百済王郎虞【倭(日本)生まれの新世代百済王氏!】

百済王郎虞について

【名前】 百済王郎虞(百済王良虞)
【読み】 くだらのこにきしろうぐ
【別表記】 良虞王(『藤氏家伝』)
【生年】 斎明天皇7(661)年
【没年】 天平9(737)年7月17日
【時代】 斎明天皇朝~奈良時代
【位階】 従四位下
【官職】 散位
【父】 百済王昌成
【母】 不明
【兄弟】 百済王遠宝・百済王南典(伯叔父説あり)
【配偶者】 不明
【子】 百済王敬福
【氏】 百済王氏(百済氏)
【姓】

百済王郎虞の生涯

百済王郎虞の生い立ち

百済王郎虞は、百済王昌成の子として生まれる。

誕生年は斎明天皇7(661)年とされる。

郎虞の生母は不明であるが、郎虞の血統が高朱蒙を始祖とする「百済王家」と言う由緒ある家格であることから考えて、母は亡命百済人の上級貴族階層の女性であったように考えられる。

父の昌成は百済生まれであったが、郎虞の出生地は倭(日本)である。

祖父は、百済王族で百済王氏の祖となる余禅広(百済王善光)であり、郎虞は、善光から始まる百済王氏の嫡流に位置付けられる存在である。

郎虞を、余禅広の子とする見方もある。ただし、余禅広が百済から倭(日本)にやって来たのが舒明天皇3(631)年であることを勘案すると、年代的に見て、郎虞を余禅広の子とするには無理があるように思われる。むしろ、郎虞を余禅広の孫とした方が時系列的に無理が生じない。

父の昌成と同じく百済王族(余一族)としての諱(実名)は不明であり、郎虞は倭(日本)で誕生した世代であることから、百済王族(余一族)としての諱(実名)は付けられなかった可能性も考えられる。

弟に百済王南典がいる。ただし、南典を伯叔父とする説もある。

百済王郎虞に課せられたもの

英明なアメミコトヒラカスワケノ大王(天智天皇・これ以降「天智天皇」表記)が近江国大津宮で崩御すると、王位(皇位)には天智天皇の皇太子・大友皇子(弘文天皇)が即いた。

しかし、これを良しとしない大海人皇子(天智天皇の弟)が挙兵し大規模な内乱(『壬申の乱』)の果てに、大海人皇子の前に敗北した大友皇子は命を絶つ。

天智天皇が確立した近江朝廷を攻め滅ぼした大海人皇子は、王位(皇位)を簒奪し自らがアマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇・これ以降「天武天皇」表記)として新たな朝廷を大和国に打ち立てる。

王位(皇位)が簒奪され令制国家として存在した近江朝廷が廃されると言う大混乱が、ようやく落ち着きを取り戻し始めた矢先の天武天皇3(674)年、百済王郎虞は、父の百済王昌成を亡くす。

ここに百済王氏は、第一世代(余禅広・百済王善光)から第二世代(百済王昌成)への家督相続が不可能となる。

このため郎虞の祖父である余禅広(百済王善光)が引き続き一族を率いると共に、百済からの亡命者たちをも束ね統率する体制が続くことになる。それは、郎虞が禅広(百済王善光)から直接、百済王氏と亡命百済人たちの運命を引き継ぐことを意味した。

その時代は、「親・百済」路線を採っていた天智天皇の時代では無く、「親・新羅」路線を採る天武天皇の時代であり、百済王家の血を継ぐ郎虞にとっては苦労を重ねた時代であったと容易に想像されるところである。

若き郎虞に課せられたものは極めて重いものであった。

百済王氏一族の家長としての百済王郎虞

百済王郎虞が正史に姿を見せるのは、「親・新羅」の首領である天武天皇が崩御し行われた大葬の際のことである。

天武天皇政権下、言わば「冬の時代」に百済王氏一族をまとめて来た余禅広(百済王善光)に代わり、郎虞が、百済王氏一族を代表して誄を述べている。

このように、天武天皇の死を契機として、百済王氏は事実上の世代交代を果たしたとも見受けられる。

持統天皇5(691)年正月、郎虞は、禅広(百済王善光)・百済王遠宝・百済王南典と共に「優」を下賜されている。

この年、上村主百済に大税(田租)が1000束下賜され、百済淳武微子に直大参が与えられたり、百済末子善信に銀20両が下賜される等、百済系帰化人に対する評価が、天武天皇時代に百済人に対して行われた苛政を悔い改めるかのように、ようやく真っ当なものへと改められている。

これら百済系帰化人への待遇改善の端緒が、百済王氏一族への「優」の下賜に置かれている点は注目されるべきところである。

このような持統天皇(天智天皇の皇女・天武天皇の皇后)に拠る百済系帰化人への待遇改善の背景には、『大津皇子事件』後に皇太子・草壁皇子が早逝した事情があった。即ち、草壁皇子が遺した珂瑠皇子への持統天皇からの皇位継承が最重要問題となっていたことがある。

つまり皇位継承を未来永劫まで存続出来る国家の屋台骨となる「律令」が必要となった時、かつて、近江朝廷で天智天皇と大友皇子を支え、『近江令』や「不改常典」を作り上げたことに代表される優秀な百済系帰化人の官人が求められようになったのである。

この方針転換の中心にいたのは、持統天皇の懐刀となっていた藤原史(藤原不比等)であると容易に推察されるが、不比等と百済王氏との直接の接点は正史からは見い出せない。

ただし、藤原史(藤原不比等)の養育に関わった田辺氏は百済系帰化人であり、この辺りに鍵があると見られる。

かくして、復権する百済系帰化人を代表する存在が、郎虞だったのである。

日本の官人としての百済王郎虞

大宝元(701)年、日本は『大宝律令』を完成させる。

百済王郎虞は、大宝3(703)年、伊予守に任じられる。

律令体制下の百済王氏は地方官に任じられることが常であったが、それは郎虞から始まっている。この背景には、百済系帰化人が持つ優秀な技術力が日本の地方開発には欠かせないものであったことが挙げられよう。

ところが、地方勤務は1年ほどで切り上げられ、郎虞は、大宝4(704)年には大学頭へと転任している。

この郎虞の人事には、当時の朝廷が律令体制の確立を目指していたものの律令を理解し運用する官人が大幅に不足している現実に直面していたことが大きく作用している。即ち、官人制度が日本よりも遥かに進んでいた百済に学ぶために官人養成機関たる大学寮の長官に郎虞が抜擢されたのである。

大学寮で、郎虞が見た当時の日本の現状は、官人が国家に仕える根幹を為す「儒学」の教育面において、唐はもちろんのこと、百済・高句麗・新羅と言った、かつての朝鮮三国にも遠く及ばないほど幼稚で低レベルな状態であった。

大学寮の学生の定員430名の内で儒学科の学生は400名であったことから、日本の教育レベルの低能さが及ぼす深刻度合が判る。

このため、大学助の藤原武智麻呂と共に大学教育の整備に奔走している。

『長官良虞王と共に陳べ請ひて、遂に碩学を招き講説せしめ』

(『古代政治社会思想』「武智麻呂伝」日本思想大系8 山岸徳平 竹内理三 家永三郎 大曾根章介 岩波書店)

まずは、教授陣の人材確保であり、それは、古代東アジアでも最高峰レベルの学識を誇った亡命百済人の学者たち、及び、学術書や仏教書等の文献を総動員出来る郎虞の仕事であったことは明確である。これら百済人の学者を起用したことに拠って、日本の大学は飛躍的に陣容を整えたのである。

日本の産業と学術の振興に関与することは、祖国を喪失した百済系帰化人にとっては、日本での生きる大きな術でもあった。

奈良時代の百済王郎虞

天智天皇の皇女である元明天皇が都を平城京へ遷都した後も百済王郎虞は朝廷に仕え続けた。

恐らく『日本書紀』の編纂事業にも、百済王家(百済王氏)が所有していた百済の国史を参考資料として提供することで大きな貢献を果たしたものと容易に想像されるところである。

葛城襲津彦に代表される倭(日本)の3世紀から4世紀頃の歴史的出来事は、その信憑性に関して百済の国史が担保となっているほどである。

奈良時代に入ってからの郎虞の官位は、正五位上、さらに従四位下へと進んでいる。しかし、奈良時代以降の郎虞の官職については不明であり、散位であったと伝えられる。

摂津職の亮に就いていたようであるが、官位等から見て、藤原京時代から奈良時代に掛けての時期であったろうと思われる。

こうして、奈良時代以降の郎虞は、さしたる履歴も残さないまま、天平9(737)年7月に死去する。

百済王郎虞とは

百済王郎虞は、倭(日本)生まれであり新世代の百済王氏である。

「親・新羅」路線の天武天皇が日本を支配した時期には辛酸を舐めることとなる。しかし、天智天皇の「親・百済」路線を継承した持統天皇の時代に、百済王氏は復権し、郎虞が百済王家(百済王氏)の「家長」となる。

なお、『続日本紀』よりも成立年代の古い『藤氏家伝』中では、「良虞王(郎虞王)」と記述されていることから、存命中の郎虞は、百済王家の一員として「王」を付けて呼ばれていた可能性が高い。これは、日本の皇族に準じるもので、当時の百済王氏がどう扱われていたかが窺えて興味深い。

復権してからの郎虞にとっての経歴で白眉は大学頭への就任である。

郎虞は、大学制度を整備したことで日本の官人養成に多大の功績を残している。即ち、俊英の実務官人を育成することで律令国家として産声を上げたばかりの古代日本の土台を支えたのである。

その後、郎虞は、摂津職の摂津亮と言う摂津国の次官に就いている。この任官については、郎虞が望んだものであった可能性も考えられる。

その可能性の根拠は、亡命百済人が、当初、生活拠点としていたのは、摂津国百済郡であったからである。ところが、その同国百済郡は狭隘な地域であり、新たな拠点を必要としていたものと思われる。

こうして選び出された新たな拠点は、古代から朝鮮半島より多くの渡来人が倭(日本)に定住して来た北摂地方にある河内国茨田郡である。

河内国茨田郡
(河内国茨田郡)

同地は、天武天皇が支配した忌まわしく禍々しい大和国から距離を置いた土地に位置する。しかも、ヤマト(大和・奈良)に対する叛乱である『武埴安彦命の乱』では、叛乱軍に関係したと見られる地でもあった。

さらに、北を見れば、北摂以上に渡来人が住み着き大和国に匹敵、いや、大和国以上とも言えるほど開けていた山背国(山城国)がある。様々な点において、百済王氏のアイデンティティを守るには絶好のロケーションと言える土地だったのであろう。

こうして、郎虞は、摂津国百済郡から河内国茨田郡への亡命百済人の生活拠点の移転事業に関わっていたのではないかと推測される。

そして、晩年の郎虞は散位であったことに象徴されるように、中央(平城京)での政務にほとんど関わっていなかった。それは、郎虞が後半生において、茨田郡での亡命百済人たちの新たな生活拠点の整備のために残された人生の全てを捧げて尽力していたからではないかと思われる。

その郎虞と対照的なのが、弟の百済王南典である。南典は百済王氏としては初の公卿にまで進んでいる。

恐らく、それは、兄弟で一族内の受け持つ方向性を分散したからではないだろうか。南典は、百済王氏が日本の律令体制の中で「官人」として生き抜くための道筋を付けたのである。

そして、郎虞は、亡命百済人たちが日本で安心して暮らして行けるように、その生涯を捧げたのではないだろうか。

それこそが、百済王家の血を引く百済王氏の嫡流たる百済王郎虞の最大の仕事となった。

百済王郎虞の系図

《関係略図》

高朱蒙━温祚王━(略)━義慈王┳豊璋
               ┗百済王善光━昌成━郎虞━敬福

百済王郎虞の年表

年表
  • 斎明天皇7(661)年
     
    誕生。
  • 天武天皇3(674)年
    正月10日
    父・百済王昌成、死去。
  • 朱鳥元(686)年
    9月29日
    百済王善光に代わり誄する。
  • 持統天皇5(691)年
    正月1日
    「優」を下賜される。
  • 大宝3(703)年
    8月2日
    伊予守。
  • 和銅8(715)年
    正月10日
    正五位上。
  • 霊亀3(717)年
    正月4日
    従四位下。
  •  
    10月12日
    益封。
  • 天平9(737)年
    7月17日
    死去。