されるのは、葛城氏が山背国の渡来系移民をも掌握していたと言うことである。
一方、オオサザキ大王(仁徳天皇)は、磐之媛の行動を全く知らず、難波に磐之媛を出迎え待ちぼうけとなる。翌日になって事態を把握したオオサザキ大王(仁徳天皇)は、慌てて舎人の鳥山を使者として差し向けて、磐之媛とよりを戻そうと試みる。
しかし、磐之媛は筒岡宮を造営し、決して帰ろうとはしなかった。
『宮室を筒城岡の南に興り』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
ここで、葛城氏と密接な関係があった山背国の渡来移民(渡来人)が、大后(皇后)のための宮を造営出来るだけの技術力とマンパワーを有していたことが判るのである。
さて、この時、オオサザキ大王(仁徳天皇)の命令を受けた田口臣が、磐之媛を連れ帰ろうと雨の中ひたすら待ち続けている姿を、田口臣の妹で磐之媛に仕えていた国依媛が見て涙を流したという逸話が残る。
『古事記』では、この田口臣を「丸邇臣口子」としている。
丸邇氏(和珥氏)は、オオサザキ大王(仁徳天皇)の父のホムタ大王(応神天皇)に一族の女性を妻として送り込んだ皇別豪族であり、象徴的な起用となっている。また「口子」と言う名前も「口利きする者」あるいは「伝言を託されし者」と言うような意味合いと考えられている。
また、田口臣の妹の国依媛の名前も『古事記』では「口比売」としており、こちらも「口利きする者」あるいは「伝言を託されし者」と言うような意味合いの名前となっている。
11月7日になって、オオサザキ大王(仁徳天皇)自らが、筒岡宮へ行幸し磐之媛の説得を試みたものの、磐之媛はオオサザキ大王(仁徳天皇)に会うことすら拒絶し追い返してしまう。
オオサザキ大王(仁徳天皇)は、この仕打ちに怒り心頭になるものの、磐之媛が自分のもとに帰ってくれることを、ひたすら信じて待ち続けた。
葛城磐之媛の孤独な死
葛城磐之媛は、オオサザキ大王(仁徳天皇)の裏切りを決して許さず、その謝罪を受け入れることは無かった。
そして、仁徳天皇35(347)年、筒岡宮において、磐之媛は一人寂しく薨去する。
磐之媛が薨去するや、オオサザキ大王(仁徳天皇)は、仁徳天皇37(349)年、磐之媛の生まれ育った葛城の地がよく見える乃羅山(奈良山)に磐之媛を埋葬している。
(葛城磐之媛命陵墓に治定されているヒシアゲ古墳)
その直後、オオサザキ大王(仁徳天皇)は、すぐさまヤタ王女(八田皇女)を大后(皇后)としたのである。
このように『日本書紀』において、磐之媛は不幸な最期を遂げた女性として記されている。
しかし、『古事記』では全く違う展開を見せている。
磐之媛とオオサザキ大王(仁徳天皇)の仲を心配した口子臣・口比売・奴理能美の三人が口裏を合わせ、
『大后の幸行でましし所以は、奴理能美が養へる虫、一度は匐ふ虫に爲り、一度は鼓に爲り、一度は飛ぶ鳥に爲りて、三色に變る怪しき虫有り。此の虫を看行はしに入り坐ししにこそ。更に異心無し』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
として、オオサザキ大王(仁徳天皇)に取り成したために、この別居騒動は無事円満に収まっている。
しかも、『古事記』には、ヤタ王女(八田皇女)が大后(皇后)に立ったことが記されていないことから、その後も、磐之媛は、オオサザキ大王(仁徳天皇)が大王(天皇)として君臨する間、ずっと「大后(皇后)」としてあり続けたと見られる。
『古事記』と『日本書紀』が、それぞれに伝える磐之媛の果たしてどちらが本当の磐之媛の実像であったのかは不明である。
葛城磐之媛とは
葛城磐之媛は、大王家(天皇家・皇室)に王族(皇族)以外から初めて「大后(皇后)」として迎えられた女性である。
その具体的な理由について『日本書紀』・『古事記』は記してはいないが、それでも『日本書紀』には、磐之媛が大后(皇后)に迎えられた理由と思われる出来事が散見される。
例えば、仁徳天皇12(324)年、
『高麗國、鐵の盾・鐵の的を貢る』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とあり、当時、倭(日本)と朝鮮半島との交易を葛城襲津彦が担っていたことを鑑みると、その襲津彦の娘の磐之媛を大后(皇后)としたことで、朝鮮半島産の鉄製武具を大王家(天皇家・皇室)が独占的、または、優先的に入手出来たことを示している。
また、仁徳天皇17(329)年には、
『新羅人懼りて、乃ち貢獻る。調絹一千四百六十匹、及び種種雑物、幷せて八十艘』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とあって、やはり磐之媛の出身母体である葛城氏を通して行った朝鮮半島との交易から莫大な富を得ていたことが示唆されている。
この傍証とまでは言えないが、オオサザキ大王(仁徳天皇)と別居し磐之媛が亡くなった後、大王家(天皇家・皇室)は朝鮮半島諸国との交易が上手く進まなくなってしまい対応に苦慮している(『日本書紀』)。
また、磐之媛とオオサザキ大王(仁徳天皇)の別居騒動でも興味深い話が『古事記』に載っている。
それは、磐之媛とオオサザキ大王(仁徳天皇)を仲直りさせるために、口子臣・口比賣・奴理能美の三人が考えたオオサザキ大王(仁徳天皇)への言い訳は先に述べた通りであるが、その内容が「養蚕業」を意味しており、しかも、
『三種の虫を大后に獻りき』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
として、「養蚕業」を磐之媛、乃ち、葛城氏が渡来移民(渡来人)から独占的に支配していたことが窺えるのである。
「大后(皇后)」としての磐之媛の存在は、朝鮮半島諸国との海外交易や殖産業を倭(日本)で一手に握っていた葛城氏の実力を示していると言える。
その葛城氏から磐之媛を大后(皇后)として迎えた大王家(天皇家・皇室)は、葛城氏の持つ経済力・技術力を背景として、百舌鳥古墳群のような巨大古墳を次々と築造したことに代表されるように倭(日本)全体に支配力を及ぼしつつ、国際的には中国王朝の冊封体制下に進んで入って行くようになる。
このように、4世紀の日本史において、磐之媛が果たした役割は極めて大きなものだったと言える。
養蚕に関連して、21世紀の現代において、皇后が行う皇室(天皇家)の重要な行事のひとつに『御養蚕始の儀』から始まり『御養蚕納の儀』まで行われる一連の養蚕行事がある。
この行事はオオハツセワカタケ大王(雄略天皇)の故事に因むとされる。
『天皇、后妃をして親ら桑こかしめて、蠶の事を勸めむと欲す』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
この故事の原点は、実は『礼記』に記された古代中国王朝の后妃が春に行った農業祭祀にあり、后妃としての理想像を示したものである。
日本史上で皇后(大后)と言う立場から養蚕業に関わったのが磐之媛であることを鑑みた場合、磐之媛は、「皇后」像として21世紀の現在にまで生き続けていると言えよう。
そして、もう一点、磐之媛が後世の日本史に大きな影響を与えることとなる出来事が『古事記』に記されている。
それは、オオサザキ大王(仁徳天皇)が山部大楯連にハヤブサワケ王(隼別皇子)とメドリ王(雌鳥皇女)の討伐を命じた時のことである。
この討伐の際、山部大楯連が自らの殺害したメドリ王(女鳥王)の死体から宝石を奪い取り、しかも、その宝石を自分の妻に与えていたと言う非道を磐之媛は知る。
磐之媛は、その責任を取らせて山部大楯連に即刻死罪を言い渡す。
『爾に大后(略)詔りたまひ(略)死刑を給ひき』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
このように磐之媛は政治的な活動もしているのである(『日本書紀』ではヤタ王女が言い渡したことにされている)。
注目されるのは、磐之媛が「詔」を下していることにある(4世紀当時に「詔」と言う語句は存在しなかったので「大王の命令」とすべきか)。
これは、豪族出身の「大后(皇后)」が大王(天皇)に代わり統治の大権を振るったと言うことである。恐らく、これがために『日本書紀』では王族(皇族)出身のヤタ王女(八田皇女)が裁いたことにしたのであろう。
こうして、在地豪族から大后(皇后)に迎えられた磐之媛の姿は、奈良時代、藤原不比等の娘である藤原光明子が聖武天皇の皇后に立つ時に、先例として挙げられた。
『難波高津宮御宇大鷦鷯天皇葛城曾豆比古女子伊波乃比賣命皇后御相坐而食國天下之政治賜今米豆良可新政者不有本行来迹事』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
しかも、光明子の皇后としての権力は藤原仲麻呂に利用されることとなるが、その臣下出身の皇后の権力の拠り所も「磐之媛の詔」に先例があると見たならば、日本史における磐之媛の存在は極めて重要と言える。
このように、奈良時代・平安時代以後、臣下から「皇后」に立つことを可能にする根拠とされたことと、その臣下出身の「皇后」が持つ権力の存在とその権力を行使し得る根拠とされる存在になったと言う点で、葛城磐之媛は大いに注目されるべき女性なのである。
葛城磐之媛の系図
《関係略図》 葛城襲津彦━━┳葦田宿禰 ┗磐之媛 │ ┝━━━━━━┳履中天皇 │ ┣住吉仲皇子 │ ┣反正天皇 │ ┗允恭天皇 │ 仲姫命 │ │ │ ┝━━━━━━仁徳天皇 │ │ 応神天皇 │ │ │ ┝━━━━━┳八田皇女 │ ┣菟道稚郎子皇子 │ ┗雌鳥皇女 │ 宮主宅媛
葛城磐之媛と万葉歌
『万葉集』巻二「相聞」に葛城磐之媛の歌が4首収められている。
磐姫皇后、天皇を思ひたてまつる御作歌四首
85 君が行き日長くなるぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ
86 かくばかり戀ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを
87 ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに
88 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何處邊の方にわが戀ひ止まむ
(『日本古典文學大系4 萬葉集 一』高木市之助 五味智英 大野晋 校注 岩波書店)
これらの歌の内、85の1首は山上憶良の『類聚歌林』に掲載されていた歌だと『万葉集』は伝える。
磐之媛の歌は、磐之媛ならではの個性が欠如しており、所謂「相聞歌」としての一般的な表現に終始している。このため磐之媛の歌として、奈良時代に作られた歌との見方が有力である。
葛城磐之媛と清少納言
江戸時代中期までは、葛城磐之媛の陵墓の位置する大和国添上郡の乃羅山を若草山と考え、若草山山頂にある鶯塚古墳に比定していた。
このため『枕草子』に、
『みささぎは、うぐひすのみささぎ』
(『日本古典文學大系19 枕草子 紫式部日記』池田龜鑑 岸上愼二 秋山虔 校注 岩波書店)
とあることから、享保18(1733)年に、並河永が鶯塚古墳に「平城坂上墓 清少納言謂之鶯之陵」の石碑を建てるに至った。
磐之媛の陵墓が鶯塚古墳からヒシアゲ古墳へと比定が改められたのは、江戸時代末期のことである。
(鶯塚古墳とヒシアゲ古墳)
清少納言の言う「うぐひすのみささぎ」が一体どの古墳を指すのかは定かでは無い。
また、何より清少納言が磐之媛をどう考えていたのかは不明である。
葛城磐之媛の年表
- 仁徳天皇2(314)年3月8日立后。
- 仁徳天皇7(321)年8月9日皇后のために葛城部が設置される。
- 仁徳天皇16(328)年7月1日天皇、磐之媛の嫉妬を愚痴る。
- 仁徳天皇22(334)年正月天皇から八田皇女を妃に迎えることを願われるが拒絶する。
- 仁徳天皇30(342)年9月11日紀国へ向かう。
- 仁徳天皇35(347)年6月薨去。
- 仁徳天皇37(349)年11月12日乃羅山に埋葬される。