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蘇我刀自古郎女について
【名前】 | 蘇我刀自古郎女 |
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【読み】 | そがのとじこのいらつめ |
【法名】 | 尊光上人(善光寺大本願開山上人) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 飛鳥時代 |
【父】 | 蘇我馬子 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 蘇我善徳・蘇我蝦夷・蘇我倉麻呂・蘇我河上娘・蘇我法提郎女 |
【配偶者】 | 厩戸王子(厩戸皇子) |
【子】 | 山背大兄王(『上宮聖徳法王帝説』)・財王(『上宮聖徳法王帝説』)・日置王(『上宮聖徳法王帝説』)・片岡女王(『上宮聖徳法王帝説』・片岳女王『上宮聖徳太子伝補闕記』) |
【家】 | 蘇我氏本宗家・蘇我氏大臣家 |
【氏】 | 蘇我氏 |
【姓】 | 臣 |
蘇我刀自古郎女の生涯
蘇我刀自古郎女の生い立ち
蘇我刀自古郎女は、蘇我馬子の娘として蘇我氏本宗家に誕生する。
(蘇我馬子所縁の嶋庄)
刀自古郎女と言う名前は、『上宮聖徳法王帝説』中に見えるのみである。
『蘇我馬古叔尼大臣ノ女子、名をば刀自古郎女トいふ』
(『聖徳太子集 日本思想大系2』家永三郎 藤枝茂 早島鏡正 築島裕 岩波書店)
と言う記述に拠る。
たいていは、山背大兄王の系譜を引く場合において、
『母蘇我馬子大臣之女』
(『聖徳太子伝暦』国立国会図書館デジタルコレクション)
と記される程度である。
「イエトジ」に因み「刀自古」と名付けられたと考えられる。
なお、「刀自古郎女」に「古」の文字が使われていることから年かさの女性のように扱う説もあるが、『上宮聖徳法王帝説』では蘇我馬子の表記も「馬古」であり、単なる表記上の違いに過ぎないものと思われ、本来は「刀自子郎女」であったと考えられる。
刀自古郎女の誕生年は不明である。
後に刀自古郎女の夫となるウマヤト王子(厩戸皇子)の誕生年が、敏達天皇3(574)年とされているので、刀自古郎女もほぼ同年代であったものと想像される。
この刀自古郎女の母については、物部氏出身の女性(物部守屋の妹)とする説もあるが確かでは無い。
(物部氏所縁の石上)
(物部守屋所縁の渋川)
母が物部氏の女性だとすると出生地は、物部氏に所縁の土地であった可能性も考えられる。
刀自古郎女には、兄弟姉妹として、蘇我善徳・蘇我蝦夷・蘇我倉麻呂・蘇我河上娘・蘇我法提郎媛等が存在する。これらの兄弟姉妹は、第一子を善徳とする以外、兄弟姉妹の誕生順は不明となっている。
刀自古郎女の幼少期に関する伝承は残されていない。
蘇我刀自古郎女と仏教
蘇我馬子が、敏達天皇13(584)年9月に百済から伝来した仏像を祀ることとなる。
その際、司馬嶋が出家し善信尼となると、その恵信尼の弟子として、漢人豊女と錦織石女が共に出家し尼僧となる。
漢人豊女は禅蔵尼を、錦織石女は恵善尼を、それぞれ法名とし、
『佛殿を宅の東の方に經營りて、彌勒の石像を安置』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
し、日夜礼拝する生活を送る。仏殿を東方に置く「宅」とは、馬子の居館を指す。
この時、善信尼は数えの11歳の少女である。
既述の通り蘇我刀自古郎女は敏達天皇3(574)年頃に誕生したと見られるので、善信尼とは同年代と言うことになる。
善信尼・禅蔵尼・恵善尼たちは、この後、排仏派から弾圧され恥辱まで加えられるが、それでも仏教への信仰を捨てず、さらには仏教をもっと知りたい学びたいと自ら志願して海を渡った女性たちである。
善信尼・禅蔵尼・恵善尼の三人の尼僧と刀自古郎女との直接の関係を窺わせる史料は残されてはいない。
しかし、強い信仰心に生きた善信尼・禅蔵尼・恵善尼たちの存在は、同世代である刀自古郎女の生き方や考え方に多大の影響を与えたことは間違い無いと思われる。
そして、推古天皇4(596)年に、馬子は氏寺として法興寺を建立する。
そして、
『法興寺、造り竟りぬ。則ち大臣の男善德臣を以て寺司に拜す』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
こととなり、高句麗僧の慧慈と百済僧の慧聡が法興寺を拠点として仏教を広める。
(法興寺)
刀自古郎女と仏教との繋がりが一層深いものとなっていたであろうことは想像に難くない。
蘇我刀自古郎女と厩戸皇子
時期は未詳であるが、蘇我刀自古郎女はウマヤト王子(厩戸皇子)の妻となる。
ウマヤト王子(厩戸皇子)の父は、タチバナノトヨヒ大王(用明天皇)で蘇我稲目の外孫に当たる大王(天皇)である。
ウマヤト王子(厩戸皇子)の母は、アナホベ王女(穴穂部皇女)で、こちらも稲目の外孫に当たる。そして、刀自古郎女自身は稲目の孫である。
つまり、刀自古郎女は、従兄弟姉妹の子に当たるウマヤト王子(厩戸皇子)の妻となったのである。
《厩戸皇子系図》 蘇我稲目┳━━堅塩媛 ┃ │ ┃ │ ┌──────────┐ ┃ │ │ │ ┃ ┝━━━━┳用明天皇 │ ┃ │ ┗炊屋姫(推古天皇) │ ┃ │ │ │ ┃ │ ┝━━━━━竹田皇子 │ ┃ │ │ │ ┃ 欽明天皇━━━敏達天皇 │ ┃ │ │ ┃ ┝━━━━┳茨木皇子 │ ┃ │ ┣葛城皇子 │ ┃ │ ┣穴穂部皇女 │ ┃ │ ┃ │ │ ┃ │ ┃ ┝━━━━┳厩戸皇子 │ ┃ │ ┃ │ ┣来目皇子 │ ┃ │ ┃ │ ┣殖目皇子 │ ┃ │ ┃ │ ┗茨田皇子 │ ┃ │ ┃ │ │ ┃ │ ┃ └──────────┘ ┃ │ ┃ ┃ │ ┣穴穂部皇子 ┃ │ ┗泊瀬部皇子(崇峻天皇) ┃ │ ┣━━小姉君 ┗━━馬子━━━━━刀自古郎女
以上のように刀自古郎女から見ると、ウマヤト王子(厩戸皇子)は血縁的に近しい存在と言える。
言い換えれば、当時の大王家(皇室・天皇家)内部においては、それだけ蘇我氏本宗家が幅を利かせていたことを意味する。
ウマヤト王子(厩戸皇子)は、推古天皇9(601)年に斑鳩宮の建設を開始しており、刀自古郎女も斑鳩宮に同行し生活したものと思われる。
(斑鳩)
蘇我馬子の没後における蘇我刀自古郎女
推古天皇20(612)年、蘇我刀自古郎女にとってオバ(伯母が有力)に当たる蘇我堅塩媛が檜隈大陵に改葬される。
蘇我氏本宗家の絶頂期を刀自古郎女は肌で感じたことであろう。
だが、次第にその絶頂期も終わりの時を迎える。
推古天皇22(614)年8月には、馬子が病気に臥す。このため、トヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)は、馬子の病気平癒を祈願し男女1000人を出家させている。
そして、推古天皇29(621)年2月、夫のウマヤト王子(厩戸皇子)が没する。その5年後の推古天皇34(626)年5月には、飛鳥時代そのものを牽引して来たと言っても過言では無い馬子が死去する。
馬子の後継者として政治を担ったのは、刀自古郎女の兄の蘇我蝦夷である。だが、蝦夷の政治力は、馬子と比べるも無く、諸豪族間の調整に苦慮する。
推古天皇36(628)年3月、トヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)が没し、次の王位(皇位)を巡って豪族間で紛糾する。
すると、刀自古郎女の子のヤマシロ大兄王(山背大兄王)は、蘇我氏傍流の境部摩理勢を頼って王位(皇位)を狙うも、蝦夷に拠って拒絶され頓挫する事態となる。
それは、刀自古郎女にとって、自らの兄と自らの子が互いに憎しみ合う地獄のような状況になったことを意味するものであった。
そして、その地獄は具現化する。
皇極天皇3(644)年、刀自古郎女の甥に当たる蘇我入鹿が、ヤマシロ大兄王(山背大兄王)を攻撃したのである。
ここに、ヤマシロ大兄王(山背大兄王)は、妻子たちと共に自ら命を絶つ。
また、『上宮聖徳太子伝補闕記』では、刀自古郎女が生んだヤマシロ大兄王(山背大兄王)以外の子供たち、財王・日置王・片岡女王たちも運命を共にしたとされている。
刀自古郎女は、甥・入鹿に、その全てを奪われたのである。
蘇我刀自古郎女の晩年
長野県の善光寺大本願の寺伝に蘇我刀自古郎女の晩年が窺える。
寺伝に拠ると、タカラ大王(皇極天皇)からの命令を受けて、刀自古郎女は、信濃国に入り、善光寺大本願の開山となったとされる。
(善光寺大本願)
その時期は、タカラ大王(皇極天皇)が王位(皇位)にあった時代とすると、皇極天皇元(642)年から皇極天皇4(645)年6月までの間と言うことになる。
善光寺では、皇極天皇元(642)年に本尊が安置され、皇極天皇3(644)年に本堂の堂宇が建立されたとしているので、皇極天皇元(642)年のことであろうか。
こうして、刀自古郎女は飛鳥を離れ、信濃国で仏道を修めることとなったと言う。
この寺伝から推測されるのは、蘇我馬子か、ウマヤト王子(厩戸皇子)か、いずれかの没後に、刀自古郎女は出家していた可能性が高いことである。
そして、刀自古郎女が自分が生んだ子供たちが悲惨な最期を遂げたことを知ったのは、信濃国であったと推測される。
その後、刀自古郎女が一時的にでも飛鳥に戻ることがあったのかどうか、それは何も伝わらない。
蘇我刀自古郎女のまとめ
蘇我刀自古郎女は、正史に、その名前すら出て来ない女性である。
その刀自古郎女は、父の蘇我馬子の仏教政策に伴い三人の尼を通して仏教に親しみ、夫のウマヤト王子(厩戸皇子)を介して一層仏教への造詣を深めた女性であった。
だからこそ、タカラ大王(皇極天皇)は、刀自古郎女に辛い思い出に満ちた大和国を離れて信濃国へ行き、同じ悲しみを抱く女性を救うため弘法するように命じたものと思われる。
ただ、この辺りを深読みすれば、刀自古郎女は、馬子の娘であり、ウマヤト王子(厩戸皇子)の妻であり、母が物部氏大連家の物部守屋の妹とも言われる。
その上、大臣・蘇我蝦夷の兄弟姉妹で、実力者・蘇我入鹿のオバ(伯母・叔母)である。
即ち、刀自古郎女は、蘇我氏本宗家の要となり得る存在であり、蘇我氏傍流の蘇我倉山田石川麻呂等を始め、刀自古郎女の意志に関わらず「象徴」として諸豪族をも束ねかねない、まさに「イエトジ」たる存在でもあったことから、タカラ大王(皇極天皇)は刀自古郎女を飛鳥から遠避けた可能性も考えられる。
タカラ大王(皇極天皇)の命令が出されたのは、偶然か必然か、ヤマシロ大兄王(山背大兄王)が入鹿に襲撃され自害に追い込まれる直前のことである。
しかし、刀自古郎女に、そのような政治的野心等は微塵も無かったものと思われる。
それは間近で政治的野心に圧し潰されて行く人々の末路を見つめ続けて来たことが大きいと思われるからである。
刀自古郎女は、信濃国に赴き、夫のウマヤト王子(厩戸皇子)・父の蘇我馬子・子のヤマシロ大兄王(山背大兄王)・兄の蘇我蝦夷・甥の蘇我入鹿等、多くの有縁の者の菩提を弔い続けたのであろう。
そして、何よりも男たちの陰で泣く女性たちの救済に心を砕いたのではあるまいか。
それは、蘇我氏本宗家に「イエトジ」として生まれた刀自古郎女に与えられた運命であると同時に、仏から授けられた慈悲の心を刀自古郎女が世の無常に苦しむ女性たちへ施すためであったのかも知れない。
蘇我刀自古郎女の系図
《蘇我刀自古郎女系図》 蘇我稲目┳━━堅塩媛 ┃ │ ┃ │ ┌──────────┐ ┃ │ │ │ ┃ ┝━━━━┳用明天皇 │ ┃ │ ┗炊屋姫(推古天皇) │ ┃ │ │ │ ┃ 欽明天皇━━━敏達天皇 │ ┃ │ │ ┃ ┝━━━━┳茨木皇子 │ ┃ │ ┣葛城皇子 │ ┃ │ ┣穴穂部皇女 │ ┃ │ ┃ │ │ ┃ │ ┃ │ ┌───┼┐ ┃ │ ┃ │ │ ││ ┃ │ ┃ ┝━━━━┳厩戸皇子 ││ ┃ │ ┃ │ ┣来目皇子 ││ ┃ │ ┃ │ ┣殖目皇子 ││ ┃ │ ┃ │ ┗茨田皇子 ││ ┃ │ ┃ │ ││ ┃ │ ┃ └──────────┘│ ┃ │ ┃ │ ┃ │ ┣穴穂部皇子 │ ┃ │ ┗泊瀬部皇子(崇峻天皇) │ ┃ │ │ ┣━━小姉君 │ ┗━━馬子━━━━┳善徳 │ ┣蝦夷 │ ┣倉麻呂 │ ┣河上娘 │ ┣法提郎女 │ ┗刀自古郎女 │ │ │ ┝━━━━┳山背大兄王 │ │ ┣財王 │ │ ┣日置王 │ │ ┗片岡女王 │ │ │ └───────────┘
蘇我刀自古郎女の墓所
蘇我刀自古郎女の墓所ははっきりしない。
刀自古郎女を偲ぶ場所としては、善光寺大本願が挙げられよう。
(善光寺大本願)
次いで、法興寺(飛鳥寺)や斑鳩の地が相応しいと思われる。
(法興寺)
(斑鳩)
蘇我刀自古郎女の年表
- 推古天皇29(621)年2月5日厩戸皇子、死去。
- 推古天皇34(626)年5月20日蘇我馬子、死去。
- 皇極天皇3(644)年11月1日山背大兄王、自害。