蘇我高麗宿禰【蘇我稲目の父!でも高麗の履歴が無くてコマっちゃう!】

蘇我高麗宿禰について

【名前】 蘇我高麗宿禰
【読み】 そがのこまのすくね
【別名】 蘇我馬背(『紀氏家牒』)
【別名読み】 そがのうませ
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 古墳時代
【父】 蘇我韓子宿禰(『公卿補任』)
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 蘇我稲目(『公卿補任』)
【氏】 蘇我氏

蘇我高麗宿禰の生涯

蘇我高麗宿禰の生い立ち

蘇我高麗宿禰は、平安時代に成立した『公卿補任』を根拠に蘇我韓子宿禰の子として誕生したとされる。

蘇我高麗宿禰とは

『公卿補任』以外の史料から蘇我高麗宿禰の名前を見つけ出すことは出来ない。

仮りに万が一に高麗宿禰が実在していたとしても、韓子宿禰が雄略天皇9(465)年に没していることから、高麗宿禰の誕生は、それ以前となる。

高麗宿禰を韓子宿禰が18歳の時の子とすれば、高麗宿禰は、允恭天皇36(447)年頃の誕生となる。

一方、高麗宿禰の子とされ、宣化天皇元(536)年に「大臣」となった蘇我稲目が没したのが欽明天皇31(570)年である。

稲目の享年を古代では奇跡的な70歳とすると、稲目は、武烈天皇2(500)年の誕生となる。つまり、韓子宿禰が53歳前後の子と言うことになる。

年代的に矛盾が生じることは明らかである。

このことから高麗宿禰は全くの架空の人物と見做されている。

なお、『紀氏家牒』では「馬背」と言う名前で記されている。

これは、蘇我稲目の子の蘇我馬子に因む名前を付与されたものに過ぎないと思われる。また、この「馬背」と言う名前から、「高麗」と言う名前も馬子に因んで考えられた可能性が窺える。

つまり、馬子の「馬」を「駒(コマ)」と解して「高麗(コマ)」としたのではあるまいか。

いずれにしても、名前が「高麗」であろうと「馬背」であろうと、そこに高麗宿禰の実在性は微塵も見受けられない。

ただし、だからと言って稲目以前の系譜が判らないから蘇我氏が胡散臭い一族と言うことには決してならない。

オオド大王(継体天皇)の王子(皇子)であるヒノクマノタカタ王子(桧隈高田皇子)が大王となると、稲目が大臣となっていることから見ても、蘇我氏は稲目の父の代には、大臣を輩出出来得るだけの正当性と実力を持っていたことが窺えるからである。

ただ、『公卿補任』が記す「蘇我高麗宿禰」は、実在した稲目の父とは到底考えられないと言うことである。

蘇我高麗宿禰の系図

《蘇我高麗系図》

孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命━武内宿禰━━┓
                          ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┣波多八代宿禰 
┣巨勢雄柄(小柄)宿禰
┣蘇我石川(石河)宿禰━満智宿禰━韓子宿禰━高麗宿禰━稲目
┣平群木菟(都久)宿禰
┣紀角宿禰
┣久米能摩伊刀比売
┣怒能伊呂比売
┣葛城長江曾津毘古(襲津彦)
┗若子宿禰

蘇我高麗宿禰の年表

一切の履歴無し。