吾田媛【夫を大王(天皇)に!愛する夫のために叛乱戦争の将となった女性】

吾田媛について

【名前】 吾田媛
【読み】 あたひめ
【生年】 不明
【没年】 崇神天皇10(紀元前88)年
【時代】 孝元天皇朝~崇神天皇朝
【父】 不明
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 武埴安彦命(孝元天皇皇子)
【子】 不明
【氏】 不明
【姓】 不明

吾田媛の生涯

吾田媛の生い立ち

吾田媛の出自については不明である。

その吾田媛は、時期は未詳ながら、ヤマト王権のオオヤマトネコヒコクニクルノ大王(孝元天皇)の皇子である武埴安彦命の妻となる。

吾田媛は、ある時、密かに大和にやって来て、香具山の土を、頒巾の裾に包む込むと、

『是、倭国の物実』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

※旧漢字は当用漢字に改めた

と呪言を唱え帰った。

発覚する吾田媛の目論み

崇神天皇10(紀元前88)年、ミマキイリビコイニエノ大王(崇神天皇・これ以降「崇神天皇」表記)は、ヤマト王権軍(朝廷軍)を各地に派遣することを決定。

この崇神天皇の勅命を受けた大彦命が、北陸道の平定に向かう途中の和珥坂で、不思議な歌を歌う少女と遭遇したことから事態は急変する。

少女が歌う歌とは、

『御間城入彦はや 己が命を 弑せむと 竊まく知らに 姫遊すも』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

であって、その内容は、崇神天皇の暗殺を暗示するものであった。このため大彦命は、引き返して、崇神天皇に報告した。

この報告を聞いた天皇の叔母の倭迹迹日百襲姫命は、武埴安彦の謀反を示唆する歌に違いないと解説し、先の吾田媛の言動を証拠とした。

この辺りは『日本書紀』と『古事記』では大きく違っている。

『古事記』では、大彦命が不思議な歌を歌う少女と遭遇したのは、大和国の和珥坂では無く、山代国(山背国・山城国)の幣羅坂(比定地不明)とされる。少女の容姿については、

『腰裳服たる少女』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』 倉野憲司 武田祐二 校注 岩波書店)

と具体的な描写が為されている。その少女が歌う内容は、

『御眞木入日子はや 御眞木入日子はや 己が緒を 盗み殺せむと 後つ戸よ い行違ひ 前つ戸よ い行き違ひ 窺はく 知らにと 御眞木入日子はや』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』 倉野憲司 武田祐二 校注 岩波書店)

と言うもので、この歌についての報告を受けた崇神天皇が自らの危機を察知したことになっている。

崇神天皇は、群臣を集めて対策を練る。

叛乱軍を指揮し戦う吾田媛

ヤマト王権は史上初めて叛乱軍に備えた。

一方、吾田媛と武埴安彦命は、そのようなヤマト王権(大和朝廷)側の動きを全く察知していなかった。

吾田媛と武埴安彦命は、自軍を二個軍団に分け、武埴安彦命は軍勢を率いて山背国方面から、そして、吾田媛も自ら甲冑を身にまとい軍勢を指揮し大坂(葛城郡二上山麓)方面から、それぞれ大和盆地に軍事行動を開始した。

武埴安彦命の乱
(吾田媛と武埴安彦命のヤマト王権への攻撃計画)

武埴安彦命軍団が南下し瑞籬宮への圧力を加えることで、応戦に出たヤマト王権軍を北上させ宮周辺の守備が手薄になったところを、吾田媛軍団が大坂からの短い距離を詰め一気に瑞籬宮を制圧し、崇神天皇を殺害する計画であったものと思われる。

「叛乱を起こし天皇を弑逆する」と言う日本史上最初の大逆は、吾田媛と言う一人の女性の手に委ねられたのである。

戦況であるが、『古事記』では武埴安彦命軍団に対して、大和盆地への侵入を阻止すべくヤマト王権軍が積極的に打って出て、木津川で激戦になったと伝える。この開戦劈頭、ヤマト王権軍の日子国夫玖命(彦国葺『日本書紀』・和珥氏の祖)が放った矢が武埴安彦命に命中し武埴安彦命は戦死する。このため、武埴安彦命軍団は、いきなり統率を失うこととなる。

武埴安彦命の兵たちは、ヤマト王権軍の攻撃の前に散り散りになって木津川から淀川畔まで追い詰められ、多くの兵が恐怖の余り履いていた褌の中に大便を漏らしたほどであるとして、その地について、

『其地を屎褌と謂ふ。今は久須婆と謂ふ』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』 倉野憲司 武田祐二 校注 岩波書店)

としている。

枚方市樟葉
(枚方市樟葉)

「屎褌(くそばかま)」とは現在の大阪府枚方市樟葉のことである。明らかな穢名説話であり、恐らく、この北摂の地が武埴安彦命の外戚・河内青玉繁の拠点であったと思われる。

一方、吾田媛軍団の前には、崇神天皇が叛乱軍迎撃のために差し向けた五十狭芹彦命(別説では吉備津彦命とも)の指揮するヤマト王権軍が立ちはだかった。

突如として予想もしないところで、ヤマト王権軍の迎撃を受けることにあった吾田媛であったが、怯むことなくヤマト王権軍を相手に正面から堂々と攻撃を仕掛ける。こうして二上山北麓は両軍入り乱れての大激戦地と化した。

吾田媛は勇猛果敢にヤマト王権軍に対して挑んだものの、地の利を充分に生かした五十狭芹彦命の巧みな戦術の前に敗れる。

吾田媛の最期について『日本書紀』は、

『吾田媛を殺して、悉に其の軍卒を斬りつ』

(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と短く記すのみである。かくして、吾田媛は壮烈な戦死を遂げ、吾田媛が指揮した軍団も殲滅され、夫である武埴安彦命との大和での再会は叶わなかった。

こうして、吾田媛が夫・武埴安彦命と共に起こした叛乱は失敗に終わったのである。

吾田媛とは

吾田媛については、『日本書紀』が、その名を伝えるのみで詳細は判らない。

しかし、吾田媛について一切の記録を残していない『古事記』中から、実は吾田媛の人物像が窺える。

それは、崇神天皇が、異母兄の武埴安彦命が自分の命を狙っていると察した時に発した言葉である。

『山代国に在る我が庶兄建波邇安王』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』 倉野憲司 武田祐二 校注 岩波書店)

※旧漢字は当用漢字に改めた

この言葉から招請婚(入り婿婚・通い婚)が常の古代にあって、武埴安彦命が山背国を拠点にしていたと言うことが判明する。即ち、吾田媛が山背国の女性であったことを強く示唆している。

武埴安彦命が北摂地方の兵を率いていたのは、武埴安彦命の外戚である河内青玉繁が河内国茨田郡地方の有力豪族であったことを意味すると解される。

そのことから、河内国茨田郡に近い山背国内に地盤をとし、河内青玉繁と同盟関係にある豪族の娘が吾田媛であったのではないかと考えられるところである。ヤマト王権は、北摂から山背国にかけての地域の豪族との融合を目論んで、吾田媛と武埴安彦命との政略婚姻を行ったのではないか。

『古事記』には、『武埴安彦命の乱』に関する地名説話として、唐突に、

『波布理曾能』

(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』 倉野憲司 武田祐二 校注 岩波書店)

と言う地名が出て来る。これは、山背国相楽郡祝園を指すもので、この辺りが、吾田媛所縁の地であるのかも知れない。

そして、『日本書紀』中の僅かに伝えられる吾田媛に関する記述からは、吾田媛は「呪術」を行う優れた能力を有していたことが判る。

その吾田媛と言う名の響きも、農耕的・土着的である。

このように、吾田媛は、呪術や農耕祭祀を執り行う立場の女性であったと推察されることから、吾田媛自身が出身豪族の中で女性シャーマン(巫女)として高い地位にあった可能性が高く、あるいは出身豪族では「女王」とも呼ばれる立場にあったのかも知れない。

事実、吾田媛が、叛乱軍の軍勢を指揮し得たのは、戦術面に優れた指揮官と言う理由よりも、兵士たちの間でのカリスマ性が可能ならしめたものであるに違いない。それは江戸時代の『島原の乱』における天草四郎の姿と同じである。

その吾田媛は、夫の武埴安彦命と共に王位(皇位)を狙い崇神天皇の殺害を計画して挙兵した。

過去に手研耳命が皇位を狙って起こした謀略事件はあったが、この吾田媛が加担した『武埴安彦命の乱』は、ヤマト王権の王位(皇位)を巡る日本史上最初の武力蜂起、即ち、戦争であった。

この叛乱軍の大和への侵攻ルートは、後の『壬申の乱』の際の近江朝廷軍(大友皇子軍)の大和国への進軍ルートと、ほぼ重なっていることは大いに注目される。つまり、大和国の大海人皇子軍に対して攻撃を仕掛けた近江朝廷軍(大友皇子軍)が叛乱軍であるかのようなイメージを、潜在的に持たせるものである。

さて、この叛乱軍の指揮官の一人が、吾田媛と言う女性であったことは、特筆すべきことである。言い換えれば、日本における「女性将軍」の先駆けは、この吾田媛なのである(なお、『古事記』中の『武埴安彦命の乱』に関する記述に、吾田媛の名は出て来ない)。

その吾田媛が謀反の呪詛を行ったことを見破ったのが、ヤマト王権の倭迹迹日百襲姫命である。

この『武埴安彦命の乱』と言う日本史上最初の王位(皇位)を巡る戦争は、女性シャーマン(巫女)同士の戦いと言う構図も持ち合わせていることは注目される。

ただ、吾田媛が、夫の武埴安彦命と共に叛乱を起こした要因は不明である。

しかし、そこには、ヤマト王権内部で進む世代交代に対する武埴安彦命の不安や、ヤマト王権に組み込まれ一族が隷属化して行くことに対する吾田媛の強い憤りが、この夫婦を叛乱へと突き動かしたものと思われる。

吾田媛と武埴安彦命が叛乱を決意した時、二人の愛の絆は、固く揺ぎ無いものとなった。かくして大和での再会を約束して出陣したのである。

恐らく吾田媛は、出身豪族の男性たちを兵として徴兵した。恐らくは、山背国の兵であろう。武埴安彦命の外戚が支配する北摂地域を進み大和盆地の西部方面に展開したと思われる。

徴兵された男性たちも、妻や子、そして一族の誇りを護るため、全幅の信頼を寄せる吾田媛に迷うこと無く付き従った。

宗教的結び付きを持った集団が強いことは、室町時代から安土桃山時代にかけての一向一揆衆が実証している通りで、吾田媛の軍勢も死に物狂いの戦闘を繰り広げた末に、戦死した吾田媛と共に遂には壊滅する。

ただ、もしかすると、吾田媛は、武埴安彦命を愛し肉体的に結ばれたことで、その身に備えていた呪術的な能力を喪失したのかも知れない。

だからこそ、ヤマト王権側が迎撃態勢を整えていることを、呪術に秀でた吾田媛が予知出来なかったのであろう。

興味深いことに、『日本書紀』は、吾田媛が敗死した記事に続けるように、倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻となり、その正体を知ったことで、自ら命を絶った記事を載せている。このことは、やはり、吾田媛と倭迹迹日百襲姫命は「対」の存在であった可能性が高いように思われる。

こうして見た場合、吾田媛と倭迹迹日百襲姫命が『日本書紀』に「対」で記されることで、かつて、倭(日本)には女性シャーマンを頂点としたクニ(例・邪馬台国)が各地に存在していたことを暗示しているようである。

吾田媛と武埴安彦命が起こした日本史上最初の「王位(皇位)を狙った王権(朝廷)に対する叛乱戦争」は、一組の夫婦の愛の散華でもあった。

『武埴安彦命の乱』の関しては、吾田媛の存在を記したことで『日本書紀』の方が、『古事記』よりも遥かに物語性を有した記述となっている。

吾田媛の系図

《吾田媛系図》

                伊香色謎命
                 │
                 ┝━━━━━━━━崇神天皇
                 │
                 └─────────┐
                           │
        鬱色謎命               │
         │                 │
         ┝━━━━━┳大彦命        │
         │     ┣開化天皇       │
         │     ┃ │         │
         │     ┃ └─────────┘
         │     ┃
         │     ┣倭迹迹日百襲姫
         │     ┗少彦男心命
         │
 孝霊天皇    │
  │      │
  ┝━━━━━孝元天皇
  │      │
 細媛命     │
         │
         ┝━━━━━━武埴安彦命
         │       │
 河内青玉繁━━埴安媛      │
                 │
                吾田媛

吾田媛の年表

年表
  • 崇神天皇10(紀元前88)年
    9月27日
    『武埴安彦命の乱』により戦死。