武烈天皇4(502)年【暴虐天皇の時代に突如登場した倭王武の謎!】

時代

古墳時代

天皇

【代数】 第25代
【天皇名】 武烈天皇

政体

【大連】 大伴金村

武烈天皇4(502)年の出来事

出来事
  • 武烈天皇4(502)年
    4月
    武烈天皇、木に登った人を殺害して楽しむ。

まとめ

オハツセノワカサザキ大王(武烈天皇)は、人の頭髪を引き抜いた上で、血だらけの頭になった人を樹に登らせ、樹を切り倒し落下させ殺害して楽しんでいる。

『人の頭の髪を抜きて、樹の巓に昇らしむ。樹の本を斮り倒して、昇れる者を落し死すを快とす』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

牟大王(東城王)の後継として嶋王(武寧王)が即位したことを記す『日本書紀』は『百濟新撰』を引いて、

『末多王、無道して、百姓に暴虐す』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

とし、これがために、末多王(牟大王・東城王)は暗殺されたとする。

そうなると、倭(日本)と百済において同時期に暴虐な王が存在していたことになる。

因みに、牟大王(東城王)・武寧王は、長岡京・平安京を造営した桓武天皇の母方の祖先に当たる。

桓武天皇
(『桓武天皇像(部分)』延暦寺所蔵 Wikimedia Commons)

そして、この年における倭(日本)にとっての最大の出来事は、南朝梁の武帝から新たに冊封されている事実である。

倭王武が新たに「征東将軍」に任じられたのである。

『鎭東大將軍倭王武、進號征東将軍』

(「梁書」『漢韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 国立国会図書館デジタルコレクション)

因みに、倭王武に比定されることの多いオオハツセワカタケ大王(雄略天皇)は、雄略天皇23(479)年、即ち23年前に没している。

なお、倭王武が征東将軍に封じられた同日、高句麗王は「車騎大将軍」に、百済王は「征東大将軍」に、それぞれ封じられている。これらは、南朝梁の官品で第二位となる「第二品」に当たる。

倭王武が南朝梁から封じられた「征東将軍」は「第三品」で、倭(日本)は高句麗や百済よりも格下であった。

もちろん倭王武の死を南朝梁が知らずに冊封した可能性は大いにある。

倭王武が上表文を送り朝貢し冊封された雄略天皇22(478)年から実に24年も経て新たに行われた冊封であった。

そして、これが倭(日本)の倭王に対する最期の冊封となった。

オハツセノワカサザキ大王の漢風謚号は「武烈天皇」であるが、これは『梁書』の記述から倭王武に因んで、奈良時代に付けられた謚号のように思われる。

一方、高句麗と百済に対しては、これ以降も南朝梁は、次々と官職に封じ、高句麗や百済の方でも朝貢を行っている。

言い換えると、オオハツセワカタケ大王(雄略天皇)が没してからの倭(日本)は、中国王朝の冊封から離れたことで、中原の最新文明が届かぬ未開の土民が蟠踞する辺境の地に再び逆戻りしていたのである。

倭(日本)にとっての外交は、伽耶(所謂「任那」)・百済・新羅・高句麗が相手であって、これらの国々を通してしか最新の文物を得られない状況にあった。

この後、倭(日本)が中国王朝との外交を指向するのは、約100年後のことで、蘇我氏本宗家の蘇我馬子が大臣として、ヤマト王権の政治を支配するようになってからのことである。

武烈天皇4(502)年の覚え方とポイント

これ思議、征東将軍倭王武(502)