目次
崇源院(浅井江与)について
【名前】 | 崇源院 |
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【読み】 | すうげんいん |
【俗名】 | 浅井江与 |
【読み】 | あさいえよ |
【通称】 | 大御台所・大御台(『徳川実紀』『柳営婦女伝叢』) |
【別称】 | 江・督(小督)・藤原達子 |
【法名】 | 崇源院殿昌誉和興仁清大禅定尼 |
【生年】 | 天正元(1573)年 |
【没年】 | 寛永3(1626)年 |
【時代】 | 戦国~江戸時代 |
【位階】 | 従二位(追贈従一位) |
【職能】 | 徳川幕府第二代将軍正室 |
【父】 | 浅井長政 |
【母】 | 織田市 |
【兄弟姉妹】 | 浅井万福丸・淀殿(茶々)・常高院(初) |
【配偶者】 | 佐治一成・豊臣秀勝・徳川秀忠 |
【子】 | 豊臣完子・徳川千・徳川子々・徳川勝・徳川長丸・徳川初・徳川家光・徳川忠長・徳川和子 |
【家】 | 浅井家 |
【氏】 | 藤原氏(物部氏) |
【姓】 | 朝臣 |
崇源院(浅井江与)の肖像
(『崇源院像(部分)』養源院蔵 Wikimedia Commons)
崇源院(浅井江与)の生涯
崇源院(浅井江与)の生い立ち
天正元(1573)年、崇源院(浅井江与・以後「江与」表記)は、浅井長政と織田市の間に三女として誕生する。
(『浅井長政夫人像(部分)』高野山持明院蔵 Wikimedia Commons)
天下を睨む織田信長は、妹の織田市を、北近江の浅井長政に輿入れさせて、「織田浅井同盟」を成立させていた。
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
市の輿入れ時期については諸説あり、はっきりしていない。
いずれにせよ、この同盟によって、織田家と浅井家は蜜月関係に入り、その中で、市は、嫡男の浅井万福丸・長女の茶々(淀殿)・次女の初(常高院)を出産していた。
(『伝淀殿像(部分)』奈良県立美術館蔵 Wikimedia Commons)
(『常高院像(部分)』常高寺蔵 Wikimedia Commons)
ところが、江与が誕生する3年前の元亀元(1570)年、信長が越前の朝倉義景討伐を開始したことで、全ての歯車が狂う。
この事態に、長政は、父の浅井久政らの意見に従い、越前朝倉家の援護を決意する。
そして、越前で軍事作戦を展開中の織田軍に対して背後から急襲した。このため信長は、戦場から命からがら逃亡すると言う惨めな目に遭わされた。
裏切り者の長政へ憎悪の感情を燃やした信長は、態勢を建て直すと近江に出陣。
浅井朝倉連合軍を野戦に引き摺り出した上で決戦に持ち込み、これを撃破する。『姉川合戦』である。
以後、数年間、長政は、織田軍の包囲網のために小谷城へ封じ込められる。
こうして破綻した「織田浅井同盟」であるが、何故か、市が織田家へ送り返されることは無かった。
このことについて、長政が市を愛し、市も、また長政を愛していたからだとする説が唱えられているが、一方で、信長の妹を性的慰みものとすることで、長政は己の鬱憤を晴らしていたのかも知れない。この辺りの事実は不明である。
(浅井長政の居城・小谷城)
こうした異様な状況の篭城が続いた3年目に、江与は生を受けたのである。
絶望的な空気が漂う小谷城下に響く江与の泣き声は、生命の輝きとして、かすかな希望の灯火であったかも知れない。
だが、江与の誕生後間もなく、越前朝倉家を壊滅させた信長は、「裏切り者」長政が篭る小谷城へと情け容赦無く襲い掛かる。
長政は、市と3人の娘たちを城外へ脱出させて自刃する。
『淺井備前守妻女は信長妹也、然無異儀被引取』
(『當代記』国立国会図書館デジタルコレクション)
『落城に際して、長政の夫人及三女子は、信長の縁親たるの故を以て城外に出しその軍に渡された』
(『滋賀縣史 第三巻』国立国会図書館デジタルコレクション)
信長の下へ送られた市と三姉妹は、信長の弟の織田信包に預けられたと言う。
なお、茶々には大野道犬の妻である大蔵卿局が乳母として付けられたことが、はっきりしているが、江与に付けられた乳母についての明確な記録は残されていない。
江与の乳母には、民部卿局なる女性が付けられたとも言われるが、江与の後半生における民部卿局の動き等を見ると、本当に乳母であったのか大きな疑問である。
翌天正2(1574)年、江与は、母と姉らと共に信包の居城である上野城に移って世話になる。
(上野城)
以後、天正8(1580)年に津城へ移るものの、『本能寺の変』の勃発する天正10(1582)年まで伊勢国で過ごす。
(津城)
穏やかな日々は、天正10(1582)年に終わりを告げる。
明智光秀が信長を弑逆した『本能寺の変』が勃発。
この『本能寺の変』は、江与たちの運命までも大きく変えた。
羽柴秀吉が『山崎合戦』において、光秀を討伐し、その結果、秀吉が天下獲りに一躍名乗りを挙げる。
『山崎合戦』後、秀吉は、信長亡き後の織田家について、織田家重臣と議論する名目で「清須会議(清洲会議)」を開催する。
その過程で、市は、江与ら三姉妹を連れて、織田家譜代の重臣である柴田勝家と再婚することとなる。
この再婚は、秀吉の台頭を警戒した織田信孝(信長三男)が、織田家重臣である勝家と結ぶための政略でもあったとされる
また、秀吉が市と勝家の婚姻を計画し推進したのだとも言われる。
その真相は不明であるが、こうして、江たちは、勝家の居城である越前国北ノ庄城で暮らすこととなる。
(北ノ庄城)
伊勢国から、どの道筋を経て越前国へ入ったのかは不明であるが、恐らく北近江を通過したはずであり、江与は、満9歳にして、この時、生まれて初めて、自分の生まれた土地を目にしたものと思われる。
この時、江与の胸中に何がよぎったのか?
それを伝える史料は一切伝わっていない。ただただ、平穏な生活を祈っていたのかも知れない。
だが、その祈りは、翌天正11(1583)年に、秀吉との決戦『賤ヶ岳合戦』において勝家が敗れ去ったことで画餅に帰す。
歴戦の勇士たる勝家であったが、戦略眼を持つ秀吉には勝てなかった。
北近江の戦場から逃げ落ちた勝家は、北ノ庄城へ戻る。
ここで、市は、三姉妹を城から脱出させた後に、自らは勝家と共に自刃することを選ぶ。
こうして、江与ら三姉妹は生母を喪い、秀吉の保護下に置かれることとなる。
しかしながら、秀吉の手元に置かれたわけでは無く、信長の弟の織田長益(織田有楽斎)、または、秀吉の側室であった京極龍子(松ノ丸殿)の下に預けられていたとする説がある。
江与は、満10歳にして2度目の落城を経験し、1度目の落城で父を喪い、遂に母まで喪ってしまったのである。
崇源院(浅井江与)、従兄弟の妻となる
羽柴秀吉の差配下にあった三姉妹中、まず「政略の駒」として秀吉に早速利用されたのが、三姉妹の末っ子である浅井江与であった。
江与は、織田信雄に仕える佐治与九郎一成と婚姻させられたのである。
『尾州左地與九郎ト云人ノ方ヘ被成御座』
(『太閤素生記』国立国会図書館デジタルコレクション)
僅か満11歳のことであった。
一成の母は、信長の妹の織田犬であり、一成とは従兄弟姉妹の関係である。ただし、犬は、江の輿入れ時には既に鬼籍にあった。
《崇源院(浅井江与)と佐治一成》 浅井長政 │ ┝━━━┳茶々 │ ┣初 │ ┗江与 │ │ 織田信秀┳市 │ ┗犬 │ │ │ ┝━━━━一成 │ 佐治信方
ところが、輿入れ直後に、秀吉と徳川家康との間に軍事衝突が発生。『小牧長久手合戦』である。
この合戦では、家康の同盟相手が信雄だったため、江与の夫の一成は当然の如く秀吉と敵対関係になった。
実際、一成は、大野川の渡河に苦心する徳川軍のために便宜を図る等、主君・信雄の盟友である家康のために働いている。
このことが、秀吉に知れてしまい、「茶々が重い病気になったために急ぎ見舞いに来られたし」との書状を、江与に送りつけ、江与が秀吉の下にやって来ると、そのまま留め置いて、即座に、一成と離縁させた。
こうして、江与の最初の結婚は、1年も持たずに破綻する。
天正15(1587)年には、初が京極高次に輿入れして行く。
天正17(1589)年になると、茶々が秀吉との間に鶴松をもうける。
二人の姉が、それぞれに縁組が決まり、新しい生活に入って行く中、江与は、たった一人取り残されることとなった。
崇源院(浅井江与)、豊臣秀吉の甥の妻となる
最初の婚姻から9年が経った文禄元(1592)年、浅井江与は、秀吉の甥である豊臣秀勝と婚姻することとなる。
この9年の間、江与がどのように過ごしていたのかは、はっきりしない。姉の茶々が気に掛けていたと思われるが、居候のような立場に置かれていたことに違いは無かった。
そこに降ってわいた縁談である。
『秀勝丹波少将方ヘ被成御座』
(『太閤素生記』国立国会図書館デジタルコレクション)
《崇源院(浅井江与)と佐治一成》 三好吉房 │ 木下弥右衛門 │ │ │ │ │ │ ┝━━━━┳秀次 │ │ ┗秀勝 │ │ │ ┝━━━━┳瑞龍院日秀 │ │ ┗豊臣秀吉 │ │ │ │ 大政所 │ │ │ │ 浅井長政━━┳茶々 │ ┣初 │ ┗江与 │ │ │ └──────┘
豊臣家一族への輿入れであり、江与には恵まれた婚姻であった。
また、茶々とも同母姉妹の関係でありながら、叔母と姪の間柄にもなり、同じ豊臣家の一門衆として傍に居続けられることとなった。
そう考えた時、末妹でありながら、先に嫁がされ、しかも離縁の憂き目に遭わされた幸の薄い妹のために、茶々が、この縁組を秀吉に迫った可能性も有り得そうである。
江与と秀勝の生活の拠点は、聚楽第であったと考えられる。
(聚楽第跡)
ところが、同年中に勃発した朝鮮への侵略戦争である『文禄の役』のために、秀勝は朝鮮へ出陣する。
そして、実にあっけなく朝鮮半島南部の巨済島で戦陣に病没する。
(巨済島)
江与の2度目の結婚は、実質的に僅か1ヶ月で終わった。
この時、江与は、秀勝の忘れ形見の子を妊娠していた。
そして、気丈にも、夫の死後に女子を出産するのである。
この女子が、豊臣完子であり、茶々が養猶子として引き取って大切に育て、後に五摂家のひとつ九条家へ嫁ぐこととなる。
完子の輿入れは絢爛豪華な行列で見る人々を圧倒したと伝えられるが、そこには、豊臣家の力を天下に誇示する茶々の思いと、もうひとつは、不幸続きの妹の江与に対して精一杯のことをしてやろうと言う姉としての茶々の思いが込められていたのではないだろうか。
1度目の夫とは有無も言わさず離縁させられ、2度目の夫とは死別した江与の心中にあったものでは何であったろうか。
崇源院(浅井江与)、徳川家康の三男の妻となる
文禄2(1593)年、淀殿(茶々)が、豊臣秀吉との間に第2子となる拾(豊臣秀頼)を出産する。
拾(豊臣秀頼)に政権を譲りたい秀吉は、徳川家康を取り込むために、文禄4(1595)年、家康の三男である徳川秀忠に対して、浅井江与を自身の養女とした上で輿入れさせる。
『秀吉御計、江戸秀忠に嫁玉い、男女の君達誕生し玉ふ』
(『當代記』国立国会図書館デジタルコレクション)
『九月十七日太閤のはからひにて。故浅井備前守長政の季女をかしづき公にまいらせ。北方と定められ御婚禮行はる』
(『徳川実紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
江与は、天正7(1579)年生まれの秀忠より6歳年上で、3度目の婚姻であった。
なお、江与の婚姻については、秀忠に嫁ぐ前に、九条道秀に嫁ぎ、道秀と死別の後に秀忠に輿入れしたとする説がある。
この九条道秀と言う人物は、当時「左大臣」であったとされるが、該当者は正史上に存在しない。
これは、江与の娘で九条家に輿入れした豊臣完子の経歴との混乱とも考えられる。
が、一方で、徳川幕府第2代将軍正室であり、同3代将軍生母である江の経歴に、摂関家との婚姻歴を付け加えることで、江与の「格」、しいては、徳川将軍家の「格」を上げる必要があったのかも知れない。
何故なら、後に、江与の娘である徳川和子が入内しているからである。
和子の入内に対する朝野からの批判をかわす目的から江戸時代になってから捏造された婚姻歴ではないだろうか。
実際、ご丁寧なことに、江与は「九条政所」と呼ばれた、との伝承まで残されている。
『九條の政所と稱せらる』
(『柳営婦女伝叢』国立国会図書館デジタルコレクション)
事実は不明であるが、秀忠との婚儀の直前になってから突如として、江の婚姻歴の伝承は混乱している。
いずれにせよ、江与は、家康の子の秀忠の妻となった。
だが、この婚姻は、江与にとっては、複雑な心境であったのではないだろうか。
何故ならば、家康こそは、父の長政を死へ追いやった憎むべき存在だからである。
一般には、江戸時代以降に広められた「徳川史観」の影響もあって、淀殿たち三姉妹は「秀吉を憎んだ」とされる。だが、史実を客観的に眺めて見れば「浅井長政の敵」は明らかに違う。
江与が生まれる数年前の元亀元(1570)年に行なわれた『姉川合戦』は、浅井家・朝倉家の連合軍と織田家・徳川家の連合軍との間で、繰り広げられた戦いだった。
『姉川合戦』は、開戦劈頭、浅井朝倉連合軍の優勢に展開する。
織田軍は、浅井軍の猛攻撃の前に12段に布陣した陣のうち、11段までを破られたほどである。
この戦況を一変させたのが、徳川軍の奮戦であった。
徳川軍が朝倉軍を右翼から崩壊させたことを契機として、浅井朝倉連合軍は壊滅し敗北した。
結果、長政は、小谷城へと押し込められてしまったのである。
もしも、家康が、その醜悪で汚らしい骸を、姉川に浮かべるような展開になっていれば、長政が、信長と講和に持ち込めた可能性も大いに考えられるところである。
浅井家滅亡後の幼少期に、江与は、姉の淀殿から『姉川合戦』のことを、そして、その『姉川合戦』で信長と共に家康が父の長政を打ち破ったことを、事につけ聞かされたに違いない。
だとすれば、秀忠との婚姻は、縁組を企画した秀吉にとっては、豊臣家と徳川家との絆を深めると同時に一門として取り込む意味があったが、浅井三姉妹から見れば、徳川家の惣領候補に浅井家の血を入れる絶好の復讐の機会と映ったのではあるまいか。
もっとも、江与が、そこまで深く考えていたかは不明である。単なる穿った見方に過ぎないかも知れない。
江与にとって、秀忠に嫁ぐことは、物心ついて以来、孤独な居候生活を過ごすしか無かった生涯において、自分自身の居場所を見つける最期のチャンスであったとも言える。
秀忠に嫁いでから2年後の慶長2(1597)年に、秀忠との間の最初の子である千(徳川千)を出産する。
慶長3(1598)年に秀吉が亡くなり政情が不安となる中でも、慶長4(1599)年に子々(徳川子々)、慶長5(1600)年の『関ヶ原合戦』直前にも勝(徳川勝)を出産している。
『関ヶ原合戦』で、豊臣家に忠誠を誓う石田三成が家康に敗北し、徳川家に拠る天下掌握が進められる。
家康が天下獲りへ動くと、当然の如く、秀忠には男子の誕生が待たれた。
その矢先の慶長6(1601)年、江与は、長男の長丸を出産する。
ただし、これには異論もあって、長丸は、秀忠と江与以外の別の女性(名前は未詳)との間に生まれた男子とする説が現在では有力となっている。
翌慶長7(1602)年、江与は、初(徳川初)を出産する。一方で、この年、長丸は夭逝する。
なお、初を、江与以外の別の女性が出産した子とする説もある。
この長丸と初姫の「生母問題」は、長丸と初姫の出産時期を巡る問題から生じるものであり、真相は不明としか言えない。
江与は、慶長8(1603)年5月、長女の千を連れて伏見城に入る。
同年7月に姉の淀殿の子である豊臣秀頼と千との婚儀が執り行なわれる。江与は、その間、伏見城に滞在し、自身の娘と甥との婚儀を見届ける。
その直後に、江与は、またも妊娠し、男子を慶長9(1604)年に出産。
この男子は竹千代と名付けられた。後の徳川家光である。
徳川将軍家の公式記録書である『徳川実紀』でさえ、
『また御産ありて』
(『徳川実紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、秀忠の好色ぶりに呆れかえる中で生まれたのが竹千代(徳川家光)である。
そして、竹千代(徳川家光)には、乳母として斎藤福(後の春日局)が、家康の采配で付けられる。
慶長10(1605)年、秀忠が征夷大将軍に就任する。ここに、江与は、室町幕府滅亡以来、日本から存在が消えていた「将軍正室」と言う立場となった。
それを祝うかのように妊娠し、翌慶長11(1606)年に再び男子を出産。こちらは国松(国千代とも)と名付けられた。これが後の徳川忠長である。
2人目の男子の出産に沸き返る中、江与は、またもや妊娠し、慶長12(1607)年、34歳で徳川和子を出産する。
(『東福門院和子像(部分)』光雲寺蔵 Wikimedia Commons)
この和子を以って、記録上に見える江与の出産は終わる。
この年、甥の豊臣秀頼が右大臣を辞任し、その後任に、完子の夫である九条幸家が就く。
崇源院(浅井江与)と「宿敵」春日局
浅井江与は、22歳で秀忠に輿入れして以来、12年間で、生母に疑問が出されている子々・長丸や初を含めて、3男5女を出産したことになる。
2人の姉に比べて、江与は多産であった。
普通ならば、後継者も無事に出産し、何もかもが妻としては安泰のはずであったが、江与には心休まる時間は無かった。
竹千代(徳川家光)に乳母として付けられた斎藤福(後の春日局)の存在が、その元凶となっていたのである。
福は、乳母としての役割を超越し始め、江与にとって最期の安住の地と言える江戸城奥向を、その掌中に収めようと画策し出す。
(江戸城)
さらに、慶長16(1611)年、秀忠のお手付きとなった神尾静が、男子を出産する。この男子は、幸松丸で、後に名君として知られる保科正之である。
江与にとって安穏と暮らせるはずの江戸城奥向が、気が付けば、安穏と暮らせる場所では無くなっていたのである。
それもこれも、福が竹千代の乳母として入り込んでからであった。
秀忠が静に手を付けたのも、案外、福が仕掛けたものかも知れない。
即ち、秀忠と江与の夫婦仲を引き裂くには「女性問題」が、一番手っ取り早いからであり、実際、この問題が発覚して以降、江与と秀忠との間には大きな亀裂が入ったと伝えられる。
江与も武家の娘である以上、夫が側室を持つことは何の抵抗も無かったはずである。問題は、自分に隠れて他の女性と関係を持ったことでは無かったか。
しかも、江与が女性問題に関して秀忠に気を取られる間は、江戸城奥向の監視は手薄となり、福の影響力が奥向に浸食しやすくなった。
さらに、最も重要なことは、当時、政体は、駿府の家康を大御所とした体制(大御所政治)と、江戸の秀忠を中心とする体制(将軍政治)との二元体制となっていたことである。
即ち、大御所派が福を通して竹千代を擁立し、将軍派が国松(徳川忠長)を擁立せんとして江与を押し立てたとも推測出来ないこともない。
国松に付けられた乳母の清は、朝倉宣正(後に忠長の家老)の娘と言われる将軍派であり(国松の乳母は、土井利勝の妹で、宣正の妻とする説もある)、しかも、宣正は浅井家と関係の深い越前朝倉家一族の末裔とも言われ、浅井家出身の江与にとってはどこかしら親近感を覚える存在である。
片や竹千代の乳母として家康が送り込んだ福は言うまでも無く大御所派である。
《二元体制略図》 (大御所) 徳川家康┬────────┬────┐ │ 本多正純 │ │ │ 成瀬正成 │ │ │ 安藤直次 │ │ │ 竹腰正信 │ │ │ 天海 │ │ │ 金地院崇伝 │ │ │ 林羅山 │ │ └────────┘ │ │ 崇源院 │ │ │ ┝━━━┳家光 ←福(春日局)──┘乳母 │ ┗忠長 ←清(朝倉局)──┐乳母 │ │ 徳川秀忠┬────────┐ │ (将軍)│ 本多正信 │ │ │ 大久保忠隣 │ │ │ 土井利勝 │ │ │ 酒井忠世 │ │ │ 安藤重信 │ │ └────────┴────┘
国松の乳母の清は、その出自からしても、江与の指示をよく守り、国松と江与に忠実であったことは疑い無い。
だが、福は違う。「まず家康ありき」なのである。江与の指示等は聞くはずが無い。即ち、小賢しい福が、己の野心のために家康の威光を笠に着て、江与から大切な竹千代を掠め取ったと言っても良い。
こうなれば、他人から見れば、竹千代を福に奪われた江与の寵愛が国松ひとりへと注がれているように見えるのは自然である。実際、
『御次男國松君様の御事ハ殊の外の御臺様御愛子にて御座候』
(『落穂集』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、江与が、国松を偏愛しているかのように周囲に受け取られていた。
だが、孤独の苦しみと悲しさを誰よりも知る江与が、竹千代を冷たくあしらい孤独の淵に追いやるような目に遭わせるであろうか。
それでも、江与は国松ひとりを溺愛していると広まってしまうのである。
繰り返すが、この背景には、当時の徳川将軍家内部が、「大御所=竹千代派」と「将軍=国松派」に分断されてしまったことが大きいのではないか。
恐らく、国松を重視したのは、江与では無く、むしろ秀忠の方だったのではあるまいか。
その証拠に、徳川将軍家中は、
『國松君の御事を取り分け尊敬仕る』
(『落穂集』国立国会図書館デジタルコレクション)
ようになって行ったと言われる。
いくら、将軍正室の江与が竹千代よりも国松を可愛がったからと言っても、家中こぞって、国松を敬うことは無いであろう。
そこに「後継者として竹千代よりも国松を重視する」と言う秀忠の意志があったからこそ、家中は竹千代よりも国松に靡いたと見る方が自然ではあるまいか。
慶長17(1612)年に秀忠へ突き付けられた家康からの訓戒状に、江与の国松への偏愛を諭すような文言がある。
これは、むしろ、江与を通した形での秀忠に対する警告と受け取れる。そして、この家康の訓戒状によって、竹千代が将軍家家督相続者と事実上決められた。
実は、この訓戒状が出される直前に、秀忠の周辺は俄かに不穏となっている。
慶長16(1611)年、本多正信が突如として、大久保忠隣を批判し始めるのである。
忠隣は、家康が自身の後継者を家臣たちに諮問した際、次男の結城秀康を退けて、三男の秀忠を強く推した人物で、秀忠の大恩人と言うべき存在である。
一方の正信は、言わば、家康が秀忠側近を監督する目的で送り込んだ存在で、秀忠側近衆にとっては目の上のコブのようなものであった。
この正信と忠隣の対立は、家康からの訓戒状が出された翌年の慶長18(1613)年、忠隣の改易で幕を下ろす。言い換えれば、大御所派が、秀忠側近から将軍派重鎮を強引に排斥したのである。
そして、訓戒状が出される前に、福が、
『竹千代様へ無相違御弘めなとの被仰出候様との立願』
(『落穂集』国立国会図書館デジタルコレクション)
を口実に伊勢参りする振りをして、駿府城の家康の下を訪れ媚びていた事実がある。国松が優位な状況にあることを焦った福の小賢しく、実に福らしい卑劣なやり方と言える。
(駿府城)
家康の訓戒状と好一対の存在が、後に福が奉納したとされる『東照大権現祝詞』がある。
この『東照大権現祝詞』の中で、福が「江与は国松だけを寵愛し竹千代を粗略にした」と書いたために、江与は国松だけを可愛がったと伝わるようになってしまった。あくまでも福の言い分だけが後世に残されたわけである。果たして真相は如何だったのだろうか。
いずれにせよ、家康から将軍家に対して訓戒状が出されてしまった。
この事態に、国松を待ち受ける行く末に大きな不安を覚えたのが江与であった。
江与にとって、竹千代が将軍となっても、国松が将軍となっても、どちらも我が子であり、兄弟が仲の良い関係を維持してくれれば、それで何の文句は無かったはずである。
だが、竹千代には福が付いている。福は何をするか判らない。
そうなると、家康の訓戒状は承服し兼ねないものであったろう。一方、同時に、家康とは「父子関係」と言うよりも「臣従関係」にある秀忠にとって、家康の措置に不満を漏らす江与は「家康に抵抗する疎ましい女」となった。
福にとれば、秀忠から「江与と国松」を切り離すことに成功したわけで、竹千代の絶対化へ大きく前進した。
さらに、慶長18(1613)年には、正信と利勝は、幸松丸を、武田晴信の次女である見性院に預けているのであるが、この一件は、大御所派が将軍派を完全に支配した意味合いもある。
一般には、この時、江与の使者が見性院のもとを訪れて詰問したが、見性院は「幸松丸は我が養子ならば将軍家には関係無し」と命を賭して、江与からの干渉を突っぱねたとされる。
その後、幸松丸は、元和3(1617)年に、信濃国高遠城城主の保科正光の養子に迎えられ、生母の静と共に暮らせるようになり、江与が死去した後の、寛永6(1629)年になって、ようやく、幸松丸は、父との再会を果たし、めでたしめでたしと言う話が伝わる。
これら一連の幸松丸の話は、「江与に命を脅かされた挙句に、実父との目通りも許されなかった」とする幕府認定の物語である。
ところが、この「江与悪玉説」は明らかに疑問が生じる。
何故なら、幸松丸が、秀忠との対面が実現出来たのは、幸松丸の養父である保科正光から哀願された徳川忠長の尽力があったからこそなのである。
もしも、江与が、その生前において、幸松丸のことを殺してしまいたいほどに憎んでいたのなら、江与に溺愛されて育った忠長が、「母を苦しめた」幸松丸のために、骨を折ることなど有り得ないはずである。
先に江与が見性院のもとへ使者を送ったのも、実は竹千代派による幸松丸暗殺を危惧してのものだったのはなかったろうか。
竹千代は幼少時より才も無く愚鈍であって、一方の幸松丸は極めて利発な子であった。竹千代派には、邪魔な存在であったろうことは容易に想像される。
このように、竹千代(家光)と国松(忠長)の後継者争いは、江与の「母性」がやたら強調されているが、実際には、大御所政治と将軍政治の「二元政治の対立」が、その根底にあったことは見逃せない。
だが、幕府内部の内ゲバを表沙汰に出来なかったため、家督相続問題は、徳川御用学者たちによって、母の江与が引き起こした「女の浅はかさ」として伝えられることとなったのである。
そこに、男尊女卑の朱子学を統治理論として採用した家康の政治指向があることを強く認識する必要がある。
元和元(1615)年、『大坂夏の陣』において、姉の淀殿と、娘婿の秀頼は自刃に追い込まれてしまった。
(大坂城)
『大坂夏の陣』の戦役で、圧倒的な敵軍(徳川軍)に攻囲された城中へ置かれた千姫の姿に、江与は、かつての北ノ庄城での自分の姿を重ねていたことであろう。
この豊臣家対徳川家の決戦に際して、初(常高院)が懸命に双方の間へ入り仲介に奔走したことに比べると、江与が積極的に和平の仲裁に動いた形跡は残されていない。
このことから江与のことを薄情者とする説がある。
しかし、徳川幕府の将軍正室が豊臣家のために動いたとする記録を、幕府が残すわけにはいかなった事情を考えることも必要であろう。
豊臣家が滅んだ翌年の元和2(1616)年4月に家康が、同年6月には正信が、相次いで死ぬ。
この2人が死んだことで、江与は、福が仕組んだ家康の介入によって、将軍家内での立場を落とされた国松のために、出来る限りのことをしてやろうと思ったのではないだろうか。
元和4(1618)年(元和2年とも)になると、国松は、甲斐国に18万石の領地を与えられ、さらに、元和6(1620)年には、竹千代と同時に元服し「忠長」と名乗っている。
また、忠長の正室には、織田信雄の孫娘を迎えている。
この婚姻は、江与には徳川家の主筋である織田家の血が流れていることを徳川家中に認識させると同時に、「所詮、徳川如きは元を糺せば織田家の遥か格下に過ぎない」と天下に示したとも言える。無論、表向きは、「かつて、家康と共に豊臣秀吉と戦った信雄の孫娘」とすれば反対もされにくい。この辺り、江与の執念が窺える。
当時、将軍家の奥向きは、福が支配しており、江与の「福、憎し」から出たものであったかも知れない。
また、忠長が元服した同じ年には、和子が、後水尾天皇の下へ女御として入内する。江与は「今上帝の義母」となったのである。
この和子入内に際して、江与の代役として「御母儀代」を務めたのは、阿茶局であった。
この元和6年は、竹千代と国松が元服し、和子が入内する等、江与にとっては、誇らしく輝かしい一年であった。
元和7(1621)年には、養源院を復興する。
養源院は、父・浅井長政供養のために淀殿が建立した寺院であるが、元和5(1619)年に焼失していた。その養源院を復興したことは、江与が、父の長政と姉の淀殿の供養を強く意識したものと思われる。
元和8(1622)年、勝が夫の松平忠直に殺害されそうになる事件が起こる。翌元和9(1623)年、忠直が蟄居処分となったことで、勝は江戸へ戻る。
その2ヶ月後、家光が征夷大将軍に就任する。
この年、家光の正室を鷹司家から迎えることが決まる。
家光の正室として鷹司家の姫を選んだのは、江与であった(『義演准后日記』)。
こうして、鷹司信房の娘・鷹司孝子は、一旦、江与の猶子とされた上で、江戸に下り、西ノ丸に入る。
同年、和子が興子内親王(後の明正天皇)を出産し、翌寛永元(1624)年には、和子は中宮となる。
寛永2(1625)年、前年に本丸に移った家光と鷹司孝子の婚礼の儀式が挙行される。以後、孝子は「若御台」と呼ばれるようになる。
江与は、孝子を気に入り可愛がっており、嫁姑間は極めて良好であった。このことは言い換えれば、孝子と福の間は険悪であったことを意味する。
翌寛永3(1626)年、秀忠が上洛した直後に江与は発病する。
この時、江与は容態を持ち直す。
秀忠に続き、家光が上洛する。そして、江与の容態が安定したことで安堵した忠長も家光と共に京へ出発して行く。
ところが、福が完全支配する江戸城にたった1人取り残された江与は、突然、重篤な容態に陥る。
江与危篤の知らせは、江戸から京へ送られる。
京では、後水尾天皇が和子を伴って二条城へ行幸すると言う徳川幕府にとって重要な行事が行われており、9月6日から行われていた行幸の最終日前日の11日に知らせが届いたのである。
知らせを受けて忠長は、急ぎ東下する。
『駿河大納言忠長卿は即日出京』
(『徳川実紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
ところが、秀忠と家光は公務を理由にして江戸へ戻ることを急ぎはしなかった。
この時、家光が自らの代わりとして江戸へ差し向けたのが、稲葉正勝である。
正勝は、福の実子であり、家光と乳兄弟に当たる人物で、このことから、家光が気に掛けたのは、江与では無く、まず福であったことがよく判る。
9月15日、江与は、江戸城西ノ丸において亡くなる。
『大御臺薨ぜらる。御よはひ五十四』
(『徳川実紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
忠長が江戸城に入ったのは、江与の死から僅か一刻後のことで、最愛の母の死に目に会えなかった忠長は、人目を憚らずに泣いた。
江与死去の一報は、18日に京へ届く。
その知らせを聞いた家光は、江戸へ戻ることを取りやめただけでなく、公務が終了してもなお京に居続け、江戸に戻ったのは10月になってからであった。
秀忠に至っては、重い腰を上げ東下したものの駿府城で留まり、江与を穢れたものとして扱うかの如く江与の亡骸と対面しようとはしなかった。
秀忠は、結局、江与の葬儀にも出席しなかった。
妻の葬儀に夫が出席しないのである。誰の目にも極めて異常な状態であった。
この事実をしても、家康の「訓戒状」を境として、秀忠は、手のひらを返したように、江与のことを、心の底から忌み嫌っていたことがわかる。
18日、江与の亡骸は増上寺へ移され、位牌が増上寺広度院の方丈に置かれた。
死去してから1ヶ月後に江与は荼毘に付される。
『大御臺御葬禮』
(『徳川実紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
江与の死を心底悲しみ、血涙と共に江与を見送ったのは、忠長だけであった。
家光に母の死を悲しむ気持ちがあったとしても、福の手前、その気持ちを表に出すことは不可能だったと言える。
そして、後には忠長も、家光に拠って死に追い込まれる。
恐らく動乱の時代を生きた江与は、自分の死に臨み、忠長の前に垂れ込める暗雲を払ってやるまでは死ねないと思っていたことであろう。
忠長をひとり残して旅立たねばならなかった。その江与の無念たるや如何ばかりであったことか。
そして、忠長ばかりで無く、江与が産んだ子供たちひとりひとりの行く末を案じ、その幸せを祈りつつ波乱万丈の生涯を終えたのである。
その江与が浄土へ旅立ってから2ヶ月後、和子は待望の皇子(高仁親王)を出産する。
崇源院(浅井江与)とは
崇源院(浅井江与)の生涯は、生半可で無い「人の業」に翻弄されたものであった。
歴史上の人物を語る場合、勝者と敗者とに分けられる場合が多い。
しかし、人の生涯は「勝敗」や「優劣」だけを基準にして語られるものでは無い。崇源院(浅井江与)の波乱万丈の生涯も、まさに単純に語ることは出来ない。
「将軍正室(御台所)」「将軍生母」「天皇義母」、没後であるが「天皇外祖母」となった崇源院(浅井江与)は、強運の勝者だったと言われる。
一方で、「数度の婚姻と離別」「家督相続争いでの敗北」「孤独な死」を経験した崇源院(浅井江与)は、悲運の敗者であったとされる。
勝者と敗者・・・そこに意味があろうだろうか。
本当に意味があるのは、崇源院(浅井江与)が、次々と、その身に降り掛かった出来事に対して、正面から向き合ったことである。
また、崇源院(浅井江与)は「勝ち気」な性格で、夫に対して「傲慢」で、子供に対しては「偏愛」だったと言う説がまことしやかに語られる。
果たして、そうであったろうか。
崇源院(浅井江与)の生涯を通して見た時、そのような「勝ち気」で「傲慢」で「偏愛」な崇源院(浅井江与)の姿等どこにも見つけられない。
3番目の夫である徳川秀忠との間には子供が多く生まれた。
これをして、のんきに「仲良し夫婦」と言う手合いもいる。
だが、出産から1年も経ずに次の子を出産する(子々の誕生から9ヶ月後に勝が誕生)等、常軌を逸している。恐らく、秀忠は、崇源院(浅井江与)の妊娠中もずっと性行為を強要していたものと思われる。つまり、崇源院(浅井江与)は、夫婦間における「性暴力」に晒されて続けていた可能性が極めて高い。
それでも崇源院(浅井江与)は耐えた。
それは、生まれた時に実父を喪い、10歳で継父を喪い、11歳で輿入れと離縁を経験し、19歳で二度目の夫を喪い、しかも出産した子を自分の手で育てられなかった崇源院(浅井江与)にとって、徳川家こそが最期の居場所だったからである。
ようやく自分の居場所を得た崇源院(浅井江与)の前に立ちはだかったのが春日局(斎藤福)だった。
崇源院(浅井江与)と春日局(斎藤福)の確執については、ドラマや小説等で「春日局(斎藤福)が織田信長を討った明智光秀の重臣斎藤利三の娘であるための怨恨から」と言われることが多い。
しかし、崇源院(浅井江与)は浅井長政の娘であって、織田信長の姪でしか無い。
会ったことも無く顔すら知らない伯父の信長を殺戮した光秀本人に対してでは無く、光秀の家臣の娘と言う存在に対して、果たして、それほど恨みを抱くであろうか?
しかも、父の長政を死に追いやり、崇源院(浅井江与)たちの幸せな生活を根こそぎ破壊した張本人は信長である。
やはり、春日局(斎藤福)が竹千代(徳川家光)を篭絡し思いのままにしようとしたからこそ、崇源院(浅井江与)は猛烈に反発したと見るほうが自然ではないだろうか。
何より春日局(斎藤福)が、竹千代(徳川家光)と国松(徳川忠長)の兄弟を引き裂き憎しみ合わせた元凶なのである。
かつて、茶々・初、そして、崇源院(浅井江与)の三姉妹は、時代の趨勢に翻弄されバラバラにされてしまった。
その経験があったからこそ、崇源院(浅井江与)は、竹千代(徳川家光)と国松(徳川忠長)を何事にも助け合える仲の良い兄弟にしたいと思ったはずである。
その母子関係に土足で踏み込み自らの立身のために「憎悪」を持ち込み植え付け、完膚なきまでに徹底的に蹂躙したのが赤の他人の春日局(斎藤福)だった。
まさに、春日局(斎藤福)こそは、崇源院(浅井江与)にとって日本史上稀代の悪魔と言える。
もっとも春日局(斎藤福)を、そこまで駆り立てたのは、飽きること無く首狩りを繰り返した戦乱の果てであることを忘れてはならない。
徳川家康の力を後ろ盾とする春日局(斎藤福)と争った崇源院(浅井江与)の姿は、自分の思うように生きることが許されず終始受身の人生であった崇源院(浅井江与)の人生の中で、生涯唯一、崇源院(浅井江与)の生の声が聞こえるかのような感情の発露の瞬間であったと言えよう。
それは、母や姉たちが、そして自分自身が翻弄された「男社会の論理」に対する崇源院(浅井江与)の魂の叫びであったのかも知れない。
しかし、それも夫・秀忠が、家康の前にヘコヘコと頭を下げ続けたことで無意味なものとなった。
秀忠に見捨てられた崇源院(浅井江与)は、徳川幕府における「悪」とされてしまった。
徳川幕府が作り出した崇源院(浅井江与)像は「国松(徳川忠長)を溺愛する愚かな母」だった。
それは、理不尽にも崇源院(浅井江与)が命を生み育む「母」であることを理由にされたものである。
もし、崇源院(浅井江与)が望んだ竹千代(徳川家光)と国松(徳川忠長)が手を携える体制であったならば、徳川幕府も違ったものになっていたであろう。
ただ、いくら兄弟同士の仲が良くても、それぞれの周囲を取り巻く人々の私利私欲で事情は大きく変わって行くのも真実である。
そう言う意味では、崇源院(浅井江与)の望みは叶わぬ夢であったのかも知れない。
寛永9(1632)年、崇源院(浅井江与)の孫に当たる女帝・明正天皇から、浅井長政に従三位権中納言が追贈される。
これは、明正天皇の生母で、崇源院(浅井江与)の娘である和子(東福門院)が、長政の肖像が無官の烏帽子姿であるのがみすぼらしいとの理由から夫の後水尾上皇に申し出たことで実現された。
この長政への追贈は、和子(東福門院)が崇源院(浅井江与)のことを思慕したからに違いない。
さらに、寛文12(1672)年には長政の百回忌が、文政5(1822)年には同じく二百五十回忌が行われている。
かつて、織田信長への反逆者として扱われた浅井長政が、江戸時代に至り、有縁の人々に拠って追善供養されたのも、崇源院(浅井江与)の存在があったからこそであった。
父と縁の薄かった崇源院(浅井江与)が三姉妹の中で一番、父親孝行をしたと言える。
そして、崇源院(浅井江与)の血は、江与が「母」として命を賭けて出産した子供たちを通して、21世紀の現代でも、この世界に生き続けている。
《崇源院(浅井江与)と天皇家(皇室)》 大正天皇 │ ┝━━━昭和天皇━明仁上皇━今上天皇 │ 九条幸家 │ │ │ ┝━━━道房 │ │ │ │ │ ┝━待姫━(略)━━節子 │ │ 豊臣秀勝 │ │ │ │ │ ┝━━━完子 │ │ │ 崇源院 │ │ │ ┝━━━勝 │ │ │ │ │ ┝━━━━鶴 │ │ 徳川秀忠 │ │ 結城秀康━松平忠直
崇源院(浅井江与)が点した命の灯は絶えることは無く、その意味では崇源院(浅井江与)の物語は今も紡がれていると言える。
崇源院(浅井江与)の系図
《崇源院(浅井江与)系図》 光従(東本願寺) │ └─────────┐ │ 良如(西本願寺) │ │ │ └────────┐│ ││ 九条幸家 ││ │ ││ ┝━━━━━┳道房 ││ │ ┣康道 ││ │ ┣女子 ││ │ ┃ │ ││ │ ┃ └────────┘│ │ ┃ │ │ ┗女子 │ │ │ │ │ └─────────┘ │ ┏瑞龍院━━┳秀次 │ ┃ ┗秀勝 │ ┃ │ │ ┃ ┝━━━━━━━完子 ┃ │ ┃ └───────────┐ ┃ │ ┗豊臣秀吉 │ │ │ ┝━━━━━━━━━━━━━秀頼 │ │ │ │ └───────────┐ │ │ │ │ │ 浅井長政 │ │ │ │ │ │ │ ┝━━━┳万福丸 │ │ │ │ ┣茶々(淀殿) │ │ │ │ ┃ │ │ │ │ │ ┃ └─────┘ │ │ │ ┃ │ │ │ ┣初(常高院) │ │ │ ┗江与(崇源院) │ │ │ │││ │ │ │ ││└─────┼───┘ │ │└──────┼───────────────┐ │ │ │ │ │ │ │ │ ┏織田市 │ │ │ ┃ │ │ │ ┃ ┝━━━━━━┳千 │ ┃ │ ┣子々 │ ┃ │ ┣勝 │ ┃ │ ┣長丸 │ ┃ │ ┣初 │ ┃ │ ┣家光 │ ┃ │ ┣忠長 │ ┃ │ ┗和子 │ ┃ │ │ │ ┃ │ └─────────────┐│ ┃ │ ││ ┃徳川家康━━秀忠 ││ ┃ │ ││ ┃ ┝━━━━━━━保科正之 ││ ┃ │ ││ ┃ 浄光院(神尾静) ││ ┃ ││ ┃ 後水尾天皇 ││ ┃ │ ││ ┃ ┝━━━━━┳明正天皇 ││ ┃ │ ┣高仁親王 ││ ┃ │ ┣昭子内親王 ││ ┃ │ ┗賀子内親王 ││ ┃ │ ││ ┃ └─────────────┘│ ┃ │ ┗織田犬 │ │ │ ┝━━━━一成 │ │ │ │ │ └───────────────────────┘ │ 佐治信方
崇源院(浅井江与)の墓所
崇源院(浅井江与)の墓所は、徳川家の菩提寺・増上寺に築かれた。
(増上寺)
また、善光寺大本願に
『德川家光の發願により、母崇源院皍ち二代將軍秀忠の室の菩提のために德川家から靈牌が納められたので靈廟一宇を建立』
(『信濃善光寺本理院殿廟墓について』鷹司誓玉 国立国会図書館デジタルコレクション)
されている。
この蘇我刀自古郎女所縁の女性にとって仏教の聖地たる善光寺大本願に、徳川家光が位牌を納めていることを以ってしても、崇源院(浅井江与)が家光を嫌い冷たくあしらっていたと言う伝聞は悪意の風説であることが判る。
(善光寺大本願)
和歌山県の金剛峰寺に五輪塔がある。
(「崇源院(浅井江与)の五輪塔」金剛峰寺)
京都の金戒光明寺には、崇源院(浅井江与)の菩提を弔う宝篋印塔がある。
(金戒光明寺)
崇源院(浅井江与)の年表
- 天正元(1573)年誕生。
- 8月20日朝倉義景、自刃。
- 8月26日織田軍、浅井氏の小谷城へ総攻撃開始。
- 8月28日小谷城から脱出。
- 9月1日長政、自刃。。
- 天正2(1574)年母と姉らと共に織田信包の下に預けられる。
- 天正10(1582)年6月2日『本能寺の変』勃発。
- 6月13日『山崎合戦』。
- 6月27日「清洲会議」。母の市が柴田勝家と再婚。
- 10月勝家の居城である北ノ庄城へ赴く。
- 天正11(1583)年4月21日『賤ヶ岳合戦』。
- 4月22日北ノ庄城から脱出。
- 4月24日市、勝家と共に北ノ庄城で自刃。
- 天正12(1584)年佐治一成の室となる。
- 3月『小牧長久手合戦』。
- 天正15(1587)年初、京極高次に輿入れ。
- 天正17(1589)年5月27日淀殿、鶴松を出産。
- 天正19(1591)年8月5日鶴松、死去。
- 文禄元(1592)年2月豊臣秀勝へ輿入れ。
- 3月秀勝、名護屋へ出陣。
- 9月9日秀勝、朝鮮で死去。
- 完子を出産。
- 文禄2(1593)年8月3日淀殿、秀頼を出産。
- 文禄3(1594)年5月淀殿、長政供養のため養源院を建立。
- 文禄4(1595)年9月17日徳川秀忠へ輿入れ。
- 慶長2(1597)年4月11日千を出産。
- 慶長3(1598)年8月18日豊臣秀吉、死去。
- 慶長4(1599)年8月1日子々を出産。
- 慶長5(1600)年5月12日勝を出産。
- 9月15日『関ヶ原合戦』。
- 慶長6(1601)年12月3日長丸を出産。
- 慶長7(1602)年7月9日初を出産。
- 9月長丸、死去。
- 慶長8(1603)年2月12日家康、征夷大将軍。
- 5月15日千と共に伏見城に入る。
- 7月28日千、豊臣秀頼と婚姻。
- 慶長9(1604)年7月17日家光を出産。
- 慶長10(1605)年4月16日秀忠、征夷大将軍就任。
- 慶長11(1606)年5月7日忠長を出産。
- 慶長12(1607)年10月4日和子を出産。
- 慶長16(1611)年5月7日静、秀忠の子(幸松丸、保科正之)を出産。
- 9月5日勝、松平忠直に輿入れ。
- 慶長17(1612)年2月25日家康、江与に対して訓戒状を与える。
- 慶長18(1613)年3月2日幸松丸、見性院(武田晴信次女)に預けられる。
- 慶長19(1614)年10月1日『大坂冬の陣』。
- 元和元(1615)年4月5日『大坂夏の陣』。
- 5月7日大坂城、落城。
- 5月8日淀殿と秀頼、自刃。
- 元和6(1620)年6月18日和子、入内。
- 9月7日家光元服(権大納言)、忠長元服(参議兼右近権中将)。
- 元和7(1621)年養源院を復興。
- 元和9(1623)年5月勝、忠直蟄居のため江戸へ戻る。
- 7月27日徳川家光、征夷大将軍就任。
- 11月19日和子、興子内親王(明正天皇)を出産。
- 12月21日鷹司孝子、家光に輿入れ。
- 寛永元(1624)年11月28日和子、中宮となる。
- 寛永3(1626)年6月発病。
- 8月従二位。
- 9月6日和子、後水尾天皇と共に二条城で秀忠・家光と対面。
- 9月11日京へ江与危篤の知らせが届く。
- 9月15日死去。
- 9月18日江与の訃報が京へ届く。
- 10月9日家光、江戸帰着。
- 10月18日火葬。
- 11月28日従一位追贈。