坂井久蔵

坂井久蔵について

【名前】 坂井久蔵
【読み】 さかいきゅうぞう
【生年】 不明
【没年】 元亀元(1570)年
【時代】 戦国時代
【出仕先】 織田氏家臣
【職能】 小姓
【父】 坂井政尚
【母】 不明
【兄弟姉妹】 坂井越中守
【氏】 坂井氏

坂井久蔵の生涯

坂井久蔵の生い立ち

正確な誕生年は不明であるが坂井政尚の嫡男として誕生する。

その後、これも正確な時期は不明であるが、織田家へ出仕し、織田信長の小姓となる。

坂井久蔵の戦死

元亀元(1570)年4月、織田信長が越前の朝倉義景を攻めたことで、信長と浅井長政の間に結ばれていた織田浅井同盟が破綻。

信長は状況を変えるべく6月に入り北近江へ出陣し姉川の南岸に布陣する。この時、織田軍の第一番隊は坂井政尚に任される。そして、織田軍の最前線で浅井軍と対峙する兵力3000の坂井部隊の中に、政尚の嫡男である坂井久蔵の姿があった。

6月28日、徳川軍と朝倉軍との間で火蓋が切れられ、次いで浅井軍の先鋒である磯野員昌部隊が、怒涛の勢いで織田軍に攻め掛かった。即ち『姉川合戦』の開戦である。

坂井部隊は態勢を立て直す間もなく、一気に切り崩されることとなる。

その中で久蔵は必死に踏み止まり、津波のように襲って来る磯野隊に立ち向かうが、磯野隊の攻撃を一身に受け、遂に戦場に倒れる。

この時、久蔵は、16歳であったとも伝えられる。

坂井久蔵とは

坂井久蔵の美少年ぶりは際立ち、織田信長のお気に入りの小姓であったと言われる、

また美しいだけでなく信長の側にあって、その剣術の腕を持って信長の護衛に当たるなど剛勇さも織田家中では有名であったと言われている。

その久蔵が、いつから父の政尚と行動を共にし始めたのかは定かでない。もしかすると、この『姉川合戦』が初陣であった可能性もある。

合戦は緒戦の磯野員昌隊の勢いの前に圧倒され、猛烈な第一撃を受けた坂井部隊は混乱の極致に陥ってしまうが、その中にあっても久蔵は一歩も退がることなく、必死に戦い、命を落とすこととなる。

そして、『姉川合戦』の終了後、織田家中の者たちは、久蔵が戦死したことを知って大いに嘆き、力尽きた久蔵の亡骸が倒れていた場所の土を持ち帰って、誰もが皆、久蔵の武勇にあやかろうとしたために、その場所には大きな穴が開き窪地のようになってしまったと伝えられている。

因みに久蔵の父の政尚は、同じ元亀元年に堅田において戦死を遂げ、弟は織田信忠の配下として『本能寺の変』の際に、信忠と共に戦死を遂げている。

織田氏と共に運命を共にした坂井父子の魁として、久蔵は姉川の戦場に散ったのである。

坂井久蔵の系図

《関係略図》

 坂井政尚┳久蔵
     ┗男子(越中守)

坂井久蔵の年表

<元亀元(1570)年>
6月28日、『姉川合戦』にて戦死。