豊臣鶴松【夭逝した次期天下人!その真実とは】

豊臣鶴松について

【名前】 豊臣鶴松
【読み】 とよとみつるまつ
【幼名】 於棄・棄・棄丸・八幡太郎
【法名】 祥雲院殿
【生年】 天正17(1589)年
【没年】 天正19(1591)年
【時代】 安土桃山時代
【父】 豊臣秀吉
【母】 淀殿(浅井長政の娘)
【同母弟】 豊臣秀頼
【家】 豊臣家
【氏】 豊氏(豊臣氏)
【姓】 朝臣

豊臣鶴松の生涯

豊臣鶴松の生い立ち

豊臣鶴松は、天正16(1588)年、豊臣秀吉の嫡子として誕生する。

母は、浅井長政の娘・茶々(淀殿)である。

茶々が鶴松を懐妊したと知ると、秀吉は大いに喜んだ。

そして、弟の豊臣秀長を監督として、急ぎ淀城を整備した上で、産屋として茶々に与える。

淀城
(淀城跡)

こうして、茶々は、以後「淀殿」と呼ばれるようになる。

さらに、秀吉は、淀殿が臨月に入り、鶴松が生まれる直前には、諸大名を呼び集めて、金銀合わせて31000枚もの金賦りを行なったほどである。

高揚する空気の中、天正17(1589)年5月、淀城にて、淀殿は男児を出産する。

秀吉は、生まれた男児が健康に育つようにと男児に「棄」と名付ける。

日本では「捨て子は健康に育つ」と言う伝承があったことに拠る。

棄の誕生は、世の一大事であり、朝廷を始め、公家衆・諸大名からも祝福された。世情の興奮を覚めやらぬ内に、棄は「豊臣鶴松」と名を改める。

鶴松の傅役に付けられたのは、

『初めから鶴松の養育に当たったのは石川豊前守光重であった』

(『豊太閤と其家族』渡辺世祐 国立国会図書館デジタルコレクション)

とされる。

そして、9月になると、鶴松は、壮麗な行列と共に大坂城へと移る。鶴松に供奉する者は衣冠束帯姿であったと言う。

大坂城
(大坂城)

鶴松は、秀吉が天下を掌握した後に生まれた子であり、まさに、生まれながらの「天下人の後継者」であった。

「天下人の後継者」としての豊臣鶴松

翌天正18(1590)年正月、京から下向して来た公家たちから挨拶を受ける。

2月になると、鶴松は大坂城を離れ、当時の豊臣政権の政庁である聚楽第に入る。

聚楽第
(聚楽第跡)

ここに、聚楽第の北政所(高台院・豊臣秀吉正室)との対面を果たす。また、先に大坂を訪れた公家たちへの返礼の目的もあった。

ただ、鶴松は、元々病弱であったとも言われる。

それに加えて、誕生から僅か3ヶ月後の旧暦8月の残暑が残る中、淀城から大坂城へ移動している。生後3ヶ月の赤ん坊にはきつかったに違いない。

さらに落ち着く暇もなく、今度は、まだ厳しい寒さの残る早春の時期に大坂城から京の聚楽第へ移動した上で、大勢の客人を前にして盛大なお披露目が執り行われたのである。

誕生してから満1歳にも満たない中での度重なる移動と行事は、生まれたばかりの赤ん坊に過ぎない鶴松には、かなりの負担となっていたことは容易に想像がつく。

そして、3月になると、秀吉は、関東へ出陣する。所謂『小田原征伐(北条氏征伐)』である。

秀吉は、5月に母の大政所(なか)宛に陣中から手紙を出している。その中で、

『わがみはそもじさま又はわかぎみみまいなから としの内参候て 御めにかかり可申候 御心やすく候べく候』

(『古寺巡礼京都 妙法院三十三間堂』宇佐見英治 三崎義泉 淡交社)

「母上と若君(鶴松)に会うために年内には戻るので安心してください」と書いている。

秀吉にとって、自分を産んでくれた大政所と自分の子である鶴松の二人は、他の誰よりも大事であったことが窺える。

6月には、淀殿が、秀吉の陣に呼び寄せられる。

淀殿の留守の間、鶴松は、北政所が責任を持って預かることとなった。

当時は、乳母による養育が当たり前ではあったが、目配りや気付きの点においては、どうしても生母に及ばないところがあるのは否めない。

こうして、生母である淀殿が近くにいない間、鶴松は大坂城を離れ、「里」とも言える淀城に入っている。これが北政所の差配であったのか淀殿の意志であったのかは判らない。

だが生母から引き離された影響からか、7月下旬になって鶴松は体調を崩す事態となる。

この知らせを受けるや、淀殿は、小田原から急ぎ淀城まで戻って来ている。

秀吉が自分の性欲を満たすために淀殿を小田原にまで呼びつけるようなことさえしなければ、鶴松の病気も無かったのではあるまいか。

この年、朝鮮から通信使(黄允吉・金誠一・許筬之)が日本を訪れる。

朝鮮側が通信使を派遣した背景には、天正15(1587)年6月に、豊臣秀吉は、対馬の宗義調(義調の没後は宗義智)に対して、朝鮮出兵を内示していたことがある。このため、義調が日本と朝鮮との武力衝突を避けるべく、朝鮮側に事態の推移を告げ融和工作に奔走した結果である。

来日した朝鮮通信使は、「秀吉の日本統一を祝う」ための外交儀礼として良馬や人参・豹皮等を朝鮮国王からの贈り物として携えて来ていた。同時に、彼らは、秀吉が計画する朝鮮出兵の意図を見極め、その実現性を確認する使命を帯びていた。

つまり、開戦か否かの極めて緊張した外交交渉が行われたのである。

この朝鮮通信使との重要な会見の席に、秀吉は鶴松を同席させる。

外交儀式が行われている間、鶴松は、秀吉の膝の上に抱かれていたが、会見中に、おもらしをしたために会見は一時騒然とした。

このような有様に、朝鮮通信使側は、表にこそ出さなかったが、後になって「公式の会見の場に子供を同席させるとは非常識であり非礼である」として、かなり憤っている。

しかし、秀吉には、自分の揺ぎ無い後継者としての鶴松を、内外に誇示する目的があったのではないだろうか。

このように、鶴松は、生まれて間もない頃から、公私に渡って「天下人である秀吉の子」として、多忙な日々を過ごさなければならなかったのである。

そして、この朝鮮通信使との会見が行われたのが、寒風吹きすさぶ旧暦11月で、その寒さ厳しい中を淀城から聚楽第まで移動したのである。

鶴松に対する秀吉の溺愛ぶりは、かえって鶴松を苦しめたことは否めない。

豊臣鶴松と舞

その中で、豊臣鶴松自身の意志が伝わる話も残されている。

それは、鶴松が、舞に興味を覚えたことである。

傅役らが、秀吉に対して、鶴松が舞に関心を寄せているので、舞を習わせて良いかを打診し、これに対して、秀吉も、鶴松の舞の師匠として梅松を付けて、舞を習わせることを許している。

それは鶴松が満1歳ぐらいの話であり、人の動きを真似て手足を精一杯に動かす程度であったと思われる。

けれども、小さな鶴松が一生懸命に、その命を謳歌する様子は、秀吉や淀殿をはじめとする一族にとって、心和む時間に違いなかった。

同時に鶴松が、この世に生を受けた精一杯の証となった。

豊臣鶴松、その短き命

天正19(1591)年、年明け早々に、鶴松は、またも病に侵され体調を崩す。

しかも、鶴松の発病から間もなく、秀吉の弟である豊臣秀長が亡くなってしまう。

重苦しい空気が豊臣家を覆う中、一時は、鶴松の体調が立ち直る気配を見せ、秀吉や淀殿を安堵させる。ところが、夏になると再び鶴松は重篤な病状となってしまう。

秀吉は、興福寺や金剛峯寺を始め、畿内の寺社に対して、鶴松本復の祈祷を命じ、京の名医を呼び出して治療に当たらせた。秀吉自身も、東福寺に入り病気平癒を祈願している。

しかし、秀吉や淀殿の懸命の祈りも届くことなく、鶴松の小さな小さな命の灯は、静かに消えて行った。

『豊鑑』には、

『秀吉公のかなしびいはんかたなし。實に理りならし』

(『豊鑑』国立国会図書館デジタルコレクション)

とある。

『当代記』には、

『秀吉公愁嘆し給事不可斜』

(『當代記巻二』国立国会図書館デジタルコレクション)

と記されている。

鶴松が亡くなったことを知らされると、秀吉は髻(本結)を切り落としている。徳川家康ら諸将も次々と髻を切って喪に服した。

秀吉は、清水寺で鶴松の冥福を祈願した後、妙心寺で葬儀を執り行なった上で、自らが造営した方広寺大仏殿の近くに、鶴松の供養のため祥雲寺(祥雲禅寺)を建立する等、もう二度と帰って来ない鶴松へ限りない愛を注いでいる。

豊臣鶴松とは

豊臣鶴松が亡くなって間もなくのこと。

夢の中で鶴松と会ったが、目が醒めて、改めて、鶴松が、もうこの世にいないことを思い知り、流しても流しても尽きることの無い悲しみの涙の中で、豊臣秀吉が詠んだ和歌が残されている。

「亡き人の 形見に涙 残しおきて 行へ知らずも 消え落つるかな」

秀吉が鶴松を傍から片時も手放したくないと言う執着は、結局のところ、鶴松に負担を掛けただけだったとも言える。

歴史に「もし」は禁句である。

禁句ではあるが、それでも「もし」と思わずにはいられないのが、豊臣鶴松である。

もし、鶴松が成人するまでの健康と寿命を得ていたら、日本史は、恐らく大きく書き換わっていたことであろう。

無論、豊臣政権が長く続いたか、どうかはわからない。

ただ、『豊臣秀次事件』に代表される理不尽な粛清で多くの人々が命を落とすことが無かったことだけは確かである。

豊臣鶴松の死は、その刹那から多くの人々の人生の歯車を様々に動かすこととなる。

豊臣鶴松の系図

《関係略図》

浅野長勝━━ねね(高台院)
       ┃
      豊臣秀吉
       ┃
       ┣━━━┳鶴松
       ┃   ┗秀頼
       ┃
浅井長政   ┃
 ┃     ┃
 ┣━━━┳茶々(淀殿)
 ┃   ┣初
 ┃   ┗江与
 ┃
織田市

豊臣鶴松の墓所

豊臣秀吉が愛児・豊臣鶴松のために建立した祥雲寺(祥雲禅寺)は、徳川家康に拠って跡形も無く破却されてしまい残されていない。

現在、妙心寺の塔頭である玉鳳院に、鶴松の廟所として「祥雲院影殿」が伝わる。

妙心寺玉鳳院祥雲院影殿
(妙心寺玉鳳院)

玉鳳院には、他にも傅役が鶴松を乗せて遊んだと伝えられる「木造玩具船」(重要文化財)が収められている。

さらに、鶴松に所縁の「色々絲緘胴丸」(重要文化財)を始めとする小型武具類(3種4点)や「俱利伽羅龍守刀」(重要文化財)も収められている。

この内で「俱利伽羅龍守刀」は、鶴松の守刀であり、鎌倉時代に製作され備前国尚宗の銘が入ったものであって、蒲生氏郷が鶴松の誕生を祝して贈った名刀と言われる。

これらの品々は、秀吉が、慶長元(1596)年に妙心寺へ納めたものである。

また、同じ妙心寺塔頭で、「賤ヶ岳の七本槍」の一人である脇坂安治が建立した隣華院には、「豊臣棄丸坐像」(重要文化財)が所蔵されている。

豊臣鶴松の年表

年表
  • 天正17(1589)年
    5月20日
    金賦り。
  •  
    5月27日
    誕生。
  •  
    5月30日
    朝廷より産着が下賜される。
  •  
    9月13日
    大坂城に入る。
  • 天正18(1590)年
    2月13日
    聚楽第に入る。
  •  
    5月
    淀殿、小田原へ参陣。
  •  
    7月
    淀殿、淀城へ帰る。
  •  
    11月7日
    朝鮮通信使との会見に同席。
  • 天正19(1591)年
    閏正月3日
    発病。
  •  
    8月2日
    再び発病。
  •  
    8月5日
    死去。
  •  
    8月7日
    秀吉、清水寺で冥福を祈願。
  • 慶長元(1596)年
     
    秀吉、鶴松所縁の品々を妙心寺に納め供養する。