中宮職について
【表記】 | 中宮職 |
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【読み】 | ちゅうぐうしき |
中宮職とは
中務省被管の官職(大職)。
天武天皇皇后の菟野皇后(後の持統天皇)に関連して、「中宮」と伝える記録も残されていることから、中宮職の制定を飛鳥浄御原令からとする説もある。
制定直後からねじれる中宮職
『大宝律令(大宝令)』での「中宮職」の制定は、藤原宮子のためであったとされている。そこには、宮子を実質的な皇后に立てようとした藤原不比等の思惑があったと見られる。
従って中宮職が、宮子に属したために、もともと皇后に仕えるために置かれた官職でありながら、聖武天皇皇后の藤原光明子には、令外官の皇后宮職が属することとなる。
「天皇生母=中宮職」、「皇后=皇后宮職」の関係性が出来る。
さらに、藤原仲麻呂が台頭すると、仲麻呂の権力基盤として、皇后宮職が紫微中台となったことに伴い、中宮職も中宮省に昇格される。だが『恵美押勝の乱』後、中宮職に戻される。
桓武天皇の即位に拠り、桓武天皇生母で皇太夫人となった高野新笠に中宮職が属する。このため、桓武天皇の皇后に立った藤原乙牟漏には、皇后宮職が属する。
聖武天皇の先例に倣った形となっている。
平安時代の中宮職
醍醐天皇の皇后・藤原穏子に中宮職が属する。
ここに、中宮職制定の本来の目的である「皇后に属する官職」と言う性格は、ようやく実現する。その実現は、『大宝令』で「中宮職」が制定されてから、約200年後のことであった。
藤原定子が、一条天皇の皇后となると、定子には中宮職が属した。先帝の円融上皇の后である藤原遵子には、皇后宮職が属する。
奈良時代以来の「天皇生母=中宮職」、「皇后=皇后宮職」の関係性が清算される。
しかし、藤原道長が、自分の娘の藤原彰子を一条天皇の皇后に強引に立て、一帝二后の状況を生み出す。ここに、新しい皇后の藤原彰子に中宮職が、先の皇后である藤原定子に皇后宮職が、それぞれ属した。藤原遵子には皇太后職が置かれた。
他に太皇太后職も設置されるようになる。
藤原氏の思惑と密接な関係を持った官職と言える。
近代に廃止された中宮職
明治時代になって、皇后宮職を常置したことで、中宮職は廃止される。
中宮職の組織と役職
《官制略図》 ┏神祇官 ┃ 天皇━┫ ┃ ┣太政官┳中務省━━┳中宮職 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃《役職》 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 大夫(従四位下)1名 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 亮(従五位下)1名 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 大進(従六位上)1名 ┃ ┃ ┃ 少進(従六位下)2名 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 大属(正八位下)1名 ┃ ┃ ┃ 少属(従八位上)2名 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 舎人(中宮舎人) 400人 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 使部 30名 ┃ ┃ ┃ 直丁 3名 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣左大舎人寮 ┃ ┃ ┣右大舎人寮 ┃ ┃ ┣図書寮 ┃ ┃ ┣内蔵寮 ┃ ┃ ┣縫殿寮 ┃ ┃ ┣陰陽寮 ┃ ┃ ┣画工司 ┃ ┃ ┣内薬司 ┃ ┃ ┣内礼司 ┃ ┃ ┗内匠寮 ┃ ┣式部省 ┃ ┣治部省 ┃ ┣民部省 ┃ ┣兵部省 ┃ ┣刑部省 ┃ ┣大蔵省 ┃ ┗宮内省 ┣弾正台 ┣衛門府 ┣左衛士府 ┣右衛士府 ┣左兵衛府 ┗右兵衛府
※ 官位は相当
中宮職の年表
年表
- 文武天皇元(697)年8月20日藤原宮子、文武天皇の夫人となる。
- 大宝元(701)年8月3日大宝律令、制定。
- 神亀元(724)年2月6日藤原宮子、大夫人となる。
- 3月22日藤原宮子、大御祖、皇太夫人となる。
- 天平元(729)年8月10日藤原光明子、聖武天皇皇后に立后。
- 天平勝宝元(749)年8月中宮省となる。
- 天平宝字8(764)年9月22日中宮職に戻される。
- 天応元(781)年4月15日高野新笠、光仁天皇の皇太夫人となる。
- 延暦2(783)年4月18日藤原乙牟漏、桓武天皇皇后に立后。
- 延長元(923)年4月26日藤原穏子、醍醐天皇皇后に立后。
- 正暦元(990)年10月5日藤原定子、一条天皇皇后に立后。
- 長保2(1000)年2月25日藤原彰子、一条天皇皇后に立后。
- 明治元(1868)年12月28日藤原(一条)美子、明治天皇皇后に立后。
- 明治2(1869)年皇后宮職を常置。