秦大津父【古代随一の商売人は能楽「金春流」の遠祖!】

秦大津父について

【名前】 秦大津父
【読み】 はたのおおつち(はだのおおつち)
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 飛鳥時代
【官職】 大蔵司(『日本書紀』)・大蔵掾(同)・大蔵卿(『先代舊事本紀』)
【父】 不明
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 秦広隆
【氏】 秦氏
【姓】

秦大津父の生涯

秦大津父の生い立ち

秦大津父の誕生年は不明である。

大津父の父母についても一切の史料が無い。

また、出生地も明らかでは無い。

このことから朝鮮半島南部からの渡来移民集団の何世代目に当たる人物であるのかも判らない。

倭と朝鮮半島諸国
(倭と朝鮮半島諸国)

従って、大津父が、幼少期や青年期を、どこでどう過ごしたのかも全く不明である。

秦大津父と欽明天皇

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)が子供だった時期に、とある夢を見た。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、如何なる理由からか『日本書紀』にも『古事記』にも諱が記述されておらず、幼少期の実名が不明である。このことから、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)を、伽耶(所謂「任那」)出身の韓人とする説もある。

夢の中に出て来た人物から

『天皇、秦大津父といふ者を寵愛みたまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と告げられた。

そこで、アメクニオシハラキヒロニワ王子は、この「秦大津父」なる人物を探したところ、

『山背國の紀郡の深草里』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

で見つかった。

山背国紀伊郡
(山背国紀伊郡)

大津父は、

『伊勢に向りて、商價して來還るとき』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

の出来事を語る。

伊勢国
(伊勢国)

この時、二匹の狼が争い血まみれになっているのを見て、

『汝は是貴き神にして、麁き行を樂む。儻し獵士に逢はば、禽られむこと尤も速けむ』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と忠告し、争いを止めさせ、二匹の狼の血を洗い落としてやり、猟師に狙われることの無いように、その二匹を逃がしてやったと語った。

秦大津父_二匹の狼

これを聞いたアメクニオシハラキヒロニワ王子は、大津父を、

『近く侍へしめて、優く寵みたまふ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

ことにした。

こうして、大津父を近くに置いた結果、アメクニオシハラキヒロニワ王子は、

『大きに饒富』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

を得たと言う。即ち、多大な財力を持つに至ったのである。

アメクニオシハラキヒロニワ王子は、大王(天皇)に即いた後に、大津父を、

『大蔵省に拝けたまふ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

ことにした。

また、

『拝大蔵卿』

(『先代舊事本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

とも言われる。

しかしながら、古墳時代から飛鳥時代の初期にかけて、大蔵省等が存在するはずが無い(『日本書紀』には「大蔵省」を「おおくらのつかさ」としている)。

このため、ヤマト王権、もしくは、大王家(皇室・天皇家)が持つ資産の出納係に任じられたと見るのが妥当とされる。

これ以降、秦大津父の名は、『日本書紀』には出て来なくなる。

なお、欽明天皇元(540)年に、

『秦人の戸の數、總べて七千五十三戸。大蔵掾を以て、秦伴造としたまふ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と、大蔵掾にある秦氏の人物が、秦部を統括するようにしたとする。

この中の「大蔵掾」は、大津父である可能性は高いが、当時、このような令制官のような官職は存在し得ない。

それよりも、問題なのは「秦伴造」の部分である。

果たして、秦大津父が、秦氏一族の中において、秦部を統括出来得るような存在の人物だったのかどうかと言う点においては甚だ疑問が残る。

秦大津父のまとめ

秦大津父は、日本史上、極めて重要な存在の人物である。

それは、大津父が二匹の狼の争いを止めさせたことに大きな所以がある。

即ち、

『二匹の狼は他ならぬ宣化・欽明の二天皇であり、その対立抗争によって、王権じたいが崩壊し、やがては漁士となって現れる第三勢力に、いわば漁夫の利を得さしめることになるのである。要するに大和朝廷の危機を訴えたもの』

(『日本の古代文化 日本歴史叢書』林家辰三郎 岩波書店)

と解釈されるからである。

男系王統(男系皇統)が断絶した大王家(皇室・天皇家)は、越からオオド王(男大迹王)をタシラカ王女(手白香皇女)の「婿」として迎えることで、ヤマト王権の体裁を取り繕った。

しかし、このオオド王(男大迹王)、即ち、オオド大王(継体天皇)の後継者は、ヤマト王権とは一切何の縁も所縁も無いヒロクニオシタケカナヒ大王(安閑天皇)・タケオヒロクニオシタテ大王(宣化天皇)が相次ぎ大王(天皇)に即いていた。

《継体天皇の皇子たち》

尾張連草香━目子媛
       │
       ┝━━━┳安閑天皇
       │   ┗宣化天皇
       │
彦主人王━━継体天皇
       │
       ┝━━━━欽明天皇
       │
仁賢天皇━━手白香皇女

これがために、ヒロクニオシタケカナヒ大王(安閑天皇)・タケオヒロクニオシタテ大王(宣化天皇)は、女系大王(女系天皇)としてヤマト王権の王位(皇位)を継承するアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)と対立したとするものである。

ただ、この二朝並立論は、状況証拠から推し量ると史実に近しいとも思われる有力な説ではあるが、あくまでも仮説の域を出ない。

もしかすると、伽耶(所謂「任那」)内で何らかの対立が生じ、その隙を突く形で新羅や百済からの侵略を受けたために、倭(日本)への逃亡を余儀なくされた朝鮮半島南部からの渡来移民集団がおり、それらの渡来移民集団を大津父が配下に置いていたことを指す比喩であるとも受け取れる。

また、倭(日本)土俗の神道と東アジアにおける最新の文明文化である仏教(山背国へは既に4世紀までに仏教が伝来していた可能性が高い)との受容を巡る対立が、新興宗教の勃興を呼び込む危険性を示唆したとも取れる。

いずれにしても、大津父は、自らが見た夢を語り、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)に取り立てられることとなった。

ただ、実際は、大津父が、伊勢で商売を行っていたことが、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)に近侍する要因だったものと考えられる。

大津父の商売の形態は不明である。

「大津」と言うのは「大きな港」を指す言葉であり、その大津の「父」と言う名前からは、港湾を支配下に置いて交易を行っていた様子が連想されるが、その実態は判らない。

しかし、大津父が山背国紀伊郡深草を拠点にしていたと言うのが大きなヒントとなる。

それは、巨椋池の存在である。

巨椋池は、昭和時代に行われた干拓に拠り消滅し現存していない。

近畿地方で内陸にある淡水の池(実質的には「湖」の規模があった)としては琵琶湖に次ぐ大きさを誇る巨椋池は、淀川水系・木津川水系等と結ばれた水運の要衝だった。

恐らく、巨椋池、もしくは、巨椋池周辺の河川に整備された大規模な港湾を築き、大小の船舶を駆使した水運で交易を行う渡来移民集団の元締めが大津父だったのだろう。

こうした交易を通して、大津父が莫大な資産を形成していたことは容易に想像される。

恐らく、大津父の資産と交易能力を得るために、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は、大津父を取り立てたものと考えられる。

実際、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)は

『大きに饒富』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

を得ている。

また、山背国紀伊郡深草と言う地名も、大津父の登場と共に初めて登場した地名である。

当時の深草は、

『戸数七千五十で、百四十一郷にひろがっていた』

(『古代朝鮮と日本文化 講談社学術文庫754』金達寿 講談社)

ほどに開けた肥沃な土地であった。

元々、深草と言う土地が、

『弥生時代の集落として学史上、著名』

(「深草遺跡」『京都市内遺跡試掘調査報告 令和元年度』京都市文化市民局)

であるように、山背国内において弥生時代の早い時期から稲作が行われた豊かな土地だったことで知られ、その土地に、渡来移民集団が住み着いていた。

稲作

この深草は、後に、山背大兄王との関係性が見られるように、大津父との接触を期に、ヤマト王権が直接支配下に置いて行ったものと考えられる。

所謂、屯倉(ミヤケ)の設置である。

このことから、先の

『大きに饒富』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言うのは、大津父の持つ権益を、大王家(皇室・天皇家)が根こそぎ奪い取ったものであったのかも知れない。

実際、屯倉については、

『記録によれば、罪を得たる貴族が罪を贖ふために領地を獻ずる場合が最も多く、また朝廷の意志によつて貴族が領地を獻上させられる場合もある』

(『日本古代文化』和辻哲郎 岩波書店)

もので、大王家(皇室・天皇家)の資産が潤沢になったとされて以降、大津父の動静が見えなくなるのは象徴的と言えよう。

さて、大津父は、

『天皇ノ寵愛を得て、秦伴造となる。造姓を稱するは、これよりなるべし』

(『姓氏家系大辭典』太田亮 国立国会図書館デジタルコレクション)

とあるように、伴造として「造」姓を与えられたとされる。

この背景には、

『欽明朝の性格は、明らかに朝鮮侵略に反対し、朝鮮との友好関係を樹立するところに重要な政策をもっており、その政策を推進することによって日本の文化的発展を意図していた』

(『日本の古代文化 日本歴史叢書』林家辰三郎 岩波書店)

ことがあったとする見方がある。

即ち、渡来移民の雄族である秦氏を、伴造として、ヤマト王権の組織に組み込んだとするのである。

だが、ヤマト王権において重きを為したはずの大津父ではあるはずなのに、秦氏の系譜に、その名は見えない。

秦氏本宗家(太秦氏)は、山背国葛野郡太秦が本拠地であり、同国紀伊郡深草の大津父と、秦氏本宗家(太秦氏)の始祖である秦酒公との関係も不明である。

このことから、大津父は、酒公の系譜からは離れた別系統の出自と見られている。

そもそも、朝鮮半島南部からの渡来移民集団(渡来技能者集団)を「秦氏」として一括りとしたのならば、酒公と大津父との間に血縁が無くても不思議では無い。

そう考えると、大津父は、自らが掌握する職能集団を秦部として、それらの職能集団のみを統括したとすると矛盾は無いように思われる。

なお、能楽の金春家に関する系図中では、金春家の始祖とする秦河勝は、大津父の孫とされている。

即ち、金春家の遠祖は秦大津父と言うことになる。

しかしながら、大津父と河勝を祖父と孫と言う血縁関係に置く系譜は、他の史料には見られない。

秦大津父の系図

《秦大津父系図》

孝徳王━孝武王━功満王━融通王(弓月君)━(不明)━┓
                          ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗秦大津父━広隆━河勝━万里━猛田━(略)━┓
                      ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗勝清┳弥次郎元清━━┳氏信━(略)━━━宝生権七
   ┃       ┗金春四郎次郎
   ┗今春三郎豊氏

(系図は諸説ある)

秦大津父の墓所

不明。

秦大津父に所縁の土地である山背国紀伊郡深草周辺にあるものと想像される。

黄金塚1号墳や黄金塚2号墳が候補に挙げられる。

これらの古墳の規模は、

『黄金塚1号墳(前方後円墳・全壊・推定全長100m),南東に近接して同2号墳(前方後円墳・半壊・推定全長120m)』

(『京都府埋蔵文化財情報 第3号』財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター)

であって、いずれも100メートル規模の山背国に築かれた前方後円墳としては、大きな規模の古墳である。

黄金塚2号墳
(黄金塚2号墳)

黄金塚1号墳は、完全に破壊され跡形も無くなっている。

黄金塚2号墳も、前方部が完全に破壊され、後円部の頂上にある五輪塔が伊予親王墓(巨幡墓)として治定され存在しているので、かろうじて残されている。

黄金塚2号墳への行き方

鉄道

京都駅から
8番・9番・10番乗り場 JR奈良線「六地蔵駅」下車15分

京都駅から「東福寺駅」→「稲荷駅」→「JR藤森駅」→「桃山駅」の次である。

京都駅から
京都市営地下鉄東西線「六地蔵駅」下車20分

烏丸線「京都駅」から「烏丸御池駅」で東西線に乗り換えて「京都市役所前駅」→「三条京阪駅」→「東山駅」→「蹴上駅」→「御陵駅」→「山科駅」→「東野駅」→「椥辻駅」→「小野駅」→「醍醐駅」→「石田駅」の次である。

祇園四条駅から
京阪電車宇治線「六地蔵駅」下車20分

京阪本線「中書島駅」で宇治線に乗り換えて「観月橋駅」→「桃山南口駅」の次である。

バス

京阪バス「JR六地蔵北口」下車15分

タクシー|レンタカー

公共交通機関の利用が優先されるが、本数が少ない場合や交通の便の悪い場合、時間の都合がつかない場合、また、最近では京都市バスへの観光客の乗車増加に伴い住民の日常生活が破壊される問題(所謂「観光公害」)が深刻になっているため、タクシーやレンタカーもオススメ。


京都市伏見区

山背国紀伊郡深草は現在の京都市伏見区に当たる。

伏見区は、女優・本田望結さんの出生地としても知られる。

秦大津父の年表

年表
  • 欽明天皇元(540)年
    8月
    大蔵掾。