朝倉義景【越前の覇者!文武に繁栄を極めた朝倉家惣領ゆえに苦しんだ人生!】

朝倉義景について

【名前】 朝倉義景
【読み】 あさくらよしかげ
【通称・仮名】 朝倉孫次郎
【法名】 松雲院大球宗光
【生年】 天文2(1533)年
【没年】 天正元(1573)年
【時代】 戦国時代
【位階】 従四位下
【官職】 左衛門督(左衛士府のカミ)
【職能】 越前国・朝倉氏当主
【父】 朝倉孝景
【母】 広徳院(武田元信の娘説・武田元光の娘説)
【兄弟姉妹】 無し
【義兄弟姉妹】 足利義輝・近衛前久 等
【配偶者】 正室(細川晴元の娘)・継室(近衛稙家の娘)・小宰相局・小少将
【子】 阿君丸・愛王・女子(本願寺教如の婚約者)・女子
【氏】 朝倉氏(但馬国造日下部氏末裔)
【姓】 日下部朝臣(『朝倉始末記』)

朝倉義景の生涯

朝倉義景の生い立ち

朝倉義景は、天文2(1533)年、朝倉孝景の子として、越前国一乗谷に誕生する。

越前国一乗谷
(越前国一乗谷)

母の広徳院は、若狭国武田氏出身の女性である。ただ、武田元信の娘説や武田元光の娘説等があり、その実父は、はっきりしない。ただ、世代的なことを考えると、元光の娘の可能性が高いように思われる。

義景の出自に関しては、誕生年月日と父の名前と母が若狭国武田氏出身であると言う3点のみが現在に伝わる各史料に共通しているだけで、それ以外は全く内容が異なる。

このため、日本史上、有名な朝倉義景であるが、その生い立ちについては不明な点が多い。

確かな幼名等も不明で、元服後に名を「延景」としたことが伝わるぐらいである。

朝倉義景、大名となる

天文17(1548)年3月、朝倉孝景が死去する。

ここに、朝倉延景(朝倉義景)が家督を相続する。

家督相続後は、朝倉氏一族の重鎮である朝倉教景(朝倉宗滴)の補佐を受け、当主を無難にこなしていたようである。

《朝倉義景と朝倉教景(朝倉宗滴)の関係》

朝倉孝景┳氏景━貞景━孝景━義景
    ┗教景

義景から見て、教景(宗滴)は曾祖父の弟に当たる。

家督相続から半年後を経て上洛し、家督相続を披露している。

義景が家督相続した当時、加賀国の手取川から南部にある能美郡・江沼郡は既に朝倉氏の領地となっていた。このこともあって、加賀国南部のみならず、越前国も加賀一向一揆衆の脅威を受けていた。これは、延景(義景)のみならず朝倉氏全体にとっての悩みの種であった。

そこで、延景(義景)は、天文21(1552)年、同じく一向一揆に手を焼いている越後国・長尾景虎(上杉謙信)との外交関係強化に乗り出す。同年、景虎は上洛しており、その際、往路復路に越前国で、延景(義景)と対面したものと思われる。

同年6月、延景(義景)は上洛する。

その際、将軍・足利義藤(義輝)から「義」の偏諱を受け、名を「義景」と改める。ここに「朝倉義景」の名が誕生する。

また、この頃、朝廷から左衛門督に任じられる。

延景(義景)が、義藤(義輝)から「義」の偏諱を受けたことについては、舅である細川晴元が義藤(義輝)に願い出たことから実現したとする説もある。しかし、この当時(天文21年)、晴元は、京から姿を消し若狭国へ逃亡する等している。

《朝倉義景と細川晴元との関係》

          朝倉義景
           │
     細川晴元━女子
      │
三条公頼┳女子
    ┣三条夫人
    ┃ │
    ┃ └──────┐
    ┃        │
    ┗如春尼     │
      │      │
     本願寺顕如   │
             │
     武田晴信    │
      │      │
      └──────┘

なお、晴元の娘は、義景との間に子を儲けること無く早逝している。

将軍からの偏諱や、朝廷からの任官には、その背後に多くの献上金が動いているのは公然の秘密であり、当時の朝倉家が有していた経済力の一端が窺える。

朝倉義景、加賀国北部へ派兵する

弘治元(1555)年7月、越後国・長尾景虎(上杉謙信)が、甲斐国・武田晴信との決戦のため信濃国川中島へ出陣する。

朝倉義景は、景虎との外交関係に基づき、出兵する景虎(謙信)の越後国が背後から加賀国の一向一揆に脅かされないように加賀国北部へ朝倉軍を派遣する。この時、朝倉軍の指揮を執ったのは、朝倉教景(朝倉宗滴)であった。

教景(宗滴)は、父祖累代の敵国である加賀国への出兵の意義について、時に嘆いたり、時に怒気を込めたりしつつ義景に説き、義景も、

『御理ト覚候』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 二」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

と心に刻んでいる。

こうして、出兵した朝倉軍は、加賀国の一向一揆衆と激戦を繰り返す。

その激戦の最中に、教景(宗滴)が戦陣で病に罹り死去してしまう。

この加賀国北部への出兵は、弘治2(1556)年、将軍・足利義輝の仲介を得たことで停戦が成立し、ようやく兵を越前国に収めることが出来た。景虎(謙信)との「義」は守ったものの、朝倉氏にとっては失うものばかりで一切益の無い出兵となった。

この経験は、義景に、他国の大名との積極的な軍事同盟は無価値と言う結論を与えたのではないだろうか。

永禄元(1558)年に、三好長慶と和睦した将軍・義輝が京に入る。

2月には尾張国から織田信長が、そして、4月には越後国から景虎(謙信)が、それぞれ上洛し義輝に拝謁している。この際、景虎(謙信)は、上洛、及び、帰国に際し、越前国を通っているはずであり、そこで、義景と会見し何らかのやり取りがあったものと思われるが、確かな史料は残されていない。

さて、義景は、永禄2(1559)年、従四位下に叙されている。これは、信長や景虎(謙信)よりも高い官位であった。

永禄4(1561)年4月6日には、大窪浜において犬追物が行われる。

これは、義景が愛した側室の小宰相が亡くなったことで、気落ちしていた義景を慰めるためであったと言う。この犬追物には、義景の御供だけで1万人を越える人数が参加している。さらには、近隣の集落等からは数えきれないほどの見物人が多数集まる等、朝倉氏の経済力を示すものでもあった。

同じ4月には、隣国の若狭国で守護・武田義統に対して、家臣の粟屋勝久・逸見昌経等が謀反を起こす。背後には、丹波国・松永長頼の策謀があった。そこで、義景は、母方の実家である若狭武田氏を救援すべく謀反の鎮圧のために派兵している。

なお、同年9月に、上杉輝虎(長尾景虎から改名・上杉謙信)と武田晴信との間で、かの有名な『第4次川中島合戦』が行われているが、義景は、輝虎(謙信)の後方支援を目的とした加賀国への派兵を行ってはいない。

朝倉義景は「文弱」か?

永禄5(1562)年以降は、京からの客人を饗応し「曲水の宴」を行ったり、和歌の歌合わせを行ったりと、朝倉義景の生活に京の公家文化への傾倒が見えるようになる。

朝倉館
(一乗谷の朝倉館)

「曲水の宴」は、大覚寺の大僧正義俊を迎えて、一乗城山々麓の景勝地で行われたものである。義俊は近衛尚通の子であり、義景の継室の叔父に当たる人物であることは注目される。

《朝倉義景と近衛家の関係》

            朝倉義景
             │
近衛尚通┳稙家━━━━┳女子
    ┃      ┣前久
    ┃      ┗女子
    ┃        │
    ┗大僧正義俊   │
             │
            足利義輝

朝倉教景(朝倉宗滴)が亡くなってから義景は文弱に流れたと言われる所以である。

因みに、この「曲水の宴」で義景が詠んだ歌が伝わっている。

『花ナガスムカシヲ汲テ山水ノ一葉ヲサソフ秋ノ涼シサ』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

義景が繊細な美意識を持つ人物であったことが窺える歌である。

なお、近衛稙家の娘は、義景との間に子を儲けることが出来ず、また、義景や義景の生母・広徳院との関係が上手く行かなかったようで離縁されている。

それでも、義景は「武」を忘れたわけでは無く、永禄7(1564)年には、義景は自ら兵を率いて加賀国へ出陣している。

この年の8月に『川中島合戦』が行われており、越後国・上杉輝虎(上杉謙信)からの要請に応じて、9月、朝倉景鏡・朝倉景隆を指揮官にして加賀国に派遣する。

ところが、陣中で景鏡と景隆が喧嘩する等、収拾がつかなくなり、陣の立て直しのために義景自らが出陣せねばならない有様であった。しかしながら、義景は軍の騒ぎを鎮め、よく兵をまとめた上で加賀国の小松等の拠点を陥落させている。

永禄8(1565)年にも、義景は自ら兵を率いて加賀国へ出陣している。この出陣に際しては、前もって義景は、輝虎(謙信)に援軍を求めており、輝虎(謙信)も朝倉軍の応援に同意していた。

しかし、義景が出陣した後、土壇場で輝虎(謙信)は、義景との約束を反故にして上野国へ出兵して行ってしまうのである。後世「上杉謙信は義の人」と喧伝されるが、義景から見れば噴飯ものであろう。

同年5月、三好義継・三好三人衆等の襲撃を受けて、室町幕府第13代将軍・足利義輝が殺害される。義輝の弟である一乗院覚慶(足利義昭)は、松永久秀に軟禁状態に置かれる。

そこで、義景は、細川藤孝からの支援要請を受けて、覚慶(義昭)を近江国に逃す段取りをつける。翌永禄9(1566)年、還俗した足利義秋(足利義昭)は若狭国へ入ったものの若狭国は内乱真っ只中で政情不安定であったため退去する。

次いで、義秋(義昭)は、越前国の義景に保護を求め、敦賀に入る。義景もこれを受け入れる。義景は、その掌中に「天下」への割符を握ったのである。

永禄10(1567)年、朝倉家家臣の堀江景忠が一向一揆に内通して謀反を起こすが、能登国に逃亡する。

将軍就任を目指し、そのために何としても上洛したい義秋(義昭)は、義景を動かすための足枷となっているのは一向一揆との抗争にあると見て、朝倉家と加賀一向一揆との和睦調停に乗り出す。

11月には、義景は、義秋(義昭)を一乗谷にある安養寺に迎える。その上で、義秋(義昭)を義景は改めて、12月に朝倉館にて歓待している。この時以降、義秋(義昭)が全国の諸大名に出す書状には、義景の副状が付けられるようになる。

翌永禄11(1568)年3月18日、義景の生母・広徳院が従二位に叙される。この日は、広徳院の屋敷で、終日、宴が催された。

3月には、義秋を迎えて、南陽寺で花見が開かれ、

『君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこきけふのことの葉』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

と言う歌を義景は詠んでいる。

4月、義秋(義昭)は、義景の前で元服し、名も「義昭」と改める。まさに、義景と義昭の蜜月であった。5月には、朝倉館で夜通しの宴も行われた。誰もが義昭を将軍に据えるのは、義景であると確信した。

しかし、両者の蜜月は潰え去る。

6月25日、義景の嫡男・阿君丸(母は永禄4年に亡くなった小宰相局)が急逝したのである。

愛する我が子を喪った義景の嘆き様は尋常では無かった。

その悲しみを癒すかのように、義景は、美貌の側室である小少将(斎藤兵部少輔の娘)に溺れる日々を過ごすようになって行く。

朝倉義景と織田信長

阿君丸を亡くして以来、覇気を失い茫然自失の日々を過ごす朝倉義景であった。

その義景の様子に、遂に失望した足利義昭は、明智光秀を介して織田信長に接近し岐阜に向かう。義景は、義昭は引き留めたが、義昭の決意も堅かった。

そこで、義景は自らは喪中であり同行が出来ないことから、義昭に護衛の兵を付け、また、越前国の要所要所に兵を配して厳重な警備を行った上で、数千人規模の兵を同行させ、近江国との国境まで義昭を送り届け、浅井長政に義昭を引き渡している。

こうして、義景と決別した義昭は、信長の力を頼り上洛し、永禄11(1568)年10月18日、将軍就任を果たす。かくて、信長は、義昭の後ろ盾として天下を睨むこととなる。

これに先立つこと、信長は、北近江の浅井長政と同盟を結んでいた(同盟締結時期については諸説ある)。一方、朝倉家と浅井家も累代の同盟関係にあった。

朝倉家と浅井家の同盟に関しては、対等の同盟関係では無く、朝倉家が「主」で浅井家を「従」とする主従関係にあったとする見方が有力である。

永禄12(1569)年、義昭の名で義景に上洛を命じる「御教書」が出される。

朝倉家では、この「御教書」に対する対応を一族が集まり検討した。結局、「(格下に過ぎない)織田の風下に立つ」ことへの嫌悪感から朝倉家としては、これを無視することとなる。

このことは将軍を擁する信長に越前討伐の正当性を与えてしまうことになる。

元亀元(1570)年4月20日、信長は、3万の兵力で越前討伐を開始。

25日、織田軍は、越前国敦賀郡へなだれ込み、朝倉家側の手筒山城・金ヶ崎城を攻略し快進撃を続ける。義景も自ら兵を率いて迎撃に出向くが、一乗谷で騒ぎが起こったために引き返している。

織田軍は、敦賀郡を蹂躙し、木ノ芽峠を越えて嶺北地方へ矛先を向けた。まさに、その刹那、浅井長政が信長との同盟を破棄し、織田軍に攻め掛かったのである。

浅井長政、同盟を破棄する
(織田軍の進路と浅井軍の同盟破棄)

ここに逆に信長が窮地に陥り、信長は僅かな手勢で敗走。28日、木下秀吉部隊を殿軍に残して織田軍は撤兵を開始している。

しかし、この時、朝倉軍の追撃は実に緩慢であり、信長は九死に一生を得ている。

朝倉義景と『姉川合戦』

6月21日、織田信長は攻勢に出て、浅井長政の居城・小谷城を攻撃する。

朝倉義景は、長政からの援軍要請を受ける。この事態に、義景は、小谷城救援のため、義景の従兄弟に当たる朝倉景健に朝倉軍約8000人の指揮を委ねて派兵する。

《朝倉義景と朝倉景健の関係》

朝倉孝景━氏景━貞景┳孝景━義景
          ┣景高━景健
          ┗景延

この間に、信長は、全兵力の配置を変更し浅井氏方の横山城を包囲する。難攻不落の小谷城に篭る浅井軍を野戦に誘き出す作戦であった。

ここまでの状況を見れば判るように、義景が派兵を決定した時には「小谷城に篭城する浅井軍の救援」が目的であった。つまり、織田軍(徳川軍含む)との野戦に拠る決戦のための派兵では無かったことは、義景の名誉のためにも留意する必要がある。

26日、景健が小谷城下に到着。長政と共に大寄山に共同指揮所を設置する。

27日、軍議が開かれ、横山城救援を急ぐ長政の意見が通り、29日に野戦で雌雄を決することになる。

ただ、この軍議において、朝倉家からは義景の本軍の来援を待つ意見も出されており、長政に大局的な戦略眼を持ち合わせていて機が熟するのを待つ覚悟さえあったならば、義景も出馬していた可能性は高かったのである。

しかも、長政は横山城救援を焦り、結局、その日の夜中に進軍を開始してしまった。

こうして、28日、浅井氏側と朝倉氏側の意思統一がギクシャクする中で、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍との間で『姉川合戦』の火蓋が切られる。朝倉家側にとっては、小谷城下での野戦は計算外だったように思われる。

姉川合戦
(姉川合戦)

合戦は当初、浅井軍の猛攻の前に織田軍自慢の鉄砲隊も押される事態に陥る。浅井軍は勢いのまま信長本陣近くまで肉薄したものの、朝倉軍が徳川軍に横から切り崩されたことで戦線は崩壊する。

合戦は織田・徳川連合軍の勝利に終わる。

信長は、江南から岐阜方面にかけての備えとして横山城には木下秀吉(後の羽柴秀吉)を、江北から京方面への備えとして宇佐山城に森可成を、それぞれ配置して引き揚げた。

なお、この『姉川合戦』で戦死した朝倉家側の武将たちの中に、美濃国から越前国に流れ着いた明智光秀の面倒を見たと言われる黒坂備中守がいる。

朝倉義景、織田信長を追い詰める

元亀元(1570)年7月、三好三人衆等が四国から紀伊水道・摂津湾を渡り畿内に襲来する。三好三人衆等は兵13000で、摂津国野田・福島に対織田信長の砦を築く。

この状況に信長は、三好三人衆を迎え撃つべく、8月に摂津国へ出陣。

ところが、その最中に石山本願寺が、対信長の蜂起をする。一向一揆衆が遂に信長の敵に回ったのである。ここに、信長は摂津国北部に釘付けとなる。

この畿内における『信長包囲網』の真打ちは、朝倉義景であった。

義景は、越前国から自ら兵を率いて出陣する。そして、浅井長政の軍勢と湖北で合流し、そのまま湖南へ進軍し、9月20日、織田家側の宇佐山城に対し圧倒的な兵力で攻撃を加える。織田軍の守将である織田信治・森可成を血祭りに挙げ、近江国大津一帯に放火し進軍した。

21日には、近江国から山城国に入り、洛南の醍醐・山科を占拠する。さらに、洛中の社寺に次々と禁制を出す等、事実上、京も掌中に収めてしまうのである。

元亀の織田信長包囲網
(反・織田信長勢力に拠る織田信長包囲網)

しかし、朝倉・浅井連合軍の進撃は、そこまでであった。信長を追い込みながら進軍は停止してしまうのである。

一方の信長は、限られた自分の軍勢の中から明智光秀・柴田勝家・村井貞勝を、すぐさま京に送り込み、朝倉・浅井連合軍に備えている。その上で、信長は、摂津国での戦闘を全て放棄して、軍勢を京に戻す。この動きに、義景は、朝倉・浅井連合軍を近江国坂本まで下げる。

24日、織田軍は近江国に到着。これを見て、義景は、朝倉・浅井連合軍を比叡山に上げて立て篭もる。所謂『志賀の陣』の始まりである。

一向一揆衆と開戦してしまった信長は、長期戦になればなるほど不利になる状態であった。このため、朝倉・浅井連合軍との短期決戦を目論み、様々に義景を挑発するが、義景は、そのような信長の思惑に乗せられるほど浅薄では無かった。この辺りは、先年、織田軍の動きに乗せられ『姉川合戦』で敗北した浅井長政とは大いに違うところである。

そして、このまま戦況は膠着する。

11月15日、比叡山の麓の堅田衆が、信長に降伏して来ると、信長は、坂井政尚に兵1000を与えて接収に向かわせる。この動きに、義景も前波景当を差し向け、織田軍の坂井部隊を撃破し、政尚を討ち取っている。そして、堅田は、そのまま朝倉軍が占拠した。つまり、織田軍は湖西を分断されたのである。

最早、信長に打つべき軍事的な手段は残されていなかった。

11月28日、足利義昭が三井寺まで出向いて、織田家側に講和する意志のあることを、義景に伝えている。また、12月9日には、正親町天皇から延暦寺に対して停戦和睦の綸旨が下されている。信長の最期の手は外交のみであった。

このように、将軍義昭や正親町天皇を動員すると言う信長のなりふり構わぬ外交で、ようやく和睦が成立する。言い換えれば、義景は信長を討つ絶好の機会を逃がしてしまったのである。

12月15日、義景は軍勢を率いて越前に引き上げている。

なお、この年、小少将との間に男児・愛王が誕生している。

朝倉義景の最期

翌元亀2(1571)年6月、朝倉義景の娘と本願寺教如との婚約が成立する。

《朝倉義景と本願寺の関係》

朝倉義景━━━女子
        │
        │(婚約)
        │
本願寺顕如━━教如

「織田信長憎し」の思惑から共同戦線を張る必要性から結び付いた両者であったが、ここに長年に渡る朝倉家と一向一揆との戦いも幕を下ろす。朝倉家の歴史においては大きな出来事であった。

9月、織田信長は、朝倉・浅井連合軍に味方した比叡山延暦寺に対して報復を実行する。その報復とは、山内に居た僧侶・女・子供を殺戮すると言う残虐の限りを尽くしたものであった。

元亀3(1572)年春から信長は断続的に浅井家の小谷城に対して攻撃を加え続ける。そして、小谷城下から琵琶湖沿岸に至る地域の集落に放火し、小谷城を孤立無援状態に置く。ここに、浅井長政は、義景に援軍を要請する。

8月、義景は自ら兵を率いて越前国を出陣し近江国に入ると、大嶽山に布陣する。だが、朝倉軍が攻勢に出ることはなかった。むしろ、防塁を築き、守りを固めることに専念した。

この義景の動きの背景には、武田晴信から「武田軍が西上する」趣旨の密書を受け取っていたことが影響していると見られる。即ち、武田軍が遠江国・三河国・尾張国・美濃国を蹂躙しつつ近江国に到着するまで、信長と織田軍主力を北近江に引き付けて置くと言うのが、義景の戦略であった。

そして、10月3日になると武田信玄が甲府を出発。三方ヶ原で徳川・織田連合軍を蹴散らし一路上洛の途にあった。ここに信長は、畿内には三好軍と一向一揆、西には毛利氏、東からは武田氏、南には松永久秀、そして北に朝倉・浅井連合軍と、絶体絶命の窮地に陥ったのである。

この事態に、11月、信長は美濃国岐阜城へ引き上げる。

それまでひたすら、織田軍の足止めを担っていた義景であったが、12月3日、突然、越前国一乗谷へ撤退する。

こうして、「信長包囲網」はあっけなく崩壊する。

翌天正元(1573)年2月、本願寺顕如から前年の越前国への帰国について責められる。同月、将軍・足利義昭の策謀で南近江(石山・今堅田)で反・信長の狼煙が上がる。

ところが、4月12日、晴信が西上途中で陣没し、武田軍は、その死を伏せつつ甲斐国へ撤退して行く。ここに信長は一気に攻勢に出て、義昭を山城国槙島城に攻めて山城国から放逐してしまう。

こうなると、天は信長に微笑む。信長は、小谷城南方の横山城に出陣して来る。義景は、長政からの救援要請を受けて、出陣を決める。しかし、朝倉家の家中は、

『年中ニ四、五度出陣スル程ニ、諸卒疲労シ倦』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 五」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

た有様で、合戦ばかり続く状態に、すっかり厭戦ムードが立ち込めていた。このため、義景が、朝倉景鏡と魚住景固に出陣を命じても、両者は兵馬の疲労を理由として拒否する有様であった。

このため、義景自らが陣頭に立って出陣することとなった。義景が生母の広徳院の下へ出陣の暇乞いに訪れた際にも、

『泣キ声ノミ聞エケル程』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 五」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

で、最早悲壮感しか無かった。合戦前から勝敗は決したようなものである。それでも、義景は7月17日に出陣し、8月6日、近江国柳ケ瀬に到着する。

ところが、8日になると、浅井家側の山本山城・阿閇貞秀が織田家側に降伏する。これを契機と見た信長は、その日の夜に、小谷城の北方に布陣する。

一方の義景も、10日、木ノ本に進み地蔵山に布陣する。まず、防備を固めようとしたものの、織田軍は、朝倉軍の陣地を次々と攻撃し制圧して行った。劣勢となった朝倉軍からは、まるで櫛の歯が欠け落ちるように、織田軍に降伏する兵が相次いだ。

戦線維持が不可能であることを見て義景は、12日、地蔵山から撤退する。

朝倉軍が敗走すると、朝倉軍と分断され、支城も喪失し裸城と化した小谷城を恐れる理由も無いことから、城の抑えだけを残して織田軍主力は小谷城包囲から離れ、義景の追撃戦に入る。13日、刀禰坂にて、朝倉軍は軍隊としての体を喪失する。

15日、一乗谷に到着した義景は自刃を覚悟する。しかし、お付きの者に制止され、広徳院・小少将・愛王を連れて、一乗谷から大野郡東雲寺へ逃亡する。

織田軍は、18日、一乗谷に到着し一斉に火を放ち一乗谷を焼き尽くす。その炎は三日三晩燃え続けたと言う。

一乗谷を焼く火は夜空を焦がし、東雲寺の義景は呆然と見上げたことであろう。そんな義景に対し、朝倉景鏡は、自分が守りに就くから自邸近くの六坊賢松寺への避難するようにと勧められる。この景鏡からの勧めを受けて、義景は賢松寺へ入る。

《朝倉義景と朝倉景鏡の関係》

朝倉家景┳孝景━氏景━貞景━孝景━義景
    ┃
    ┗経景━(略)━━━━━━景鏡

すると、景鏡の態度が豹変し、義景に自刃を迫った。義景は、景鏡の裏切りに、

『ニクキ景鏡ガ働カナ。我、只今相果ツト云トモ、悪霊悪鬼トナリ、三年ノ中ニハ、父子トモニ害スベシ』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 五」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

と景鏡への凄まじい怨念を込めた言葉を吐きつつ、硯を求め辞世を認めている。

そして、自らの太刀を胸元に突き立て、作法通り臍から真一文字に切り下げた。そこで介錯を求めたものの折り悪くお付きの者がいなかった。このため、義景は、自分の遺骸を他人の晒し者にすることを良しとせず、傍らにあった燭台を蹴倒して自らの体に火を掛け焼け尽きようとした。

傷口から飛び出した臓腑や噴き出した血で辺り一面が血の海と化した中、火だるまになりながら意識が朦朧として行く状態にあって、なおも義景は自刃したままの姿を留めようと体を起こし踏ん張った。そこへ、お付きの者が駆け付け、義景の息のある内に介錯を果たしたのである。

このように、義景の最期は武士として立派なものであった。

なお、義景の頸は、22日、景鏡が信長に降伏する際の手土産にされた。

その後、義景の頸は、京で晒され、天正2(1574)年、岐阜城で行われた年賀の儀において、髑髏と化した頸は金箔で飾られることになる。

朝倉義景の辞世

『七顛八倒、四十年中、無他無自、四大本空』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 五」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

朝倉義景とは

朝倉義景の人物像については、覇気が無く、怯懦の人物である評されることが多い。

それは、足利義昭(足利義秋)を保護しても、上洛の気概も見せず義昭を失望させ、あの織田信長を窮地に追い込みながらも引き揚げてしまう行動等に加えて、京の公家文化に染まっていたと言う「文弱」のイメージから呼び起こされたものでもある。

とりわけ、義景の怯懦ぶりの例として挙げられるのは、『姉川合戦』と『志賀の陣』である。

『姉川合戦』に関して、「朝倉義景は臆病者だから出陣しなかった」と言われる。

果たして、そうであろうか?

そもそも義景が援軍を派遣した時の戦況は「野戦を前提にしていなかった」のである。持久戦に備えた派兵であった。それ故に、義景は自ら出陣しなかったのである。むしろ、兵法として、この戦況で、もしも義景が出陣していたならば、「義景は狂っている」と後世誹りを受けたことであろう。

また、『志賀の陣』も「織田信長包囲網」を形成しながら比叡山に篭城し、しかも、簡単に講和し撤退したことが批判される。

確かに当時の信長は時間との戦いに追い込まれ戦術を失い窮地を脱する手段として外交を用いた。その信長に義景は講和を締結した挙句に何らの成果も得られないまま撤兵した。

だが、この撤兵は、雪に閉ざされる前に、越前国との連絡や退路を確保しておく必要に迫られてのものと考えられる。つまり、義景も時間との戦いを強いられていたのである。

「織田信長包囲網」の展開として朝倉軍が山城国から摂津国へ攻め入っていれば、信長を討ち取れた可能性は高かった。

だが、朝倉軍は、義景が全権を握る組織であったのか?どうか?が大問題となる。譜代家臣だけで無く、朝倉家一族がそれぞれに自らの「イエ」の理論で動いていた。朝倉家一族内での信用を得るためには戦死者や負傷者を極力抑えることこそが、義景に求められたのである。

そのことは、義景の軍事行動における初動の遅れと撤兵の速さによく反映されている。

元亀3(1572)年に行われた軍事行動を例に見ても、小谷城救援の出兵は、前もって武田晴信からの西上を告げる密書を受けていたがために、武田軍との歩調を合わせるため8月に出陣したのである。ところが、武田軍が西上し始めたのが10月のことである。晩秋以降には大雪に閉ざされる越前国の国情を一切無視した武田軍の行動であった。これでは、義景は撤兵せざるを得ないと言える。

明治時代に起こった『旧陸軍青森第5連隊八甲田山雪中行軍遭難事件』を持ち出すまでも無く、雪中での大軍の行動は極めて危険なのである。むしろ、義景は、将兵たちの命のことを考えて慎重に行動していたのである。

織田家臣団きっての猛将と言われた柴田勝家も、後に越前国の北ノ庄城を本拠として、羽柴秀吉との決戦『賤ヶ岳合戦』を迎えた際、やはり雪の前には一切の身動きが取れなかった。この事実をしても義景が臆病者であったとは決して言えまい。

毎年のように晩秋から春先にかけて越前国を閉ざしてしまう雪は、戦国大名としての朝倉義景が持つ行動力を制限したのである。

また、それ以前、元亀元(1570)年、越前国に攻め入った信長が、浅井長政の同盟破棄に拠り、絶体絶命の危機に陥った際に、朝倉軍の追撃が緩慢であったために信長を討ち漏らしている。これについても義景への批判はかなりある。

義景は自ら兵を率いて出陣したものの一乗谷で騒ぎが起こり帰還している。

ここで、注目されるのは、信長が敦賀への侵略を開始した時、朝倉景鏡が兵を動員していながらも敦賀に向かうことは無かった。即ち、景鏡が敦賀の防衛に当たっていた朝倉景恒を見捨てている事実である。

この景鏡は、義景から見て高祖父の弟の末裔と言う薄い血縁でありながら、朝倉家の中では、朝倉家本宗家に次ぐほどの実力を持っていた。

このように、朝倉家が何代にも渡って越前と言う土地で一大王国を築き上げたが故に多岐に肥大化してしまった朝倉家一族は、表面上は義景に従っていても、結局は、それぞれの「イエ」の利益のために動いていたのである。互いに牽制し合っていた。このことは、朝倉氏家督たる朝倉義景をがんじがらめに拘束してしまっていたことであろう。

むしろ、そのような状況下にあっても、なお最終決戦時に、1万余の兵力を動員したと言う義景の実績の方が評価されるべきではなかろうか。

このような、もはや朝倉義景ひとりの力ではどうにもならない厳しい現実が、義景を「公家文化」に走らせた一因でもあり、義景から「決断」を奪った一因でもあったのではなかろうか。

家督相続してからの初期の内は、朝倉教景(朝倉宗滴)の補佐を得て、義景は家督として振舞えた。しかし、教景(宗滴)の没後、義景を支えるべき最適な人物が朝倉家中には欠けていた。

また、義景の外戚(若狭武田氏)は衰退し、義景を支える立場に無かった。加えて、義景は正室に縁遠かった。細川晴元の娘は早逝し、近衛稙家の娘は離縁に至った。これら細川家や近衛家からの支援も期待薄であった。その上、ようやく出来た子供たちも早逝する等、次代の安定に繋がらなかった。

こうして見ると、義景には「地」・「時」・「人」の三つの歯車が噛み合わなかったのである。

朝倉義景は決して愚かな人物では無い。

高い知性と豊かな教養を持つ人物であり、太平の時代に生まれていれば「名君」と評価されたであろう人物が朝倉義景であった。

朝倉義景の系図

《朝倉義景系図》

朝倉貞景━━孝景
       │
       ┝━━義景
       │
若狭武田氏━広徳院

《朝倉義景婚姻関係図》

鞍谷嗣知━━━小宰相局
        │
        └────────┐
                 │
斎藤兵部少輔━小少将       │
        │        │
        └───────┐│
                ││
       足利義輝     ││
        │       ││
近衛稙家━━┳女子       ││
      ┣前久       ││
      ┗女子(継室)   ││
        │       ││
        │┌──────┘│
        ││       │
        │┝━━━━愛王 │
        ││       │
        ││┌──────┘
        │││
        ││┝━━━阿君丸
        │││
       朝倉義景━━┳女子
        │    ┗女子
        │      │(婚約)
細川晴元━━━女子(正室)  │
               │
       本願寺顕如━━教如

朝倉義景の年表

年表
  • 天文2(1533)年
    9月24日
    誕生。
  • 天文17(1548)年
    3月
    家督相続。
  • 天文21(1552)年
    6月16日
    「義景」と改名。
  • 弘治元(1555)年
     
    長尾景虎(上杉謙信)と連携し加賀国へ攻め込む。
  • 永禄8(1565)年
    5月19日
    第13代将軍足利義輝、殺害される。
  • 永禄9(1566)年
    9月8日
    足利義秋(後の義昭)、越前亡命。
  • 永禄10(1567)年
    3月
    堀江景忠が謀反。
  •  
    10月
    足利義秋を一乗谷安養寺御所に迎える。
  • 永禄11(1568)年
    3月8日
    広徳院、従二位。
  •  
    4月
    足利義秋、一乗谷で元服し「義昭」と名乗る。
  •  
    6月25日、
    嫡男・阿君丸、夭逝。
  •  
    7月13日、
    足利義昭、一乗谷を去る。
  •  
    7月22日
    義昭、織田信長の岐阜へ。
  • 永禄12(1569)年
    正月
    上洛の「御教書」を無視。
  • 元亀元(1570)年
    4月25日、
    織田信長、越前討伐。
  •  
    4月28日
    浅井長政、織田信長に謀反。
  •  
    4月30日、
    織田信長、帰京。
  •  
    5月9日
    織田信長、岐阜へ出発。
  •  
    6月19日
    織田信長、岐阜を出陣。
  •  
    6月28日
    『姉川合戦』。
  •  
    7月21日
    三好三人衆ら対信長決起。
  •  
    9月12日
    本願寺、対信長決起。
  •  
    9月20日
    朝倉・浅井連合軍、宇佐山城を攻撃。
  •  
    9月24日
    『志賀の陣』浅井軍と連合し比叡山へ布陣し織田軍と対峙。
  •  
    12月14日
    織田信長と和睦。
  •  
    12月15日
    帰国。
  • 元亀2(1571)年
    6月11日
    義景の娘と本願寺教如との婚約成立。
  •  
    9月12日
    織田信長、延暦寺焼き討ち。
  • 元亀3(1572)年
    7月19日
    織田信長、浅井氏討伐に出陣。
  •  
    7月24日
    小谷城救援に出陣。
  •  
    7月28日
    近江国大嶽山に着陣。
  •  
    8月8日
    朝倉軍から織田軍へ寝返り続出。
  •  
    12月3日
    突如、越前へ帰国。
  • 天正元(1573)年
    7月3日
    足利義昭、填島城で「反・信長」の決起。
  •  
    7月18日
    織田軍、填島城を陥落させ、足利義昭を追放する。
  •  
    8月10日
    浅井家救援のため近江出陣。
  •  
    8月12日
    越前国へ撤退。織田軍は追撃。
  •  
    8月20日
    自刃。