和珥童女君【雄略天皇との激しい一夜で皇室を救った女性!】

和珥童女君について

【名前】 和珥童女君
【読み】 わにのおみなぎみ(わにのをみなぎみ)
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 古墳時代
【職能】 雄略天皇妃
【父】 春日和珥深目
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 雄略天皇
【子】 春日大娘皇女
【氏】 和珥氏(春日氏・春日和珥氏)
【姓】

和珥童女君の生涯

和珥童女君の生い立ち

和珥童女君は、春日和珥深目の娘として誕生する。

童女君の父である深目が和珥氏本宗家の出身かどうかは不明である。

当時の和珥氏本宗家は、4世紀前後から始まる葛城氏本宗家のヤマト王権(大和朝廷)内での伸長の影響を受けて、大和盆地東北部の春日地方へと拠点を移しており、春日和珥氏を、和珥氏が春日氏へと代わる過渡期の氏と見做したならば、和珥氏本宗家出身とも考えられる。

童女君の誕生年や生母については一切が不明である。

その童女君は、最初、采女として大王家(皇室・天皇家)に仕えていたと伝えられる。

和珥童女君、大王(天皇)との激しい一夜

ある時、和珥童女君は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に見初められて、共に一夜を過ごした。

オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)自らが、

『七廻喚しき』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言うほどに何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もお互いに果ててもまた求めるほどに深く激しく愛し合う一夜を過ごす。

和珥童女君が、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)と結ばれたのが、王位(皇位)に即く前であったのか、後であったのか、はっきりとはわからない。

なお、『古事記』には、童女君の話は出て来ないが、代わりにオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が、和珥氏(丸邇氏)の娘の下へ通う話がある。

『天皇、丸邇の佐都紀臣の女、袁杼比賣を婚ひに、春日へ幸行でましし』

(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)

和珥童女君の妊娠と大王(天皇)の冷たい仕打ち

和珥童女君は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)と激しい一夜を過ごした。

その結果、妊娠し女児を出産する。

『天皇。一夜與はして脤めり。遂に女子を生めり』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

しかし、一夜限りの性行為で和珥童女君が妊娠したことにオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は疑問を抱く。

このため、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は童女君の出産した女児を自分の実子として認めることはなかった。

例え、一夜であっても妊娠する時はするものであり、しかも、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、その一夜に何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もありったけの・・・(以下自粛)。

この辺りの『日本書紀』のくだりは当時の性知識を伝えていて興味深いものがある。

結局、童女君は子連れで采女の仕事を続けていたようである。

童女君は我が娘を不憫に思ったことであろう。

和珥童女君と物部目

和珥童女君とその子の運命が大きく変わるのは、大連の物部目が、大王の屋敷内を歩く女児を見かけた時のことであった。

泊瀬朝倉宮推定地
(オオハツセノワカタケ大王の宮・泊瀬朝倉宮推定地)

目は、女児を見つけると、故事を引き合いに出しながら、

『清き庭に徐に歩く者は、誰か女子とか言ふ』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、誰の子であるのか、と群臣らに尋ねた。

この目の質問に、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が何故そんなことを尋ねるのかと問うと、目は、

『女子の行歩くを観るに、容儀、能く天皇に似れり』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と答えて、女児とオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が似ていることを指摘して、気になったと言うことを述べている。

そこで、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は、事の成り行きを語り、たった一夜の性行為で妊娠したことを不審に思っていると告げると、目は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に尋ねた。

『然らば一宵に幾廻喚ししや』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

現代語にすると「一晩で何回お相手なさいました」となる。

オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は答えた。

『七廻喚しき』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

「七発」。

その答えを聞いた目は、

『此の娘子、清き身意を以て、一宵與はしたまふに奉れり。輙く疑を生したまひて、他の潔くあるみを嫌ひたまふ』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言い放ち、清純な童女君を疑うオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)を責めた。

続けて、

『臣、聞る。産腹み易き者は、褌を以て體に觸ふに、即便ち懐脤みぬと。況むや終宵に與はして、妄に疑を生したまふ』

(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

「私は聞いたことがあります。妊娠しやすい者は褌に触れただけで妊娠すると言います」

として、目は、妊娠しやすい女性は、相手の褌を触っただけでも妊娠するものであるとまで強引に言い切って、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の疑念に対して深く翻意を促している。

この目の諫言を、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)は受け入れ、女児を「王女(皇女)」として認知し、童女君を妃にしたのである。

和珥童女君のまとめ

和珥童女君に関する『日本書紀』の記述は、一見すると、恋多きオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の恋愛譚のひとつのようである。

しかし、この話には謎が多いのも事実である。

まず古代の雄族のひとつで、ワカヤマトネコヒコオオヒ大王(開化天皇)以来、大王家(皇室・天皇家)に王妃(皇妃)を納れて来た和珥氏の娘である童女君が、何故に采女として大王(天皇)に仕えていたのか?と言うことである。

加えて、物部目が、この童女君が出産した女児をオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に認知させることに躍起になっている点も大きな謎である。

これらのことから推理するに、童女君は、もともとは物部氏所縁の女性で、その女性が大王(天皇)との間に女児を出産したことで閨閥を得ようとした目が奔走したのではないだろうか。

穿って見れば、童女君の生母は物部氏出身の女性であったのかも知れないと言うことである。

童女君を「采女」と伝えるのも、物部氏の「伴造」と言う職能を示している可能性も考えられる。

また、童女君の父の名前が春日和珥深目であり、童女君を引き立てたのが物部目である。

両者の名前には故意か偶然か「目」が共通しており、やはり何らかの関係性があったことを示唆しているように思われる。

そして、童女君は、後になって倭(日本)の歴史上において重要な役割を果たしていたことが判る。

童女君が出産したカスガノオオイラツメ王女(春日大娘皇女)は、オケ大王(仁賢天皇)の大后(皇后)に登っている。

そして、カスガノオオイラツメ王女(春日大娘皇女)の娘、即ち、童女君の孫娘に当たるタシラカ王女(手白香皇女)が越国から迎えたオオド大王(継体天皇)の大后(皇后)となることで、男系王統(男系皇統)が断絶したものの大王家(皇室・天皇家)は入り婿と言う形で王統(皇統)そのものが断絶する危機からは救われているのである。

こうしてみると、古代倭(日本)における王統(皇統)の護持と言う点において、童女君の果たした役割は非常に大きいものがあった。

ただ、これは童女君の出産したカスガノオオイラツメ王女(春日大娘皇女)が本当にオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に認知されていた場合の話である。

王統(皇統)の系譜を繋げるため『日本書紀』編纂時に、本来は王族(皇族)の資格を持たない私生児であるカスガノオオイラツメ(春日大娘)を、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が認知したことにして、カスガノオオイラツメ王女(春日大娘皇女)へと改竄した可能性も考えられなくは無い。

実際『古事記』には、童女君の名前は記載されていない。

奇妙なことに、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の恋愛譚について雄弁な『古事記』が、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)と童女君の恋愛譚については一切触れていないのである(丸邇袁杼比売の話は掲載されている)。

もし、童女君がオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の后妃で無かったとしたならば、カスガノオオイラツメ王女(春日大娘皇女)も王女(皇女)として認知されていなかったことを意味する。

仮に、カスガノオオイラツメ(春日大娘)が「王女(皇女)」で無ければ、オケ大王(仁賢天皇)の大后(皇后)でも無かったと見られる。

そうなると、大王(天皇)と大后(皇后)の娘として「女系」で王統(皇統)を繋いだタシラカ王女(手白香皇女)の血筋が問題視されるであろうし、同じ問題は、タシラカ王女(手白香皇女)所生のアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)にも生じてしまう。

このことは、カスガノオオイラツメ王女(春日大娘皇女)の孫に当たるアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)のブレーンには、これも目の孫に当たる物部尾輿が存在していたことを見ても一考する価値はあると思われる。

いずれにしても、倭(日本)の王統(皇統)の正統性は「女系」に拠って守られたのである。

ただし、それは皇別(王別)豪族の名門である和珥氏出身の和珥童女君が出産した女児に始まる「女系」であるが故に、大小の諸豪族間において広く「認知」されたと言えるのではなかろうか。

和珥童女君の系図

《和珥童女君の婚姻関係略図》

春日和珥深目━童女君
        ┃
        ┣━━━━春日大娘皇女
        ┃
允恭天皇━━━雄略天皇

《継体天皇と春日大娘皇女》

仁徳天皇┳履中天皇━━━磐坂市辺押磐皇子━仁賢天皇
    ┗允恭天皇━━┳安康天皇      ┃
           ┗雄略天皇      ┃
             ┃        ┃
             ┃        ┣━━━━━━┳武烈天皇
             ┃        ┃      ┗手白香皇女
             ┃        ┃        ┃
             ┃        ┃        ┣━━━━━欽明天皇
             ┃        ┃        ┃
             ┣━━━━━━━春日大娘皇女    ┃
             ┃                 ┃
            和珥童女君              ┃
                               ┃
                              継体天皇

和珥童女君の墓所

和珥童女君の墓所は不明。

童女君の没年も不明であるが、5世紀後期頃に築造された古墳の中に、童女君の墓所に該当するものがあると思われる。

和珥童女君の年表

年表
  • 雄略天皇元(457)年
     
    出産した女子が大王(天皇)に認知され、妃となる。