建保6(1218)年【呪詛『官打ち』発動!】

時代

鎌倉時代

天皇

【代数】 第84代
【天皇名】 順徳天皇

順徳天皇
(「順徳天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

太上天皇

【太上天皇名】 後鳥羽太上天皇
土御門太上天皇

後鳥羽天皇
(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)

土御門天皇
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

政体

幕府

【征夷大将軍】 源実朝
【執権】 北条義時
【政所別当】 大江広元
【侍所別当】 北条義時
【問注所執事】 三善康信
【京都守護】 中原季時

朝廷

【関白】 近衛家実
【太政大臣】 三条公房
(10月9日から)
【左大臣】 九条良輔
(11月11日死去)
九条道家
(12月2日から)
【右大臣】 九条道家
(12月2日まで)
源実朝
(12月2日から)
【内大臣】 三条公房
(10月9日まで)
源実朝
(10月9日から
12月2日まで)
近衛家通
(12月2日から)
【大納言】 中山兼宗
(正月13日辞任)
鷹司兼基
(正月13日辞任)
久我通光
(10月8日から)
西園寺公経
(10月8日から)
【権大納言】 久我通光
(10月8日まで)
西園寺公経
(10月8日まで)
大炊御門師経
九条良平
源通具
藤原忠房
源実朝
(正月13日から
10月8日まで)
近衛家通
(正月13日から
12月2日まで)
土御門定通
(10月8日から)
九条教家
(12月9日から)
坊門忠信
(12月9日から)
【中納言】 土御門定通
(10月8日まで)
四条隆衡
源雅親
姉小路公宣
(10月9日から)
【権中納言】 姉小路公宣
(10月9日まで)
坊門忠信
(12月9日まで)
滋野井実宣
九条教家
近衛家通
(正月13日まで)
藤原範朝
(正月5日辞任)
源実朝
(正月13日まで)
藤原頼平
(正月13日から)
藤原顕俊
(正月13日から)
藤原宗行
(正月13日から)
西園寺実氏
(10月9日から)
近衛基嗣
(12月9日から)
九条基家
(12月12日から)
【参議】 藤原頼平
(正月13日まで)
西園寺実氏
(10月9日まで)
藤原定家
藤原顕俊
(正月13日まで)
正親町三条公氏
藤原経通
藤原宗行
(正月13日まで)
中院通方
藤原忠定
(正月13日から)
藤原国通
(正月13日から)
二条定高
(正月13日から)
水無瀬信成
(12月9日から)
【関東申次】 西園寺公経

建保6(1218)年の出来事

出来事
  • 建保6(1218)年
    正月3日
    平正重、叛乱。
  •  
    正月13日
    源実朝、権大納言。
  •  
    2月4日
    北条政子、熊野参詣のため鎌倉を出発。
  •  
    2月21日
    政子、入京。
  •  
    3月6日
    実朝、左近衛大将兼左馬寮御監。
  •  
    4月
    政子、藤原兼子と会見。
  •  
    4月14日
    政子、従三位。
  •  
    6月27日
    鶴岡八幡宮で実朝の左近衛大将任官の拝賀。
  •  
    7月22日
    侍所所司を選任。
  •  
    10月9日
    実朝、内大臣。
  •  
    10月23日
    後鳥羽上皇、熊野参詣。
  •  
    11月13日
    政子、従二位。
  •  
    12月2日
    実朝、右大臣。
  •  
    12月20日
    実朝、政所始を執行。

まとめ

正月、伊勢平氏の平正重が謀反を企て白河で武装蜂起するが鎮圧される。

同月、源実朝が権大納言となる。

2月になると、北条政子が熊野参詣を名目として鎌倉から畿内へ上る旅に出る。北条時房が御供をした。

『尼御臺所御上洛、相州扈従、是爲熊野山御斗藪也』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

紀伊国熊野
(紀伊国熊野)

3月には、実朝が左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。

翌4月、政子は京に入り、後鳥羽上皇の乳母で典侍の藤原兼子(卿二位)と会見する。

《藤原兼子系図》

        久我通親
         │
         ┝━━━━┳通光
         │    ┣土御門定通(権大納言)
         │    ┣中院通方(参議)
         │    ┗在子
         │      │
         │      ┝━━━━土御門天皇
         │      │
         │     後鳥羽天皇
         │      │
         │      ┝━━━━順徳天皇
         │      │
藤原能兼┳範兼┳範子      │
    ┃  ┗兼子      │
    ┃   ││      │
    ┃   │└─────┐│
    ┃   │      ││
    ┃   葉室宗頼   ││
    ┃          ││
    ┃   大炊御門頼実 ││
    ┃    │     ││
    ┃    └─────┘│
    ┃           │
    ┗範季━重子      │
         │      │
         └──────┘

政子と兼子の会見の主題は、実子のいない将軍実朝の後継者として、次期将軍に天皇家(皇室)から親王を迎えると言うことについてであった。

何度かの会見後、兼子は、頼仁親王(後鳥羽上皇の親王)を推挙し、政子もこれを受け入れた。

《後鳥羽天皇系図》

源頼朝━━実朝
      │
坊門信清┳西八条禅院
    ┗西御方
      │
      │
      ┝━━━┳長仁親王
      │   ┣頼仁親王
      │   ┗礼子内親王
      │
高倉天皇━後鳥羽天皇┳土御門天皇
          ┗順徳天皇

この会見が無事に終わった直後に、政子は、破格の従三位に叙される

『被行女叙位。是・關東故右大將頼朝卿後家尼叙三位』

(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)

さらに、後鳥羽上皇が政子との対面を希望したが、政子は、これを断り、鎌倉へ帰った。

このような政子の動きを知ってか知らずか実朝は、鶴岡八幡宮で左近衛大将任官の拝賀を行い、さらに、侍所の所司を選ぶ等している。

そして、10月には内大臣に昇る。

この実朝の急激な昇進ぶりについては、

『ヤガテ大臣ニナラント申テ、ナランニ取テハ、内大臣ハ例ワロシ、重盛・宗盛ナド云モ、皆内大臣ナリケレバナド云不思議ドモキコエシ程ニ』

(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)

と訝しむ声もあった。ただ、この年の実朝の急激な昇進に、巷間言われる呪詛としての「官打ち」としての意味があったのかどうかは不明である。

また、11月になると政子も従二位へ進む。

『二位ニナシテ鎌倉ノ二位殿トテ有ケリ』

(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)

12月2日、実朝は遂に右大臣へ昇る。

20日には、右大臣として実朝の政所が開かれる。

執事に、北条義時・二階堂行光、家司に、源仲章・源頼茂・大江親広等が選ばれた。

翌年の年明け早々には、右大臣就任の拝賀の儀が鶴岡八幡宮で行われることが決まる。

『この内大臣、又右大臣にあがりて、大響など、めづらしく東にて行なふ。京より尊者をはじめ上達部・殿上人多くとぶらひいましけり』

(『神皇正統記 增鏡 日本古典文學大系87』岩佐正 時枝誠記 木藤才藏 校注 岩波書店)

京からも公卿5名が出席のため鎌倉へ下ることとなった。

鶴岡八幡宮
(鶴岡八幡宮)

こうして、鎌倉は、後鳥羽上皇の掌中に収められて行くかに見えた。

建保6(1218)年の覚え方とポイント

鎌倉の人に嫌(1218)がらせの官打ち