目次
紫微中台について
【表記】 | 紫微中台 |
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【読み】 | しびちゅうだい |
【時代】 | 奈良時代 |
紫微中台とは
藤原光明子(藤原不比等の娘)の立后に際し設置された令外官「皇后宮職」を母体として、唐風に呼び改めた令外官。
光明子は、娘である孝謙天皇が即位したことで、皇后(光明皇后)から皇太后(光明皇太后)へと立場が変わる。
それに合わせる形で、光明子のために設置されていた令外官である「皇后宮職」も「皇太后宮職」と呼称が変更されるはずであった。
しかし、「皇太后宮職」とはせずに「紫微中台」としたのである。
従って、光明皇太后に奉仕するための「家政機関」と言うのが紫微中台における本来の職分であったと言える。
光明皇太后・孝謙天皇と藤原仲麻呂の関係
紫微中台は、藤原仲麻呂が光明皇太后(藤原光明子)を後ろ盾として作り出した令外官である。
それは、叔母(藤原光明子)と甥(藤原仲麻呂)と言う強い血縁関係から成り立つものでもあった。
さらに、紫微中台の性格を考える上で、紫微中台が設置されたのは、女帝である孝謙天皇が即位した直後と言うことが重要な点となる。
つまり、
『即位したばかりの独身の孝謙女帝と仲麻呂のあいだは、政治的結合以外のただならない関係』
(『女帝と道鏡 中公新書192』北山茂夫 中央公論社)
にあったことが、この令外官の発展に繋がる点を考慮する必要がある。
《藤原光明子・孝謙天皇と藤原仲麻呂の関係》 安倍貞媛 ┃ ┣━━━━┳豊成 ┃ ┗仲麻呂 ┃ ┃ 藤原不比等┳武智麻呂 ┃ ┣房前━━━━━宇比良古 ┣宇合 ┣麻呂 ┣光明子 ┃ ┃ ┃ ┗━━━━━━┓ ┃ ┃ ┗宮子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━孝謙天皇 ┃ ┃ ┣━━━━━聖武天皇 ┃ 文武天皇
(紫微中台が権勢を誇った平城宮)
紫微中台の意味
「紫微」の名称は、中務省の唐名とされる中書省が唐代に紫微省へと改名されたことに因むもの。
これは、皇后宮職がモデルとする中宮職は、中務省隷下の官司であることに准じる名称とも考えられる。
「中台」の名称は、太政官の唐名とされる尚書省が唐代に中台へと改名されたことに因むもの。
隋唐の時代には、中書省が詔勅を起草(立法)し、尚書省が詔勅を施行する(行政)と言う帝制が確立しており、令制外に立脚する紫微中台の性格を考える上で極めて重要な職名であることが判る。
天平宝字2(758)年には、さらに「坤宮官」と改称された。
紫微中台と皇后宮職の四等官名比較
- 【長官】
令(後に内相) - 【次官】
弼(大弼・少弼) - 【判官】
忠(大忠・少忠) - 【主典】
疏(大疏・少疏)
- 【長官】
大夫 - 【次官】
亮 - 【判官】
進 - 【主典】
属
紫微中台の成立
天平勝宝元(749)年7月、孝謙天皇が即位すると、翌8月、藤原仲麻呂が「紫微令」に就任する。
『大納言正三位藤原朝臣仲麻呂爲兼紫微令』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
大納言との兼任であった。
発足時の陣容は以下の通りである。
【四等官名】 | 【紫微中台】 |
---|---|
【令】 | 藤原仲麻呂(正三位大納言) |
【弼】 | 大弼:大伴兄麻呂(正四位下参議)・石川年足(従四位上式部卿) 少弼:百済王孝忠(従四位下)・巨勢堺麻呂(従四位下式部大輔)・高麗福信(従四位下中衛少将) |
【忠】 | 大忠:阿倍虫麻呂(正五位上)・佐伯毛人(正五位下伊予守)・賀茂角足(正五位下左兵衛率)・多治比土作(従五位下) 少忠:出雲屋麻呂(外従五位上)・中臣張弓(外従五位下衛門員外佐)・吉田兄人・葛木戸主 |
【主典】 | 大疏:不明 少疏:不明 |
孝謙天皇が即位したことに拠り、孝謙天皇の生母である藤原光明子が皇后から皇太后となったことで皇后宮職を皇太后宮職と改め、それに伴い唐風名称「紫微中台」にしたものと周囲は認識したと思われる。
紫微中台と太政官の官位相当比較
紫微中台の実態は、光明皇太后(藤原光明子)の家政を取り仕切る役所とは言い難いものであって、官位相当は太政官に匹敵するほどの高位であった。
- 【長官】
令(正三位) - 【次官】
大弼(正四位下)・少弼(従四位下) - 【判官】
大忠(正五位下)・少忠(従五位下) - 【主典】
大疏(従六位上)・少疏(正七位上)
- 【長官】
太政大臣(正一位・従一位)・左大臣(正二位・従二位)・右大臣(正二位・従二位)・内大臣(正二位・従二位)・知太政官事 - 【次官】
大納言(正三位)・中納言(従三位)・参議 - 【判官】
左大弁(従四位上)・左中弁(正五位上)・左少弁(正五位下)・右大弁(従四位上)・右中弁(正五位上)・右少弁(正五位下)・少納言(従五位下) - 【主典】
左大史(正六位上)・左少史(正七位上)・右大史(正六位上)・右少史(正七位上)・大外記(正七位上)・少外記(従七位上)
紫微中台の次官は、八省の長官クラスである。
これをしても紫微中台は、実質的には太政官と等しい官司であった。
その上、天皇大権に拠って成立している官司のため、あらゆる「令」の制限制約を受けない立場にあり、奈良時代を通して最強の官司であったと言える。
紫微中台の強権化
天平宝字元(757)年5月、藤原仲麻呂が「紫微内相」に就任する。
『大納言従二位藤原朝臣仲麻呂爲兼紫微内相』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
これは紫微中台が新たに軍事権もその職務の管轄に収め、「紫微令」の称号を「紫微内相」と改称したものである。
【四等官名】 | 【紫微中台】 |
---|---|
【内相】 | 藤原仲麻呂(従二位大納言) |
【弼】 | 大弼:大伴兄麻呂・石川年足(従三位神祇伯兼兵部卿)・大倭小東人(正五位上) 少弼:巨勢堺麻呂(従四位上下総守)・百済王孝忠・高麗福信(正四位下) |
【忠】 | 大忠:阿倍虫麻呂・佐伯毛人(従四位下)・賀茂角足(正五位上遠江守)・多治比土作(従五位上) 少忠:出雲屋麻呂・中臣張弓・吉田兄人・葛木戸主(正五位下)・日置真卯 |
【主典】 | 大疏:不明 少疏:不明 |
事実上の大臣「紫微内相」
紫微内相は、内外の軍事権を管掌した。
『中央と地方の全軍事力を一手に握ったのである』
(『女帝と道鏡 中公新書192』北山茂夫 中央公論社)
さらに、紫微内相の位階・俸禄等は、左右大臣に准じると規定された。
『詔曰。朕覧周禮。將相殊道。政有文武。理宜然。是以。新令之外。紫微内相一人。令掌内外諸兵事。其官位。祿賜。職分。雑物者。皆准大臣』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
本来、皇太后宮職(皇后宮職)長官と同格であったはずの紫微中台長官は、ここに一気に大臣級の官職となったのである。
仲麻呂の政敵であった橘諸兄は、天平勝宝8(756)歳に不敬を働いたために左大臣を辞し、翌天平宝字元(757)年正月に死去していた。
同年4月に、仲麻呂の同母兄であると同時に仲麻呂にとっては目の上のコブであった藤原豊成は右大臣に就いていたが、仲麻呂は、豊成に並んだ、あるいは追い越したのである。
実際のところは、軍事権を一手に掌握した仲麻呂の方が豊成よりも権力は大きかったと言える。
紫微中台と『橘奈良麻呂の乱』
藤原仲麻呂が軍事の全権を掌握したことに、危機感を持った者たちが、仲麻呂の殺害と孝謙天皇の廃位を企図したクーデターを計画。
しかし、事前にクーデター計画は漏れ、参加者には厳罰が加えられる。
このクーデター未遂計画が『橘奈良麻呂の乱』であるが、この計画に、紫微中台から賀茂角足が積極的に参加していた。
角足は、他の参加者と共に捕縛され拷問の果てに命を落としている。
『黄文。道祖。大伴古麻呂。多治比犢養。小野東人。賀茂角足等。並杖下死』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
紫微中台の内部からクーデター計画への参加者が出ている点から、紫微中台に所属する人間でさえ、紫微中台と言う組織の特異性を危惧していたことが窺える。
紫微中台の黄昏
藤原仲麻呂の同母兄で右大臣であった藤原豊成が『橘奈良麻呂の乱』に連座する形で太宰員外帥に左遷されて失脚すると、仲麻呂が「大保(右大臣)」、さらに「大師(太政大臣)」へ進み太政官の頂点に立った。
なお、仲麻呂が「大保」に就くと、紫微内相の後任は置かれなかった。
即ち、これは、紫微中台と言う令外官が仲麻呂の権力基盤であったことを示す。
紫微中台は、唐風に「坤宮官」と改称されるが、仲麻呂が、太政官を掌握した後、紫微中台(坤宮官)の具体的な活動の詳細は不明である。
このことは、仲麻呂が、太政官に対抗するためだけに令外官である紫微中台を機能させていたことの証左であると言える。
天平宝字4(760)年6月、光明皇太后(藤原光明子)が崩御したことで、光明皇太后の「家政機関」であった紫微中台(坤宮官)は消滅する。
強権的な政治がクローズアップされる紫微中台であるが、その一方で、聖武太上天皇や光明皇太后の仏教政策(大仏建立・国分寺国分尼寺設置)を忠実に推進することで「鎮護国家」を作り出したと言う一面もある。
(東大寺毘盧遮那仏)
また、聖武太上天皇が没した後、光明皇太后の
『御遺物を身近くおかれ、お目にふれるごとに悲嘆をくりかえされるより寺の宝物として永久に保存をはかろう』
(『正倉院(一) 岩波写真文庫40』監修 和田軍一 岩波書店)
とした意志を東大寺正倉院への奉納と言う形で実現したのも紫微中台であったろう。
ただし、紫微中台が行った数々の政策は、強権的な政治の執行と共に、多くの人民に大きな負担を与え疲弊させ犠牲を強いたのも事実である。
紫微中台の後世への影響
この「紫微中台」は、藤原仲麻呂が、光明皇太后(藤原光明子)から得た血縁的な信任、及び、孝謙天皇との個人的な強い結び付きを、その背景として、政治権力を手にするために考え出された「令外官」という性格のものであった。
だが、後世に対して、天皇大権に拠って設置された「令外官」が、律令制度に優先すると言う強力な権力の萌芽となった面も否めない。
この後、平安時代に「令外官」を占めた藤原氏が専横を振るうのは、「紫微中台」における藤原仲麻呂の姿がモデルとなっているように見える。
平安時代以降には、後宮に関する令外官として「皇太后職」・「太皇太后職」が状況に応じて設置されて行くこととなる。
紫微中台の年表
- 天平勝宝元(749)年7月2日孝謙天皇、即位。
- 8月10日藤原仲麻呂、「紫微令」就任。
- 天平宝字元(757)年5月20日藤原仲麻呂、「紫微内相」就任。
- 7月2日『橘奈良麻呂の乱』。
- 天平宝字2(758)年8月25日藤原仲麻呂、「大保(右大臣)」就任。
- 天平宝字4(760)年6月7日光明皇太后、崩御。