禅蔵尼 【真実!日本仏教の始まりは少女から!】

禅蔵尼 (漢人豊女)について

【名前】 禅蔵尼 (漢人豊女)
【読み】 ぜんぞうに (あやひとのとよめ)
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 飛鳥時代
【官職】 尼僧
【父】 漢人夜菩
【母】 不明
【氏】 漢人氏
【姓】 村主

禅蔵尼 (漢人豊女)の生涯

禅蔵尼 (漢人豊女)の生い立ち

禅蔵尼は、漢人夜菩(阿野師保斯)の娘で俗名を豊女(等已売)と言う。

この「漢人」一族は漢氏の下に属する村主姓の一族であって、葛城襲津彦が新羅から連行して来た捕虜の末裔と見られている。言わば、漢人豊女は、当時でも下級層に属する出自であったと言える。

禅蔵尼 (漢人豊女)の出家

漢人豊女は、敏達天皇13(584)年9月、蘇我馬子が百済伝来の仏像を祀ることになった際、司馬嶋が出家し善信尼となると、その恵信尼の弟子として、錦織石女と共に出家した少女である。

そして、漢人豊女は出家に伴い「禅蔵尼」と言う法名を授かるのである。

禅蔵尼 (漢人豊女)の受難

敏達天皇14(585)年、国中に疫病が流行する。

すると、神道を便とする守旧派の物部守屋と中臣勝海が、その原因を「邪教たる仏教を流布したこと」にあるとして、敏達天皇に仏教の廃教を進言する。そして、守屋の命令を受けた佐伯御室が禅蔵尼等三人を仏堂から拉致し連れ去ってしまう。

この時、禅蔵尼等三人は、

『泣きて出て往く』

(『寺社縁起 日本思想大系20』 桜井徳太郎 萩原龍夫 宮田登 岩波書店)

状態であったが、蘇我馬子に為す術も無く呆然と傍観しているだけであった。

連れ去られた禅蔵尼たちは、御室たち廃仏派の人間に法衣を剥ぎ取られ裸にされた上で、海石榴市の馬屋において、衆人の好奇と蔑みの目に晒されながら、鞭で打たれると言う恥辱を加えられる。

こうして、表立って仏教への信仰が出来なくなった禅蔵尼であったが、それでも仏への帰依の心を失うことは無く、ひたすら仏を信じた。

日本仏教の礎としての禅蔵尼 (漢人豊女)

用明天皇2(587)年、『蘇我物部戦争』の結果、物部守屋たち排仏派は、蘇我馬子の前に敗北する。

戦争に勝利を収めた馬子や厩戸皇子の尽力で桜井寺に戻るが、その際、

『伝へ聞く、出家の人は戒を以て本とすと。しかるに戒師なし。故、百済国に度りて戒を受けむと欲りす』

(『寺社縁起 日本思想大系20』 桜井徳太郎 萩原龍夫 宮田登 岩波書店)

と、願い出て、翌崇峻天皇元(588)年、学問僧として百済へ渡海。そして、崇峻天皇3(590)年3月、百済から戻り、桜井寺(向原寺)に入る。帰朝した禅蔵尼等は、日本の仏教制度を整備するために、

『礼仏堂を忽かに作り賜へ』
『法師寺を速かに作り具へ賜へ』

(『寺社縁起 日本思想大系20』 桜井徳太郎 萩原龍夫 宮田登 岩波書店)

等の提案を行い認めさせることに成功する。

やがて、大伴狭手彦の娘や大伴狛の妻等、多くの女性が仏門に帰依する。また、豊浦宮に金堂・礼仏堂が建設され、ここに仏教が、国家の礎に組み込まれて行くこととなる。

禅蔵尼 (漢人豊女)とは

日本仏教の先駆者と言えば、真っ先に、蘇我馬子や厩戸皇子の名が挙げられる。

しかし、真に日本に仏教を拓いたのは、禅蔵尼たち三人の少女たちであった。この三人の少女たちが、迫害と暴力に屈すること無く信仰心を持ち続け、危険を顧みずに自ら渡海し、「受戒」制度を日本に伝えたことで、日本の仏教は、ようやく東アジアのレベルに達するのである。

禅蔵尼

こうして、三人の下級層の少女たちの尽力で、日本に仏教が正式に導入されたとも言えるのにも関わらず、その後、南都仏教は、行基等を輩出したものの次第に権力欲・金銭欲にまみれ出し、貴族層のみを救済対象とする特権階級のための腐敗した宗教へと堕落して行く。

奈良時代から移ろい成った平安時代の仏教もまた、一般人民、とりわけ女性を穢れた存在として差別し続けることとなり、仏教に依る女性の救済は、鎌倉仏教の成立を待たねばならなかった。

重ねて言う。

日本で最初に戒律を授かり「本物の仏教」に触れたのは、禅蔵尼たち三人の少女たちであった。だが、日本の仏教が一般人民の女性を救済するようになるのは、禅蔵尼たちが「日本人最初の僧」として出家してから実に500年以上も後のことである。

500年以上経って後、禅蔵尼たちが撒いた蓮の種がようやく花開いたと言えるのかも知れない。

禅蔵尼 (漢人豊女)の系図

《関係略図》

漢人夜菩━禅蔵尼(豊女)

禅蔵尼 (漢人豊女)の年表

年表
  • 敏達天皇13(584)年
    9月
    出家。
  • 敏達天皇14(585)年
    3月1日
    物部守屋と中臣勝海が敏達天皇に仏教の廃教を進言。
  • 3月30日
    物部守屋により襲撃される。
  • 用明天皇2(587)年
    6月21日
    「受戒」を学ぶため百済に渡りたい旨を蘇我馬子に伝える。
  • 7月
    『蘇我物部戦争』勃発。
  • 崇峻天皇元(588)年
    「受戒」を学ぶため百済へ渡海。
  • 崇峻天皇3(590)年
    3月
    帰国。桜井寺(向原寺)に入る。