建保元(1213)年【『和田合戦』勃発】

時代

鎌倉時代

天皇

【代数】 第84代
【天皇名】 順徳天皇

順徳天皇
(「順徳天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

太上天皇

【太上天皇名】 後鳥羽太上天皇
土御門太上天皇

後鳥羽天皇
(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)

土御門天皇
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

政体

幕府

【征夷大将軍】 源実朝
【執権】 北条義時
【政所別当】 大江広元(中原広元)
【侍所別当】 和田義盛
(5月3日まで)
北条義時
(5月5日から 執権兼任)
【問注所執事】 三善康信
【京都守護】 中原季時

朝廷

【内大臣】九条道家

【関白】 近衛家実
【太政大臣】 空席
【左大臣】 九条良輔
【右大臣】 徳大寺公継
【内大臣】 九条道家
【大納言】 三条公房
中山兼宗
【権大納言】 鷹司兼基
久我通光
藤原公経(西園寺公経)
大炊御門師経
九条良平
源通具
【中納言】 土御門定通
藤原忠房
四条隆衡
【権中納言】 源雅親
姉小路公宣
坊門忠信
葉室光親
滋野井実宣
山科教成
源有雅
【参議】 藤原頼平
藤原親兼
藤原範朝
西園寺実氏
藤原顕俊
坊門隆清
正親町三条公氏
藤原公定
【関東申次】 坊門信清

建保元(1213)年の出来事

出来事
  • 建暦3(1213)年
    正月5日
    大江広元、従四位上。
  •  
    2月2日
    源実朝、学問所番に18人を選ぶ。
  •  
    2月15日
    安念法師、謀反を企て千葉成胤に捕縛される。
  •  
    2月16日
    泉親衡のクーデター計画が発覚。
  •  
    3月6日
    実朝、正二位。
  •  
    3月6日
    和田義盛、和田胤長の赦免を要求。
  •  
    4月2日
    北条義時、胤長の屋敷を接収。
  •  
    5月2日
    義盛、挙兵(『和田合戦』)。
  •  
    5月3日
    義盛、戦死。
  •  
    5月4日
    『和田合戦』終結。
  •  
    5月5日
    義時、侍所別当を兼任。
  •  
    10月
    広元、実朝に対し朝廷への迎合を批判。
  •  
    11月23日
    藤原定家、実朝に『万葉集』を贈る。
  •  
    12月1日
    広元邸・北条時房邸、焼失。
  • 建保元(1213)年
    12月6日
    「建保」と改元。
  •  
    12月13日
    建礼門院徳子、薨去。
  •  
    12月18日
    『金槐和歌集』完成。

まとめ

2月、安念法師が千葉成胤に捕縛されたことから、泉親衡に拠る「源実朝暗殺計画」が発覚する。

この事件に、侍所別当の和田義盛の子である和田義直・和田義重、加えて、義盛の甥の和田胤長が関わったとして捕縛される。

《和田義盛系図》

三浦義明┳義宗┳和田義盛┳常盛━朝盛━家盛
    ┃  ┃    ┣義秀
    ┃  ┃    ┣義直
    ┃  ┃    ┣義重
    ┃  ┃    ┣義信
    ┃  ┃    ┣秀隆
    ┃  ┃    ┗義国
    ┃  ┣義茂
    ┃  ┣宗実
    ┃  ┣義胤
    ┃  ┣義長━━━胤長
    ┃  ┗女子
    ┣義澄━義村━━┳泰村
    ┃       ┗光村
    ┠義久
    ┣義春
    ┣義季
    ┗義連 

3月、実朝が正二位に進むと、北条義時も正五位下へ進む。

同月、義盛の子は赦免されるが、胤長は陸奥国へ流罪とされ、その所領は、義時のものとなる。

この義時の措置に怒り心頭の義盛は、三浦義村を誘い、義時を排斥すべく挙兵し将軍御所を攻囲する。

『和田左衛門尉義盛件黨、忽襲将軍幕下』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

この時の御所は、

『將軍更無警衞之備、或杯酌淵酔云々』

(『明月記』国立国会図書館デジタルコレクション)

で非常に危うい状態であった。

ところが、義盛に従い将軍御所の攻囲に参加した義村が、義盛を裏切り義時側に付いたことで、義盛の戦略は瓦解してしまう。

義村が攻囲を解除した隙に、実朝は、御所から逃れ法華堂へ避難する。

それでも、鎌倉の街路を血に染めて義盛率いる和田勢は大いに奮戦。

鎌倉
(戦場と化した鎌倉)

しかし、劣勢は如何ともし難く、遂に義盛は敗北し落命する。

『和田合戦』で和田一族は大打撃を受けるが、それでも一部は生き残り、後年の『宝治合戦』に参加し、北条氏得宗家と戦っている。さらに、末裔には、戦国大名上杉謙信の家臣となった者もいる(中条氏・黒川氏等)。

この『和田合戦』で義盛の排斥に成功した義時は、侍所別当を兼任する。

10月、実朝が朝廷からの西国(西日本)に鎌倉方が領する荘園等に対し臨時課税を行うようにと言う要求に応じる姿勢を取ったことから、広元は諫言する。

この年、平清盛の娘である建礼門院徳子が没する。

源平の人の世の栄枯盛衰を見届けた女性が亡くなった年、関東では、同じことが繰り返されていたのである。

建保元(1213)年の覚え方とポイント

北条の人に、いざ(1213年)合戦挑む和田義盛