目次
古人大兄皇子について
【名前】 | 古人大兄皇子 |
---|---|
【読み】 | ふるひとのおおえのみこ(ふるひとのおおえのおうじ) |
【別表記】 | 古人皇子・古人大市皇子・古人太子・吉野太子・吉野大兄王 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 大化元(645)年 |
【時代】 | 飛鳥時代 |
【父】 | 舒明天皇(タムラ大王) |
【母】 | 蘇我法提郎女 |
【同母弟】 | 布敷皇子 |
【異母兄弟姉妹】 | 葛城皇子(中大兄皇子)・大海人皇子・間人皇女 等 |
【従兄弟】 | 蘇我入鹿・蘇我倉山田石川麻呂・蘇我日向・蘇我連子・蘇我赤兄・山背大兄王 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 倭姫王 |
古人大兄皇子の生涯
古人大兄皇子の生い立ち
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は、タムラ大王(舒明天皇)の王子(皇子)として誕生する。
母は、蘇我馬子の娘の蘇我法提郎女である。
法提郎女は、蘇我稲目以来「大臣」を務める蘇我氏本宗家出身の女性であり、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の外戚は、当時最強だったと言える。
その法提郎女の長子として生を受けたのがフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)である。同母弟に、ヌノシキ王子(布敷皇子)がいるともされるが詳細は不明。
また、総体的に蘇我氏の女性は多くの子供を出産する傾向が見受けられるものの、ヌノシキ王子(布敷皇子)以外の弟や妹等については未詳である。
異母兄弟に、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)やオオアマ王子(大海人皇子)等がいる。
これらフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を含むタムラ大王(舒明天皇)の王子(皇子)たちの年齢順であるが、後にアメトヨタカライカシヒタラシヒメ大王(皇極天皇)が譲位しようとした際、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)やカル王子(軽皇子)とのやり取りの中で、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が大王(天皇)に相応しい理由として、
『年長いたり』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う理由が挙げられている。また、「大兄」に付随する「古人」や「中」についても、
『通称が「古人」「中」を冠して大兄と言われたのは、前者が年長であったためである(古代の語法では「中」は二番目を意味した)』
(「古代における皇位継承の条件」大平聡 『歴史読本 昭和61年6月号』新人物往来社)
と見られることから、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が一番年上であったと言える。
また、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の実名については、
『欽明天皇以降の皇子名は、王宮名と一致するケースが多く管見されていく』
(「穴穂部皇子」野田嶺志 『歴史読本 昭和61年6月号』新人物往来社)
ことから、大市宮をフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が生活拠点にしたと考えて、『日本書紀』にも僅かに見える「古人大市皇子」の記述から「大市王子(大市皇子)」が実名であったと思われる。
(大市宮があったと思われる大和国城上郡大市)
古人大兄皇子と蘇我氏本宗家
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が、いつ「大兄」に立てられたのかは不明である。
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)はタムラ大王(舒明天皇)の直系であって年長でもあることから、本来であれば、タムラ大王(舒明天皇)の後継として、タムラ大王(舒明天皇)の次に王位(皇位)に即いていてもおかしくは無い存在である。
しかし、そうはならなかった。
タムラ大王(舒明天皇)の大后(皇后)であるアメトヨタカライカシヒタラシヒメ(天豊財重日足姫)が王位(皇位)に即いたのである。
《大王(天皇)を巡る関係》 蘇我馬子┳蝦夷━━━━━━入鹿 ┗法提郎女 │ ┝━━━━━━古人大兄皇子 │ 舒明天皇 │ ┝━━━━━━中大兄皇子 │ 天豊財重日足姫
何故、タムラ大王(舒明天皇)からフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)へと王位(皇位)が譲られなかったのか?
この理由について、蘇我氏本宗家を絶対的な悪とする『日本書紀』には何も記されていない。
蘇我氏本宗家は、かつて、ハツセベ大王(崇峻天皇)を誕生させたことで、葛城氏に続き、大王家(皇室・天皇家)の外戚となり得る在地系皇別豪族の地位を得ている。
このことから蘇我氏本宗家の存在がフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の王位(皇位)に何ら障害となることは無いと思われる。
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が王位(皇位)に即けなかったことに関しては、アメトヨタカライカシヒタラシヒメ(天豊財重日足姫)が蘇我入鹿を執政として起用したためとする説がある。あえて、蘇我氏本宗家がフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の即位を急がなかったとする見方である。
しかし、それは詭弁にも思える。何故なら、やはり蘇我氏本宗家の血を引く「王朝」を築き上げるには早い方が良いに決まっているからである。
実際、皇極天皇元(642)年、蘇我蝦夷は、葛城の高倉に祖廟を建て「八佾の舞」を行っている。この時、蝦夷は、ウマヤト王子(厩戸皇子)の上宮家の部民を動員して自らの寿陵を築造したと言う。
この蝦夷に拠る葛城での「八佾の舞」の挙行は、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が王位(皇位)に即けなかったことと密接に関係しているように思われる。
つまり、蘇我氏本宗家は、葛城氏本宗家(葛城氏大臣家)の正当な後継者であることを改めて主張すると同時に、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を王位(皇位)に即けるようにアメトヨタカライカシヒタラシヒメ(天豊財重日足姫)や王族(皇族)・諸豪族に対して無言の圧力を加えたのではなかったか。
ところが、事態は思わぬ展開となる。
山背大兄王の妹に当たるウエノミヤノオオイラツメノヒメ王(上宮大娘姫王)が、蝦夷に拠るウマヤト王子(厩戸皇子)の上宮家の部民を無断で動員したことに対して、猛烈に反発したのである。
上宮家に関しては、かねてから王位(皇位)に邪な執着心を持っていたヤマシロノオオエ王(山背大兄王)が、推古天皇36(626)年にトヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)が亡くなった際、後継大王(天皇)に自分が選ばれないことに猛烈なる不満を示して、執拗に王位(皇位)を要求して来たと言う過去のいきさつもある。
《大王(天皇)を巡る関係》 蘇我稲目┳馬子━━━━━━━┳蝦夷━━━━入鹿 ┃ ┗刀自古郎女 ┗堅塩媛 │ │ │ │ ┝━━━━山背大兄王 │ │ ┝━━━用明天皇━厩戸皇子 │ 継体天皇━欽明天皇━敏達天皇━舒明天皇━━古人大兄皇子
ただ、そもそもヤマシロノオオエ王(山背大兄王)は、ウマヤト王子(厩戸皇子)の子に過ぎず、蘇我氏本宗家の血を引いてはいるが果たして本当に「大兄」であったのかどうかも甚だ疑わしい人物である。
さらに、先代大王(天皇)の王子(皇子)が大勢いる中で、先々代大王(天皇)の王孫(皇孫)にどれほどの王位(皇位)継承資格があろうか。
ところが、『日本書紀』は、皇極天皇2(643)年11月、入鹿が軍勢を集めて、上宮家のヤマシロノオオエ王(山背大兄王)一族を斑鳩宮に襲撃し自害に追い込み、上宮家そのものを廃絶させてしまったと記す。
襲撃理由について『日本書紀』は、
『蘇我臣入鹿、獨り謀りて、上宮の王等を癈てて、古人大兄を立てて天皇とせむとす』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
としている。
即ち、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が山背大兄王襲撃の要因であったとするのである。
しかしながら、先に述べた通り、そもそもヤマシロノオオエ王(山背大兄王)の「大兄」資格に疑問がある以上、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が要因にはなり得ない。
さて、『山背大兄王襲撃事件』時、混乱に紛れて逃亡した山背大兄王を自ら追討しようとする入鹿に対してフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は、
『鼠は穴に伏れて生き、穴を失ひて死ぬ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と諫め入鹿の出陣を押し留めたとされる。
ただし、入鹿を小物の「鼠」に例えたり「(入鹿は)穴に隠れて生きる」とする等、あまりにも入鹿を矮小化した不自然な話であり、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)と入鹿との会話内容は『日本書紀』の創作と思われる。
この『山背大兄王襲撃事件』の実態は、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)とヤマシロノオオエ王(山背大兄王)との間での王位(皇位)継承権を確定させるための事件と言うよりも、むしろ、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を奉じる蘇我氏本宗家とヤマシロノオオエ王(山背大兄王)を奉じる蘇我氏傍流との間の確執の解消ではなかったかと思われる。
蘇我氏本宗家は、蘇我稲目から蘇我馬子と盤石の構えを見せていたが、蝦夷の代になって、蘇我氏傍流の自立が顕著になり蘇我氏本宗家との間に軋轢が生じていたことが窺える(『境部摩理勢事件』)。
入鹿は、蘇我氏本宗家・傍流の一族同士が直接ぶつかること無く、蘇我氏本宗家の危機を回避する唯一の解決策として『山背大兄王襲撃事件』を選んだかのように思われる。
しかし、入鹿の強権的な手法と行動は、蘇我氏傍流のさらなる反発を招き、それは、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を窮地へと追いやって行くこととなる。
古人大兄皇子と『乙巳の変』
蘇我入鹿の才覚と実力に恐怖を覚えていたのが、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)と中臣鎌足である。
この入鹿に擁立されて、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が大王(天皇)となったならば、それは揺るぎない王朝の成立を意味する。そうなれば、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)と中臣鎌足が陽に当たることは無い。
そこで、入鹿の暗殺を謀る。所謂『乙巳の変』である。
三韓から来倭(来日)した外交使節を迎える儀式を行うとして、板蓋宮に入鹿に誘き出す。
(飛鳥板蓋宮)
この時、板蓋宮には、アメトヨタカライカシヒタラシヒメ大王(皇極天皇)・入鹿・蘇我倉山田石川麻呂・外交使節に変装した者たち、そして、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が正式な出席者として参加していた。
この中で注目されるのは、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)である。いかなる立場で外交儀式に、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が参加していたのであろうか。
考えられるのは、唯ひとつで、それは「次期王位(皇位)継承者」としてしか有り得ない。
しかし、宮の中に隠れていたナカノオオエ王子(中大兄皇子)と中臣鎌足たちの集団が、入鹿を襲撃した瞬間に、「次期王位(皇位)継承者」たる古人大兄王子(古人大兄皇子)の地位も瓦解する。
目の前で入鹿が残虐な最期を遂げた一部始終を目撃したフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は、
『古人大兄、見て私の宮に走り入り』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とある。慌てふためきながら、目前で起こった衝撃的な事件が脳内で何度もフラッシュバックする中、自分の「宮」に帰り着く。
この「私の宮」と言う語の解釈を巡り諸説あり、「後宮」説・「大市宮」説等がある。
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は、こう叫んだ。
『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
このフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の発言は、現在でも様々に解釈されているもので極めて謎が多い。
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の言う「韓人」とは一体誰を指すのか?全く不明である。
また、『日本書紀』の編纂者が、
『韓政に因りて誅せらるるを謂ふ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と注釈を付け加えたことで、さらに謎を深めている。
ただ、遣隋使を派遣する等、中国大陸を指向していた親大陸派の蘇我氏本宗家に対して、旧来からの親韓派の中大兄王子(中大兄皇子)と中臣鎌足と言う構図で見た場合、やはり「韓」とは、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)と中臣鎌足を指すものと思われる。
そして、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は、
『臥内に入りて、門を杜して出でず』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と次は自分が中大兄王子(中大兄皇子)と中臣鎌足に殺害されることを確信して、自分の宮の全ての門を閉ざして外部との通行を遮断した上で籠ってしまう。
このフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の恐れようからして、入鹿が惨殺された時、テロリストたちの凶刃が入鹿のみならずフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)に対しても向けられ、命からがら逃げ出したのであろうことが推測される。
古人大兄皇子の最期
アメトヨタカライカシヒタラシヒメ大王(皇極天皇)は眼前で蘇我入鹿が討たれた精神的ショックから大王(天皇)を辞す。
そこで、アメトヨタカライカシヒタラシヒメ大王(皇極天皇)は、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)・カル王子(軽皇子)・フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)に王位(皇位)を譲ろうとする。
ナカノオオエ王子(中大兄皇子)は中臣鎌足から以下のような意見具申を受けていた。
『古人大兄は、殿下の兄なり。輕皇子は、殿下の舅なり。方に今、古人大兄在します。而るを殿下陟天皇位さば、人の弟恭み遜ふ心に違はむ。且く、舅を立てて民の望に答はば、亦可からずや』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
この鎌足の言葉に納得したナカノオオエ王子(中大兄皇子)は王位(皇位)を辞退しカル王子(軽皇子)を推挙している。次いで、カル王子(軽皇子)にも打診があるが、やはりカル王子(軽皇子)も辞退しフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を推挙している。
最後に、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)に王位(皇位)が譲られようとしたが、
『天皇の聖旨に奉り順はむ。何ぞ勞しくして臣に推譲らむ。臣は願ふ、出家して、吉野に入りなむ。佛道を勤め修ひて、天皇を祐け奉らむ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
として、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は辞退するのみならず出家してしまう。
そして、
『佩かせる刀を解きて、地に投擲。亦帳内に命せて、皆刀を解かしむ。即ち自ら法興寺の佛殿と塔との間に詣でまして、髯髮を剔除りて、袈裟を披着つ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
その場で自らの刀等の武具を外し、付き従う舎人たちの武装も解除している。
そして、法興寺へ出向き仏殿と仏塔の間で剃髪し俗世を離れて出家したのである。
(大和国吉野)
その上で、妻や子と共に吉野へ入り隠棲生活に入ったとされる。
ただ、自分の宮に引き篭もったフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が、殺人を行ったばかりのナカノオオエ王子(中大兄皇子)と中臣鎌足が待ち受けるアメトヨタカライカシヒタラシヒメ大王(皇極天皇)の王宮までノコノコと出向くわけが無く、恐らく使者を介してのやり取りであったろうと想像される。
また、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が出家する場所に選んだのが、蘇我氏本宗家の氏寺である法興寺と言うのは象徴的過ぎるようにも思われる。ちなみに、法興寺は、入鹿を暗殺したナカノオオエ王子(中大兄皇子)と中臣鎌足が、蘇我氏本宗家側の武力に拠る反撃を恐れ、真っ先に接収して本陣を置いたところでもある。
いや、そもそもフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)に対して譲位の話があったと言うこと自体が怪しいと言える。
いずれにしても、この結果、元々、大王(天皇)となることに並々ならぬ野心を持っていた軽王子(軽皇子)が王位(皇位)に即く。
しかし、改新政権が推進する「公地公民制」等の新政策は、旧来の豪族たちの不満と反発を生み出すこととなる。
そのような状況下、『日本書紀』は次の記事を唐突に載せている。
『古人皇子、蘇我田口臣川堀・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田來津と、謀反る』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が、蘇我田口臣川堀・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田來津たちと、改新政権への叛乱計画を立てたと言うのである。
すると、吉備笠臣垂が、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)に対して、
『吉野の古人皇子、蘇我田口臣川堀等と謀反けむとす。臣其の徒に預れり』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)のことを告発する。
このため、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)は、
『菟田朴室古・高麗宮知をして、古人大市皇子等を討たしむ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う風に、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を召喚したり、糾問の使者をフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)のもとに派遣したりして事実確認を行うようなことは全くせず、一切の躊躇無くフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を弑逆している。
あえて言えば、「僧・古人」を殺害したのである。
『其の妃妾、自經きて死す』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
また、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)と共に吉野に居た妻子たちも自害して果てている。
蘇我入鹿が惨殺されてから3ヶ月後の9月12日に起こった悲劇であった。なお、11月30日のこととも言われる。
アメトヨタカライカシヒタラシヒメ大王(皇極天皇)の即位からフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の最期までを俯瞰で見ると、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)と中臣鎌足にとって、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を永遠に排斥することこそが『乙巳の変』と言う政変劇の完全なる成功を意味したと言える。
そして、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を亡き者にしたことで、まるで後顧の憂いを断ち安心したかのように「改新政権」は飛鳥を離れて難波宮へと移って行くのである。
古人大兄皇子とは
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は、7世紀前半から半ばにかけての重要人物である。
その実名は、「大市王子(大市皇子)」と考えられている。
『日本書紀』の中に蘇我入鹿が紫冠を父の蘇我蝦夷から授けられたことに関連して、
『祖母は、物部弓削大連の妹なり。故母が財に因りて、威を世に取れり』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とする記述がある。つまり、一時的にせよ、物部氏本宗家の資産が蘇我氏本宗家の管理下に置かれ、その資産が入鹿の権力の財源となっていたことが窺えるのである。
そこから、物部氏本宗家の拠点である大和国城上郡大市に、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)のための宮が造営されたとしてもおかしくは無い。
大和国城上郡大市は、ヤマト王権(大和朝廷)発祥の地である。
蘇我氏本宗家にとってのプリンスであるフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の生活拠点としての宮を置くには、これ以上、相応しい場所は無いと思われる。
また、この時、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)に物部氏本宗家の部民が付けられた可能性もあるのではないだろうか。フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)と共に武装解除した舎人たちと言うのは、実は、屈強にして最強とも言える物部氏本宗家所縁の武人たちだったのではあるまいか。
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を殺害するまで、中大兄王子(中大兄皇子)と中臣鎌足が飛鳥の地を離れなかった理由は、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)に仕える舎人たちの武装蜂起を恐れていたからではなかったろうか。
さらに、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の宮に関連すると、『乙巳の変』で、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が逃げ帰った「私の宮」であるが、大市宮では板蓋宮からはあまりにも距離があり過ぎるように思われる。
(板蓋宮と大市の距離)
そこで注目されるのは、
『蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、家を甘檮丘に雙べ起つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰ふ。入鹿の家をば、谷の宮門と曰ふ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とする蝦夷・入鹿が甘樫丘に建設した「家=宮」の存在である。
(甘樫丘)
この蝦夷と入鹿が造営した建築物は、
『7世紀前半から8世紀初頭にかけ、大規模な造成をおこない、石垣や塀、建物などを設けたことが明らかになっています』
(『甘樫丘東麓遺跡 飛鳥藤原第177次調査現地見学会資料』独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部)
と言う具合に大規模、かつ堅牢なもので、軍事要塞と評する向きもあるぐらいである。
この建築物を『日本書紀』は蝦夷・入鹿父子の屋敷とするが、実際は、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が大王(天皇)に即いた時のための「王宮」だったのではあるまいか。
また、ここならば、板蓋宮から「指呼の間」である。板蓋宮において、入鹿が、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)と中臣鎌足たちテロリストの手に掛かり惨殺された時に、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)がすぐさま逃げ込める位置にある。
フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)について、もうひとつ注目すべきことがある。
それは、アメトヨタカライカシヒタラシヒメ大王(皇極天皇)から王位(皇位)の譲位を持ち掛けられ辞退した際の言葉にある。
『臣は願ふ、出家して、吉野に入りなむ。佛道を勤め修ひて、天皇を祐け奉らむ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
つまりフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は出家を宣言している。
大王(天皇)の王子(皇子)で出家して仏教徒となったのは、倭(日本)の歴史上、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が最初である
これについても、蝦夷が寺院を建立したことと関係あるように思われる。
元々、蘇我氏本宗家には氏寺として「法興寺」がある。にも関わらず新たに寺院を建立しているのである。しかも、その時期は、甘樫丘に蝦夷と入鹿の屋敷が造営された時期である。
『大臣、長直をして、大丹井穗山に、桙削寺を造らしむ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
この桙削寺は、寺坊28坊の威容を誇った寺院と伝わる(『興福寺官務諜疏』)。
(桙削寺推定地)
これだけの規模の寺院を新たに建立するには理由があるはずで、それは、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)のためだったのではないだろうか。
だとすれば、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は仏典に精通する人物だった可能性がある。
これらのことから、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が出家して隠棲した「吉野」と言うのは、実は、この桙削寺のことであったかも知れない。桙削寺は、飛鳥地域の東南端に位置しており、すぐ隣は吉野である。
後世、吉野に逃亡した大海人王子(大海人皇子)や源義経が無事生き延びたように、本来、吉野は山深く、討伐者が入り込むには困難な土地である。しかし、桙削寺であれば、急襲も可能であった。さらに言えば、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を奸計に陥れようと企む工作員たち(蘇我田口川堀等)も容易に訪れることが出来る。
仏教に深く傾倒するフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が王位(皇位)に即いて大王(天皇)になっていたならば、その先の倭(日本)には奈良時代よりも早く「鎮護国家」が出現していたのかも知れない。
親しくしていた入鹿が中大兄王子(中大兄皇子)と中臣鎌足たちに惨殺されるのを目撃した直後に発した古人大兄王子(古人大兄皇子)の言葉、
『吾が心痛し』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
こそは、古人大兄王子(古人大兄皇子)が「不殺生」と言う仏の教えが簡単に破られたことで受けた衝撃の大きさと、だからこそ仏の教えにすがり、仏に救いを求める言葉だったように思われる。
後に、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)が大王(天皇)に即いた際、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の娘の倭姫王を大后(皇后)としている。
大逆の謀反人として殺害された人物の娘が大后(皇后)に登ることは、あまりにも奇異なことである。
にも関わらず、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)が倭姫王を大后(皇后)とした事実は、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)が大王(天皇)となることに対して旧勢力の諸豪族たちは反対していなかったことを如実に物語っており、むしろ、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は無実であり、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)こそが正統な王位(皇位)継承者であると見做していたことを示唆するとも言える。
蘇我稲目が仏教に親しんだことで始まった「古代の文明開化」の地・飛鳥…その地に大王(天皇)として君臨するはずだったフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)は真の意味で「飛鳥の王」と呼ぶに相応しい人物だったのかも知れない。
(飛鳥)
古人大兄皇子の系図
《古人大兄皇子系図》 ┌──────────────────┐ │ │ 舒明天皇━━中大兄皇子 │ │ │ ┝━━━┳古人大兄皇子━倭姫王 │ │ ┗布敷皇子 │ │ │ 蘇我稲目━馬子━法提郎女 │ │ │ ┝━蝦夷━━━┳善徳 │ │ ┣入鹿 │ │ ┗手杯娘 │ │ │ │ │ ┝━━━━━箭反皇女 │ │ │ │ │ └────────────┘ 物部尾興┳女子 ┗守屋
古人大兄皇子の陵墓
記録が残されていないこともあり、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の陵墓は不明である。
長野県長野市にある熊野出速雄神社(主祭神・出速雄命)がフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)とタムラ大王(舒明天皇)を脇座おいて共に祀っている。
(熊野出速雄神社)
熊野出速雄神社は、奈良時代の養老2(718)年の創建であるが、いつからフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)を祀るようになったのか詳しいことは不明。
また、この熊野出速雄神社の近くに存在する小丸山古墳(円墳)をフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の墓とする伝承があると言う。
(小丸山古墳)
これらの伝承には、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)には、中大兄王子(中大兄皇子)や中臣鎌足たちの襲撃の手を逃れ信濃国へ落ち延びたとする言い伝えが影響しているのであろう。
実は信濃国(長野県)は、天武天皇が、天武天皇13(684)年に「複都制導入の詔」を出した際に、新しい都を造営する計画を持った地である。
『是の地に都つくらむとするか』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
それほど重要視された地に、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の伝承が残されているのは、とても興味深いことである。
そして、小丸山古墳が存在する皆神山は、大和三山のひとつ耳成山によく似ている。また、皆神山と耳成山にはピラミッド説等の共通点もあったりする。
(皆神山)
(耳成山)
そして、その耳成山は、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の宮があったと思われる大市から飛鳥を眺める場合、まず目に飛び込んで来る存在でもある。
(大市と耳成山)
耳成山と言えば、『万葉集』にナカノオオエ王子(中大兄皇子)が詠んだ歌が残されている。所謂「大和三山の歌」である。
『香久山は 畝火雄々しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき』
(『日本古典文學大系4 萬葉集 一』高木市之助 五味智英 大野晋 校注 岩波書店)
この歌は、畝傍山を求めて争う香久山と耳成山の「恋の歌」である。
しかし、フルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の生涯を思う時、この中大兄王子(中大兄皇子)の歌の背景に「王位(皇位)」を巡るナカノオオエ王子(中大兄皇子)とフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の関係を見るのは穿ち過ぎであろうか。
奈良県(大和国)で薄れつつあるフルヒトノオオエ王子(古人大兄皇子)の記憶は、長野県(信濃国)において現在も生き続けている。
古人大兄皇子の年表
- 皇極天皇2(643)年11月1日『斑鳩宮襲撃事件』。
- 大化元(645)年6月12日『乙巳の変』。
- 9月3日叛乱計画を立てる。
- 9月12日中大兄皇子派の襲撃を受け殺害される。