時代
飛鳥時代
天皇
【代数】 | 第33代 |
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【天皇名】 | 推古天皇 |
政体
【摂政】 | 厩戸皇子 |
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【大臣】 | 蘇我馬子 |
(「聖徳太子像(部分)」東京国立博物館所蔵 Wikimedia Commons)
推古天皇8(600)年の出来事
- 推古天皇8(600)年2月新羅と伽耶が交戦。
まとめ
『日本書紀』は、この推古天皇8(600)年に、新羅と伽耶(所謂「任那」)が戦争状態になったとする。
『新羅と任那と相攻む。天皇、任那を救はむと欲す』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
しかし、これは奇怪なことである。
何故なら、その『日本書紀』自身が欽明天皇23(562)年に、
『新羅、任那の官家を打ち滅しつ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と記述するように、既に「伽耶(所謂「任那」)は滅亡した」としており、また、別説として、
『二十一年に、任那滅ぶといふ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とある。
『日本書紀』は続けて、境部臣を大将軍に、穂積臣を副将軍として、朝鮮半島へ1万の兵士を派兵し、新羅を降伏させ伽耶(所謂「任那」)を救援したとしている。
大将軍の境部臣は蘇我馬子の兄弟から始まる蘇我氏傍流であり、穂積臣は物部氏と祖を同じくする一族であるが、これだけの軍功を挙げたにも関わらず大将軍も副将軍も如何なる理由からか、その名を記さない。
そして、戦後処理のために、難波吉士神を新羅に派遣したと伝える。その難波吉士神は、新羅からの上表文を持ち帰ったと言う。
恐らく、前段の新羅との伽耶(所謂「任那」)を巡る軍事紛争は虚飾、あるいは、別の事情での軍事的出動を行ったのみで、難波吉士神を遣新羅使として送ったと言うのが史実だったのではあるまいか。
実は、この年、倭(日本)は、政策の大転換を行っている。
オオド大王(継体天皇)が男系王統(皇統)の断絶した大王家(皇室・天皇家)に婿として入り王権を担って以来、中国王朝との直接交渉は、歴代の王権において一切行われて来なかった。
それが、この年、遂に、東アジアの超大国である隋帝国を相手に外交を行うため外交使節団を派遣したのである。
第1回遣隋使の派遣である。
『開皇二十年倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌遣使詣闕』
(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波文庫33-401-1 岩波書店)
実は、倭(日本)の隋への朝貢に先立つこと、この年の正月、高句麗も隋に外交使節を派遣している。
『春正月。遣使入隋朝貢』
(「高句麗本紀」『三国史記』国立国会図書館デジタルコレクション)
隋が建国された直後から隋に対して朝貢を行って来た高句麗にとっては、これが第11次となる隋への外交使節の派遣であった。
一方の倭(日本)は全くの初めて行う隋との外交だった。
(6世紀末の東アジア情勢)
極東のさいはてからやって来た中華文明の及ばない未開の異民族である倭人(日本人)に興味津々な隋の廷臣から倭(日本)の政治形態を尋ねられた遣隋使は、こう答えた。
『倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便い理務を停め、いう我が弟に委ねんと』
(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波文庫33-401-1 岩波書店)
実は興味深いことがある。
先の遣新羅使・難波吉士神に対して、新羅が上表した中に、
『天上に神有します。地に天皇有します』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う一文があり、この上表の一文と、
『倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす』
(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波文庫33-401-1 岩波書店)
遣隋使が答申した内容と、難波吉士神が持ち帰ったと言う新羅の上表文には似通った発想があるように思われる。
或いは、遣隋使が答申した草稿を作ったのは、渡来移民である難波氏(難波吉士)だったのではあるまいか。そのことを『日本書紀』は示唆しているようにも考えられる。
さて、この倭(日本)の使者の答えを聞いた隋の高祖こと文帝煬堅は、あきれ果て、
『高祖曰此大無義理』
(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波文庫33-401-1 岩波書店)
と言い放ち、
『ここにおいて訓えてこれを改めしむ』
(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波文庫33-401-1 岩波書店)
として、訓戒と共に国家運営の在り方を変更させた。
ヤマト王権成立以来の倭(日本)の政体の在り様は、文明国家である隋から全否定されてしまったのである。
「倭(日本)オワコン」である。
即ち、オオド大王(継体天皇)王統(皇統)の東アジア外交のデビューは隋の笑いものにされて壮大な赤っ恥をかいて終わったと言うのが実情であった。
この屈辱のためか、『日本書紀』は、第1回遣隋使については何も語らない。
しかしながら、この結果は、倭(日本)を目覚めさせた。
つまり、遣隋使が隋の煬堅から授かったと思われる「国家」としての在り様の教えを基本として、大臣の蘇我馬子は、旧来の土俗的な因習に満ちたヤマト王権から「法(律令)」と「官人(冠位制度・官位制度)」に拠って成り立つ国家としての王権へと、早急に作り直す意志を持つに至ったのである。
それは、6世紀から7世紀にかけての時点における東アジアで普遍的な価値観を共有する「国家」となることを意味し「革命」とも言えた。
言い換えれば、「倭の五王」の時代から約100年を経て、再び倭(日本)が東アジアの中の「国家」としての地位に目覚めたのが、この推古天皇8(600)年だったと言える。
因みに、文帝煬堅の妻が、かの有名な「独孤皇后」こと独孤伽羅である。
推古天皇8(600)年の覚え方とポイント
倭はロクな国じゃないと両目を白くした煬堅(600)