推古天皇2(594)年【日本の仏教、この年より始まる!】

時代

飛鳥時代

天皇

【代数】 第33代
【天皇名】 推古天皇

政体

【摂政】 厩戸皇子
【大臣】 蘇我馬子

聖徳太子(厩戸皇子)
(厩戸皇子「聖徳太子二王子像(部分)」東京国立博物館所蔵 Wikimedia Commons)

推古天皇2(594)年の出来事

出来事
  • 推古天皇2(594)年
    2月1日
    推古天皇、三宝興隆の詔勅を下す。

まとめ

この推古天皇2(594)年に、トヨミケカシキヒメ大王(推古天皇)は、「興隆三寶」の詔を出す。

『皇太子及び大臣に詔して、三寶を興し隆えしむ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

豊浦宮
(詔の出された豊浦宮)

実は、このトヨミケカシキヒメ大王(推古天皇)が出したとする詔勅は、日本史上において極めて重要な意味を持つものであった。

それは、

『この三寶興隆の詔は正に日本佛教の紀元とも見る可べきものであり、佛教傳來の年時よりも更に重要視す可きものであらう』

(『聖徳太子 佛教偉人叢書2』稲葉圓成 法蔵館)

と評価されていることに代表される。

即ち、大王家(皇室・天皇家)が正式に王権(国家)の宗教として仏教を是認したことを示すものだからである。

これ以前の蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)と物部氏本宗家(物部氏大連家)との崇仏排仏紛争の結果、崇仏派が勝利し仏教が受容されたと言うのとは次元が全く違うのである。

これを受け、豪族たちは、トヨミケカシキヒメ大王(天皇)や父祖のために、それぞれに寺院の造営に取り掛かったと言う。

なお、『日本書紀』では、

『競ひて佛舎を造る。皍ち是を寺と謂ふ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

として、仏教のために建設された殿舎のことを「寺(寺院)」と呼称することをわざわざ宣言している。

これは、古代中国において外務関係の機構を「鴻臚寺」と呼称したように、政治的な機構のことを「寺」と呼称されていたこととの区別を付けたものと考えられている。

因みに、「寺」の漢字を「てら」と読むのは、倭(日本)に仏教を伝えた百済に代表される古代朝鮮語に拠るものとされる。

推古天皇2(594)年の覚え方とポイント

コクヨの学習机で仏教を学ぶ!(594)