目次
織田市(お市の方)について
【名前】 | 織田市 |
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【読み】 | おだいち |
【通称名】 | お市の方・小谷の方 |
【法名】 | 自性院微妙浄法大姉・東禅院殿直伝貞正大姉・自性院照月宗貞 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 天正11(1583)年 |
【時代】 | 戦国~安土桃山時代 |
【父】 | 織田信秀 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 織田信長・織田信広・織田勘十郎・織田信包・織田信治・織田信時・織田信興・織田秀孝・織田秀成・織田長益・織田犬 等 |
【配偶者】 | 浅井長政・柴田勝家 |
【子】 | 茶々(淀殿)・初(常高院)・江与(崇源院)・浅井万福丸 |
【家】 | 織田家 |
【姓】 | 桓武平氏 |
【姓】 | 朝臣 |
織田市(お市の方)の肖像
(「浅井長政夫人像」高野山持明院所蔵 Wikimedia Commons)
織田市(お市の方)の生涯
織田市(お市の方)の生い立ち
織田市は、織田信秀の娘として誕生する。
市の生母に関しては、はっきりしていない。
市の兄の織田信長は、浅井氏滅亡後の天正2(1574)年に、市の身柄を、弟の織田信包に託している。このことから信包と市が同母関係にあったのではないかとする説もある。
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
その信包であるが、後年、信長の生母である土田御前を自分のもとへ引き取っている。そこから土田御前は信長や織田勘十郎のみならず信包の生母でもあった可能性が高いとされる。
そうなると、市も土田御前の娘であった可能性は捨て切れなくなるが、現在のところ、市の生母は不明であると言わざるを得ない。
また、市の誕生年については、市の享年を数えの37歳とする伝承があることから、天文15(1546)年、もしくは、天文16(1547)年とされるが、あくまでも伝承に拠るものでしかなく市の正確な誕生年についても実際は不明と言うしか無い。
織田市(お市の方)、浅井長政に輿入れ
織田市が、日本史の表舞台に登場するのは、兄の織田信長が北近江の浅井長政と同盟を結ぶに当たり、市を長政のもとへ輿入れさせたことによる。
(浅井家の居城・小谷城)
この市の輿入れは、日本史上、極めて有名なものであるにも関わらず、その時期が全く不明である。
代表的な説として、永禄4(1561)年説・永禄7(1564)年説・永禄11(1568)年説がある。
長政が家督を相続したのが、永禄3(1560)年のことである。この年は、信長が『桶狭間合戦』で、今川義元を討ち取った年でもある。
長政は、家督相続と同時に北近江において自立する道を選び、それまで隷属下にあった南近江の六角家と決別し、六角氏や美濃国の斎藤家と戦うこととなった。
一方の信長も美濃国を掌中に収めるために斎藤家と戦う道を歩む。
そう考えると、織田家と浅井家は「対斎藤家」で同盟を結ぶ理由が見える。即ち、市の輿入れは、信長の美濃国攻略戦が本格化しだす永禄4年から永禄7年にかけての時期だったのではないだろうか。
実のところ、信長は、美濃国攻略にかなりの月日を費やしている。言い換えれば「美濃国攻略」こそは、信長の大志が成就するか?否か?の分水嶺でもあった。
三河国の徳川家康との同盟も「対斎藤家」が念頭に置かれていた。自身の後顧の憂いを無くした信長が、逆に斎藤氏に後顧の憂いを生じさせるための同盟を企図することは充分に考えられる。
そして、同盟は同盟相手の事情も大きく関係する。
徳川家は「三河国平定」と「対今川家」のために織田家との同盟を結んだ。浅井家もまた「対六角家」と「対斎藤家」と言う二正面の危機に直面しており、従来の朝倉氏との同盟にプラスする安全保障策を模索していた。
ならば、永禄4年から永禄7年頃の同盟締結でないと、浅井家の安全が担保されない。実際、浅井家は、信長が美濃国攻略を仕掛けている間、斎藤家からの攻撃を受けていないのである。
それどころか、永禄4年、長政は美濃国垂井へ侵攻し、永禄6(1563)年には、同じく美濃国へ攻め入り、斎藤家との間で「美江寺合戦」を繰り広げている。
この永禄4年以降の浅井家の軍事行動を、信長の美濃国攻略に関係した行動と見なせば、浅井家と織田家は、永禄4年前後から同盟関係にあったことになる。
いずれにせよ織田家と浅井家は、まさに利害が一致していた。
付け加えると、美濃国平定後に、織田浅井同盟が成立したならば、浅井家には一切のメリットが無い。
何故なら、信長が南近江に進出すれば、その段階で、浅井家は、そのまま北近江と言う近江国の半国に限定されて封じ込まれてしまうのである。
そう考えると、市の輿入れは、「遠交近攻」同盟の手段として、永禄4年から永禄7年頃であったとしても不自然では無い。
ただし、これはあくまでも状況的推理であり、あるいは、織田浅井同盟締結の時期と市の婚姻時期は別であったのかも知れない。史実としての市の輿入れ時期は未詳であるとしか言えない。
なお、市の輿入れ時期については、上記の年以外にも、永禄2(1559)年説・永禄6(1563)年説・永禄10(1567)年説等があり、研究者ごとに説が違うと言っても良いほどに、諸説の出されているのが現状である。
織田市(お市の方)の北近江での生活
浅井長政に輿入れしてからの織田市は、長政との間に、茶々(淀殿)・初(常高院)・江与(崇源院)・万福丸をもうける(万福丸に関しては別の女性の子とする説もある)。
(『伝淀殿像(部分)』奈良県立美術館所蔵 Wikimedia Commons)
(『常高院像(部分)』常高寺所蔵 Wikimedia Commons)
(『崇源院像(部分)』養源院所蔵 Wikimedia Commons)
それぞれの子供の出産時期であるが、嫡男の万福丸の誕生年に関しては不明である。
有名な浅井三姉妹であるが、茶々の誕生年は、永禄10(1567)年、または、永禄12(1569)年とする説があり、初の誕生年は、永禄11(1568)年、または、元亀元(1570)年とする説がある。江与の誕生年は、天正元(1573)年とされている。
つまり、茶々と初は年子であった可能性が高い。
このように、次々と実子に恵まれたことから、市と長政との間は政略結婚に基づくものではあったが、極めて良好な夫婦生活を過ごしていたものと推測される。
また、長政も、信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、全面的な協力体制をもって支えており、市は、外交的な立場上でも良好で穏やかな日々を過ごしていた。
織田市(お市の方)、浅井長政との生活の終焉
ところが、そんな織田市の幸せな日々は、皮肉なことに、市の結婚生活を編み出した兄の織田信長のために打ち砕かれる。
元亀元(1570)年4月、信長が、浅井家の生命線的同盟相手である朝倉義景の討伐に乗り出したことで、織田浅井同盟は破綻してしまうのである。
「朝倉か?織田か?」どちらに付くか迷った長政は、朝倉氏を選び、信長が指揮する織田軍を背後から襲撃することとなる。
この緊急事態に、市が「袋の両端を縛った小豆袋」を信長の陣中に送って、その危機を知らせた、とする話は有名であるが、この話を史実として認める説は、ひとつも出されていない。
浅井軍の襲撃による死地から脱した信長は、軍を急ぎ建て直し、徳川家康と連合した上で、朝倉氏と浅井氏に決戦を挑む。即ち『姉川合戦』である。
(姉川合戦)
『姉川合戦』の結果は、織田徳川連合軍の大勝であったが、野戦のみの合戦に終わったことで、浅井家は、小谷城に篭城し、なおも温存されることとなった。
浅井家と織田家の同盟の破綻は、長政と市との婚姻関係の解消を意味するはずであるが、ところが現実にはそうならなかった。
長政が市を離縁して送り返さなかった理由については、二人が相思相愛だったから、とする説が巷間広く喧伝されている。その辺りの長政の事情は不明である。
ただ、織田家側からも市の帰国を申し入れた痕跡も残されていない。
市が浅井家に留まった大きな理由は、万福丸の存在ではなかったろうか。
信長との合戦で長政が討ち死にした場合、家督は、万福丸に引き継がれる。長政の父の浅井久政は、家臣団によって罷免された経緯があり、再登場は困難であろうと思われる。
万福丸が、浅井家家督を相続すれば、生母の市は後見として万福丸を護ると同時に、再び、浅井家を「親・織田家」の大名に建て直す機会を得る。
そう考えると、同盟破綻後、信長側からも市に対して帰国を呼び掛けることが無かった理由が判明する。
市の思惑が、いかなるものであったのかは不明であるが、長政は、同盟破綻後は、ひたすら織田軍と戦い続ける道を選び、一時、信長を危機に陥れている。
そして、天正元年、3人目の女子を出産した市に悲劇が待ち受けていた。
この年、信長は、越前国へ攻め入って、朝倉義景を討ったのである。
越前朝倉家を討伐したその足で、信長は、小谷城を包囲。ここに至り、浅井家の命運は風前の灯火となる。
死を決した長政は、市と三人の娘を、城外へ脱出させる。この時、市と長政との間にどのような会話がなされたのかは不明である。
ただ、長政は、嫡子の万福丸を、市らとは別ルートで逃していることから、長政は「万福丸の支援と保護」を市に頼み、市は何があっても生きて万福丸の成長を見守ることを長政に約束したのかも知れない。
この市と三人の娘の脱出劇は、長政が付けた者が織田軍本陣まで護送したとする説や、長政の異母姉の見久尼が城外へ脱出した市と三人の娘を一時的に保護したとする説がある。
実際は、長政が、こっそりと城内から市らを逃し、その保護を見久尼に依頼したと見る方が可能性は高そうに思われる。
いずれにせよ、市と3人の娘たちは、小谷城を出て信長に無事保護された。
その際、市が、秀吉に罵声を浴びせるシーンが、安物の小説や陳腐なドラマの中で、よく見受けられるが史実には無い。市も武家の娘であれば、秀吉に対して「お役目ご苦労」ぐらいの声を掛けたと見るのが常識であろう。
だが、万福丸は、その後、信長の捜索によって見つけ出され、串刺しの刑によって殺害されてしまうのである。
一説には、信長の「万福丸は我が甥であるから取り立てる」と言う言葉を市が信じて、その所在を教えたことで万福丸は捕縛され処刑されたとも言われる。
市にとっては、まさに生き地獄であった。
長政から託された万福丸の命を守ることが出来なかったのである。けれども、それは同時に、残された3人の娘だけは、自分の命を引き換えにしても、我が手で守ろうと改めて強く誓う契機となったことであろう。
夫の長政が自刃したことで未亡人となったが、その後の市は、何故か落飾し出家することは無かった。
これが「長政の弔いを禁じる」と言う信長の命令であったのか?それとも「長政と万福丸はいつまでも心の中に生きている」と言う市の信長に対する抵抗心の発露であったのか?
その答えは、市のみぞ知る、である。
織田市(お市の方)の隠遁生活
織田市は、兄の織田信長に保護されることとなる。
しかし、間もなく信長は、市と3人の娘の世話を、弟の織田信包に一任している。
そして、天正2(1754)年からは、信包の居城である伊勢国上野城で過ごすこととなる。
(上野城)
天正8(1580)年に同じく伊勢国津城へ移るものの、市は、三人の娘たちと伊勢国で癒えぬ深い悲しみを抱えながらも穏やかな日々を送った。
(津城)
しかし、信包は、信長の「天下布武」に従って、各地の戦場へ出陣を繰り返す日々を送っていた。
その信包を見送る度に、市の胸中には、小谷城での日々が、フラッシュバックしたのではないだろうか。
そのような市の生活が一変したのが、天正10(1582)年のことであった。
織田市(お市の方)、再び歴史の表舞台へ
天正10(1582)年、明智光秀が、織田信長を本能寺に襲撃し殺害したのである。
『本能寺の変』である。
信長に叛旗を翻した光秀を、織田家臣団の中で真っ先に『山崎合戦』において討伐したのは羽柴秀吉であった。
ここに、忘れ去られつつあった市の存在が歴史の表舞台へと再び浮かび上がるのである。
『山崎合戦』後に開催された「清須会議(清洲会議)」で、市は、柴田勝家と再婚することとなる。
(清須城)
この再婚話は、勃興する秀吉を封じ込めようとして、勝家と結んだ織田信孝(信長三男)が市に持ちかけたものとする説がある。
また、秀吉自身が持ち出した話であるとする説もある。
徳川史観が蔓延る江戸時代以降から、「秀吉は市に懸想していた」とする俗説が今でもまことしやかに言われるが、当時の記録を見ても、そのような事実は確認されない。
むしろ現在では、市と勝家の再婚を推進したのは秀吉であって、秀吉は、信長の妹である市を勝家との政略の駒として使ったに過ぎないとの見方が有力となっている。
また、市と勝家の再婚話は「清須会議」前に決定していたともされ、三法師の後見となることを目論む秀吉は、織田家家臣たちからの反感を避けるために、勝家に市を宛がうことで、勝家を亡き信長の義弟として、織田家家臣団から一段浮き上がらせる手段を講じた可能性が高いのである。
こうして勝家と再婚した市にとっての織田家の娘として執り行なった最期の公の仕事が9月11日の信長の百箇日法要であった。
夫の長政を討った信長の法要の主を務めなければならなかったことは、何とも皮肉な巡り合わせである。
この法要は、秀吉が、信長の百箇日法要を大徳寺で執行することに対抗して、勝家が企図し妙心寺で行なわれたものであった。
(妙心寺)
しかし、信長の嫡孫たる三法師を自身の権力の拠りどころとする秀吉の権威は、市と勝家を遥かに凌駕するものであり、市は、天下の趨勢の移ろいを強く感じながら、京を離れ、勝家の居城である越前国北ノ庄城へ赴く。
市が、どのルートを通り越前へ向かったのかは不明であるが、恐らく初冬の冷たい風が吹きすさぶ湖東沿岸を北上し、「清須会議(清洲会議)」の結果、勝家の領地となった北近江で、長政の御霊の弔いを行なったのではないだろうか。
市は、三人の娘を連れて、北風が吹く中、安土城に匹敵するものと、その豪壮華麗さを称えられた北ノ庄城へ入る。
(北ノ庄城)
それから間もなく、勝家は、11月になって、秀吉と表面上の和議を結んだ。
織田市(お市の方)の最期
しかし、越前国が雪に閉ざされた12月、羽柴秀吉は、柴田勝家側の長浜城城主・柴田勝豊を調略し北近江を制圧、次いで、勝家と連携していた織田信孝に圧力を加えて降伏させてしまう。
ここに勝家と秀吉との間に戦端が開かれたのである。
翌天正11(1583)年、年明け早々に勝家に組する滝川一益が、次いで信孝が、秀吉に対して宣戦布告を行なうも、秀吉の反撃の前に封じ込められる。
2月になると、北陸方面から柴田軍が北近江に進軍。勝家も、3月になって、本隊7000の兵を指揮して出陣する。
(北ノ庄城と賤ヶ岳)
こうして、勝家と秀吉は、北近江で雌雄を決することとなった。『賤ヶ岳合戦』である。
個々の戦術においては強さを発揮した柴田軍であったが、戦略に勝る羽柴軍の前に遂に敗北。
勝家は、北近江の戦場から逃亡し、北ノ庄城へ篭る。この勝家の姿に、市は、長政の姿を重ねて見たことであろう。そして、来るべき最期を覚悟した。
市は、今度の篭城戦では死を決めていたのである。
その理由のひとつは、戻るべき実家が、既に無かったことであろう。織田信長と、その嫡子・織田信忠亡き後、織田氏の家督継承者は、秀吉が擁する三法師なのである。甥の信孝や織田信雄は、形式的には、この三法師の下に置かれる。また、兄の信包は、「清須会議(清洲会議)」以降、秀吉の配下となっていた。
市には、戻るべき「家」が無かった。
そして、もうひとつは、市は、ここで死ぬ必要があった。三人の娘たちを生かすために。
市が勝家と再婚したのは、市が「織田信秀の娘」であり、「織田信忠の叔母」であり、何より「織田信長の妹」であったからである。即ち、市は「織田家の女性」として婚姻したのである。
だからこそ、死ななければならなかった。
ここで注目すべきことは、茶々・初・江与が、本来その出自は「浅井家の娘」であるにも関わらず、現在でも何故かわざわざ母系にこだわった呼ばれ方、即ち、「織田家の血を引く娘」と呼ばれることである。
平安時代、一条天皇の后であった藤原彰子は、藤原道長の娘として「藤原氏の娘」と呼ばれるのであって、よほどのことが無い限り、母系に因む「宇多源氏の血を引く娘」とは呼ばれない。これを見ても、茶々・初・江与が「信長の妹の子で織田家の血を引く娘」と、ことさら声高に呼ばれることの奇妙さがわかる。
それは、この『賤ヶ岳合戦』の特殊性に起因するのではないだろうか?
つまり、『賤ヶ岳合戦』は、勝家と秀吉との間で行なわれたと言う、あくまでも「織田家中の内紛」なのである。
勝家も、秀吉も、『賤ヶ岳合戦』時点では、織田家家臣に過ぎない。
だからこそ「織田家の血を引く」3人の娘は、どちらが勝利しても、その身の安全は保証されるべき存在となる。
『賤ヶ岳合戦』には、多くの織田家家臣が参戦している。秀吉は、野心家ではあるが、そこで「織田家の血を引く」3人の娘を、無碍に扱うようなことをすれば、たちまち人心を失うことは火を見るより明らかであり、人の心を掴む天才の秀吉が、そのようなことをするわけが無い。
恐らく市は、『賤ヶ岳合戦』開戦前から、そこまで読み切っていたのではないだろうか。
そのために市は、誰もが自分のことを、「織田家の娘」として、「信長の妹」として見ているうちに、死ななければならなかったのである。
市の死が鮮烈であればあるほど、3人の娘には、「天晴れな最期を遂げられたお市様の忘れ形見」としての、そして「織田家の血を引く娘」と言う意義が人々の間に出て来るのである。悲しく酷い乱世の現実である。
市は、3人の娘を城から脱出させる。
それは、3人の娘が市から秀吉に託された瞬間でもあった。託された秀吉も、後日、この3人の娘を「織田家の血を引く娘」として生かす道を採っている。
よく「市は秀吉を毛嫌いしていた」とする俗説が語られる。
しかし、本当に市が秀吉を毛嫌いしていたならば、大切な3人の娘を託す道を選ぶだろうか?
篭城戦は古来より行なわれて来たが、寄せ手の攻撃軍に、自らの娘を無条件で委ねて託すこと等、常識的に有り得ない。
しかも攻撃軍の将を憎んでいれば、なおさらのことである。
市の秀吉に対する本心を知る手立ては無いが、少なくとも、北ノ庄城落城の刹那の市は、秀吉に対して、多少の不安があったとしても、それを払拭した上で、全幅の信頼と希望を抱いていたと言えよう。
城から脱出する3人の娘たちに市が何を語ったのかはわからない。それでも「織田家の血を引く娘」として生きる意味を諭し、時期が来るまでは長政と自分の供養を表立って行なわないように言い聞かせたのではないだろうか。
こうして、市は、自分の娘の未来に関する全権を秀吉に託すのである。
府中城に入った秀吉は、4月23日に北ノ庄城を攻囲。
翌4月24日、勝家の多勢いる側室や妾と共に、市も天守に篭る。10人以上を数えた側室や妾たちは、次々と勝家の手に掛かり最期を遂げたと伝えられる。
市が勝家の手に掛かったのか、それとも自ら刃を立てたのかは不明である、ただ、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる中で、市は静かに最期を迎えた。
別に伝えるところでは、勝家は、天守に仕掛けた火薬に点火し、市たちが最期を迎えた北ノ庄城天守の最上部は木っ端微塵に吹き飛んだとも言われる。
市の辞世の句と言われるものとして『太閤記』所収の歌がある。
『さらぬだに打ぬる程もなつの夜のわかれをさそふほとゝきすかな』
(『史籍集覧』「太閤記」国立国会図書館デジタルコレクション)
また『天正記』や『柴田退治記』には
『さらぬだに打ぬる程もなつの夜の夢路をさそふ時鳥かな』
(『群書類従』「柴田退治記」国立国会図書館デジタルコレクション)
とある。
市の辞世の歌として、よく知られているのは前者であるが、史料的な意味合いから見れば後者の歌の方に重きがあると言われる。ただ、後者は、辞世の歌としては、あまりにも耽美に過ぎるように思われる。もっとも、これらの辞世は市の詠んだ歌であるとの確かな証拠は何も無い。
その後、茶々は、秀吉の側室となり「淀殿」と呼ばれ、天正17(1589)年になって、秀吉との間に豊臣鶴松を出産した。この年、茶々は、父の浅井長政の十三回忌と母の市の七回忌の供養を行なった。
そして、秀吉との間に二人目の子の豊臣秀頼を出産し、その翌年の文禄3(1594)年に、茶々は、長政の二十一回忌に当たって、父を供養するための養源院を京都東山に建立し、その菩提を天下に大々的に弔った。さらに、文禄4(1595)年には、市と継父・柴田勝家の十三回忌を行なうのである。小谷城落城と北ノ庄城落城から長い年月を数えた日のことであった。
茶々が建立した養源院は一度焼失するものの、徳川秀忠の室となっていた江与が再興する。
それは、遠い日の母と娘の絆が、どんなに時代に翻弄されようとも、決して断ち切られていないことの証しであった。
織田市(お市の方)とは
織田市(お市の方)は、戦国から安土桃山時代に掛けて生きた女性の中では、豊臣秀吉の正室である高台院(おね)と並んで、その知名度は高く、しかも、高野山持明院に伝えられる肖像画の美貌の影響もあって、人気度は群を抜く存在である。
それ故に、小説やドラマ・映画等の題材として描かれることもしばしばである。
けれども、市の実像は驚くほどに不明な点が多い。にも関わらず、市は、多くの日本人の心の中にある。
それは、男たちの論理が支配する世界に抗う術も持たずに翻弄されながらも、妹として、妻として、母として、ひとりの女として生きた市の姿は、乱世に咲いた儚くも美しい花の如くであったからであろうか。
だが、その花は、ただ儚くて美しいが故に手折られるだけでは無く、次代に命の絆を繋ぐと言う本当の強さを見せたのであった。
織田市(お市の方)は戦国の世を強く生きた女性であった。
織田市(お市の方)の系図
《関係略図》 京極高秀━━高吉 │ │ ┌────────┐ │ │ │ ┝━━━┳龍子 │ │ ┣高次 │ │ ┃│ │ │ ┃└──────┐ │ │ ┃ │ │ │ ┗高知 │ │ │ │ │ 浅井久政 │ │ │ │ │ │ │ ┝━━━┳マリア │ │ │ ┗長政 │ │ │ │ │ │ 小野殿 │ │ │ │ │ │ ┝━━━┳万福丸 │ │ │ ┣淀殿 │ │ │ ┃│ │ │ │ ┃┝━━┳鶴松 │ │ │ ┃│ ┗秀頼 │ │ │ ┃│ │ │ │ ┃└──────┼┐│ │ ┃ │││ │ ┣常高院 │││ │ ┃│ │││ │ ┃└──────┘││ │ ┃ ││ │ ┗崇源院 ││ │ ││ ││ │ │└──────┼┼┐ │ │ │││ │ ┝━━┳家光 │││ │ │ ┣忠長 │││ │ │ ┗東福門院│││ │ │ │││ │ 徳川秀忠 │││ │ │││ └──────────┐ │││ │ │││ 織田信秀━┳信長 │ │││ ┣信行 │ │││ ┣信包 │ │││ ┣市 │ │││ ┃││ │ │││ ┃│└─────────┘ │││ ┃└────────────┼┼┼┐ ┃ ││││ ┗犬 ││││ │ ││││ ┝━━━━一成 ││││ │ │ ││││ │ └───────┼┼┘│ │ ││ │ 佐治信方 ││ │ ││ │ 柴田勝家 ││ │ │ ││ │ └────────────┼┼─┘ ││ 豊臣秀吉 ││ ││ ││ │└───────────┘│ └─────────────┘
織田市(お市の方)の年表
- 元亀元(1570)年4月20日織田信長、朝倉氏討伐に出陣。
- 4月28日浅井長政、信長に謀反。
- 6月28日『姉川合戦』。
- 天正元(1573)年月日未詳三女・江与(崇源院)を出産。
- 8月20日朝倉義景、自刃。
- 8月26日織田軍、浅井氏の小谷城へ総攻撃開始。
- 8月28日小谷城から脱出。
- 9月1日長政、自刃。
- 天正2(1574)年月日未詳娘たちを連れて織田信包の下に預けられる。
- 天正10(1582)年6月2日『本能寺の変』勃発。
- 6月13日『山崎合戦』。
- 6月27日「清洲会議」。柴田勝家と再婚が決まる。
- 9月11日妙心寺で信長の百箇日法要を営む。
- 9月12日羽柴秀吉、大徳寺で信長の百箇日法要を営む。
- 10月勝家の居城である北ノ庄城へ赴く。
- 10月15日大徳寺で信長の葬儀を営む。
- 天正11(1583)年3月9日勝家、近江国へ出陣。
- 4月21日『賤ヶ岳合戦』。
- 4月22日見出し1北ノ庄城から娘たちを脱出させる。
- 4月23日秀吉、北ノ庄城包囲。
- 4月24日勝家と共に北ノ庄城で自刃。