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菟道稚郎子皇子について
【名前】 | 菟道稚郎子王子(菟道稚郎子皇子) |
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【読み】 | うじのわきいらつこのみこ |
【別表記】 | 宇遅能和紀郎子(『古事記』)・宇治若郎子(『風土記』)・宇治天皇(同)・菟道稚郎皇子(『先代舊事本紀』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 仁徳天皇元(313)年 |
【時代】 | 古墳時代 |
【官職】 | ヒツギノミコ(皇太子) |
【父】 | ホムタ大王(応神天皇) |
【母】 | 宮主宅媛(宮主矢河枝比売)・別説として山無媛説あり |
【同母妹】 | ヤダ王女(八田皇女・矢田皇女)・メトリ王女(雌鳥皇女) |
【異母兄弟姉妹】 | アラタ王女(荒田皇女)・オオサザキ命(大鷦鷯尊)・ネトリ王子(根鳥皇子)・ヌカタノオオナカツヒコ王子(額田大中彦皇子)オオヤマモリ王子(大守山皇子)・イザノマワカ王子(去来真稚皇子)・オオハラ王女(大原皇女)・コムクタ王女(澇来田皇女)・アベ王女(阿倍皇女)・アワジノミハラ王女(淡路御原皇女)・キノウノ王女(紀之菟野皇女)・ウジノワキイラツメ王女(菟道稚郎姫皇女)・ワカノケフタマタ王子(稚野毛二派皇子)・ハヤブサワケ王子(隼総別皇子)・オオハエ王子(大葉枝皇子)・オハエ王子(小葉枝皇子) |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 不明 |
菟道稚郎子皇子の生涯
菟道稚郎子皇子の生い立ち
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、ホムタ大王(応神天皇)の子として生まれる。
母は、日触使主の娘の宮主宅媛(宮主矢河枝比売)である。
日触使主は、和珥氏の始祖であり、その和珥氏は、歴代の大王家(皇室・天皇家)に多く女子を后妃として送り込んでいた一族として知られる。
別説として、物部多遅麻の娘の山無媛を母とする説もある
『物部山無媛連公。此連公。輕島豊明宮御宇天皇立爲皇妃。誕生太子菟道稚郎皇子』
(『先代舊事本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
興味深いのは、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の生母とされる女性たちは、三輪山のヤマト王権に近しい豪族の出身とされていることである。
(和珥氏と物部氏)
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、ホムタ大王(応神天皇)・オオサザキ大王(仁徳天皇)の王統(皇統)と和珥氏・物部氏との関係上、重要な意味を持つ存在であることが判る。
菟道稚郎子皇子と朝鮮半島
応神天皇15(284)年、百済王が良馬2頭と共に阿直岐(阿知吉師)を倭(日本)に派遣する。
この阿直岐は、経典に大変詳しく通じていたために、ホムタ大王(応神天皇)は、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の教育係に任命する(『古事記』は、阿直岐を外交使節としている)。
阿直岐は自分よりも優れた人物として王仁(和邇吉師)をホムタ大王(応神天皇)に推挙した。
『王仁といふ者有り。是秀れたり』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
そこで、ホムタ大王(応神天皇)は、百済に対して王仁の派遣を要請する。
応神天皇16(285)年、王仁が渡海して来ると、改めてウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の教育係とする。
王仁について、
『王仁貢上のこの伝説は、河内の古市の応神陵の近くに住んでいた西文首の氏族伝承』
(『日本国家の起源 岩波新書380』井上光貞 岩波書店)
と見られている。
この王仁は、論語を持参し渡海して来た。
『和邇吉師。皍ち論語十巻、千字文一巻、并せて十一巻を是の人に付けて皍ち貢進りき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
こうして、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、様々な典籍を習得することとなる。
『諸の典籍を王仁に習ひたまふ。通り達らずといふこと莫し』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
ただ、
『『千字文』の成立は六世紀』
(『古事記(中) 全訳注 講談社学術文庫208』次田真幸 講談社)
とされていることから、実際は、倭(日本)に百済から儒教が伝来したと言うのが史実に近いものであろう。
いずれにせよ、この時期に、百済から論語等が伝えられた。
ちなみに、王仁が「漢字」をヤマト王権に対して伝授したと言う。
漢字の伝来については、
『三世紀のころには北九州に伝わっていたらしい』
(『古事記(中) 全訳注 講談社学術文庫208』次田真幸 講談社)
と言われる。
恐らくは、九州地方北部に漢字が伝来した同じ時期、ないしは、数十年後までには、山陰地方から北陸地方を経て、近畿地方北部から中部にかけての地域にも漢字は伝わっていたものと思われる。
ここでは、大王家(天皇家・皇室)の中で最も早く東アジアの公式共通文字と言うべき「漢字」を理解した上で「漢文」を駆使出来るようになったのが、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)であったことを記紀は示唆しているのである。
実は、この直前の応神天皇14(283)年に、弓月君の要請を受ける形で、葛城襲津彦が朝鮮半島南部の伽耶諸国(所謂「任那」)から倭へ渡海する移民の受け入れ事業を行っている。
言い換えれば、この時期の朝鮮半島との外交は、葛城氏本宗家が独占していたことを意味する。
3世紀から4世紀にかけて、大王家(皇室・天皇家)と葛城氏本宗家との間にある、主として朝鮮半島との軍事外交通商面における格差は如何ともし難いのが実情であった。
菟道稚郎子皇子と外交
応神天皇28(297)年、高句麗からの外交使節が倭(日本)を訪れる。
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、高句麗王からの外交文書の中に、「日本国に教う」という文言を見つける。
『高麗の王、日本國に教ふ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
これを外交上極めて非礼な文書であるとして、この文書を持って来た外交使節を責め糾した上で、その場で文書を破り捨て破棄している。
このウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の言動は、とても史実とは考えられない。
ただ、当時、朝鮮半島南部の伽耶諸国(所謂「任那」)を巡り、百済・新羅両国に拠る軍事侵略等が頻繁に発生するに至り、それまで葛城氏本宗家が独占的に行っていた外交や通商において、大王家(皇室・天皇家)が外交に直接介入するケースが生じたことを示すものであるのかも知れない。
(朝鮮半島南部)
その意味で先のウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)が、王仁の指導に拠って、漢文を自由に使いこなせるようになったとされることは重要な意味を含んでいると言えるのである。
菟道稚郎子皇子、王位(皇位)後継者となる
応神天皇40(309)年、ホムタ大王(応神天皇)は王位(皇位)に即いて40年が経過することもあり、自らの死期が近いことを悟る。
そこで、ホムタ大王(応神天皇)は、年長であるオオヤマモリ王子(大守山皇子)とオオサザキ命(大鷦鷯尊)とを自らの枕元に呼び寄せた上で、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)を自分の後継者とすることを明らかにする。
『汝等は、兄の子と弟の子と孰れか愛しき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
と、ホムタ大王(応神天皇)は問う。
この際、オオサザキ命(大鷦鷯尊)は、
『唯少子者は、未だ其の成不を知らず。是を以て、少子は甚だ憐し』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
として、ホムタ大王(応神天皇)の意を汲みウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の王位(皇位)を快諾するが、オオヤマモリ王子(大守山皇子)は反感を覚える。
ホムタ大王(応神天皇)は、
『大山命は山海の政を爲よ。大雀命は食國の政を執りて白し賜へ。宇遅能和紀郎子は天津日繼を知らしめせ』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
と命じる。
こうして「オオヤマモリ王子(大守山皇子)の不服」という不安の芽を含んだまま、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は正式に王位(皇位)継承者に立てられた。
オオサザキ命(大鷦鷯尊)は、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の補佐役となった。
『風土記』には、
『宇治の天皇のみ世』
(『風土記 日本古典文學大系2』秋本吉郎 校注 岩波書店)
とあり、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)が王位(皇位)に即いた可能性が高い。
このウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)が王位(皇位)にあったとする『風土記』は、宇治連の始祖について記述しており、そこからウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)が、物部氏と繋がりのあったことを窺わせる。
このことは、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の生母を物部氏の女性とする『先代舊事本紀』の記述を考えた場合に興味深い。
菟道稚郎子皇子、異母弟に王位(皇位)を譲る
応神天皇41(310)年、ホムタ大王(応神天皇)が没する。
しかし、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、自分のような者が王位(皇位)を継承することは無理であると、何度もオオサザキ命(大鷦鷯尊)に王位(皇位)を譲ろうとするが、オオサザキ命(大鷦鷯尊)もこれを何度も辞退する。
ただ、『古事記』では、
『大雀命は天皇の命に従ひて、天の下を宇遅能和紀郎子に讓りたまひき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
とあり、本来はオオサザキ命(大鷦鷯尊)が王位(皇位)に即くべき形であったものが、ホムタ大王(応神天皇)の意志で変えられたとも読み取れる記述をしている。
これに、オオヤマモリ王子(大守山皇子)が王位(皇位)を狙い挙兵。
オオサザキ命(大鷦鷯尊)からこのことを知らされたウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、
『詐りて舎人を王に爲て』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
自らは船頭に変装し、宇治川を渡るオオヤマモリ王子(大守山皇子)に接近し、自分の舟に乗せることに成功する。
そして舟が宇治川の中央に差し掛かるとウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、オオヤマモリ王子(大守山皇子)を川の中へ突き落とし溺死させる。
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は菟道宮を建て、自らは宮に籠もり、代わって、オオサザキ命(大鷦鷯尊)が王位(皇位)に即くことを望んだ。
(菟道宮の候補地・宇治上神社)
既に述べたように、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)が王位(皇位)に即いた可能性は極めて高いのであるが、『日本書紀』は、それを認めない。
そのまま3年の月日が流れる中で、漁師からの献上品である大贄が届けられる。
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、この大贄をオオサザキ命(大鷦鷯尊)に回すが、オオサザキ命(大鷦鷯尊)もまた送り返して来て頑として、王位(皇位)を受けようとはしなかった。
このオオサザキ命(大鷦鷯尊)の行動の前に、自分の存在があっては、オオサザキ命(大鷦鷯尊)が王位(皇位)に即くことはないと痛感したウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は自害して王位(皇位)を譲るのである。
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の死の知らせに驚き、慌てて駆けつけたオオサザキ命(大鷦鷯尊)は必死の思いで、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)を蘇生させることに成功する。
しかし、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、
『天命なり。誰か能く留めむ。若し天皇の御所に向ること有らば、具に兄王の聖にして、且譲りますこと有しますることを奏さむ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と語り、同母妹であるヤダ王女(八田皇女)の面倒をオオサザキ命(大鷦鷯尊)に託して、遂に息を引き取る。
しかし、『古事記』には、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)とオオサザキ命(大鷦鷯尊)が互いに王位(皇位)を譲り合う中、突如として、
『宇遅能和紀郎子は早く崩りましき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 岩波書店)
として、オオサザキ命(大鷦鷯尊)が王位(皇位)に即いたとしている。
ただ、
『これは聖天子としての仁徳天皇を宣伝するための、そして皇位を奪おうとした秘密をかくすための、それは巧みに作為された美談にしかすぎない』
(『神々と天皇の間 大和朝廷成立の前後』鳥越憲三郎 朝日新聞社)
とする見方もある。
そして、この直後に続けて『古事記』は、新羅王の子である天之日矛が倭へ渡来したことを述べる。
菟道稚郎子皇子のまとめ
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、ホムタ大王(応神天皇)にとって幼い王子(皇子)と言うことで、大変可愛がられエリート教育も施されて育った王子(皇子)であった。
また、ホムタ大王(応神天皇)の没後に王位(皇位)を狙ってオオヤマモリ王子(大守山皇子)が叛乱を起こすが、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は騙し討ちで逆に滅ぼしている。
つまり、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は智勇兼ね備えた存在であった。
その優れたウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)が自らの命を投げ打って、王位(皇位)をオオサザキ命(大鷦鷯尊)に譲ったことで、オオサザキ命(大鷦鷯尊)の智勇はさらに昇華するのである。
このウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の優等生ぶりから、そもそも倭(日本)で最初に「論語」を学んだことや、王位(皇位)継承者として立てられて以降の長幼の話等から、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は儒教的に王統(皇統)を語るために作りだされた架空の存在とする説が有力となっている。
一方、『風土記』に見える
『宇治の天皇のみ世』
(『風土記 日本古典文學大系2』秋本吉郎 校注 岩波書店)
と言う記述や、『古事記』の
『大雀命は天皇の命に従ひて、天の下を宇遅能和紀郎子に讓りたまひき』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
と言う記述から、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の実在性と共に、その王権の存在も考えられるとする説もある。
ところで、宋王朝に朝貢した所謂「倭の五王」の内で、永初2(421)年に遣使した倭王讃と元嘉2(425)年に遣使した倭王珍は兄弟とされる。
倭王讃について、ホムタ大王(応神天皇)・オオサザキ大王(仁徳天皇)・イザホワケ大王(履中天皇)の3人の大王(天皇)に当てる説がある。
倭王珍については、オオサザキ大王(仁徳天皇)・イザホワケ大王(履中天皇)・ミヅハワケ大王(反正天皇)の3人の大王(天皇)に当てる説がある。
ちなみに、この西暦421年から425年は、『日本書紀』ではオアサヅマワクゴノスクネ大王(允恭天皇)の時代となっている。
『宋書』には、
『讃死して弟珍立つ』
(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 岩波文庫33-401-1』石原道博編訳 岩波書店)
とあり、讃と珍は兄弟であることが明確である。
讃が没した421年の4年後に弟の珍が大王(天皇)として朝貢している。
『日本書紀』では、ホムタ大王(応神天皇)が没した後、3年の空白の後にオオサザキ大王(仁徳天皇)が登場する。
つまり、応神天皇41(310)年にホムタ大王(応神天皇)が没して、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)が王位(皇位)に即いたもの、その後間も無く、何らかの事情で仁徳天皇元(313)年にオオサザキ大王(仁徳天皇)が王権を相続、ないしは、簒奪したと解釈することも可能と言えよう。
仁徳天皇元(313)年と永初2(421)年の年代差は約100年ほどあるが、100年程度の時間操作は『日本書紀』ではお手の物である。
『日本書紀』を信じるならば、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、朝鮮半島南部では無く北部の大国・高句麗との外交に関与したとの記述が残るぐらいであり、高句麗の背後の超大国・宋との外交を指向したと考えるのはむしろ自然であろう。
このことから案外、『宋書』の伝える讃とは、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)のことであるのかも知れない。
兄であるオオサザキ大王(仁徳天皇)を敢えて「弟」としたのは、それこそ宋に対する儒教的な差配だったのであろう。
ここで、ホムタ大王(応神天皇)の王子(皇子)で王統(皇統)に関わる系譜を見ると、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の存在は実のところ王統(皇統)に一切の影響を及ぼさないことが見えて来る。
《ホムタ大王(応神天皇)の主な王子(皇子)たちの系譜》 応神天皇┳大鷦鷯尊━━━┳履中天皇━━磐坂市辺押磐皇子━仁賢天皇━手白香皇女 ┃ ┗允恭天皇━━雄略天皇━━━━━清寧天皇 ┃ ┣大山守皇子 ┃ ┣菟道稚郎子皇子 ┃ ┗稚渟毛二派皇子━意富富杼王━宇非王━━━━━━彦主人王━継体天皇
一方で、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の伝承は、和珥氏、及び、物部氏にとって重要な存在であった。
それは、和珥氏と物部氏が如何にホムタ大王(応神天皇)から始まる王統(皇統)と関わって来たかを主張するためである。和珥氏と物部氏にとっても、王統(皇統)に影響しない有力王族(皇族)であるが故に伝承を残しやすかったのかも知れない。
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は実在したのか否か…それは永遠の謎と言える。
さて、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)に関する記述で最も重要と思われることがある。
それは、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)がオオサザキ命(大鷦鷯尊)に、王位(皇位)を譲ろうとする中で発した遺された言葉に見える。
『其れ先帝の、我を立てて太子としたまへることは、豈能才有らむとしてなれや。唯愛したまひてなり』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
この言葉は『壬申の乱』を経て、アメミコトヒラカスワケ大王(天智天皇)の後継者であるオオトモ王子(大友皇子)を殺戮した果てに樹立された簒奪王権である天武天皇皇統下で編纂された正史の記述として見た場合には極めて興味深いものがある。
ホムタ大王(応神天皇)の当初の後継者はオオサザキ命(大鷦鷯尊)であったが、年少のウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)が可愛いあまりに王位(皇位)を譲らせた。
アメミコトヒラカスワケ大王(天智天皇)も当初はオオアマ王子(大海人皇子・天武天皇)を皇太弟としていたが、自分の子が可愛くなり、オオアマ王子(大海人皇子・天武天皇)に意を汲ませて、オオトモ王子(大友皇子)に王位(皇位)を譲らせた。
その構図は同じである。
また、アメミコトヒラカスワケ大王(天智天皇)は親・百済であったが、天武天皇は親・新羅であった。
この点でも、百済人を師とするウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)から、新羅と関係の深い葛城氏本宗家と婚姻関係を持ったオオサザキ命(大鷦鷯尊)に王位(皇位)が移動したことに鑑みると、7世紀の出来事を4世紀に反映させたものとも取れる。
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)は、2つの時代の王位(皇位)継承において象徴的な意味合いを持つ存在であった。
菟道稚郎子皇子の系図
《菟道稚郎子皇子系図》 ┌────────────────────┐ │ │ ┝━━━━━━━菟道稚郎姫皇女 │ │ │ 日触使主━┳小ナベ媛(※1) │ ┗宮主宅媛(矢河枝比売) │ │ │ ┝━━━━━━┳菟道稚郎子皇子 │ │ ┣八田皇女 │ │ ┗雌鳥皇女 │ │ │ 仲哀天皇 │ │ │ │┌───────────────────┘ │ ││ ┝━━━━応神天皇 │ │││ │ ││└──────────────────┐ │ │└──────────────────┐│ 気長足姫尊 │ ││ │ ││ ┝━━━━━━┳額田大中彦皇子 ││ │ ┣大山守皇子 ││ │ ┣去来真稚皇子 ││ │ ┣大原皇女 ││ │ ┗コム来田皇女(※) ││ │ ││ 品陀真若王┳高城入姫命 ││ ┣仲姫命(皇后) ││ ┃│ ││ ┃┝━━━━━━┳荒田皇女 ││ ┃│ ┣大鷦鷯尊(仁徳天皇) ││ ┃│ ┗根鳥皇子 ││ ┃│ ││ ┃└───────────────────┘│ ┃ │ ┗弟姫命 │ │ │ ┝━━━━━━┳阿倍皇女 │ │ ┣淡路御原皇女 │ │ ┗紀之菟野皇女 │ │ │ └────────────────────┘ ※1 「ナベ」は、扁へんに「瓦」 ※2 「コム」は、さんずいへんに「勞」
菟道稚郎子皇子の墓所
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の陵墓として、明治時代に宮内省(当時)が治定した「菟道稚郎子墓」がある。
元々は円丘であったものを全長約105メートルの前方後円墳としたもの。
(菟道稚郎子皇子墓)
整形された前方後円墳であることに加えて、近くに巨椋池や宇治川が存在しており、果たして、このような水害の影響を受けそうな場所に陵墓を築くかどうかと言う大きな疑問が残る。
ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の埋葬古墳としては、二子山古墳と二子塚古墳(五ヶ荘二子塚古墳)が候補となる。
二子山古墳は、
『丘陵頂部に2基が南北に並んで築造されており、北側の古墳を「北墳」南側の古墳を「南墳」と呼ぶ』
(『宇治二子山古墳とその時代』宇治市教育委員会)
文字通り双子のような古墳で、北墳が5世紀中頃、南墳が5世紀後半に築造されたと推定されている。
(二子山古墳)
その規模は、
『北墳は直径40mの円墳、南墳は一辺34m程の方墳もしくは円墳』
(『宇治二子山古墳とその時代』宇治市教育委員会)
に過ぎず、このため王位(皇位)継承候補者あるいは、大王(天皇)に即いた可能性がある王子(皇子)の墓としては、あまりにも規模が小さいとも言われる。
ただ、
『規模こそ中規模の円墳と方墳であるが、副葬品の質・量は大型前方後円墳の副葬品内容に匹敵するもの』
(『五ヶ荘二子塚古墳発掘調査報告』宇治市教育委員会)
であることから、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の陵墓の候補と考えられる。
なお、北墳には3基の埋葬施設が見つかっており、追葬と言う形で順次埋葬されたと見られている。
さらに、北墳からは鉄製甲冑が出土しており、その様式が当時の最新鋭のものであることから、被葬者がウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)で無いとしても、軍事面において、かなり有力な人物と見られている。
一方、二子塚古墳(五ヶ荘二子塚古墳)は、
『6世紀代山城地域最大規模を誇る』
(『五ヶ荘二子塚古墳発掘調査報告』宇治市教育委員会)
前方後円墳であり、その規模は、
『墳丘全長112m』
(『五ヶ荘二子塚古墳発掘調査報告』宇治市教育委員会)
となっていることから、規模の面ではウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の陵墓に相応しい規模と言える。
(二子塚古墳)
ただ、この二子塚古墳の築造年代が6世紀の飛鳥時代であり、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の時代とは2世紀ほどの隔たりがある。
二子塚古墳は、オオド大王(継体天皇)の真陵と言われる今城塚古墳の相似形であることが判明しており、考古学的には、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の陵墓とするには時代が全く一致しない。
加えて、所在地が「木幡」であって「菟道」で無いと言う問題がある。
しかし、木幡は、ウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の生母である宮主宅媛(宮主矢河枝比売)の生活地盤、即ち、和珥氏の拠点のひとつであったことを考えると、地理的には、二子塚古墳もウジノワキイラツコ王子(菟道稚郎子皇子)の陵墓の候補となる可能性を持つ。
菟道稚郎子皇子の年表
- 応神天皇15(284)年8月6日応神天皇、阿直岐を菟道稚郎子皇子の師とする。
- 応神天皇16(285)年2月応神天皇、王仁を菟道稚郎子皇子の師とする。
- 応神天皇28(297)年9月高句麗王からの外交文書を非礼であるとして破棄する。
- 応神天皇40(309)年正月24日立太子。
- 応神天皇41(310)年2月15日応神天皇、崩御。
- 仁徳天皇元(313)年正月3日大鷦鷯尊(仁徳天皇)、即位。