目次
葛城氏について
【表記】 | 葛城氏 |
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【読み】 | かずらきし・かづらきし・かつらぎし (かずらきうじ・かづらきうじ・かつらぎうじ) |
葛城氏とは
【始祖】 | 武内宿禰 |
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【属性】 | 在地系皇別豪族 |
【姓】 | 臣 |
オオヤマトネコヒコクニクル大王(孝元天皇)の流れである武内宿禰が始祖とされる。
実質的な始祖は、系図上で武内宿禰の子となる葛城襲津彦である。
葛城氏は、大和国葛城地方を本拠地とする「在地系豪族」として知られる。
比較的系図の明確なところで、オオサザキ大王(仁徳天皇)・イザホワケ大王(履中天皇)・オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の室に葛城氏出身の女性が入れられている。
また、葛城氏を名乗る氏族として、河内国の国造系神別豪族「葛城直」も存在していた。
葛城氏の本拠「大和国葛城地方」とは
(葛城氏の本拠地)
葛城氏は、奈良盆地南西の地域(二上山・葛城山・金剛山の諸山麓)を本拠地にしていたと考えられている。
古代に「葛城国」と呼ばれた地域で、律令体制下では、「葛上郡」、「忍海郡」、「葛下郡」とされた。その地政学的要件として、三輪山山麓に誕生したと見られるヤマト王権(大和朝廷)に近しいことが挙げられる。
葛城地域の範囲を巡る2説
1)葛城の北限を奈良県北葛城郡河合町として、南限を御所市までとする説。
2)葛城の北限を奈良県北葛城郡当麻町として、南限を御所市までとする説。
この2説の違いは、「馬見古墳群」を葛城に含めるか?否か?が大きな争点である。この争点は、古墳内の石棺に納められた「副葬品」の納め方の違いを根拠として、葛城地域の範囲は「葛城の北限を奈良県北葛城郡河合町として、南限を御所市までとする説」が定説と言われる。
葛城氏と馬見古墳群
葛城地域には、馬見古墳群と呼ばれる古墳群が存在し、それらは、「大塚山古墳群」、「巣山古墳群」、「築山古墳群」の大きく3派に分類される。この内、大塚山古墳群は、島の山古墳を除いてヤマト王権に関わる人々が築造したものと見られている。
巣山古墳群と築山古墳群、これに、古墳時代中期から後期の古墳が存在する南葛城の古墳が、葛城氏所縁の古墳とする説がある。
巣山古墳(前方後円墳)は、同時代(4世紀中期から後期)と見られるヤマト王権が築造した前方後円墳と遜色ない規模を誇る。そして、巣山古墳からおよそ1世紀後になって、南葛城に地域最大の「室大墓」こと室宮山古墳(前方後円墳)が築造される。
(室大墓=室宮山古墳)
その後、築山古墳群に狐井城山古墳(前方後円墳)が築かれて以降、葛城地域の古墳は小規模化して行く。これらは、葛城直の古墳と見られる。
以上のように、最盛期の葛城氏の勢力は、ヤマト王権と大和盆地を二分するほど強大なものであったと見做せることが出来る。
葛城氏と「葛城王朝(欠史八代)」
鳥越憲三郎氏が、『古事記』や『日本書紀』の記述から、カムヤマトイワレビコ大王(神武天皇)は実在したとし、その橿原宮の所在地を葛上郡柏原と解した上で、以後の八代の大王(天皇)も実在しており、その内、4人の大王(天皇)が葛城地域に宮を置いたとの記述も信用出来るとして解釈した。そして、それらは「葛城王朝」と呼称し得る時代であったと主張したものである。
しかしながら、これについては、直木孝次郎氏が、
『七世紀末から八世紀初頭にいたる『記・紀』の編纂の時期に、当時の政治・社会の状態にもとづいて造作されたと考えるのが妥当』
(講談社学術文庫928『日本神話と古代国家』直木孝次郎 講談社)
として、明確に否定している。
また、これらの時期、後に「葛城氏」と呼ばれることになる在地系住民が関わり行った具体的かつ確かな活動等は一切が不明である。
葛城襲津彦の時代
葛城襲津彦は、実質的な葛城氏の始祖と言える。
この襲津彦が主に活躍するのは、タラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)の大后(皇后)で摂政となったオキナガタラシヒメ(神功皇后)と、オキナガタラシヒメ(神功皇后)が出産したホムタ大王(応神天皇)の時代である。
神功皇后5(205)年、襲津彦は、新羅に攻め入り、草羅城を陥落させて捕虜を連れて帰る。神功皇后62(262)年、新羅の無礼に端を発し、新羅に攻め入る。しかし、新羅の美女を用いた調略に引っかかり、新羅では無く加羅を攻撃。このため、倭(日本)から派遣された木羅斤資が加羅を解放した。
応神天皇14(283)年、百済から倭(日本)に移住しようとする弓月君を新羅の攻撃から救援すべく襲津彦が渡海。弓月君たちは移住したが、襲津彦は新羅の妨害で帰国出来なかった。応神天皇16(285)年、襲津彦は救援軍の手で帰国した。
これら一連の襲津彦の朝鮮出兵は、年代的に接近する『高句麗好太王碑文』に記録される「倭の軍事行動」との関係も指摘される。
なお、襲津彦の時代に、葛城氏と言う「氏(ウジ・ウヂ)」が存在していたとは考えるのは困難とされる。
神功皇后の生母・葛城高額比売命
実在性の問題を置いて、オキナガタラシヒメ(神功皇后)の生母である葛城高額比売命は、『古事記』の記述に従えば、葛城高額比売命の父方も母方(母の菅竈由良度美は、父の多遅摩比多訶の姪)も、どちらも新羅から渡来した天之日矛の末裔とされている。
つまり、オキナガタラシヒメ(神功皇后)の母は新羅系と言うことになる。
《神功皇后系図》 開化天皇━(略)━迦邇米雷王━━息長宿禰王 ┃ ┣━━━━━━息長帯比売命(神功皇后) ┃ 天之日矛━(略)━多遅摩比多訶 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━葛城高額比売命 ┃ 菅竈由良度美
一方で、名前の葛城高額比売命の「葛城高額」に注目すると、別のことが見えて来る。
葛城地域には「高額」と言う地名が律令制以前から存在している(令制下では「葛下郡高額」)。このことから、葛城高額比売命は、新羅と葛城氏を結び付ける鍵となっているとも言える。
実際、葛城襲津彦は主に新羅との関わりにおいて正史に記述される存在なのである。
また、先の室大墓(室宮山古墳)は、襲津彦の墳墓とする説もある。
(室大墓=室宮山古墳)
この室大墓に関しても、
『五~六世紀の前方後円墳には、二三~二四メートルの高さのものがある。大阪の土師にさんざい古墳、市の山古墳、奈良の室大墓や巣山古墳である。ところが朝鮮半島最大の新羅の慶州の九八号墳も高さは約二三メートルである。これも偶然か、墓作りの基本法則でもあったのか』
(『古墳と古代文化99の謎』森浩一 サンポウ・ブックス)
と言うぐらいに、古墳築造の面でも新羅の技術の影響を受けたと見られる。
即ち、馬見古墳群の巣山古墳と南葛城の室大墓が、新羅最大の古墳98号墳と高さを一にすると言う事実を見ても判るように、葛城氏と新羅は密接なのであった。
「外戚」葛城襲津彦
葛城襲津彦は、娘の葛城磐之媛をオオサザキ大王(仁徳天皇)の大后(皇后)としている。
《略系図》 葛城襲津彦━磐之媛 ┃ ┣━━━┳履中天皇 ┃ ┣住吉仲皇子 ┃ ┣反正天皇 ┃ ┗允恭天皇 ┃ 応神天皇━━仁徳天皇
磐之媛が出産した4人の皇子の内、3人の皇子がそれぞれ、イザホワケ大王(履中天皇)・ミズハワケ大王(反正天皇)・オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)として即位しており、葛城氏は「外戚」の地位を得た。
葛城襲津彦の後継者
葛城襲津彦の後、系統は少なくとも2系統に分かれたと見られている。それが、「葛城葦田宿禰」系と「葛城玉田宿禰」系である。
《葛城襲津彦の後継者》 葛城襲津彦━┳磐之媛 ┣葦田宿禰 ┗未詳━━━玉田宿禰
葛城葦田宿禰の時代
葛城葦田宿禰は、葛城襲津彦の子とされる。
馬見古墳群内に「葦田」の地名があったことから、巣山古墳群の周辺に本拠があったと見られる。即ち、葛城地域北部を拠点としていたとする説である。
(巣山古墳群)
葦田宿禰の姉妹の葛城磐之媛がオオサザキ大王(仁徳天皇)の大后(皇后)となっており、オオサザキ大王(仁徳天皇)とは義兄弟の間柄となる。また、イザホワケ大王(履中天皇)は、葦田宿禰の娘の葛城黒媛を妃(皇妃)としており、黒媛はイチノヘノオシワ王子(市辺押磐皇子)を出産している。
【天皇名】 | 宮名 | 宮の所在地 |
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仁徳天皇 | 難波高津宮 | 摂津国 |
履中天皇 | 磐余稚桜宮 | 大和国十市郡 |
葛城玉田宿禰の時代
葛城玉田宿禰は、その父が不明である。
玉手丘、もしくは、馬見古墳群内の築山古墳群の周辺に本拠があったと見られる。即ち、葛城地域南部を拠点としていたとする説である。
(築山古墳群)
玉田宿禰で注目されるのは、
『別本に云はく、田狭臣が婦の名は毛媛といふ。葛城襲津彦の子、玉田宿禰の女なり』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言うように、吉備氏(吉備上道臣)との連携を深めたことである。葛城氏と吉備氏(吉備上道臣)の婚姻に拠る強固な在地系豪族連合は、大王家(天皇家・皇室)にとって脅威でしかなかった。この政治的背景の中で次の事件が起こる。
オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)からミズハワケ大王(反正天皇)の殯の準備するように命じられた玉田宿禰は、準備を怠り酒宴で遊興していたことを譴責され、オアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)に殺害されたのである。
この事実上の「玉田宿禰の処刑」が、史実であるかどうかは不明であるが、少なくとも、この時期に「大王(天皇)の権力」と「葛城氏の実力」との間のパワーバランスに変化の兆しが出現したことが推察される。
【天皇名】 | 宮名 | 宮の所在地 |
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反正天皇 | 丹比柴籬宮 | 河内国 |
允恭天皇 | 遠飛鳥宮 | 大和国高市郡 |
葛城円の時代
葛城円は、葛城玉田宿禰の子である。
円には「大臣」の称号が付されており、この時代のヤマト王権の執政者としてはトップの地位にいたことが窺われる。
円の時代、『大草香皇子殺害事件』・『アナホ大王(安康天皇)殺害事件』と言う殺害事件が立て続けに起こる。
《関係略図》 ┏━━━━━━┓ ┃ ┃ 仁徳天皇┳履中天皇━━━━中蒂姫命 ┃ ┣反正天皇 ┃ ┣允恭天皇━━━┳安康天皇 ┃ ┃ ┗雄略天皇 ┃ ┗大草香皇子 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━眉輪王 ┃ ┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━┛
『大草香皇子殺害事件』は、アナホ大王(安康天皇)が大草香皇子の妹(草香幡梭皇女)を弟の大泊瀬皇子(後のオオハツセノワカタケ大王・雄略天皇)の室にしようとしたことから始まる。大草香皇子への使者に立てた根使主の讒言と信じて、大草香皇子を殺害し、その妻の中蒂姫命を自分の皇后にしたものである。続く、『アナホ大王(安康天皇)殺害事件』は、実父の大草香皇子をアナホ大王(安康天皇)に殺害された眉輪王の仇討ちである。アナホ大王(安康天皇)を殺害した眉輪王は逃亡する。
そして、大泊瀬皇子は、兄の仇討ちとして眉輪王の殺害に行動を起こす。大泊瀬皇子は仇討ちに煮え切らない兄の八釣白彦皇子を殺害。これに身の危険を感じたもう一人の兄の坂合黒彦皇子は逃亡する。
眉輪王と坂合黒彦皇子が逃げ込んだ先が、葛城円のもとであった。
葛城氏と血縁が薄い眉輪王と坂合黒彦皇子が円を頼った理由は、王権と対等に立ち向かえるのが、「大臣」たる円のみであると判断した可能性が高い。しかし、その反面、何故、円が大臣家の命運を賭してまで、眉輪王と坂合黒彦皇子を保護しなければならなかったのか?全くの謎である。
大泊瀬皇子(後のオオハツセノワカタケ大王・雄略天皇)は、
《雄略天皇系図》 応神天皇 ┃ ┣━━━━━━稚野毛二派皇子━忍坂大中姫命 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━┳安康天皇 ┃ ┃ ┗雄略天皇 ┃ ┃ 息長真若比売命 ┃ ┃ 仁徳天皇 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━┳允恭天皇 ┃ ┗履中天皇 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━市辺押磐皇子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━┳飯豊青皇女 ┃ ┃ ┃ ┣仁賢天皇(億計王) ┃ ┃ ┃ ┗顕宗天皇(弘計王) ┃ ┃ ┃ 葛城襲津彦━━┳磐之媛 ┃ ┃ ┣葦田宿禰━━━┳黒媛 ┃ ┃ ┗蟻━━━━━━夷媛(*) ┗未詳━━━━━━玉田宿禰━━━円━━━━━━━━━韓媛
(*)夷媛の夷は「草冠」に「夷」
この時期の大王家(天皇家・皇室)の一員としては、安康天皇と共に葛城氏の血が薄い特徴を持つ。故に、葛城氏への実力行使に躊躇は無かったものと考えられる。
円は、大泊瀬皇子(雄略天皇)に対し、
『伏して願はくは、大王、臣が女韓媛と葛城の宅七區とを奉獻りて、罪を贖はむことを請らむ』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と、ひたすら恭順の姿勢を取ったが、大泊瀬皇子(雄略天皇)は許すこと無く、火を放ち、円や眉輪王・坂合黒彦皇子を焼き殺した。
この大泊瀬皇子(後のオオハツセノワカタケ大王・雄略天皇)に拠る葛城円の排斥は、即ち、有力な在地系豪族を政権から葬り去ったことを意味する。同時に、大王家(天皇家・皇室)に隷属し、その尖兵たる軍事力・警察力を担う伴造系豪族である大伴氏・物部氏の台頭に繋がったのである。
円の娘の葛城韓媛はオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の妃とされた。玉田宿禰系図の男子は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)から徹底的に弾圧されたようで、円以降、歴史に埋没し、二度と歴史の表舞台に出ることは無く没落した。
また、大泊瀬皇子(後のオオハツセノワカタケ大王・雄略天皇)は、皇位継承の有力者である葛城氏系の市辺押磐皇子を謀殺する。つまり、自らの政敵になりそうな勢力を根こそぎ倒した上で、大泊瀬皇子は即位(オオハツセノワカタケ大王・雄略天皇)するのである。
こうして、葛城氏の政治力を徹底的に抑え込んだのがオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)であった。
【天皇名】 | 宮名 | 宮の所在地 |
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安康天皇 | 石上穴穂宮 | 大和国山辺郡 |
雄略天皇 | 泊瀬朝倉宮 | 大和国城上郡 |
葛城円と極楽寺ヒビキ遺跡
金剛山麓に位置する南郷遺跡群の中の「極楽寺ヒビキ遺跡」が葛城氏にとって重要なものであったことが推察されている。
『石葺きの護岸を持つ濠で区画された大型掘立柱建物などを検出しました。出土土器に供膳具である高坏が多いことから、日常の生活の場とは考えられません。
(略)
この大型建物を含めた区画は、祭儀や政務を行った公的な性格を持った施設であると思われます』(『御所市極楽寺ヒビキ遺跡の調査 現地説明会資料 2005年2月26日』 奈良県立橿原考古学研究所 北中恭裕・十文字健)
このことから、葛城襲津彦系の葛城氏本宗家にとっての中心地であったことが考えられる。その上で、次の発見があった。
『柱痕跡すべての焼土が混じることから、火災にあって焼失したようです』
(『御所市極楽寺ヒビキ遺跡の調査 現地説明会資料 2005年2月26日』 奈良県立橿原考古学研究所 北中恭裕・十文字健)
これを以って、『日本書紀』や『古事記』の記述と符号する出来事に鑑みて、葛城円が焼き殺された葛城氏の館に比する見解もある。
また、近隣の「南郷安田遺跡」からは、古墳時代中頃の建築物としては、最大級の建築物跡が発掘されている。
飯豊青皇女の時代
飯豊青皇女は、葛城葦田宿禰の系譜に属する。その父は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に謀殺された市辺押磐皇子で、母は葛城夷媛(*)である。
《略系図》 仁徳天皇━━━履中天皇 ┃ ┣━━━━市辺押磐皇子 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━┳飯豊青皇女 ┃ ┃ ┣仁賢天皇 ┃ ┃ ┗顕宗天皇 ┃ ┃ 葛城葦田宿禰┳黒媛 ┃ ┗蟻臣━━━━夷媛(*)
(*)夷媛の夷は「草冠」に「夷」
次のように、『日本書紀』や『古事記』に拠れば、
『天皇の姉飯豊青皇女、忍海角刺宮に、臨朝秉政したまふ。自ら忍海飯豊青尊と稱りたまふ』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とある。清寧天皇崩御後から顕宗天皇即位に至るまでの間、葛城葦田宿禰の孫に当たる飯豊青皇女が、「尊」、即ち「大王(天皇)」として執政したことが記されているのである。これを以って、飯豊青皇女は倭(日本)史上最初の「女性大王(女性天皇)」とする所以である。
葛城氏の活躍の始まりがオキナガタラシヒメ(神功皇后)と言う女性の時代であり、日本最初の女性執政者が葛城氏の血脈を強く引く飯豊青皇女と言う女性の時代であるのは、葛城氏を象徴しているようである。
飯豊青皇女の後を引き継いだ弟たちのヲケ大王(顕宗天皇)やオケ大王(仁賢天皇)、オケ大王(仁賢天皇)の皇子のオハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)が妻に迎えたのは、王族(皇族)や和珥氏や春日氏からであった。玉田宿禰系葛城氏の凋落に拠る適齢期の葛城氏系女性の不足や、葦田宿禰系葛城氏の女性との婚姻が続くことで血が濃くなることを避けたと言うような事情があったのかも知れない。
かくして、在地系豪族の雄たる葛城氏から妻を迎えることの出来なくなった王族(皇族)の男系は、オハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)を以って断絶してしまうのである。
その後の葛城氏と葛城地域
葛城円が大泊瀬皇子(後のオオハツセノワカタケ大王・雄略天皇)に差し出した「葛城韓媛」と「葛城宅七区」が、その後の大王家(皇室・天皇家)に大きく関わるようになって行く。
大王(天皇)と葛城氏の血脈
「大臣」であった葛城円を滅ぼしたオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)であったが、その後継者は葛城韓媛所生で葛城氏の血を引く白髪皇子(後のシラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ大王・清寧天皇)でなければならなかった。しかも、皮肉なことに、そのシラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ大王(清寧天皇)には皇子も皇女も誕生せずオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の直系男子は断絶してしまうのである。
そして、皇統の男系は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が謀殺した市辺押磐皇子の皇系へと戻される。
《仁賢天皇から継体天皇へ》 葛城葦田宿禰━蟻━━━━━━━夷媛(*) ┃ ┣━━━━━市辺押磐皇子━仁賢天皇 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━┳武烈天皇 ┃ ┃ ┗手白香皇女 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┏仁徳天皇━━━━履中天皇 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━雄略天皇━━━春日大娘皇女 ┃ ┃ ┃ ┃ 応神天皇━━┻稚野毛二派皇子┳忍坂大中姫命 ┃ ┗意富富等王━━乎非王━━━━彦主人王━━━継体天皇
(*)夷媛の夷は「草冠」に「夷」
そして、応神天皇五世孫のオオド大王(継体天皇)は、男系を優先に見るのであれば葛城氏の血を引く手白香皇女を室とすることで大王(天皇)になれたとも言える。そして、その手白香皇女が出産したアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の皇統が次なる時代「飛鳥時代」を切り拓くのである。
葛城地域
葛城円が雄略天皇に差し出した「葛城宅七区」は、具体的にはどの地域かははっきりしない。
だが、この玉田宿禰系の所領は、そのまま大王家(皇室・天皇家)領として接収されたものと見られる。この後、「大和国六県」が形作られ葛城県も作られるが、葛城県のみには県主が置かれず、大王家(皇室・天皇家)の直轄領として残された。
一方で、葛城地域へは、蘇我氏や巨勢氏が進出し、それぞれ版図を拡大して行くことになる。
蘇我馬子は、トヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)に対して、推古天皇32(624)年に、葛城県の譲渡を要求している。
『葛城縣は、元臣が本居なり。故、其の縣に因りて姓名を爲せり。是を以て、冀はくは、常に其の縣を得りて、臣が封縣とせむと欲ふ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
しかし、トヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)は、この馬子の要求を拒否している。
この中で、注目されるのは、馬子が葛城を「本居」としている点である。このことから、馬子の母は葛城氏出身の可能性が高いと見られる。その場合、「葛城臣」であれば、葛城葦田宿禰系の女性であったろうし、国造系の「葛城直」の女性も考えられる。いずれにしても、このような婚姻を通して、在地系豪族の蘇我氏や巨勢氏は、葛城地域へ進出して行ったことが推測されるのである。
皇極天皇元(642)年になると、馬子の子の蘇我蝦夷が、
『己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾の儛』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
を行う等、葛城の地の領有を執拗に狙っている。
因みに、この蘇我氏本宗家と対峙することになる中大兄皇子は、「葛城皇子」と言う名が実名である。もしかすると、葛城の地に、中大兄皇子の養育のための「湯沐」が置かれていた可能性も考えられる。
この辺りが、蘇我氏と中大兄皇子との間に生じた深い確執の原点であったのかも知れない。
葛城氏の没落
天武天皇13(684)年に施行された『八色の姓』に拠って、古代から続く「臣」姓の主な豪族は「朝臣」姓となるが、葛城氏に対して「朝臣」姓は下賜されなかった。
こうして、古代からの名族中の名族である葛城氏(葛城臣)は、日本史の中に埋没して行く。一方、国造系の葛城氏(葛城直)は、生き残って行った。
葛城氏の系図
《葛城氏略系図》 孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命┳武内宿禰━━┓ ┗甘美内宿禰 ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┣波多八代宿禰 ┣巨勢雄柄(小柄)宿禰 ┣蘇我石川(石河)宿禰 ┣平群木菟(都久)宿禰 ┣紀角宿禰 ┣久米能摩伊刀比売 ┣怒能伊呂比売 ┣葛城長江曾津毘古(襲津彦)┳葦田宿禰┳蟻臣━━━夷媛 ┃ ┃ ┗黒媛 ┃ ┣未詳━━━玉田宿禰━円━━韓媛 ┃ ┗磐之媛 ┗若子宿禰
※ 夷媛の夷は草かんむりに「夷」
葛城氏の年表
- 神功皇后5(205)年3月7日葛城襲津彦、新羅への人質返還に付き添うが新羅の謀略に掛かる。報復として草羅城を攻略。
- 神功皇后62(262)年襲津彦、朝貢しない新羅を外征。
- 応神天皇14(283)年2月襲津彦、新羅のために加羅に足止めされた弓月君隷下の百済人夫の救出に向かうが、加羅に留置される。
- 応神天皇16(285)年8月襲津彦、救援軍に助けられ帰国。
- 仁徳天皇2(314)年3月8日葛城磐之媛、立后。
- 履中天皇元(400)年7月4日葛城黒媛、立后。
- 履中天皇2(401)年10月葛城円、大臣として国政に参与。
- 安康天皇3(456)年8月円、眉輪王を保護したことで、大泊瀬皇子に焼き殺される。大泊瀬皇子、市辺押磐皇子も殺害する。
- 清寧天皇元(480)年正月15日葛城韓媛、皇太夫人。
- 清寧天皇5(484)年正月飯豊青皇女、朝政を執る。