葛城玉田宿禰【葛城氏と大王家(皇室・天皇家)との相克!大王に粛清された男!】

葛城玉田宿禰について

【名前】 葛城玉田宿禰
【読み】 かずらきのたまだのすくね
【生年】 不明
【没年】 允恭天皇5(416)年
【時代】 古墳時代
【祖父】 葛城襲津彦
【父】 不明
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 葛城円
【氏】 葛城氏

葛城玉田宿禰の生涯

葛城玉田宿禰の生い立ち

葛城玉田宿禰の生年は不明である。

玉田宿禰の父に関しても不明である。『日本書紀』中の次の記事から、玉田宿禰が葛城襲津彦の孫であることが判る。

『葛城襲津彦の孫玉田宿禰』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

しかし、同じ『日本書紀』中には、

『葛城襲津彦の子、玉田宿禰』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う記述も見られる。

このように玉田宿禰の系譜は混乱しており、はっきりとはしない。

ただし、玉田宿禰を襲津彦の子とする記事は吉備稚媛の出自に関する「異伝」と言う形で伝えられているのであり、このことは、葛城氏と大王家(皇室・天皇家)との関係において留意すべき点である。

葛城玉田宿禰と大王家(皇室・天皇家)

葛城玉田宿禰は、大和国葛下郡の「玉手丘」を含む葛城地方南部を拠点にしていたと考えられている。

玉手丘、もしくは、馬見古墳群内の築山古墳群の周辺に、その本拠があったとされるものである。

築山古墳群
(築山古墳群)

『日本書紀』には記されていないが、この時期の玉田宿禰は政治(まつりごと)に参与していたのではないだろうか。いや、むしろ参与していない方が不自然とも思えるのである。

実際、履中天皇2(401)年正月には、玉田宿禰の子である葛城円が政治に参与している。

このことは、円以前に玉田宿禰が政治に参与していたことを示唆しているように思われるのである。

また、円が政治参与したことは、玉田宿禰系内の長者の地位が、玉田宿禰から円に父子相続されたことを意味するものであるのかも知れない。

葛城玉田宿禰、粛清される

第一線から引退した葛城玉田宿禰であったが、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)から先に亡くなったミズハワケ大王(反正天皇)の殯の準備を行うように命じられる。

これは、ミズハワケ大王(反正天皇)、それにオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)自身の外戚が葛城氏であることから命じられたものと思われる。

言い換えれば、この時期の大王家(皇室・天皇家)に係る費用(内廷費)は、その多くを葛城氏が担っていた可能性を示すものとも受け取れる。

《関係略図》

葛城襲津彦━━┳不明━━━━━━━玉田宿禰
       ┣葦田宿禰━━━━┳蟻
       ┃        ┗黒媛
       ┃          │
       ┗磐之媛       │
         │        │
         ┝━━━━━━┳履中天皇
         │      ┣住吉仲皇子
         │      ┣反正天皇
         │      ┗允恭天皇
         │
応神天皇     │
 │       │
 ┝━━━━━━仁徳天皇
 │
仲姫命

また、系図を見ても判るように、玉田宿禰から見て、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)とミズハワケ大王(反正天皇)は、どちらも従兄弟に当たる関係である。

財政の面でも血筋の面でも玉田宿禰は、大王家(皇室・天皇家)に近しい存在であったと言える。

しかし、玉田宿禰は、殯の準備を怠った上に、殯の宮を離れ葛城の本拠地に戻り男女を集めて賑やかに酒宴を行う。

そこへ運悪く地震が発生する。

殯の様子を心配したオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)は、尾張吾襲に様子を見に行かせる。そこで吾襲が目撃したのは、無人の殯の宮であり、すぐさま吾襲は、玉田宿禰が殯の宮に不在であったことをオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)に奏上している。

そこで、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)は、さらに事態の真相を知ろうと吾襲を葛城にある玉田宿禰の屋敷へ派遣する。

葛城に到着した吾襲は、事のいきさつを玉田宿禰に告げる。これに、すっかり酔いが冷めてしまった玉田宿禰は、身の危険を感じ、

『馬一匹を以て、吾襲に授けて禮幣』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と賄賂を贈って何とか収めようとしたものの、気が変わり、

『密に吾襲を遮りて、道路に殺しつ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

結局、吾襲を待ち伏せして殺害している。この辺り、玉田宿禰の人間性が感じられる話である。もっとも吾襲にとってはとんだ災難ではあるが。

その上で、玉田宿禰は武内宿禰の墓に隠れてしまう。

これを聞いたオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)は、玉田宿禰を召喚する。

この時のオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)の真意が、最初から玉田宿禰を殺害するつもりで呼び出したのか?それとも事実関係の確認のためだけに玉田宿禰を呼び出したのか?は不明である。

ただ、玉田宿禰は殺害される可能性が高いことを自覚していたようで、

『甲を襖の中に服て、参赴り』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と着衣の下に甲冑を着込んで出かけている。

その着衣の下から甲冑の裾を見たオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)は、小墾田采女を使い、玉田宿禰が確かに甲冑を着用していることを確認すると、

『兵を設けて殺したまはむ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

としたものの、玉田宿禰は逃げ出し自分の屋敷に篭城してしまう。このためオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)は、さらに、

『卒を發し』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

その軍勢で、玉田宿禰の屋敷を攻囲し捕縛した上で殺害する。

軍勢の中心となったのは、大王家(皇室・天皇家)の武力装置たる大伴氏や物部氏のような伴造であったと想像されるが、具体的な内容は判らない。

この『日本書紀』が伝える「玉田宿禰の処刑」が、史実であるかどうかは不明である(『古事記』には玉田宿禰が誅殺される話は出て来ない)。

葛城玉田宿禰とは

葛城玉田宿禰は、大王(天皇)から与えられた命令に対して怠慢を働いたが為に誅殺された人物として正史に名が残されている。

玉田宿禰で注目されるのは、吉備稚媛の出自に関する別説である。

『別本に云はく、田狭臣が婦の名は毛媛といふ。葛城襲津彦の子、玉田宿禰の女なり』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

この別説は、吉備稚媛を葛城毛媛とするものである。

しかし、これは本来は吉備稚姫と葛城毛媛と言う二人の女性を『日本書紀』編纂時に強引に一人に仕立てた結果ではないかとも思える。

そして、仮定として、毛媛が玉田宿禰の娘(葛城氏本宗家の女子)として吉備氏と婚姻していたと考えた場合、ここで最も重要なことは、葛城氏が玉田宿禰の代までに、山陽の雄族である吉備氏(吉備上道臣)との連携を深めていたと言うことであろう。

葛城氏と吉備氏(吉備上道臣)の婚姻に拠る強固な在地系豪族連合は、大王家(皇室・天皇家)にとって脅威でしかなかったと思われる。

そこで、何らかの口実さえあったならば、大王家(皇室・天皇家)が玉田宿禰を討って葛城氏を一時的にでも弱体化させることが可能となる。

その緊迫した状況下で「ミズハワケ大王(反正天皇)の殯の準備をさぼり酒色に耽っていた」と言う口実が見つかったのである。加えて、玉田宿禰が武装してオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)の前に出たと言う口実である、

もちろん、これらの口実となり得る出来事(玉田宿禰の怠慢行為)が果たして事実として存在したのか?しなかったのか?は不明である。

実は、興味深いことに玉田宿禰が誅殺される前年の允恭天皇4(415)年に「盟神探湯」が実施されている。

この時の「盟神探湯」が本当に実施されたことを証明するものは無いが、「盟神探湯」は氏姓を糺すことを目的に実施されるものであり、それが、玉田宿禰が排される前年に行われたとする『日本書紀』の構成は非常に意味深と言える。

「盟神探湯」を行ったとする『日本書紀』は、「盟神探湯」実施後も玉田宿禰に対して「姓」を付与して表記していないことから、『冠位十二階』制定時に冠位制に超越していた蘇我氏本宗家と同じく有力豪族の葛城氏は盟神探湯に拠る規制の対象外であったことは明白である(玉田宿禰の怠慢を報告した尾張吾襲は「連」姓が付与されている)。

大王(天皇)を倭(日本)における唯一の頂点とするために氏姓制度を導入しようとする勢力には、玉田宿禰の存在、即ち、葛城氏本宗家の存在は目障りであったことは間違い無い。

そして、もう一点、極めて重要なことがある。

それは、玉田宿禰が武内宿禰の墓に逃げ込み隠れたとされていることである。

『武内宿禰の墓域に逃げ隠れぬ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

室大墓(宮山古墳)
(宮山古墳)

架空の人物である武内宿禰の墓を「宮山古墳」に比定する説がある。その「宮山古墳」は「室大墓」とも呼ばれ、倭人(日本人)として存在が確実視されている葛城襲津彦の墓に比されている。

つまり、玉田宿禰が葛城襲津彦の墓に隠れたとすることで、まさに「葛城氏」そのものを意味しているのである。

そして、「オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)に殺害された玉田宿禰」と言う構図は、そのまま「大王家(皇室・天皇家)から誅される存在としての葛城氏」を象徴しているのである。

また、この玉田宿禰の時代(短期間ではあるが)に、朝鮮半島に関する記事が『日本書紀』には見えない。このため、朝鮮半島との交易において、大王家(皇室・天皇家)が葛城氏を必要としなくなったことを暗喩しているとも取れる。

それは、ヤマト王権(大和朝廷)内におけるパワーバランスが、「葛城氏に依存しつつ、葛城氏を搾取し、葛城氏からの自立を目論む」と言う大王家(皇室・天皇家)の意志に拠る再構成が開始されたことを意味しよう。

ただ、玉田宿禰が誅殺された後、玉田宿禰の子である葛城円に何の動きも見られないことから、この玉田宿禰の粛清は史実で無い可能性も高い。

しかしながら、もし仮に玉田宿禰の存在が史実では無かったとしても、「大王家(皇室・天皇家)に蹂躙されて行く葛城氏」を象徴しているのが葛城玉田宿禰と言える。

葛城玉田宿禰の系図

《葛城玉田宿禰の系図》

葛城襲津彦━━┳不明━━━━━━━玉田宿禰━━円
       ┣葦田宿禰━━━━┳蟻
       ┃        ┗黒媛
       ┃          │
       ┗磐之媛       │
         │        │
         ┝━━━━━━┳履中天皇
         │      ┣住吉仲皇子
         │      ┣反正天皇
         │      ┗允恭天皇
         │
応神天皇     │
 │       │
 ┝━━━━━━仁徳天皇
 │
仲姫命

葛城玉田宿禰の年表

年表
  • 允恭天皇5(416)年
    7月14日
    オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)に殺害される。